第5話 青の姫君、はじめて友達と台所に立つ
ジャム作りの日が来た。
朝から私は、少し落ち着かなかった。
畑の水やりは済ませた。
薬草園の確認もした。
川の罠も見に行った。
保存庫の温度管理も問題ない。
結界にも異常なし。
家の掃除もした。
台所の棚も整理した。
鍋も磨いた。
瓶も洗った。
布巾も干した。
それでも、まだ何か足りない気がする。
私は台所の中央に立ち、机の上に並べた瓶を見つめた。
小瓶が八つ。
中瓶が四つ。
大瓶が二つ。
多いだろうか。
いや、ジャムは保存食だ。
多くても困らない。
けれど、初めて友達と作る量としては多すぎるかもしれない。
ミナは「少し作りましょう」と言っていた。
少し。
少しとは、どれくらいだろう。
貴族の茶会で出す菓子の量なら分かる。
保存食として冬を越す量も計算できる。
けれど、友達と楽しく作る少しの量は、まだ分からない。
「……中瓶だけにしましょうか」
私は大瓶を棚に戻した。
少し考えて、小瓶も半分戻した。
机の上には中瓶四つと小瓶四つ。
まだ多い気がする。
でも、リオが食べるなら必要かもしれない。
リオはよく食べる。
パンも焼き菓子も、気づけば二つ目を手にしている。
ミナはそれを注意する。
ガルドさんは苦笑する。
その光景を思い出すと、胸が少し温かくなった。
私は瓶をもう一度洗い直した。
洗ったばかりなのに。
手を動かしていないと、気持ちが落ち着かない。
今日はミナが森の家へ来る。
リオも来ると言っていた。
ガルドさんも付き添いで来る。
それはもう何度か経験しているはずなのに、今日は少し違った。
畑の相談でもない。
薬の受け渡しでもない。
村への案内でもない。
友達と一緒に料理をする。
そのための日。
目的が生活や治療ではなく、約束そのものにある。
私はそれが、どうしようもなく嬉しくて、同じくらい怖かった。
失敗したらどうしよう。
ミナの教え方にうまく応えられなかったら。
魔法でやりすぎてしまったら。
普通のジャム作りを壊してしまったら。
リオに変だと笑われたら。
いや、リオはたぶん笑う。
でも悪意なく笑う。
それは分かってきた。
分かってきたけれど、やっぱり少し恥ずかしい。
私は棚から昨日作った焼き菓子を出した。
休憩用。
薬草茶も準備した。
ミナが好きそうな柔らかい味のもの。
リオには濃いめ。
ガルドさんには渋みのあるもの。
こうして相手に合わせて考える時間が、私は嫌いではなかった。
むしろ、少し好きかもしれない。
誰かを迎える準備。
誰かの好みを思い出す時間。
それは一人では生まれないものだ。
昼前、結界が人の気配を捉えた。
三人。
リオ。
ミナ。
ガルドさん。
私は手を止めた。
心臓が一度、大きく跳ねる。
まただ。
毎回、来ると分かっているのに、結界が彼らを捉えるたびに胸が反応する。
不思議だ。
魔物が近づいても、ここまで動揺しない。
黒爪熊が来ても、対処手順を考えるだけだ。
なのに、友達が来るだけで、私は落ち着かなくなる。
これが恋愛小説でいう「胸の高鳴り」だろうか。
いや、相手はリオとミナとガルドさん。
ミナにも高鳴る。
ガルドさんにも少し安心する。
つまり、これは恋愛ではなく来客反応だろう。
たぶん。
私はそう結論づけて、玄関へ向かった。
森の奥から声が聞こえる。
「フローラ、来たぞー!」
「リオ兄さん、もう少し声を抑えて」
「今日は結界の近くだから大丈夫!」
「その理屈、毎回ガルド叔父さんに怒られてるでしょう」
「今日は叔父さんも諦めてる」
「諦めてはいない」
ガルドさんの低い声。
いつものやり取り。
私は扉を開けた。
木々の間から、リオが先に現れる。
手には籠。
その後ろにミナ。
ミナも布で包んだ籠を大事そうに抱えている。
ガルドさんは荷物を背負っていた。
「こんにちは」
私が挨拶すると、リオが手を上げた。
「おう!」
ミナは少し嬉しそうに微笑んだ。
「こんにちは、フローラ。今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
私は少し深めに礼をした。
するとリオが笑った。
「ジャム作りでそんなに礼するのか?」
「初めて教わるので」
「フローラ、真面目だなあ」
「真面目ですか」
「うん」
ミナが横で頷く。
「でも、そこがフローラらしいです」
フローラらしい。
その言葉も、最近少しずつ私の中に増えている。
青の姫君らしい、ではない。
公爵令嬢らしい、でもない。
フローラらしい。
まだ自分ではよく分からないけれど、ミナたちは私の中にそういうものを見つけてくれているらしい。
それが嬉しい。
ミナは籠を開けた。
中には赤紫の小さな実がたくさん入っていた。
「村のベリーです。昨日、母と一緒に選びました」
「綺麗ですね」
「酸味が強いので、ジャムに向いています」
「香りも良いです」
私はそっと一粒手に取った。
表面に薄い産毛。
小さな実の中に、強い香りが詰まっている。
森の果実とは少し違う。
村の周辺で人の手が入る場所に生る実だからだろう。
野生味がありつつ、食べやすい。
リオが自分の籠を開ける。
「俺はパン持ってきた!」
「試食用ですか」
「そう!」
籠の中には丸パンがいくつも入っていた。
量が多い。
「多くないですか」
「ジャム作るならパンいるだろ」
「それはそうですが」
「あと俺が食う」
「やっぱり」
ミナが呆れたように言う。
リオは悪びれない。
ガルドさんは背負っていた荷物を下ろした。
「私は村長からの預かり物を」
「村長さんから?」
「はい。砂糖を少しと、瓶の蓋に使う蜜蝋です。フローラ殿が教えてくれた畑の対策が村で役立っています。その礼だそうです」
砂糖。
蜜蝋。
貴重品だ。
私はすぐに首を振りかけた。
「いただきすぎでは」
ガルドさんが穏やかに遮る。
「村長から、そう言うだろうから受け取らせろ、と言われています」
「……読まれています」
「ええ」
ガルドさんは少し笑った。
「それから、これは礼というより交換です。今日作るジャムを少し村長にも分けていただければ十分だと」
「それなら」
交換。
対価があると受け取りやすい。
私は頷いた。
「分かりました。村長さんの分も作ります」
リオが目を輝かせた。
「俺の分は?」
「あります」
「やった!」
「ただし、食べすぎるとお腹を壊します」
「分かってるって」
ミナがじっと見る。
「本当に?」
「……たぶん」
私は少し笑った。
三人を家の中へ案内する。
今日は台所を広く使えるよう、机を中央に移動しておいた。
瓶。
布巾。
木べら。
鍋。
水。
砂糖。
蜜。
ベリーを洗うための籠。
準備したものを見て、ミナが目を丸くした。
「すごい……全部用意してくれたんですね」
「足りないものはありますか」
「いえ、十分すぎます」
「多すぎましたか」
「少しだけ」
ミナがくすっと笑う。
私は肩を落とした。
「やはり」
「でも、嬉しいです。楽しみにしてくれていたんですね」
その言葉に、胸が跳ねた。
私は少し目を逸らした。
「……はい。楽しみにしていました」
口にすると、急に恥ずかしい。
でも、言えた。
ミナは柔らかく笑った。
「私もです」
台所に、少しだけ沈黙が落ちた。
重くない沈黙。
暖かい沈黙。
リオがその沈黙を壊すように、明るく言った。
「じゃあ作ろうぜ!」
「リオ兄さんは味見係ね」
「え、作らないのか?」
「リオ兄さんが作ると、味見の量が減ります」
「信用ないな!」
「日頃の行いです」
ガルドさんが入口近くの椅子に腰掛け、静かに笑った。
「私は邪魔にならぬよう見ています」
「お茶をお淹れしますか」
「後でいただきます。今日は二人の作業を優先してください」
二人の作業。
私とミナ。
友達と台所に立つ。
私は少し背筋を伸ばした。
まず、ベリーを洗う。
ミナは水を張った器に実を入れ、優しくかき混ぜた。
「強く洗うと潰れてしまうので、そっと」
「はい」
私は同じように手を入れた。
水の中で小さな実が揺れる。
指先に触れる柔らかさ。
傷んだものを見つけたら取り除く。
「これは?」
「少し傷んでいます。ジャムなら使える時もありますけど、今日は初めてなので綺麗なものだけにしましょう」
「分かりました」
私は実を一つ一つ確認した。
色。
張り。
香り。
水に浮くものと沈むもの。
状態の違いが面白い。
つい集中してしまう。
ミナが横で小さく笑った。
「フローラ、真剣ですね」
「はい。食材の選別は大事なので」
「そうですけど、なんだか薬草を調べている時みたい」
「似ています。毒の有無は重要です」
「ジャムに毒は入れません」
「はい」
リオが後ろから覗き込む。
「フローラが作ると、すごい薬みたいなジャムになりそう」
「疲労回復や整腸作用を持たせることは可能です」
「できるのかよ!」
リオが驚く。
ミナも目を丸くした。
「でも、今日は普通のジャムです」
私は自分に言い聞かせるように言った。
普通のジャム。
魔法薬ではない。
保存食であり、お菓子であり、ミナが教えてくれる村の味。
それを勝手に改造してはいけない。
ミナは嬉しそうに頷いた。
「はい。今日は普通のジャムです」
洗ったベリーの水気を切る。
鍋に入れる。
砂糖を量る。
ミナは手慣れた様子で分量を決めていく。
私は横で記録を取ろうとした。
するとミナが少し慌てた。
「フローラ、そんなに細かく書かなくても大丈夫ですよ」
「再現性のために必要かと」
「再現性」
ミナが困ったように笑う。
「確かに大事ですけど、ジャムは果実の甘さや水分で変わるので、毎回少し違います」
「毎回違う」
「はい。だから、味を見ながら調整します」
「なるほど」
本には基本の分量が載っていた。
でも、ミナは果実を見て決める。
ベリーの香りを嗅ぎ、指で潰して水分を確かめ、砂糖を足す。
それは畑を見る時と似ていた。
土の状態に合わせる。
水の流れに合わせる。
植物の顔色を見る。
料理も同じなのかもしれない。
「勉強になります」
「そんな大げさな」
「大げさではありません」
私は真面目に言った。
「ミナは、果実を見ています。私は本の分量を見ようとしました。違いがあります」
ミナは少し照れたように目を伏せた。
「私も、母に教わっただけです」
「お母様に」
「はい。小さい頃から、夏になると一緒に作っていました。最初は混ぜるだけでしたけど」
「混ぜるだけ」
「はい。焦がさないように、ずっと鍋の前に立って」
ミナは鍋に砂糖を入れながら、懐かしそうに笑った。
「暑くて、腕が疲れて、リオ兄さんは横から味見ばっかりしようとして怒られて」
「今と同じですね」
「そうなんです」
「おい、聞こえてるぞ」
リオが抗議する。
ミナは涼しい顔で答えた。
「聞こえるように言いました」
「ひどくないか?」
「事実です」
ガルドさんが静かに笑った。
家の中に、自然な笑いが広がる。
私の家なのに、私一人では作れない音。
私は鍋の中のベリーを見つめながら、その音を大事に聞いた。
火にかける。
ミナは火加減を見ながら木べらを渡してくれた。
「最初はゆっくり混ぜてください」
「はい」
鍋の中でベリーが少しずつ崩れていく。
砂糖が溶け、赤紫の汁が滲む。
甘酸っぱい香りが立ち上った。
私は木べらを動かす。
焦げないように。
潰しすぎないように。
一定の速度で。
「フローラ、少し力が入りすぎです」
「そうですか」
「もっと優しくで大丈夫です」
「優しく」
力を抜く。
木べらが鍋底を撫でる。
ベリーが柔らかく崩れる。
「そうです」
ミナが隣で頷く。
その距離が近い。
肩が触れそうなほど近い。
屋敷では、人との距離には決まりがあった。
身分、場面、相手との関係。
近づきすぎてはいけない。
触れてはいけない。
許可なく踏み込んではいけない。
けれど今、ミナは自然に隣にいる。
私の手元を見て、少し身を寄せて教えてくれる。
私は少し緊張した。
でも嫌ではない。
むしろ安心する。
「火が強いと、香りが飛びます」
ミナが言う。
「では火を弱めます」
私は魔法で火力を調整しかけた。
指先に魔力を集めた瞬間、ミナがそっと手を重ねた。
温かい手。
私は固まった。
「今日は、薪の火でやってみませんか」
ミナの声は柔らかかった。
「魔法を使うと簡単ですけど、火を見ながら作るのも楽しいので」
手が重なっている。
ミナの手。
恋愛小説では、手が触れ合う場面で令嬢の胸が高鳴っていた。
私は今、胸が高鳴っている。
これは恋愛なのだろうか。
いや、相手はミナ。
友達。
同性。
これはたぶん、手が突然重なったことによる驚き。
あるいは、近距離友人接触反応。
私は必死に分類しようとした。
しかしミナが不思議そうに顔を覗き込む。
「フローラ?」
「はい」
「嫌でしたか?」
嫌。
リオの宿題。
嫌なら言っていい。
私は自分の胸に聞いてみた。
嫌ではない。
驚いた。
恥ずかしい。
でも、嫌ではない。
「嫌ではありません」
私は答えた。
「少し、驚きました」
ミナはほっとしたように手を離した。
「ごめんなさい」
「いいえ」
私は木べらを握り直した。
「薪の火でやってみます」
「はい」
リオが少し離れたところからにやにやしている。
「何ですか」
私が尋ねると、リオは慌てて首を振った。
「いや、なんでも」
「変な顔をしていました」
「変な顔って言うなよ」
「では、面白い顔」
「もっとひどくなった!」
ミナが笑う。
私も少し笑った。
鍋の中身は少しずつ煮詰まっていった。
赤紫が濃くなる。
艶が出る。
香りが深くなる。
ミナは時々小皿に取って冷まし、とろみを確認した。
「ここからが焦げやすいです」
「はい」
「混ぜる手を止めないでください」
「分かりました」
腕が少し疲れてきた。
でも、止めない。
ミナが横で励ましてくれる。
「もう少しです」
「はい」
「頑張って」
頑張って。
その言葉が、胸に染みる。
訓練で言われた頑張れとは違う。
結果を求める声ではない。
今、隣で同じ鍋を見ている人の声。
私は木べらを動かし続けた。
やがてミナが頷いた。
「いいと思います」
「完成ですか」
「はい。あとは瓶に詰めます」
私は少し息を吐いた。
達成感があった。
魔法なら一瞬でできたかもしれない。
でも、一瞬ではこの疲れはない。
この香りの変化を待つ時間もない。
ミナと並んで鍋を見つめる沈黙もない。
リオが待ちきれない顔で近づいてきた。
「味見!」
「熱いです」
「冷めるまで待つ!」
「本当に待てますか」
「待てる!」
ミナが小皿に少し取り、冷ましてからパンに塗った。
まず私に差し出す。
「どうぞ。初めて一緒に作ったジャムです」
初めて一緒に作った。
私はパンを受け取った。
赤紫のジャムが艶やかに光っている。
一口食べる。
甘酸っぱい。
少し果実の粒が残っている。
火の香り。
砂糖の甘さ。
ミナの手順。
私の混ぜた時間。
全部が混ざっている。
「……美味しいです」
声が自然に出た。
ミナの顔が明るくなる。
「よかった」
「とても、美味しいです」
「はい」
ミナは嬉しそうに笑った。
リオが横から手を伸ばす。
「俺も!」
ミナがパンにジャムを塗って渡す。
リオは一口で目を輝かせた。
「うまい!」
「ゆっくり食べて」
「うまい! いつものよりうまい!」
ミナが驚いたように目を丸くする。
「本当?」
「うん! なんか、いつもより濃い!」
ガルドさんにも渡す。
彼はゆっくり味わい、頷いた。
「確かにうまい。火加減が良かったのかもしれませんな」
ミナが私を見る。
「フローラが丁寧に混ぜてくれたからです」
「ミナの教え方がよかったからです」
「二人で作ったから、でいいんじゃないか?」
リオが口を挟む。
私とミナは顔を見合わせた。
二人で作ったから。
その言葉は、とても自然だった。
「はい」
私は頷いた。
「二人で作ったから、です」
ミナも笑った。
「そうですね」
瓶に詰める作業は、思ったより楽しかった。
熱いうちに瓶へ入れ、空気を抜き、蓋をする。
蜜蝋で封をする。
日付を書いた札をつける。
私は札に「ミナと作ったベリージャム」と書いた。
ミナがそれを見て、少し照れた。
「名前まで」
「大事な記録なので」
「じゃあ、私も家の分にそう書きます」
ミナは小さな札に同じ言葉を書いた。
ミナとフローラで作ったベリージャム。
その文字を見た瞬間、胸の奥がじんわり温かくなった。
私の名前が、誰かの家の瓶に貼られる。
それは、とても不思議なことだった。
リオは自分用の瓶を要求したが、ミナに却下された。
「一瓶渡したら一日で食べるでしょう」
「二日かける!」
「信用できません」
「じゃあ半分」
「家で皆で食べます」
リオは不満そうだったが、パンに多めに塗ってもらって機嫌を直した。
休憩のため、私は薬草茶を淹れた。
台所から居間へ移動する。
テーブルの上には焼き菓子、パン、ジャム、薬草茶。
小さなお茶会のようになった。
ミナはカップを両手で包み、ほっと息をつく。
「フローラの家、落ち着きますね」
「そうですか」
「はい。森の中なのに、怖くありません」
リオが焼き菓子を食べながら頷く。
「結界があるからな!」
「それもありますけど」
ミナは部屋を見回した。
「フローラが大事にしている場所だから、落ち着くのかもしれません」
私は少し目を伏せた。
大事にしている場所。
この家を。
私は確かに、そうしているのだろう。
最初は捨てられた場所だった。
死なないための場所だった。
でも今は、友達を招いてジャムを作る場所になった。
私が選んで整えた場所。
私の暮らしがある場所。
「ここは、私の家です」
私は小さく言った。
誰に言うでもなく。
確認するように。
ミナが優しく頷く。
「はい。素敵なお家です」
その言葉に、少し喉が詰まった。
素敵。
この古い一軒家が。
公爵令嬢が住むにはみすぼらしいと言われるかもしれない家が。
ミナには素敵に見える。
私はカップを両手で包んだ。
「ありがとうございます」
リオがふと尋ねた。
「フローラってさ、前の家に帰りたいって思うことあるのか?」
空気が、少し止まった。
ミナがリオを睨む。
「リオ兄さん」
「あ……いや、悪い」
リオは慌てた。
「聞いちゃ駄目だったか?」
私はカップの中の薄い緑色を見つめた。
前の家。
公爵家の屋敷。
父様。
母様。
祖父母。
侍女長。
広い食堂。
訓練場。
花を落とした廊下。
執務室。
鍵。
馬車。
恨むな。
胸が少し痛んだ。
でも、以前ほど息が詰まる痛みではなかった。
私はゆっくり答えた。
「分かりません」
正直な答えだった。
「帰りたい気持ちも、少しあります。けれど、帰るのは怖いです」
リオは黙って聞いている。
ミナも何も言わない。
ガルドさんは静かにカップを置いた。
「前の家には、父様と母様がいました。優しかった時もあります。でも、最後は私を怖がりました」
言葉にすると、少し震えた。
でも、止まらなかった。
「私は、何か悪いことをしたわけではないと思います。でも、皆が怖がりました。だから、帰っても同じ顔をされるなら……ここにいたいです」
沈黙。
暖炉の火が小さく鳴る。
外では風が葉を揺らしている。
リオが拳を握った。
「怖がる方が悪いだろ」
「リオ兄さん」
「だってそうだろ。フローラは助けてくれるし、畑も見てくれるし、ジャムも真面目に作るし、ちょっと変だけどいいやつだ」
「ちょっと変」
私はその部分を繰り返した。
ミナがリオの腕を叩く。
「そこ、いりません」
「いや、そこもフローラだろ」
リオは真っ直ぐ私を見る。
「俺は、フローラが変でも怖くない」
胸の奥が熱くなった。
怖くない。
その言葉は、魔法のようだった。
ミナも静かに言った。
「私も怖くありません」
ガルドさんも頷く。
「私もです」
三人の言葉が、部屋の中に落ちる。
怖くない。
怖くない。
怖くない。
私はカップを握る手に力を込めた。
泣きそうではなかった。
でも、胸の奥が大きく揺れた。
ずっと欲しかった言葉を、今、ここで受け取っているのかもしれない。
「……ありがとうございます」
声が小さくなった。
ミナがそっと笑う。
「フローラ」
「はい」
「嫌なことを聞かれたら、嫌だって言っていいんですよ」
リオが気まずそうに手を上げる。
「今のは俺が悪かった」
「嫌ではありませんでした」
私は答えた。
「少し痛かったですが、嫌ではありません。聞いてもらえて、少し軽くなりました」
リオはほっとしたように息を吐いた。
「そっか」
「はい」
「でも次からは、もっと考えて聞く」
「リオ兄さん、本当にお願いします」
「分かってるって」
ミナが半信半疑の目を向ける。
そのやり取りで、少し重くなった空気が柔らかく戻った。
私はほっとした。
重い話をしても、関係が壊れない。
沈黙になっても、戻ってこられる。
それを知るたびに、少しずつ人といるのが怖くなくなっていく。
お茶を飲み終えた後、リオは庭に出た。
じっとしていられないらしい。
ガルドさんも見守りで外へ出る。
居間には私とミナが残った。
テーブルの上には、ジャムの瓶が並んでいる。
陽射しを受けて赤紫色が透け、宝石のように光っていた。
ミナがぽつりと言った。
「フローラは、すごく綺麗です」
「ジャムがですか」
「いえ、フローラが」
私は固まった。
綺麗。
また容姿の話だろうか。
屋敷では聞き慣れた言葉のはずなのに、ミナに言われると少し違って聞こえる。
「青い髪も、目も、すごく綺麗です。でも、それだけじゃなくて」
ミナは少し言葉を探した。
「畑を見ている時とか、薬草を選んでいる時とか、誰かのために真剣になっている時のフローラが、私は綺麗だと思います」
どう返せばいいか分からなかった。
容姿を褒められる時は、礼を言えばいい。
謙遜しすぎず、驕らず、微笑む。
そう習った。
でも、今の言葉はどこに受け止めればいいのか分からない。
私の中身を、見てもらった気がした。
「……ありがとうございます」
ようやくそう言うと、ミナは少し照れた。
「急に変なことを言いました」
「変ではありません。嬉しいです」
「なら、よかったです」
私はミナを見た。
ミナは華やかな令嬢ではない。
髪も目も、王都の貴族たちが騒ぐような珍しい色ではない。
けれど、鍋の前で真剣な顔をするミナは、とても綺麗だった。
家族の話をする時の表情も。
私のために怒ってくれた時の声も。
ジャムを美味しいと言われて笑った顔も。
「ミナも綺麗です」
私が言うと、ミナは真っ赤になった。
「えっ」
「ジャムを作っている時、とても綺麗でした」
「そ、そういうことを急に言わないでください」
「駄目でしたか」
「駄目ではないですけど……恥ずかしいです」
「そうなのですか」
人を褒めるのも難しい。
私は少し反省した。
ミナは赤い顔のまま、小さく笑った。
「でも、嬉しいです」
「なら、よかったです」
二人で笑う。
台所から甘い香りがまだ残っている。
外からリオの声が聞こえる。
「フローラ! この木、登っていいか?」
「駄目です」
私は即答した。
リオが庭から不満そうな声を上げる。
「まだ見てないだろ!」
「結界の支柱にしている木なので、登ると術式が乱れます」
「そうなのか!?」
「はい」
半分は本当で、半分は安全のためだ。
ミナが笑いをこらえている。
「フローラ、断るの上手になりましたね」
「嫌だと言う練習の成果でしょうか」
「たぶん」
私は少し誇らしい気持ちになった。
夕方が近づき、三人は村へ帰る準備を始めた。
ジャムの瓶を分ける。
村長用。
ミナの家用。
リオ用ではなく、リオの家族用。
ガルドさん用。
私の家用。
それから、小さな瓶を一つ。
私はそれをミナに差し出した。
「これは、ミナに」
「私に?」
「はい。今日教えてくれたお礼です」
「でも、私ももらっていますよ」
「これは特別です」
瓶には、青い紐を結んでおいた。
私が作った布紐。
ミナはそれを見て、そっと受け取った。
「ありがとうございます。大切に食べます」
「食べてください。保存するだけではジャムの意味がありません」
ミナが笑う。
「はい。食べます」
リオが横から覗く。
「俺には?」
「リオにはこちらです」
私は焼き菓子を包んだ袋を渡した。
リオは一瞬で笑顔になる。
「やった!」
「一日で全部食べないでください」
「努力する!」
「努力ではなく、守ってください」
「……はい」
ガルドさんには薬草茶を渡した。
「疲労回復に良い配合です」
「ありがとうございます。村の見回り後にいただきます」
ガルドさんは丁寧に受け取った。
帰り際、ミナが玄関の前で振り返った。
「フローラ」
「はい」
「今日は、とても楽しかったです」
その言葉に、胸が温かくなる。
「私もです」
「また一緒に作りましょう」
「はい」
リオが手を振る。
「またな!」
「はい。また」
三人が森の道へ戻っていく。
私は家の前に立ち、見送った。
姿が小さくなり、木々の間に消えていく。
声も遠ざかる。
また静けさが戻る。
けれど、今日は台所に甘い香りが残っている。
テーブルには私の分のジャム。
洗い物の跡。
ミナが立っていた場所。
リオが座っていた椅子。
ガルドさんが飲んだカップ。
人がいた気配が、家の中にまだ残っている。
私は台所に戻り、鍋を洗った。
底に少しだけ残ったジャムを指で取る。
行儀が悪い。
公爵令嬢ならしない。
けれど、ここには誰もいない。
私は少し舐めた。
甘酸っぱい。
美味しい。
思わず笑ってしまった。
夜。
私は日記帳を開いた。
今日、ミナと一緒にジャムを作った。
薪の火で作った。
魔法は使わなかった。
焦げないように混ぜるのは難しかったけれど、楽しかった。
リオはたくさん味見をしたがった。
ガルドさんは美味しいと言ってくれた。
ミナに、フローラはフローラだと言われた。
怖くないとも言われた。
リオも、ガルドさんも、怖くないと言ってくれた。
私はそれが、とても嬉しかった。
そこまで書いて、私は少し手を止めた。
今日の一番大事なことは何だろう。
ジャムを作ったこと。
ミナと並んで台所に立ったこと。
前の家の話を少ししたこと。
怖くないと言われたこと。
どれも大事だ。
私は少し考えて、最後に書いた。
友達と作ったジャムは、一人で作るより美味しかった。
書き終えると、胸がふわりと温かくなった。
日記帳を閉じる。
棚の上のジャム瓶を見る。
札には、私の字でこう書いてある。
ミナとフローラで作ったベリージャム。
それだけで、今日は良い日だったと思えた。
私は暖炉の火を小さくし、窓の外を見た。
森は暗い。
けれど怖くはない。
木々の向こうには村がある。
村にはミナがいる。
リオがいる。
ガルドさんがいる。
私を怖くないと言ってくれた人たちがいる。
私はもう一度、瓶を見た。
明日の朝は、このジャムをパンに塗ろう。
そして次にミナに会ったら、伝えよう。
美味しかった、と。
また作りたい、と。
そう思いながら、私は小さく呟いた。
「友達って、不思議ね」
返事はない。
でも、台所に残った甘い香りが、そっと頷いてくれた気がした。




