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『青の姫君の森暮らし 〜化け物と恐れられた公爵令嬢は、今日も畑を耕します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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50/101

第50話 青の姫君、開かない手紙の前に座る


 朝、目を覚ました時。


 私は、しばらく天井を見つめていた。


 見慣れた木目。


 少しだけ黒ずんだ梁。


 自分で補修した壁の小さな継ぎ目。


 窓の隙間から差し込む、細い朝の光。


 森の家だった。


 私の家だった。


 昨日、自分の足で戻ってきた場所。


 その事実がゆっくり胸の中へ広がっていく。


 私は寝台の上で手を握った。


 布団の感触も。


 枕の匂いも。


 暖炉に残る灰の気配も。


 全部、いつものものだった。


 けれど、一晩離れた後に戻ってきたせいか、どれも昨日までよりはっきり感じられる。


 私はここを知っている。


 ここで眠り。


 ここで目を覚まし。


 ここで畑を見て。


 ここで食事を作ってきた。


 それは当たり前のことではなかった。


 誰かに与えられた屋敷ではない。


 誰かに整えられた部屋でもない。


 私が暮らしを作った場所。


 私が手を入れ。


 私が選び。


 私が帰ってきた場所。


 私は胸の上で手を重ねた。


「……帰ってきています」


 小さく言う。


 誰もいない部屋に、声が落ちる。


「私は、森の家にいます」


 もう一度。


「自分で、戻ってきました」


 言葉にすると、息が通った。


 公爵家の使いが村へ来た。


 私の名前を呼んだ。


 正式な捜索だと言った。


 青い封蝋の封書を置いていった。


 けれど私は今、屋敷の部屋ではなく、森の家で目を覚ましている。


 そのことが、何より大切だった。


 私は寝台から起き上がった。


 窓を開ける。


 朝の冷たい空気が部屋へ入り込んだ。


 湿った土。


 木の葉。


 小川。


 森の匂い。


 私は目を閉じ、ゆっくり吸い込む。


 昨日の村の匂いとは違う。


 パン。


 薪煙。


 人の暮らし。


 あれも温かかった。


 でも、今ここにある森の匂いも、私には必要だった。


 どちらか一つではない。


 村へ戻れる。


 森へ戻れる。


 少しずつ、二つの場所の間を歩けるようになっている。


 私は身支度を整えた。


 髪を梳き、まとめる。


 花守り布を手に取る。


 青い花。


 白い花。


 アオジロウ。


 ムラマル。


 モリタン。


 三つの芽の刺繍を、指先で一つずつ確かめる。


 畑と布は、昨日また会えた。


 リーナが言った通りだ。


 布の中の芽と、本物の芽。


 どちらも同じ名前を持っている。


 私は布をかぶり、位置を整えた。


「今日も、見ます」


 鏡の中の自分へ言う。


 空色の髪は隠れている。


 でも、私は消えていない。


 フローラ・フォン・スプリング。


 森で薬草を学ぶ娘。


 村長に身元を預けている者。


 フローラ先生。


 畑を育てる人。


 その全部が、今の私だった。


 外へ出る。


 朝の森は静かだった。


 鳥の声。


 一度。


 二度。


 少し間を置き、別の方向から一度。


 鳥笛ではない。


 私は数えた。


 確認した。


 足元を見る。


 結界に異常はない。


 家の周りにも、昨夜から新しい変化はない。


 北東側にあった草の倒れた跡も、そのままだ。


 足跡は見えない。


 原因はまだ分からない。


 決めつけない。


 でも、忘れない。


 私はまず青豆一号へ向かった。


「おはようございます」


 新しい葉が朝露を受けている。


 古い虫食いの葉を落とした後、茎は少し太くなったように見えた。


 昨日、私がいなくても育っていた。


 一晩、見られていなくても。


 私は葉の裏を確認する。


 虫はいない。


 斑点もない。


 茎の根元も安定。


「無事でいてくれて、ありがとうございます」


 そう声をかける。


 植物に礼を言うのは、少し変なのかもしれない。


 でも、言いたかった。


 次に、第二の畝。


 アオジロウは、葉をさらに広げていた。


 昨日より、ほんの少しだけ大きい。


 ムラマルはゆっくりと茎を伸ばしている。


 控えめだが、しっかりしている。


 モリタンは、ようやく小さな葉の形を見せ始めていた。


 昨日までは芽先。


 今日は、その先がわずかに分かれようとしている。


 私は畝の前にしゃがみ、息を呑んだ。


「モリタン……」


 声にすると、胸の奥が温かくなる。


 一番遅く出た芽。


 長く待った芽。


 その芽が、次の形へ進もうとしている。


 私は記録板を開いた。


 青豆一号、古い葉離脱後八日目。


 新葉、良好。


 虫害なし。


 アオジロウ、葉展開進む。


 ムラマル、茎ゆるやかに伸長。


 モリタン、芽先に葉の分岐兆候あり。


 三芽、異常なし。


 結界、異常なし。


 観察者、森の家で朝を迎える。


 観察者、戻れたことを再確認。


 書き終えた後、私は少し迷い、もう一行加えた。


 観察者、公爵家の封書をまだ開かない。


 木板の文字を見つめる。


 封書は、ここにはない。


 村長さんが預かっている。


 けれど、存在はここまでついてきていた。


 見えないのに。


 手元にないのに。


 胸の隅に、青い封蝋の色が残っている。


 読まないと決めた。


 少なくとも、今は。


 でも、気になる。


 何が書かれているのか。


 誰が書いたのか。


 父様か。


 母様か。


 家令か。


 それとも、公爵家の事務官が作った冷たい文書なのか。


 帰還命令。


 安否確認。


 謝罪。


 懇願。


 命令。


 分からない。


 分からないから、何度も想像する。


 想像するたび、胸が痛くなる。


 私は花守り布の端を握った。


「今は、畑を見ます」


 自分に言い聞かせる。


 封書は逃げない。


 村長さんが預かっている。


 読む時は、自分で決める。


 今は、三つの芽を見る時間。


 私は水分を確認し、今日は少量だけ水を与えることにした。


 一晩離れていたため、表面は少し乾いている。


 ただし、根元へ直接強くかけない。


 畝の横へ静かに流す。


 アオジロウ。


 ムラマル。


 モリタン。


 一つずつ、量を変える。


 アオジロウは少し多め。


 ムラマルは同じくらい。


 モリタンはまだ小さいため、周囲が湿る程度。


「同じ畝でも、同じ量ではないのですね」


 呟く。


 同じように愛する。


 でも、同じやり方ではない。


 必要なものが違う。


 育つ速さが違う。


 強さが違う。


 怖がり方も違う。


 人も、きっとそうなのだろう。


 私は昔、公爵家で誰よりも多くを与えられた。


 教育。


 愛情。


 期待。


 守り。


 けれど、それが私にとって本当に必要な形だったのかは分からない。


 多ければいいわけではない。


 強ければいいわけでもない。


 相手を見て、加減する。


 私は今、三つの小さな芽からそれを学んでいる。


 朝食を用意する頃、結界に気配が触れた。


 リオ。


 ミナ。


 ガルドさん。


 いつもの時間。


 昨日、リオは「絶対来る」と言った。


 言葉通り、来てくれた。


 私は玄関へ向かった。


「おはようございます」


 扉を開けると、リオが少し驚いたような顔をした。


「早いな」


「いつもの時間です」


「いや、迎えに出るのが」


「気配が分かったので」


 リオはほっとしたように笑った。


「眠れたか?」


「はい。森の家で眠れました」


「怖くなかった?」


 私は少し考えた。


「怖かったです」


 リオの顔が曇る。


 私は続けた。


「でも、眠れました。結界もありました。皆さんが明日来ると分かっていました」


 リオの表情が少し和らぐ。


「そっか」


 ミナが優しく微笑んだ。


「おかえりなさい、の翌朝ですね」


「はい」


「帰った場所で眠り、朝を迎えられましたね」


「はい」


 胸が温かくなる。


 ガルドさんは周囲を見回しながら言った。


「夜間、異常はありませんでしたか」


「ありません。結界も安定しています。北東側の草倒れも、変化なしです」


「分かりました。あとで確認します」


 リオがすぐ畑を見る。


「三人は?」


「無事です」


「よし」


 三人で第二の畝へ向かう。


 リオはアオジロウを見て頷き、ムラマルの茎を見て嬉しそうにし、モリタンの小さな分岐を見つけて目を丸くした。


「これ、葉になるのか?」


「はい。その可能性があります」


「モリタン、葉が出るのか」


「まだ要観察です」


「でも、出そうだな」


「はい」


 リオは嬉しそうだった。


 ミナもしゃがみ、少し離れた位置から観察する。


「一晩見なくても、ちゃんと育っていましたね」


「はい」


「フローラが戻るのを待ちながら」


 私は少し笑った。


「植物は私を待っていたわけではないと思います」


「そうかもしれません。でも、戻った時に育っていてくれることは、待っていてくれたように感じます」


 その言葉に、胸が熱くなる。


「はい」


 私は頷いた。


「そう感じます」


 ガルドさんが北東側の草倒れを確認しに行く。


 しばらくして戻り、首を横に振った。


「新しい変化はありません。獣の可能性もあります」


「人ではない?」


「断定できません」


 決めつけない。


 要観察。


 私は記録板に書き加えた。


 北東側草倒れ、変化なし。


 原因不明。


 要観察継続。


 リオが木板を覗き込む。


「何でも要観察だな」


「分からないことは、要観察です」


「俺も?」


 ミナがすぐに答える。


「リオ兄さんは常時要観察です」


「またそれか」


 私は笑った。


 朝の森に、小さな笑いが落ちた。


 その笑いがあるだけで、見えない怖さが少し遠くなる。


 朝食は四人で取った。


 昨日、村から持ち帰った小さなパン。


 卵。


 保存野菜のスープ。


 リオは鍋の中を覗き込んだ。


「今日は芋ある?」


「あります」


「よし」


 ミナが呆れたように言う。


「毎回確認するんですね」


「大事だからな」


「芋が?」


「食事の楽しみが」


 リオは真剣だった。


 私は少し笑った。


「大事だと思います」


「ほら」


「フローラはリオ兄さんに甘いです」


「そうでしょうか」


 ミナの言葉に、私は少し考える。


 甘い。


 公爵家で甘やかされた私。


 それとは違う意味。


 相手の楽しみを認めること。


 それも、甘さなのだろうか。


「リオは昨日、踏みとどまってくれましたから」


 私が言うと、リオの手が止まった。


「昨日?」


「公爵家の使いが来た時です。飛び出さず、怒らず、待ってくれました」


「あれは……」


 リオは少し顔を赤くした。


「決めたことだから」


「それでも、難しかったと思います」


「難しかった」


 彼は正直に答えた。


「でも、フローラが決めることだって思ったから」


 私は頭を下げた。


「ありがとうございます」


「また礼言うのか」


「はい」


 ミナが微笑む。


「受け取ってください、リオ兄さん」


「……分かった」


 リオは照れながらパンを食べた。


 少しの沈黙。


 暖炉の火。


 スプーンの音。


 パンをちぎる音。


 穏やかな朝。


 昨日の出来事が嘘のように感じられる。


 でも、嘘ではない。


 村には封書がある。


 レナードたちは、また来ると言った。


 この穏やかさは、永遠に続くとは限らない。


 だからこそ、大切に味わう。


 食事の後、村へ向かうかどうかを話し合った。


 ガルドさんは慎重だった。


「今日は、フローラ殿が村へ行く必要はありません」


「公爵家の使いが戻ってくる可能性があるからですか」


「はい。昨日の今日です。村を見ている可能性もあります」


 リオが言う。


「じゃあ、今日はここにいる?」


「その方が安全です」


 私は窓の外を見た。


 畑。


 森。


 自分の家。


 昨日戻ったばかり。


 ここにいたい気持ちはある。


 でも、村の子供たちにも無事を伝えたい。


 布と畑が再会したこと。


 三つの芽が無事だったこと。


 モリタンに葉の兆候があること。


「村へ知らせを送ることはできますか」


「できます」


 ガルドさんが頷く。


「私が戻る時に伝えます」


「お願いします」


 ミナが言う。


「私とリオ兄さんは、今日は少しここに残れます」


「よろしいのですか」


「はい。村長さんからも、フローラが森の家で落ち着けるよう、午前中は一緒にいてよいと言われています」


 胸が温かくなる。


「ありがとうございます」


 リオが腕を組む。


「畑の世話、手伝う」


「今日は大きな作業はありません」


「じゃあ、薪」


「薪は昨日運んでもらいました」


「井戸」


「水もあります」


「何かないのか」


 私は少し考えた。


「記録札を作り直したいです」


 リオの目が明るくなる。


「それやる」


 第二の畝の札は、雨や土で少し汚れている。


 名前はまだ読める。


 けれど、育成段階へ入った区切りとして、新しい札を作ってもいい。


 アオジロウ。


 ムラマル。


 モリタン。


 リオが木を削る。


 ミナが縁を整える。


 私が文字を書く。


 三人で作る。


 それは、今の私にちょうどよい作業に思えた。


 家の横に小さな作業台を出す。


 リオは細い板を選び、短剣で形を整える。


 以前より手つきが慎重だ。


 ミナが横から注意する。


「指に気をつけて」


「分かってる」


「力を入れすぎないで」


「分かってるって」


「木目に沿って」


「それはフローラに教わった」


 私は少し驚いた。


「覚えていたのですね」


「そりゃ覚える」


 リオは得意そうに言う。


「力で削ると割れる。木目を見る」


「はい」


「守りすぎると埋まる。力入れすぎると割れる。距離も守り」


 ミナが笑う。


「リオ兄さんの中に、畑の教えが増えていますね」


「畑はすごいからな」


「以前は全部草だと言っていました」


「今は違う」


 私はそのやり取りを聞きながら、胸が温かくなった。


 人は変わる。


 ゆっくり。


 毎日の中で。


 私も変わっている。


 リオも。


 ミナも。


 村も。


 札の形が整う。


 私は筆を持ち、名前を書く。


 アオジロウ。


 ムラマル。


 モリタン。


 一文字ずつ、丁寧に。


 名前を書くことは、その存在をここに置くことに似ている。


 昨日、公爵家の使いに私の名前を呼ばれた。


 怖かった。


 けれど、今日は私が三つの芽の名前を書く。


 名前は、相手を縛るためだけのものではない。


 覚えていると伝えるためにも使える。


 ここに場所があると示すためにも。


 私は最後の文字を書き終えた。


「できました」


 リオが三枚を並べる。


「前より立派だな」


「三人で作りましたから」


 ミナが微笑む。


「村記録に書かれそうですね」


「サムなら書きます」


 私は想像して笑った。


 新しい札、作成。


 リオ、木を削る。


 ミナ、縁を整える。


 フローラ先生、名前を書く。


 きっと、そのように書くだろう。


 古い札を外す時、私は少し迷った。


 最初に名前をつけた時から、ずっと畝に立っていた札。


 土で汚れ、雨に濡れ、芽が出るまでの時間を一緒に過ごした。


 捨てる気にはなれない。


「古い札は、取っておきます」


 私が言うと、リオが頷いた。


「村記録?」


「森の家の記録です」


「そっか」


 私は古い札の土を軽く払い、家の壁際に立てかけた。


 終わったものを捨てるのではない。


 役目が変わる。


 古い葉が土へ帰ったように。


 古い札は、記録になる。


 新しい札を畝へ立てる。


 アオジロウ。


 ムラマル。


 モリタン。


 三つの名前が、朝の光の中で並んだ。


 私は少し離れて見た。


 新しい札。


 育っている芽。


 三人で作った時間。


 それだけで、森の畑が少し明るく見えた。


 ガルドさんは昼前に村へ戻った。


 伝言を頼む。


 三芽無事。


 モリタン、葉の分岐兆候。


 新しい札を作った。


 フローラ、森の家で落ち着いている。


 ガルドさんは頷いた。


「伝えます」


「それと」


 私は少し迷った。


「封書は、まだ読みません」


「それも伝えますか」


「村長さんにだけ」


「分かりました」


 ガルドさんが結界を出る。


 私は見送った。


 以前より不安は少ない。


 彼は村へ戻る。


 また来る。


 距離ができても、つながりは切れない。


 昼食の後、リオとミナも村へ戻ることになった。


 午前中を一緒に過ごしたことで、私はかなり落ち着いていた。


 リオは何度も確認した。


「今夜もここにいる?」


「はい」


「大丈夫?」


「はい」


「鳥笛三回は?」


「家から出ない」


「戸を叩かれても?」


「すぐ開けない」


「名前を呼ばれても?」


「返事をしなくていい」


「封書は?」


「まだ読まない」


 リオは頷いた。


「よし」


 ミナが笑う。


「リオ兄さん、本当にサムみたいですね」


「確認係だ」


 私は頭を下げた。


「ありがとうございます、確認係」


「なんか変だな」


 でも、リオは少し嬉しそうだった。


 ミナは花守り布の三つの芽に触れないよう、近くで見た。


「今日、村へ帰ったらリーナに新しい札のことを話します」


「お願いします」


「きっと縫いたがります」


「札もですか」


「おそらく」


 私は想像した。


 花守り布に、小さな札まで増える。


 布の記録はどんどん広がっていく。


 重くなりすぎないだろうか。


 でも、少し楽しみでもある。


「リーナに、無理のない範囲でと伝えてください」


「はい」


 二人が結界を出る。


 リオは振り返り、手を上げた。


「また明日」


「また明日」


 ミナも。


「明日、来ます」


「はい」


 私は二人が森の道へ消えるまで見送った。


 でも、追いかけたいとは思わなかった。


 少し寂しい。


 けれど、明日来る。


 村へ戻る。


 私はここに残る。


 それぞれの場所へ。


 離れていても、続く手。


 私は結界を閉じ、畑へ戻った。


 午後の光が、三つの新しい札を照らしている。


 風が吹く。


 アオジロウの葉が揺れる。


 ムラマルも。


 モリタンの小さな芽も、ほんの少し揺れた。


 私は息を呑んだ。


 モリタンが、初めて風に揺れた。


 これまでは小さすぎて、土に近すぎて、ほとんど動かなかった。


 でも今は、風を受けられる高さまで出ている。


「モリタン」


 私はしゃがみ込む。


「風が分かりますか」


 返事はない。


 でも、もう一度風が吹き、小さな芽がかすかに動いた。


 胸が熱くなる。


 土の中で待っていた芽が。


 今は、風の中にいる。


 私は記録板を出した。


 午後。


 モリタン、風による揺れ確認。


 茎、折れなし。


 芽、安定。


 観察者、嬉しい。


 書いた後、少し考え、もう一行。


 観察者、封書のことを考える。


 風に揺れるモリタンを見る。


 土の中にいる間は、風に揺れない。


 安全とも言える。


 でも、光も風も知らない。


 外へ出れば、倒れる危険がある。


 虫に食われるかもしれない。


 雨に打たれるかもしれない。


 それでも、芽は外へ出る。


 私は、封書を読まずにいれば、今は安全なのかもしれない。


 中に何が書いてあるか知らずにいれば、傷つくこともない。


 でも、知らないままでは、進めない何かもあるのだろうか。


 私は花守り布を握った。


「今は、まだ」


 声に出す。


「今は、まだ読みません」


 それでいい。


 モリタンも、土の中で自分の時間を過ごした。


 外へ出る時を、私が決めたわけではない。


 封書を読む時も、私の時間でいい。


 誰かに急がされる必要はない。


 ただ、永遠に見ないと今決める必要もない。


 今はまだ。


 その言葉なら、胸に置ける。


 夕方。


 私は家の中を整えた。


 村で過ごした一晩の間、使わなかった食器を洗い直す。


 寝具を干す。


 暖炉へ薪を足す。


 窓辺の薬草を確認する。


 どれも小さな作業。


 でも、家へ戻ったことを体に覚えさせる作業だった。


 机の上の日記帳を開く。


 朝からのことを書く。


 森の家で目を覚ました。


 畑は無事。


 三つの芽も無事。


 モリタンに葉の分岐兆候。


 リオ、ミナ、ガルドさんが来た。


 三人で新しい札を作った。


 古い札は記録として残す。


 モリタンが風に揺れた。


 封書はまだ読まない。


 私はペンを止めた。


 まだ読まない。


 昨日より、その言葉が少し変わっている。


 昨日は、怖くて読めなかった。


 今日は、自分でまだ読まないと決めている。


 似ている。


 でも、少し違う。


 できない。


 しない。


 その間には、自分の意思がある。


 私は最後に書いた。


 開かない手紙は、まだ村長さんのところにある。


 中の言葉は、私を急かさない。


 急かしているのは、私の想像かもしれない。


 今はまだ読まない。


 けれど、読むかどうかを決めるのは私。


 そのことを忘れたくない。


 日記帳を閉じた。


 夜が近づく。


 森の空気が冷たくなる。


 私は畑へ出た。


 夕方の最後の光が、三つの札の文字を照らしている。


 アオジロウ。


 ムラマル。


 モリタン。


 私は一つずつ声に出した。


「アオジロウ」


 葉が揺れる。


「ムラマル」


 小さな茎が影を落とす。


「モリタン」


 風を知ったばかりの芽が、かすかに揺れる。


 名前を呼ぶ。


 覚えていると伝える。


 ここに場所があると伝える。


 昨日、私は知らない声に自分の名前を呼ばれた。


 怖かった。


 でも今日、私は自分で名前を呼んでいる。


 自分が大切にしているものの名前を。


 そして、自分の名前も。


「私は、フローラです」


 畑の前で言う。


「フローラ・フォン・スプリングです」


 胸が少し痛む。


 でも、逃げなかった。


「森で暮らしています」


 もう一度。


「村とつながっています」


 花守り布の三つの芽に触れる。


「今は、ここにいます」


 風が吹いた。


 空色の髪は布の中。


 でも、私の声は森へ出ていく。


 夜。


 暖炉の前に座り、私は子守歌を歌った。


 森の葉っぱが眠るころ


 小さな灯りも目を閉じる


 風よ静かに通りゃんせ


 夢の小道を通りゃんせ


 歌い終えた後、しばらく火を見ていた。


 封書。


 父様。


 母様。


 公爵家。


 レナード。


 村長さん。


 リオ。


 ミナ。


 子供たち。


 畑。


 森の家。


 たくさんのものが、胸の中にある。


 全部を一度に整理することはできない。


 でも、場所を作ることはできる。


 封書のための場所。


 怖さのための場所。


 怒りのための場所。


 まだ答えの出ない気持ちのための場所。


 モリタンの余白を作ったように。


 私は今、心の中に小さな余白を作ろうとしている。


 そこへ、いつか封書の言葉を置くかもしれない。


 今は、まだ空けておく。


 空いていることは、何もないことではない。


 待っている場所だ。


 私は窓の外へ向かって言った。


「また明日」


 青豆一号へ。


 アオジロウへ。


 ムラマルへ。


 モリタンへ。


 森の家へ。


 村のみんなへ。


 まだ開かない封書へ。


 そして、読むかどうかを自分で決めようとしている私へ。


「また明日」


 明日も、見ます。

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