第51話 青の姫君、開かない手紙と朝食をとる
翌朝。
私は、目を覚ますより先に、封書のことを考えていた。
夢を見ていたわけではない。
父様が出てきたわけでも、母様が泣いていたわけでもない。
青い封蝋が目の前に浮かんでいたわけでもなかった。
ただ、意識が眠りから浮かび上がる、その途中。
まだ自分がどこにいるのかも分からないような曖昧な場所で、最初に思ったのが、
――手紙には、何が書かれているのだろう。
ということだった。
私は目を開けた。
見慣れた天井。
森の家。
自分の寝台。
昨日、自分で火を入れた暖炉は、灰の下に赤みを残している。
窓の向こうでは、薄い朝の光が木々の隙間へ広がり始めていた。
私はすぐには起き上がらなかった。
布団の中で、胸の上へ片手を置く。
心臓は速くない。
呼吸も乱れていない。
怖い夢を見た後ではない。
それなのに、胸の奥には重たいものがある。
封書。
今、この家にはない。
村長さんが預かっている。
目の前にない。
触れられない。
開けようと思っても、すぐには開けられない。
それなのに、その存在は夜を越えて、私の朝へ先に来ていた。
「……おはようございます」
誰にともなく言った。
声にすると、自分がここにいることを確認できる。
「私は、森の家にいます」
昨日も言った言葉。
今日も必要だった。
「手紙は、村長さんが預かっています」
もう一つ。
「私は、まだ読むと決めていません」
言い切る。
その言葉で、少しだけ胸の中に空間ができた。
読む。
読まない。
どちらも、まだ決めなくていい。
けれど、考えないようにすることはできないらしい。
人の心は、畑ほど素直ではない。
種を植えなければ芽は出ない。
そういうものでもない。
植えていないはずの不安が、勝手に芽を出す。
見ないようにした言葉が、土の下で根を張る。
気づけば、朝食より先に胸の中へ座っている。
私はゆっくり起き上がった。
寝台を整える。
顔を洗う。
冷たい水が頬に触れる。
髪を梳く。
空色の髪が、朝の薄明かりを受けて淡く揺れた。
鏡の中の私は、昨日と変わらない。
青い目。
白い肌。
公爵家で「青の姫君」と呼ばれた頃と、顔はほとんど変わっていない。
けれど、あの頃の私とは違う。
頬に少し森の生活の色がある。
手には小さな傷がある。
指先には、土仕事の硬さがある。
花守り布をかぶれば、公爵令嬢には見えないかもしれない。
でも、それは隠しているだけで、消えたわけではない。
フローラ・フォン・スプリング。
その名前も。
過去も。
手紙も。
私は花守り布を手に取った。
三つの芽が並んでいる。
アオジロウ。
ムラマル。
モリタン。
リーナが縫ってくれた糸は、朝の光の中で柔らかく見えた。
私は布の端にある、小さな余白を見た。
最初はモリタンのために空けた場所。
今は三つの芽が揃っているため、完全な空白ではない。
けれど、布の端にはまだ縫われていない場所がある。
記録は終わっていない。
この先も何かが増える。
私はその余白を指先で撫でた。
「手紙の場所も、まだ空いたままです」
声に出す。
自分の心の中に。
今はまだ、置く準備ができていない。
だから空けておく。
逃げているのかもしれない。
でも、急いで埋める必要もない。
私は花守り布をかぶり、位置を整えた。
「今日も、見ます」
鏡へ言う。
外へ出る。
朝の森は、昨日より風があった。
木々の高い場所で葉が擦れ、森全体が低く囁いている。
鳥が一度鳴く。
少し離れて二度。
鳥笛ではない。
私は確認する。
足元。
結界。
家の周囲。
新しい足跡はない。
北東側の草倒れも、昨日と変わらない。
風で少し葉の向きが変わっただけ。
人が近づいた痕跡は、見つからない。
私は青豆一号へ向かった。
葉は元気だった。
朝の風に揺れながらも、茎はしっかりしている。
虫食いもない。
新しい葉は、古い葉があった頃より大きく開いていた。
「おはようございます」
葉の裏を見る。
茎を見る。
根元を見る。
異常なし。
第二の畝へ移る。
アオジロウは、三つの中で一番早く風に応じていた。
葉が小さく揺れる。
ムラマルは、まだ少し低い位置で風を受けている。
モリタンは、昨日見え始めた葉の分岐を、さらに少しだけ開いていた。
私は畝の前にしゃがみ込んだ。
「モリタン」
思わず名前を呼ぶ。
「葉になり始めましたね」
本当に小さい。
指先よりも小さな変化。
知らない人が見れば、昨日と同じに見えるかもしれない。
でも、毎日見ている私には分かる。
少しずつ。
確かに。
私は記録板を開いた。
青豆一号、古い葉離脱後九日目。
新葉良好。虫害なし。
アオジロウ、風による揺れあり。茎安定。
ムラマル、ゆるやかに伸長。状態良好。
モリタン、葉の分岐進む。緑色安定。
三芽、異常なし。
観察者、朝一番に封書の内容を想像する。
観察者、まだ読むと決めていない。
書き終えた後、私は少し眉を寄せた。
畑の記録の中に、封書が入り込んでいる。
昨日までは、畑を見る時間と手紙を考える時間を分けようとしていた。
でも今日は、うまく分けられなかった。
モリタンの葉を見ながらも、胸のどこかで手紙を考えている。
もし母様の言葉なら。
もし父様の命令なら。
もし謝罪なら。
もし、私を責める言葉なら。
もし――何も気持ちのない、事務的な帰還命令だけなら。
その想像が、畑の朝へ混ざっている。
私は土へ視線を落とした。
「混ざっても、いいのでしょうか」
誰にともなく聞く。
嬉しいことと怖いことは、同じ日にある。
三つの芽が揃った日にも、見知らぬ足跡があった。
村で歌が生まれた日にも、公爵家の使いは近づいていた。
畑を喜びながら、手紙を怖がってもいい。
朝食を食べながら、過去を思い出してもいい。
完全に分けられなくても、日常は続けられる。
私は記録板を閉じた。
「今日は、混ざったまま見ます」
小さく言った。
家へ戻り、朝食の準備を始めた。
鍋に水を入れる。
保存していた根菜を取り出す。
芋。
玉葱。
少しだけ乾燥肉。
昨日のパンが残っている。
火を起こす。
包丁で野菜を切る。
とん。
とん。
一定の音。
私はその音を数えながら、野菜を切った。
一つ。
二つ。
三つ。
玉葱を切る。
鍋へ入れる。
芋を切る。
手紙のことを考える。
乾燥肉を少し削る。
母様の顔を思い出す。
鍋をかき混ぜる。
父様が最後に私を見た時の目を思い出す。
思い出したくない。
でも、浮かぶ。
私は手を止めなかった。
火を弱める。
塩を入れる。
味を見る。
少し薄い。
もう少し塩。
日常の作業は、考えを止めてはくれない。
けれど、考えに飲まれないための岸になってくれる。
手は鍋を作る。
心は手紙を考える。
両方が同時にあっても、朝食はできる。
私は木の椀へスープをよそった。
パンを切る。
机へ置く。
一人分。
以前なら、それが当たり前だった。
でも、最近はリオたちと食べることが増えた。
四人分の椀を並べる朝もある。
今日はまだ、誰も来ていない。
私は一人で椅子へ座った。
目の前のスープ。
湯気。
芋。
玉葱。
乾燥肉。
そして、目には見えない封書。
まるで向かいの椅子に手紙が座っているような気がした。
私はスプーンを持つ。
「一緒に朝食を食べるつもりはありません」
封書へ言うように呟いた。
少しだけ、自分で可笑しくなる。
手紙は村にある。
ここにはない。
それでも、胸の中では向かいに座っている。
私はスープを一口飲んだ。
芋の甘さ。
玉葱の柔らかさ。
少し塩が強い。
でも、食べられる。
二口目。
封書のことを考える。
三口目。
森の畑を考える。
パンをちぎる。
リオがいれば、芋が入っていると喜ぶだろう。
ミナなら、塩が少し強いとすぐ気づくだろうか。
村の子供たちは、今頃朝食を食べているだろうか。
サムは昨日の報告を書いただろうか。
リーナは新しい札の刺繍を考えているだろうか。
エマは「布と畑、再会!」と歌にしただろうか。
村を思う。
胸が少し温かくなる。
手紙はまだ向かいにいる。
でも、席を全部占めてはいない。
村の人たちの気配もある。
畑もある。
森の家もある。
私は朝食を食べ終えた。
椀を見つめる。
空になっている。
「食べられました」
小さく言った。
昨日は公爵家の使いが来た後、食事の味が分からなかった。
今日は、手紙のことを考えながらも食べられた。
それは小さなことだ。
でも、大切なことのように思えた。
片づけを始めた頃、結界に気配が触れた。
リオ。
ミナ。
ガルドさん。
昨日と同じ、いつもの人たち。
私は戸を開ける前に一度息を吸った。
一。
吐く。
二。
封書のことを考えていた顔を、無理に隠す必要はない。
でも、朝食を食べられたことも本当だ。
私は扉を開けた。
「おはようございます」
「おはよう」
リオは私の顔を見るなり、少し首を傾げた。
「もう食べた?」
「はい」
「芋あった?」
最初の質問がそれだった。
私は思わず笑った。
「ありました」
「いいな」
ミナが呆れたように兄を見る。
「まず体調を聞くところでは?」
「あ」
リオは気づいたように私を見る。
「眠れたか?」
「はい」
「怖くなかった?」
「怖かったです」
「手紙?」
「はい」
私は正直に答えた。
リオは少し表情を曇らせる。
でも、以前のようにすぐ「読むな」とは言わなかった。
「朝から考えた?」
「はい」
「……そっか」
短い返事。
それ以上、自分の意見を押し込まない。
彼も学んでいる。
ミナが優しく聞く。
「朝食は食べられましたか?」
「はい。手紙のことを考えながらですが、食べられました」
ミナは少し目を細めた。
「それは、よかったです」
「よいことでしょうか」
「はい。怖さがあっても、日常を続けられたということですから」
私は頷いた。
「混ざったまま、食べました」
「混ざったままでいいと思います」
その言葉に、胸が少し軽くなる。
ガルドさんは周囲を確認してから言った。
「夜間、外側に変化はありません。村の方も、公爵家の者は戻っていません」
「そうですか」
安堵。
でも、完全ではない。
また来ると言った。
今日は来ていない。
それだけ。
「村長さんから、伝言があります」
ガルドさんが続けた。
胸が少し強張る。
「封書は、そのまま保管している。読むかどうかの返事は不要。公爵家の者にも、こちらから連絡はしない。次に来た時も、本人の意思を最優先する」
私は息を吐いた。
読むかどうかの返事は不要。
急かされない。
村長さんは、私の時間を守ってくれている。
「ありがとうございます」
「それと」
ガルドさんは少し間を置いた。
「昨日訪れた者の名が分かりました」
私は顔を上げた。
「名」
「レナード。公爵家の外勤騎士隊を預かる隊長だそうです」
レナード。
初めて、知らない声に名前がついた。
村の入口で、私の名前を呼んだ男。
会わせてほしいと言った男。
危害を加える意図はないと伝えた男。
セイルという部下を止めた男。
無理に踏み込まなかった男。
レナード。
私は口の中で、声に出さずその名を繰り返した。
名前が分かると、怖さの形が少し変わる。
知らない声。
ではなく。
レナードという人の声。
だからといって、怖くなくなるわけではない。
でも、全く形のない影ではなくなる。
「レナード」
私は小さく言った。
「はい」
ガルドさんが頷く。
「人物についても、少し調べています。少なくとも、無用な暴力を好む者ではないようです」
リオが低く言う。
「公爵家の人間だろ」
「そうです」
「それだけで信用できない」
ガルドさんは否定しなかった。
「信用する必要はありません。ただ、知ることはできます」
リオは黙った。
私は胸に手を当てる。
信用する。
しない。
その前に、知る。
決めつけない。
でも油断しない。
いつものこと。
「分かりました」
私は答えた。
「レナードという人なのですね」
ミナが静かに言う。
「名前が分かっても、すぐ何かを決めなくていいです」
「はい」
その通りだ。
名前を知った。
それだけ。
畑の芽に名前をつけた時とは違う。
アオジロウたちの名前は、親しむためにつけた。
レナードの名は、怖さを確認するために知った。
同じ名前でも、役割が違う。
リオたちは朝食をまだ取っていなかったため、私は簡単なものを追加で用意した。
残ったスープを温める。
パンを出す。
リオは鍋を覗き込み、嬉しそうに言った。
「芋ある」
「先ほど聞きましたよね」
「見て確認」
ミナが笑う。
「怖い時ほど確認、ですか」
「そう」
「都合よく使っていますね」
四人で机を囲む。
私はすでに食べたため、鎮静茶を淹れた。
リオがスープを飲む。
「うまい」
「少し塩が強くありませんか」
私が聞くと、リオは首を傾げる。
「そうか?」
ミナが一口飲む。
「少しだけ。でも、悪くありません」
「朝、考え事をしながら作ったので」
「封書?」
「はい」
沈黙が落ちる。
でも、重くなりすぎない。
リオは芋を食べながら言った。
「手紙のこと考えても、スープ作れるんだな」
「はい」
「食べられた?」
「はい」
「なら、すごいな」
「すごいのでしょうか」
「俺だったら、腹減ってても怒って鍋焦がすかも」
ミナがすぐに言う。
「リオ兄さんは平常時でも焦がす可能性があります」
「そこは今関係ないだろ」
私は笑った。
封書の話をしている。
レナードの名前も聞いた。
それでも、鍋の話で笑える。
混ざっている。
怖さと。
朝食と。
笑いと。
それでいい。
食事の後、畑へ向かった。
リオとミナに、三つの芽の変化を伝える。
とくにモリタン。
葉の分岐が進んでいる。
リオは畝の前で目を細めた。
「本当だ。葉っぽくなってる」
「はい」
「一番遅かったのに、ちゃんと次へ進んでるな」
「はい」
ミナも静かに微笑む。
「自分の時間で」
「はい」
私はモリタンを見ながら、封書のことを思った。
自分の時間。
読む時も。
答える時も。
会う時も。
私の時間でいい。
ガルドさんは結界の外縁を見て回る。
異常はない。
リオとミナは、新しい札を確認した。
「これ、サムに見せたいな」
リオが言う。
「見せたいですね」
私は頷いた。
ミナが花守り布を見て言う。
「リーナは、札の刺繍を始めているそうです」
「やはり」
「昨日、ガルドさんの報告を聞いて、すぐ下絵を描き始めたと」
私は少し笑った。
「無理をしないように伝えていただけましたか」
「はい。でも、本人は『記録だから』と言っていたそうです」
「サムみたいですね」
「村の子供たちは、皆少しずつ似てきました」
その言葉が嬉しい。
村の中で、記録することが広がっている。
歌うこと。
縫うこと。
待つこと。
見ること。
皆が互いの言葉を受け取り、少しずつ混ざっている。
私も、その中にいる。
午前中は畑の支えを確認した。
風が少し強いため、アオジロウの近くへ簡単な風よけを置くかどうか迷った。
けれど、完全に囲う必要はない。
自然の風を受けることも、茎を強くする。
強風だけを避ける。
私は低い木片を、風上側へ少し離して立てた。
リオが聞く。
「囲わないのか」
「はい。全部を遮ると、風に慣れません」
「でも強すぎたら倒れる」
「はい。だから少しだけ弱めます」
「また加減」
「また加減です」
ミナが微笑む。
「人も同じですね」
私は木片を調整する手を止めた。
「手紙も、そうでしょうか」
二人が私を見る。
「全部遮れば、傷つかないかもしれません」
私はゆっくり言った。
「でも、何も知らないままになります。今すぐ全部受ければ、倒れるかもしれません」
ミナは少し考えてから頷いた。
「だから、少しずつ?」
「はい」
リオは眉を寄せた。
「少しずつ読むってできるのか」
「封書を開けたら、全部見えてしまうかもしれません」
「じゃあ、誰かに先に見てもらう?」
その言葉に、私は動きを止めた。
誰かに先に読んでもらう。
考えていなかった。
私は封書を読むか、読まないか。
二つだけだと思っていた。
でも、間に方法がある。
村長さんに先に読んでもらう。
内容を全部ではなく、誰からの手紙かだけ教えてもらう。
危険な命令があるか。
急いで読む必要があるか。
それだけを聞く。
手紙の風を、少し弱めてもらう。
胸の奥に、小さな道ができる。
「それも、できますね」
私は呟いた。
リオが少し驚く。
「今まで考えてなかった?」
「はい。読むか、読まないかだけだと思っていました」
ミナが静かに言う。
「選択肢は、二つとは限りません」
「はい」
畑の風よけを見る。
全部遮る。
何もしない。
その間に、少し弱める方法がある。
私は記録板へ書いた。
封書。
一、自分で読む。
二、まだ読まない。
三、誰かに先に内容を確認してもらう。
四、誰からの手紙かだけ教えてもらう。
五、急ぎかどうかだけ確認する。
書きながら、呼吸が少し楽になるのを感じた。
選択肢が増える。
すぐ決めなくてもいい。
でも、「開く」か「永遠に開かない」かの二つだけではない。
リオが木板を覗き込む。
「三番がいいんじゃないか」
ミナが兄を見る。
リオはすぐに言い直した。
「……俺はそう思う。でも決めるのはフローラ」
私は微笑んだ。
「ありがとうございます」
「言い直した」
「はい」
「成長した?」
「要観察です」
私が答えると、リオは目を丸くした。
ミナが吹き出す。
私も笑った。
「冗談です」
「フローラが冗談言った」
「珍しいですね」
「そんなにですか」
三人で笑う。
ガルドさんが戻ってきて、少し不思議そうにこちらを見た。
「何かありましたか」
「リオが要観察です」
私が答えると、ガルドさんは真面目に頷いた。
「それは以前からです」
「ガルドさんまで!?」
笑いが広がる。
森の畑の前。
封書の選択肢を書いた木板の横。
怖い話と、笑い。
今日も混ざっている。
昼前、ガルドさんが村へ戻ることになった。
私は少し迷った後、村長さんへの伝言を頼んだ。
「封書について、お願いがあります」
「はい」
「まだ開けないでください」
「分かりました」
「でも、次に村へ行った時、誰からの手紙なのかだけ、封書の外から分かるか確認したいです」
ガルドさんは少し考え、頷いた。
「差出人の記載が外にあれば、開けずに確認できます」
「はい」
「なければ?」
「その時は、また考えます」
「分かりました」
私は続けた。
「それと……村長さんに先に読んでもらう方法も考えています。ただ、まだ決めていません」
「そのまま伝えます」
「お願いします」
口にした後、胸が少し震えた。
一歩。
小さな一歩。
封書を開けると決めたわけではない。
でも、封書の周りを見ようとし始めた。
モリタンの土を、真上から掘らずに周りだけ整えた時のように。
手紙の中身ではなく、外側を確認する。
誰からなのか。
急ぎなのか。
それだけなら、今の私にも耐えられるかもしれない。
ガルドさんが結界を出た後、リオとミナは昼食まで残った。
今日の昼食は簡単に、パンと朝の残りのスープ。
リオは二杯目をよそいながら言った。
「朝より味なじんでる」
「塩が強いのが落ち着いたのでしょうか」
「芋も柔らかい」
ミナが言う。
「手紙と一緒に煮込まれたスープですね」
私は少し驚き、それから笑った。
「確かに」
「味は悪くありません」
「ありがとうございます」
封書と朝食。
手紙とスープ。
そんなものを一緒に話せる。
それが少し可笑しく、少し嬉しい。
食後、リオたちが村へ戻る前に、畑をもう一度見た。
風よけは機能している。
アオジロウの葉に当たる風が少し弱まっている。
でも、完全には止まっていない。
ムラマルとモリタンには、今のところ不要。
同じ畝でも、同じ守り方ではない。
リオが言った。
「手紙も、アオジロウみたいに風よけつけるんだな」
「はい」
「村長さんに少しだけ見てもらうとか」
「まだ決めていませんが」
「うん」
彼はそれ以上言わなかった。
ミナが私の手元の木板を見る。
「選択肢を書いておくのはいいですね」
「畝のように、置き場所を作りました」
「言葉の畝の次は、選択の畝ですね」
私は少し笑った。
「畝ばかり増えます」
「畑が広がっていますから」
ミナの言葉が優しい。
心の畑。
言葉の畝。
選択の畝。
増えすぎれば管理が大変かもしれない。
でも、一つの場所に全部を押し込むよりはいい。
リオとミナが帰る。
今日も、私は森の家に残る。
「また明日」
リオが言う。
「はい。また明日」
ミナも。
「村長さんからの返事は、明日持ってきます」
「お願いします」
二人の姿が森の道へ消える。
少し寂しい。
でも、今日も追いかけない。
戻る場所。
合流する場所。
村。
森。
つながっている。
午後、私は一人で畑の記録をまとめた。
青豆一号の新しい葉の大きさを測る。
アオジロウの葉の開き具合。
ムラマルの茎の高さ。
モリタンの分岐。
数字を書く。
前日と比べる。
封書のことが頭に浮かぶ。
でも、手は記録を続ける。
以前なら、何か一つ心配があれば、他のことを全部止めてしまっていたかもしれない。
森へ捨てられた直後。
私は生きるために動いた。
感情を後回しにした。
畑を作り。
魚を捕り。
服を作り。
結界を張った。
心配を感じる暇もないほど、完璧に暮らしを整えた。
今は違う。
心配を感じながら、畑を見る。
怖さを持ちながら、朝食を作る。
迷いながら、選択肢を書く。
それは以前より弱いのか。
それとも、強いのか。
まだ分からない。
でも、今の方が生きている感じがする。
夕方。
風は少し弱くなった。
アオジロウの風よけを確認する。
倒れる心配はなさそうだ。
モリタンの葉の分岐は、朝より少しだけはっきりしていた。
私は畝の前にしゃがんだ。
「今日は、手紙の風よけを考えました」
芽たちへ話す。
「全部読むか、読まないかだけではないそうです。誰かに少し見てもらうこともできます」
風が葉を揺らす。
「私は、何でも一人でできると思っていました」
昔は。
教育も。
武術も。
魔法も。
領地経営も。
薬草も。
誰より早く覚えた。
だから、誰かに先に見てもらうという発想がなかった。
手紙くらい、自分で読まなければ。
自分の家のことなのだから。
そう思っていた。
でも、怖いものを誰かと見ることは、弱さではないのかもしれない。
ルルの葉を一緒に取った。
リーナの糸を一緒に選んだ。
ニコの涙を一緒に見た。
モリタンを村全体で待った。
封書も、一緒に見てもいいのかもしれない。
「まだ、決めていません」
私は言った。
「でも、一人でなくてもいいと知りました」
それだけで、今日は十分だった。
夜。
日記帳を開く。
今日、朝一番に封書のことを考えた。
封書は村にあるのに、朝食の向かいに座っているように感じた。
手紙を考えながら、スープを作った。
少し塩が強くなった。
でも、食べられた。
リオたちが来た。
公爵家の使いの隊長は、レナードという名前だと知った。
無用な暴力を好む人ではないらしい。
でも、まだ信用はしない。
知っただけ。
アオジロウの風よけを作った。
全部を遮らず、風を少し弱めた。
封書も、誰かに先に見てもらう方法があると知った。
私はペンを止める。
今日の一番大きなことは、何だろう。
モリタンの葉が分かれ始めたこと。
レナードの名前を知ったこと。
朝食を食べられたこと。
封書の選択肢が増えたこと。
どれも大切。
どれか一つだけではない。
私は最後に書いた。
怖いものがあっても、朝食は食べられる。
迷いがあっても、畑は見られる。
開かない手紙があっても、日常は続く。
そして、手紙を読む方法は一つではない。
自分で全部受けなくてもいい。
少し風を弱めてもらっていい。
日記帳を閉じる。
暖炉の火が小さく揺れている。
私は机の上へ、今日書いた選択肢の木板を置いた。
一、自分で読む。
二、まだ読まない。
三、誰かに先に内容を確認してもらう。
四、誰からの手紙かだけ教えてもらう。
五、急ぎかどうかだけ確認する。
五つ。
読むか、読まないか。
二つだけだった道が、五つになった。
道が増えると迷う。
でも、逃げ道も増える。
選ぶ場所も増える。
私は木板の横へ花守り布を置いた。
三つの芽。
五つの選択。
そして、開かない手紙。
今夜も手紙はここにない。
それでも、朝より少し遠くに座っている気がした。
私は小さく子守歌を歌った。
森の葉っぱが眠るころ
小さな灯りも目を閉じる
風よ静かに通りゃんせ
夢の小道を通りゃんせ
歌い終える。
窓の外へ向かって言う。
「また明日」
青豆一号へ。
アオジロウへ。
ムラマルへ。
葉を開き始めたモリタンへ。
村のみんなへ。
レナードという名前を持った、まだ分からない人へ。
開かない封書へ。
そして、怖さと一緒に朝食を食べられた私へ。
「また明日」
明日も、見ます。




