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『青の姫君の森暮らし 〜化け物と恐れられた公爵令嬢は、今日も畑を耕します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第6話 青の姫君、噂の怖さを知る



 ベリージャムの瓶は、朝日を受けると宝石のように光った。


 赤紫色の中に、ほんの少し金色が混じる。


 窓辺に置いたせいだろう。


 森の木々の隙間から差し込む光が、瓶の中を通って、机の上に淡い影を落としている。


 私はその瓶をしばらく眺めていた。


 昨日、ミナと一緒に作ったジャム。


 薪の火で煮て、木べらで混ぜて、焦げないように二人で鍋を覗き込んだ。


 リオは味見をしたがり、ガルドさんは静かに笑っていた。


 ただの保存食。


 けれど私にとっては、ただの保存食ではなかった。


 棚に並んだ瓶には札がついている。


 ミナとフローラで作ったベリージャム。


 その文字を見るたび、胸の奥が少し温かくなる。


 私は小さなナイフでパンを切った。


 昨日リオたちが持ってきてくれた村のパンだ。


 表面は少し硬い。


 けれど中はまだ柔らかい。


 そこにジャムを塗る。


 赤紫色が白い断面に広がる。


 一口食べると、甘酸っぱい味が口の中に広がった。


「……美味しい」


 声に出して言う。


 一人の台所。


 でも、一人で作ったものではない味。


 だからだろうか。


 いつもの朝食より、少しだけ賑やかに感じた。


 私はパンをゆっくり食べた。


 急ぐ必要はない。


 今日は村へ行く予定もない。


 リオたちが来る約束もない。


 畑の様子を見て、薬草を乾燥させ、午後は結界の点検をするつもりだ。


 森の生活は、基本的には静かで規則正しい。


 朝は畑。


 昼は保存食や家の手入れ。


 夕方は薬草や魔法陣の調整。


 夜は読書と日記。


 そこに最近、村という新しい予定が混ざるようになった。


 誰かが来るかもしれない。


 村へ行くかもしれない。


 畑の相談があるかもしれない。


 ジャム作りの続きをするかもしれない。


 予定が増えるのは、少し大変だ。


 でも、嫌ではない。


 以前の私は、一人で完結していた。


 今は、誰かの予定が私の一日に入り込んでくる。


 そのたびに少し疲れて、少し戸惑って、少し嬉しくなる。


 私は最後の一口を食べ終え、薬草茶を飲んだ。


 カップの中に映る自分の顔を見る。


 空色の髪。


 深い青い瞳。


 幼い頃から何度も褒められた顔。


 けれど、最近は少し見え方が変わった気がする。


 村の子供たちは、私の髪を空みたいと言った。


 男の子は白い花をくれた。


 ミナは、畑を見ている時の私が綺麗だと言った。


 リオは、変だけどいいやつだと言った。


 褒め言葉として正しいのかは分からない。


 でも、あの言葉は嫌ではなかった。


「変だけど、いいやつ……」


 私は小さく繰り返した。


 貴族令嬢としては、たぶん褒め言葉ではない。


 でも、フローラとしては。


 少し、嬉しい。


 朝食を終え、畑へ出る。


 空はよく晴れていた。


 森の上には薄い雲が流れている。


 風は弱い。


 湿気も少ない。


 今日は洗濯物もよく乾きそうだ。


 トマトの実がいくつか赤くなっている。


 豆の蔓は支柱に絡み、芋の葉も広がっている。


 果樹には小さな実がつき始めた。


 私は一つ一つ確認しながら、必要な手入れをしていく。


 虫を取り、余分な葉を摘み、土を軽くほぐす。


 地味な作業。


 でも、この時間が好きだった。


 鍬を握る手。


 爪の間に入り込む土。


 額に滲む汗。


 公爵令嬢らしくはない。


 けれど、私らしいのかもしれない。


 そう思えるようになったのは、村の人たちのおかげだ。


 昼前、結界に小さな反応が触れた。


 人ではない。


 小鳥。


 怪我もしていない。


 ただ結界の表面に止まり、こちらを見ている。


 私は手を止めた。


「入りますか?」


 尋ねても、鳥は首を傾げるだけ。


 私は結界を少し緩めた。


 鳥はぱたぱたと内側へ入り、果樹の枝に止まった。


 青い羽の小鳥。


 森でよく見る種類だ。


 村へ続く道の近くにもいる。


 小鳥は果樹の若い実を狙っているようだった。


「食べすぎないでくださいね」


 私はそう言って、虫のついた葉を数枚近くに置いた。


 小鳥は実ではなく虫をついばみ始めた。


 よし。


 働いてくれるなら歓迎だ。


 私は畑作業に戻った。


 その頃、リーフェ村ではいつもと少し違う賑わいがあった。


 行商人が来ていた。


 村の広場に小さな荷馬車が止まり、布、塩、針、鍋、香辛料、紙、油、飴玉、安い装飾品などが並べられている。


 村の女性たちは布や針を見ていた。


 子供たちは飴玉に目を輝かせ、男たちは農具の刃や塩の値段を確かめている。


 行商人は丸顔の男だった。


 年は四十ほど。


 よく日に焼け、口元には人懐こい笑みを浮かべている。


 名前はマルク。


 年に数度、リーフェ村へ来る馴染みの商人だった。


「さあさあ、今日はいい針が入ってるよ! 王都近くの職人町から仕入れた品だ! 奥さん方、見るだけならただだよ!」


「見るだけで帰らせてくれたことないだろう、マルク」


 村の女性が笑いながら返す。


「いやいや、私は誠実な商人ですから」


「誠実な商人は自分で誠実って言わないよ」


 広場に笑いが起きる。


 マルクは村人に馴染んでいた。


 口はよく回るが、悪い商人ではない。


 値段交渉は渋いが、質の悪いものは売らない。


 村長も、彼の出入りを許している。


 ただし。


 行商人は村の外の人間だ。


 村の中だけで止めていた話も、外へ運ぶ可能性がある。


 だから村長は朝から村人に釘を刺していた。


 森の少女の話は軽々しくするな。


 名前も、力も、青い髪も。


 特にマルクの前では。


 村人たちは頷いた。


 頷いたのだが、人の口というものは、畑の雑草より伸びるのが早い。


「そういえば、最近村の薬草茶が増えたな」


 マルクが品物を並べながら何気なく言った。


「香りがいい。誰か新しい薬師でも来たのかい?」


 水汲みに来ていた女性が一瞬口ごもる。


「まあ、ちょっとね」


「へえ。旅の薬師か?」


「そういうわけじゃ……」


 近くで聞いていた別の女性が慌てて割り込む。


「村で工夫したんだよ。ほら、熱病があったから」


「なるほどねえ」


 マルクは笑った。


 けれど商人の目は細い。


 気づいている。


 何か隠していると。


 昼前には、子供たちが危うかった。


「ねえねえ、飴玉いくら?」


「一つ銅貨一枚だ」


「高い!」


「いい飴だぞ。甘いぞ」


「フローラにもあげたいな」


 ぽろりと。


 そばかすの女の子が言った。


 その瞬間、近くにいたリオが振り返った。


「こら!」


 女の子はびくっとする。


 マルクも目を向けた。


「フローラ?」


 リオは一瞬固まった。


 ミナがすぐ横から入った。


「友達の名前です」


「へえ。村の子かい?」


「はい」


 ミナはにこりと笑った。


 落ち着いているように見える。


 だが、リオには分かった。


 ミナは少し怒っている。


 主に、焦った自分に対して。


 マルクは二人を見比べた。


「最近見ない名前だね」


「親戚の子です」


 ミナはさらりと言った。


「少し離れたところに住んでいて、時々来るんです」


「そうかい」


 マルクは笑った。


「なら飴を買っていってやるといい」


「考えておきます」


 ミナは女の子の手を引いて、その場を離れた。


 リオもついていく。


 広場の隅まで来ると、女の子は泣きそうな顔をしていた。


「ごめんなさい……」


 リオは頭を掻いた。


「あー……俺も大声出して悪かった」


 ミナがしゃがみ、女の子の目線に合わせる。


「大丈夫。でも、フローラのことは村の外の人にはあまり話さない約束だったでしょう?」


「うん……」


「フローラが嫌な人に見つかったら困るから」


「うん……ごめんなさい」


 女の子は目をこすった。


 ミナは優しく頭を撫でる。


「次から気をつければいいの。飴は後で一緒に買いに行きましょう」


「うん」


 リオは広場のマルクをちらりと見た。


 商人は相変わらず笑顔で商売をしている。


 だが、その目が時々こちらへ向く。


 リオは小さく舌打ちしそうになり、ガルドさんに見つかったら怒られると思ってやめた。


「村長に言った方がいいな」


 ミナが小さく頷く。


「うん」


 その知らせはすぐに村長へ届いた。


 村長は広場を見ながら、深く眉を寄せた。


「やはり口止めだけでは難しいか」


 ガルドさんが隣で頷く。


「悪気はありません。子供たちも、大人たちも。ただ、フローラ殿の存在は目立ちすぎる」


「青い髪の少女、か」


「加えて、薬草と畑の知識。黒爪熊の件。噂にならない方がおかしい」


 村長は小さく息を吐いた。


「マルクは悪人ではない。だが商人だ。珍しい話には敏感だ」


「どうしますか」


「隠しすぎるとかえって怪しまれる。だが詳細は出せん」


 村長はしばらく考えた。


「森の薬師見習い、ということにするか」


「薬師見習い」


「名はフローラ。家名はなし。森に住む親戚筋の子。薬草に詳しく、時々村を手伝ってくれる。魔法や黒爪熊の話はするな」


「それで通りますか」


「完全には無理だろう。だが、噂の形をこちらで作ることはできる」


 ガルドさんは頷いた。


「村人にはそう伝えます」


「それと、今日フローラに知らせに行くべきだ」


「私が行きます」


「頼む。怖がらせすぎるな。だが、何も知らない方が危ない」


 村長の声は重かった。


「人の噂は、魔物より厄介だ」


 その日の午後。


 私は薬草を乾燥棚に並べていた。


 風通しを調整し、日差しが強すぎないよう布をかける。


 すると、結界に人の反応が触れた。


 一人。


 ガルドさんだ。


 いつもより足取りが速い。


 私は手を止めた。


 何かあったのだろうか。


 玄関へ向かうと、森の道からガルドさんが現れた。


 表情は険しい。


 ただ、慌ててはいない。


「ガルドさん」


「フローラ殿。急に失礼します」


「何かありましたか」


「はい。少し、お話があります」


 胸が小さく冷えた。


 村で何か起きた。


 畑の病気が悪化した?


 熱病が再発した?


 誰か怪我をした?


 それとも。


 私はガルドさんを家の中へ案内した。


 薬草茶を出そうとしたが、彼は首を振った。


「お気遣いなく。長居はしません」


「分かりました」


 私は向かいの椅子に座る。


 ガルドさんは少し言葉を選ぶように沈黙した。


 その沈黙が、少し怖かった。


 やがて彼は言った。


「今日、村に行商人が来ました」


「行商人」


「はい。マルクという男です。村では馴染みの商人で、悪人ではありません」


「はい」


「ですが、村の外の人間です」


 その一言で、私は少し察した。


 村の外。


 噂。


 青い髪。


「私のことですか」


 ガルドさんは静かに頷いた。


「名前が少し出ました。詳しいことは話していません。村長が対応しています。ただ、今後も完全に隠し続けるのは難しいだろうと」


 私は膝の上で手を握った。


 思っていたより早かった。


 村へ行くようになれば、いつかこうなるとは分かっていた。


 でも、心のどこかでまだ先の話だと思っていた。


 村の人たちは優しい。


 リオもミナも、村長も、バルドさんも、私を守ろうとしてくれている。


 けれど人が増えれば、声も増える。


 声は外へ流れる。


 風に乗る種のように。


 どこへ落ちるか分からない。


「私が村へ行ったからですね」


 自然と声が小さくなった。


「迷惑をかけました」


「違います」


 ガルドさんの声は強かった。


 私は顔を上げた。


 彼は真っ直ぐに私を見ていた。


「迷惑ではありません」


「でも」


「フローラ殿が村へ来てくれて、助かった者がいます。喜んだ者がいます。友達ができて嬉しそうな子供たちもいます。迷惑などではありません」


 言葉が胸に入る。


 でも、不安は消えない。


「それでも、危険が増えたのではありませんか」


「それは事実です」


 ガルドさんは嘘をつかなかった。


「だからこそ、共有しに来ました。村長は、フローラ殿を『森に住む薬師見習い』として扱う方針です。家名は出しません。力の話もしません」


「薬師見習い」


「不満でしょうか」


「いいえ。むしろ、見習いで良いのかと」


 私は少し考える。


 薬師見習い。


 確かに薬草は扱える。


 見習いかどうかは別として、名乗りとしては悪くない。


 公爵令嬢より、ずっと軽い。


 森の薬師見習い、フローラ。


 それなら、村にいても少し自然かもしれない。


「それでお願いします」


 私は言った。


「ただ、私が村へ行かない方が安全なら、しばらく控えます」


 ガルドさんは眉を寄せた。


「それは、フローラ殿が望むことですか」


「安全のためなら」


「望むことですか」


 同じ問い。


 私は答えに詰まった。


 安全。


 合理性。


 迷惑を避ける。


 それらを考えれば、村へ行かない方がいいのかもしれない。


 でも、望むか。


 そう聞かれると。


 ミナのジャム。


 リオの笑い声。


 村のパン。


 子供たちの名前を呼ぶ声。


 バルドさんの畑。


 村長の静かな配慮。


 全部が胸に浮かんだ。


「……行きたいです」


 私は正直に言った。


「怖いですが、村へ行きたいです」


 ガルドさんの表情が少し和らいだ。


「なら、その方向で考えましょう」


「いいのですか」


「危険があるから閉じこもる、というのは一つの選択です。ですが、それがフローラ殿の望みでないなら、危険を減らして外へ出る方法を考えればいい」


 私は少し驚いた。


 屋敷では、危険だから閉じ込めるという考えが当たり前だった。


 狙われるから護衛を増やす。


 守るために行動を制限する。


 私の力が危険だから遠ざける。


 そして最後には、森へ捨てる。


 ガルドさんの言葉は違った。


 危険を減らして、望む方へ進む。


 そんな考え方があるのか。


「難しいですね」


「ええ。ですが、人と暮らすとはそういうものです」


 ガルドさんは静かに言った。


「完全に安全な道などありません。けれど、誰かと相談しながら歩くことはできます」


 誰かと相談しながら。


 私は膝の上の手を少し緩めた。


「村長さんに、お礼を伝えてください」


「承知しました」


「それから、リオとミナにも。心配をかけたなら、申し訳ありませんと」


「二人とも心配はしていますが、謝ると怒るかもしれません」


「怒る」


「ええ。特にリオは『なんでフローラが謝るんだ』と言うでしょう」


 想像できた。


 とても。


 私は少し笑ってしまった。


「言いそうです」


「言います」


 ガルドさんも笑った。


 重かった空気が少しだけ軽くなる。


 私は立ち上がり、棚から小さな瓶を取った。


 昨日作ったベリージャム。


 村長用とは別に残していたものだ。


「これを村長さんへ。昨日のジャムです」


「よろしいのですか」


「はい。相談してくださったお礼も兼ねて」


「喜ばれるでしょう」


 ガルドさんは瓶を受け取った。


 そして帰る前に、少しだけ立ち止まった。


「フローラ殿」


「はい」


「噂は怖いものです。ですが、噂だけが人を決めるわけではありません」


 私は黙って聞いた。


「村の者は、最初は貴女の噂を聞きました。黒爪熊を倒した少女。森に住む不思議な子。青い髪の子。けれど今は、貴女自身を少しずつ見ています」


「私自身」


「畑を見る目。薬草を扱う手。ジャム作りに真剣になる顔。子供の花を大事にするところ。そういうものを」


 胸が熱くなる。


「外へ噂が出ても、貴女自身を知る者がここにいます。それは忘れないでください」


 私は少しだけ頭を下げた。


「はい」


 ガルドさんが帰った後、私はしばらく玄関の前に立っていた。


 森は静かだ。


 けれど、静けさの向こうに村があり、そのさらに向こうに外の世界がある。


 行商人。


 道。


 町。


 王都。


 公爵家。


 私の名前が、いつかそこへ届くかもしれない。


 青い髪の薬師見習い。


 森に住む少女。


 フローラ。


 その噂が、誰かの耳に入るかもしれない。


 父様の耳に。


 母様の耳に。


 私は自分の腕を抱いた。


 帰りたいのか。


 知られたいのか。


 知られたくないのか。


 分からない。


 ただ、今の暮らしを壊されたくない。


 それだけは、はっきりしていた。


「怖いわね」


 私は小さく呟いた。


 魔物より、人の噂の方がずっと怖い。


 噂は剣で斬れない。


 結界でも完全には防げない。


 風のように隙間から入り込み、姿を変え、知らない場所で育っていく。


 私はそれを止める方法を知らない。


 けれど。


 ガルドさんは、相談しながら歩けばいいと言った。


 村長は、私を便利な魔法使いにしないと言った。


 リオは、怖くないと言った。


 ミナも、怖くないと言った。


 私は一人ではない。


 まだ少し慣れない言葉だけれど、今はそれを信じてみたい。


 その夜、リーフェ村ではマルクが村長の家に招かれていた。


 表向きは取引の確認。


 塩の量。


 次に持ってくる布。


 針の注文。


 壊れた鍋の修理依頼。


 村長はいつも通り落ち着いていた。


 マルクも笑顔で帳簿を開く。


「いやあ、リーフェ村は相変わらず堅実だ。買い物は少ないが支払いが確実で助かります」


「余計なものを買う余裕がないだけだ」


「それを堅実と言うんですよ」


 マルクは笑った。


 そして、何気ない調子で言う。


「ところで、最近村に薬師見習いの子が出入りしているとか」


 村長は顔色を変えなかった。


「ああ。森に住む子だ。薬草に詳しい」


「森に?」


「親戚筋の子でな。少し事情があって静かな場所で暮らしている」


「へえ」


 マルクの目が細くなる。


「名前はフローラと言いましたか」


「そうだ」


「珍しい髪色だとも聞きましたが」


「子供の髪色まで商売の種にする気か?」


 村長の声が少しだけ低くなった。


 マルクは両手を上げる。


「いやいや、そんなつもりは。ただ、珍しい話は耳に入るもので」


「なら、耳に入ったまま外へ出さないことだ」


「おや、怖い顔をしますね」


「その子は村の恩人だ。余計な噂で面倒に巻き込みたくない」


 マルクはしばらく村長を見た。


 やがて、ふっと笑う。


「分かりましたよ。村長がそこまで言うなら、口外はしません」


「信用していいのか」


「私は商人です。信用が飯の種ですよ」


「商人は珍しい話も飯の種にする」


「耳が痛い」


 マルクは苦笑した。


「ですが、リーフェ村との付き合いは長い。恩人の子供を売るような真似はしません」


 村長はじっと彼を見つめた。


 マルクの笑顔は軽い。


 だが、嘘だけではない。


 少なくとも今すぐ話を外へ売る気はなさそうだった。


「ならいい」


「ただ」


 マルクは声を少し落とした。


「青い髪の少女という話なら、最近別の場所でも聞きました」


 村長の目が鋭くなる。


「どこで」


「王都へ向かう街道筋です。正確には、青の姫君が姿を見せなくなった、と」


 空気が重くなった。


 暖炉の火が、ぱちりと鳴る。


 マルクは続けた。


「スプリング公爵家の一人娘。空色の髪の美姫。社交界では有名だったそうです。もっとも、私は直接見たことはありませんが」


「それがどうした」


「いえ。もし偶然にも、青い髪の少女が森にいるなら、厄介事の匂いがすると思いまして」


 村長は黙った。


 マルクもそれ以上踏み込まない。


 しばらくして、村長は低く言った。


「この村にいるのは、森の薬師見習いだ」


「そういうことにしておきましょう」


「しておくのではない。そうだ」


 マルクは肩をすくめた。


「はいはい。森の薬師見習い。フローラ。私はそれ以上知りません」


「今後もな」


「分かっています」


 マルクは帳簿を閉じた。


「ただ、ご忠告を一つ。王都や貴族の事情が絡むなら、噂は遅かれ早かれ流れてきます。隠すなら徹底的に。守るなら、村全体で腹を括った方がいい」


 村長は険しい顔で言った。


「余計な忠告だ」


「商人は余計なことを言うものです」


 マルクは笑った。


「それでは、明日の朝には発ちます。塩の代金はいつも通りで」


「分かった」


 マルクが出て行った後、村長は長く沈黙した。


 青の姫君。


 スプリング公爵家。


 やはり、そうなのか。


 ただの噂ならいい。


 だが、フローラの所作、知識、魔法、髪色。


 あまりにも符合しすぎる。


 村長は暖炉の火を見つめた。


「厄介なことにならねばいいが」


 その声は、火の音に消えた。


 翌朝、マルクの荷馬車はリーフェ村を出た。


 村人たちは塩や布を受け取り、いつも通り手を振って見送った。


 リオは遠くから馬車を睨んでいた。


 ミナが横に立つ。


「そんな顔しないの」


「だって怪しいだろ」


「怪しいけど、睨んでも仕方ないよ」


「でもさ」


 リオは唇を尖らせる。


「フローラ、怖がってたんだろ?」


「たぶん」


「じゃあ、俺たちが守らないと」


 ミナは少し黙った。


 守る。


 簡単に言える言葉ではない。


 フローラは強い。


 魔物相手なら、自分たちが守る必要などない。


 でも、噂や人の悪意からどう守るかは別だ。


「守るって、どうするの?」


 ミナが聞くと、リオは困った顔をした。


「……とりあえず、変なやつが来たら追い返す」


「リオ兄さんらしい」


「駄目か?」


「駄目じゃないけど、それだけじゃ足りないと思う」


「じゃあミナはどうするんだよ」


 ミナは少し考えた。


「フローラが安心できる場所を作る」


「場所?」


「村に来ても大丈夫。森の家にいても大丈夫。困った時は話して大丈夫。そういう場所」


 リオは少し難しそうな顔をした。


「よく分かんないけど、つまりフローラが笑えるようにすればいいんだな」


 ミナは少し笑った。


「うん。たぶん、それで合ってる」


 リオは頷いた。


「じゃあ、今度行ったら笑わせる」


「変なことしすぎないでね」


「なんで先に止めるんだよ」


「必要だから」


 二人の会話を、ガルドさんは少し離れた場所で聞いていた。


 彼は何も言わなかった。


 ただ、森の方を見た。


 あの小さな家にいる青い髪の少女。


 強すぎる力を持ちながら、人の視線に傷つき、友達の作り方も知らず、ジャム作りで真剣に緊張する子供。


 村は彼女から多くを受け取った。


 薬。


 知識。


 畑の助言。


 そして、少し不思議な温かさ。


 なら今度は、村が彼女に何を返せるか。


 考えなければならない。


 一方、私は森の家で村長からの伝言を受け取っていた。


 届けてくれたのは、ガルドさんではなくミナだった。


 リオも一緒だ。


 ミナは慎重に言葉を選びながら、マルクという行商人が村を出たこと、村長が話を合わせてくれたこと、今後は「森の薬師見習い」として扱うことを伝えてくれた。


 私は静かに聞いた。


 思ったより、胸は乱れなかった。


 昨日ガルドさんから聞いていたからかもしれない。


 あるいは、ミナとリオが目の前にいるからかもしれない。


「分かりました」


 私は頷いた。


「森の薬師見習い、ですね」


「嫌ですか?」


 ミナが不安そうに聞く。


「いいえ。公爵令嬢より、ずっと村に合っていると思います」


 言ってから、二人が固まったことに気づいた。


 リオが目を丸くする。


「今、公爵令嬢って言った?」


 しまった。


 私は口を閉じた。


 ミナも息を呑んでいる。


 ガルドさんや村長は察している様子だったが、リオとミナに直接言ったことはなかった。


 言うつもりも、まだなかった。


 沈黙が落ちる。


 森の中で鳥が鳴いた。


 私は視線を下げた。


 逃げたい。


 言葉を取り消したい。


 でも、もう聞かれた。


 嘘をつくこともできる。


 聞き間違いだと言うこともできる。


 でも。


 リオとミナには、嘘をつきたくなかった。


「……はい」


 私は小さく答えた。


「私は、スプリング公爵家の娘です」


 リオは口を開けたまま固まっていた。


 ミナは両手を胸の前で握っている。


 私は続けた。


「ただ、今は家から離されています。ここにいることは、公爵家の正式な滞在ではありません」


「離されてるって……」


 リオの声が低くなる。


「捨てられたってことか?」


 言葉が鋭い。


 でも、怒りは私に向いていない。


 私は少しだけ頷いた。


「そうです」


 ミナの目に涙が浮かんだ。


「どうして……」


「怖がられたからです」


 私は言った。


 もう何度か話したこと。


 でも、家名を明かした上で言うと、重さが違った。


「私は、強すぎました。できすぎました。父様も母様も、周りの人たちも、私を見る目が変わりました」


「だからって、森に一人で?」


 リオの声が震えている。


「十歳の子供を?」


「リオ」


 ミナが止めようとする。


 けれど、リオは止まらなかった。


「おかしいだろ! 公爵とか偉い家なんだろ!? だったらなおさら守るんじゃないのかよ! なんで一人にするんだよ!」


 叫びに近い声。


 森が静まったように感じた。


 私はリオを見た。


 怒っている。


 私のために。


 何度見ても、慣れない。


 胸が痛いのに、温かい。


「父様は、私を守れなかったのだと思います」


「違うだろ」


 リオは拳を握った。


「守らなかったんだろ」


 その言葉は、私の胸に深く刺さった。


 守れなかった。


 守らなかった。


 違いは大きい。


 私は父様を庇っていたのかもしれない。


 怖がられたことを、仕方ないと思おうとしていた。


 私が普通ではないから。


 私が強すぎたから。


 私が間違えたから。


 でも、リオは違うと言った。


 ミナも涙を堪えながら言った。


「フローラは、悪くありません」


「……分かりません」


「悪くありません」


 ミナの声はいつもより強かった。


「できることが多くても、強くても、怖がられたとしても、森に一人で置いていい理由にはなりません」


 私は言葉を失った。


 家族を悪く言われるのは、少し痛い。


 父様を嫌いになりきれない。


 母様のことも、まだ恋しい。


 優しかった頃の記憶があるから。


 でも、今ミナが言っていることを否定することもできない。


 私は捨てられた。


 それは事実だ。


 リオは大きく息を吐いた。


「ごめん。怒鳴った」


「いいえ」


「でも、俺は怒ってる」


「はい」


「フローラにじゃない」


「……はい」


 それが分かっただけで、少し楽になった。


 ミナがそっと私の手を取った。


 昨日、台所で重なった時よりも、はっきりと。


 温かい手。


「話してくれて、ありがとうございます」


 その言葉に、胸が詰まった。


 秘密を話すのは怖かった。


 話したら、二人の態度が変わるかもしれないと思った。


 公爵令嬢として遠ざけられるかもしれない。


 あるいは、面倒事だと思われるかもしれない。


 けれど二人は、変わらなかった。


 リオは怒り、ミナは手を握ってくれた。


 それが答えだった。


「……怖かったです」


 私は小さく言った。


「話すのが」


「うん」


 ミナが頷く。


「でも、話せました」


「うん」


「二人が、変わらなくて……嬉しいです」


 ミナの目から涙が一粒落ちた。


「変わりません」


 リオも強く頷く。


「公爵令嬢でも、薬師見習いでも、畑の先生でも、フローラはフローラだろ」


 フローラはフローラ。


 ミナが前に言ってくれた言葉。


 リオの声で聞くと、また少し違う。


 力強くて、真っ直ぐで、少し乱暴で。


 でも、とても温かい。


「はい」


 私は頷いた。


 少しだけ、目の奥が熱かった。


 泣き方はまだ分からない。


 でも、泣きそうという感覚は、少し分かってきた。


 その後、三人で庭に出た。


 重い話の後、リオが「何か食べよう」と言い出したからだ。


 たぶん彼なりの気遣いだろう。


 あるいは本当にお腹が空いただけかもしれない。


 どちらもあり得る。


 私はパンとジャムを出した。


 ミナが昨日の瓶を見て少し笑う。


「もう開けたんですね」


「はい。朝食で食べました」


「どうでしたか」


「とても美味しかったです」


 ミナの顔が明るくなる。


「よかった」


 リオがパンにたっぷりジャムを塗ろうとして、ミナに止められる。


「塗りすぎ」


「今日は重い話したから甘いものが必要なんだ」


「理由になってない」


「なるだろ?」


「なりません」


 私は二人のやり取りを見ながら、少し笑った。


 さっきまで胸が苦しかったのに、今は少し楽になっている。


 秘密を話した。


 公爵令嬢だと知られた。


 捨てられたことも、はっきり言った。


 それでも、三人でジャムを食べている。


 世界は壊れなかった。


 友達も消えなかった。


 その事実が、私にとっては大きかった。


 夕方、リオとミナが帰る時、リオは少し真面目な顔で言った。


「フローラ」


「はい」


「俺、口軽いけど、この話は絶対言わない」


「リオ兄さん、自分で口軽いって言うのはどうかと思う」


「大事なことだろ」


 ミナが苦笑する。


 リオは胸を張った。


「俺は秘密を守る」


「ありがとうございます」


 ミナも言った。


「私も、誰にも言いません。必要な時は、フローラと相談します」


「はい」


「一人で抱え込まないでくださいね」


「努力します」


 ミナが少しだけ眉を上げる。


「努力、ではなく?」


 私は少し考えた。


「……相談します」


 ミナは満足そうに笑った。


「はい」


 二人を見送った後、私は家に戻った。


 台所にはジャムの甘い香り。


 机の上には、開けた瓶。


 外には夕暮れの森。


 私は椅子に座り、長く息を吐いた。


 疲れた。


 とても。


 でも、今日の疲れは悪くない。


 怖いことを話した後の疲れ。


 泣きそうになった後の疲れ。


 それでも受け止めてもらえた後の疲れ。


 私は日記帳を開いた。


 今日、リオとミナに、私がスプリング公爵家の娘だと話した。


 怖かった。


 でも二人は変わらなかった。


 リオは怒ってくれた。


 ミナは手を握ってくれた。


 私は、話してよかったと思った。


 しばらくペンを止める。


 そして、最後に書いた。


 噂は怖い。


 けれど、私を知ってくれている人がいることは、少しだけ強い。


 日記帳を閉じる。


 窓の外は暗くなり始めていた。


 森の向こうに村がある。


 村の向こうには、外の世界がある。


 その外のどこかで、私の噂が歩き始めるかもしれない。


 でも今夜、私は一人で震えているだけではなかった。


 リオが秘密を守ると言った。


 ミナが相談してと言った。


 ガルドさんが村と歩く方法を考えようと言った。


 村長が噂の形を作ってくれた。


 私はまだ怖い。


 けれど、怖いと言える場所がある。


 それはきっと、結界よりも強い守りなのかもしれない。


 私はジャムの瓶を棚に戻し、小さく呟いた。


「私は、森の薬師見習いフローラ」


 少し笑う。


「そして、畑の先生」


 さらに小さく。


「リオとミナの友達」


 その言葉が、一番胸に馴染んだ。


 暖炉の火が、ぱちりと鳴った。


 まるで、それでいいのだと答えてくれたようだった。

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