第4話 青の姫君、畑の先生になる
村へ行った翌朝、私はいつもより少し遅く目を覚ました。
窓の外はもう明るい。
木々の隙間から差し込む朝日が、寝室の床に薄い金色の線を落としている。
鳥の声。
葉擦れの音。
井戸の方で水滴が落ちる小さな音。
いつもの朝だった。
けれど、体が少し重い。
魔力を使いすぎたわけではない。
魔物と戦ったわけでもない。
畑を一日中耕した時の疲れとも違う。
もっと内側の、胸の奥や頭の端に残るような疲れだった。
昨日、私は初めて村へ行った。
人がたくさんいた。
名前を呼ばれた。
見られた。
話しかけられた。
笑われた。
花をもらった。
パンを食べた。
畑を見た。
ミナの家へ行った。
リオに何度も「また来い」と言われた。
それらが一度に押し寄せて、眠っている間も心のどこかが忙しかったのかもしれない。
私は寝台の上でしばらく天井を見つめた。
森の家の天井。
自分で補強した梁。
魔法で雨漏りを塞いだ跡。
屋敷の天井とは違う。
金の装飾も、神話画も、磨き上げられた白い漆喰もない。
でも、ここは私の家だ。
そう思えるようになったのは、いつからだろう。
森に捨てられた日、この家はただの古い一軒家だった。
住むために修繕し、守るために結界を張り、生きるために畑を作った。
最初は必要に迫られただけだった。
けれど今は、机の上に白い花がある。
棚には村でもらったパン。
小瓶にはミナのジャム。
椅子は一脚ではなく四脚。
カップも増えた。
誰かが来るかもしれない家。
誰かを迎えられる家。
それだけで、家というものは少し違って見える。
私は起き上がり、白い花を見た。
昨日、村の男の子にもらった花。
少しだけ萎れている。
でも、まだ白い。
保存魔法をかければ、形を保つことはできる。
けれど私は、あえてそうしなかった。
花は咲いて、いつか枯れる。
その時間ごと受け取るべきだと思ったから。
……もっとも、そう考えた後で「枯れたら悲しいかもしれない」と気づき、少しだけ水分保持の術式を足してしまった。
完全保存ではない。
少し長持ちする程度。
たぶん、これは自然の範囲内だ。
たぶん。
「おはよう」
私は花に挨拶した。
返事はない。
それでも、昨日より寂しくなかった。
身支度を整え、台所へ向かう。
朝食は村でもらったパンと、森の果実、それから薬草茶。
パンを切ると、香ばしい匂いが広がった。
一口食べる。
昨日より少し硬くなっているが、美味しい。
森で自分が作るパンとは違う。
誰かの手の癖がある。
焼いた人の生活がある。
それを食べていると思うと、不思議な気持ちになる。
「次に行った時、お礼を言わなくては」
そう呟いて、私は首を傾げた。
次に行った時。
自然にそう考えていた。
また村へ行くことを、もう前提にしている。
昨日まではあれほど悩んでいたのに。
人の心は、魔法陣よりずっと変化が早い。
朝食を終え、畑へ出る。
空気は少し湿っていた。
夜の間に軽く雨が降ったらしい。
土がしっとりしている。
豆の葉には水滴。
トマトの実は赤くなったものが増えている。
果樹の葉の裏に、小さな虫がついていた。
私は指先でそっと取り、虫除け用の薬草を少し増やすことにした。
畑を見ていると、心が落ち着く。
人の言葉や視線に揺れた心が、土に触れると少しずつ静かになる。
土は嘘をつかない。
水が足りなければ乾く。
栄養が偏れば葉に出る。
根が弱れば成長が止まる。
必要なものを見極め、手を入れれば応えてくれる。
もちろん、思い通りにならないこともある。
天候も、虫も、病気も、予想外の変化もある。
でも、その予想外すら、相手が生きている証拠だ。
私は畑が好きだ。
昨日、バルドさんにそう聞かれて、初めてはっきり答えた。
好き。
その言葉は今も胸に残っている。
屋敷で好きなものを聞かれたことは、あまりなかった。
好きな色。
好きな花。
好きな菓子。
そういう会話はあった。
けれど、たいていは社交用だった。
答えによって贈り物が変わる。
印象が変わる。
だから正解に近い答えを選ぶ必要があった。
でも畑が好きだと答えた時、私は何も考えていなかった。
ただ、そう思った。
それが嬉しかった。
昼前、結界に反応があった。
人。
五人。
その中にリオとガルドさんの気配。
ミナはいない。
代わりにバルドさんと、村の男性二人。
私は畑から顔を上げた。
昨日の今日で来客。
もしかして何か問題だろうか。
怪我人?
病人?
それとも、村で何か起きた?
少し緊張して玄関へ向かう。
森の奥から、リオの声が聞こえた。
「フローラー! いるかー!」
また大声。
ガルドさんの低い声がすぐ続く。
「だから森で大声を出すなと言っている」
「でも結界の近くだし!」
「昨日も聞いた」
「じゃあ大丈夫ってことだろ?」
「そういう意味ではない」
私は少し笑ってしまった。
このやり取りにも慣れてきた気がする。
木々の間からリオが現れ、その後ろにガルドさん、バルドさん、そして村の男性二人が続いた。
男性たちは少し緊張している。
一人は細身で若く、一人はがっしりした体格。
どちらも畑仕事の服装だ。
バルドさんは私を見るなり、手を上げた。
「おう、畑の嬢ちゃん」
「こんにちは、バルドさん」
「昨日ぶりだな」
「はい」
リオがにっと笑う。
「フローラ、今日は畑の相談だ!」
「畑の相談」
私は少し背筋を伸ばした。
昨日、村長は村人が押しかけすぎないようにすると言っていた。
その翌日に畑の相談。
何か急ぎの事情があるのだろうか。
ガルドさんがすぐに説明してくれた。
「村長の許可は得ています。人数を絞り、相談内容も急ぎのものだけにしました」
「そうでしたか」
「もし迷惑なら、日を改めます」
「いいえ。大丈夫です」
私は頷いた。
バルドさんが顎で後ろの二人を示す。
「こいつらの畑で病気が出てる。昨日、嬢ちゃんがうちの豆を見て言った斑点と似てるらしい。広がる前に見てほしい」
がっしりした男性が帽子を取って頭を下げた。
「急にすまねえ。俺はダンだ。村の西で豆と芋をやってる」
細身の男性も慌てて頭を下げる。
「俺はネイトです。まだ畑を任されて二年目で……どうしていいか分からなくて」
不安そうな顔。
土に慣れている手。
爪の間に入り込んだ泥。
彼らにとって畑は生活そのものだ。
病気が広がれば収穫が減る。
収穫が減れば、冬を越す食料にも関わる。
私は表情を引き締めた。
「葉を持ってきていますか」
ダンさんが布に包んだ豆の葉を差し出した。
私は受け取り、広げる。
小さな褐色の斑点。
葉脈に沿って広がり始めている。
湿気の多い時期に出やすい菌性の病。
まだ初期だ。
対応は可能。
ただ、放置すれば一気に広がる。
「初期です。今なら間に合います」
そう言うと、二人は目に見えて安堵した。
ネイトさんなど、膝から力が抜けかけていた。
「よ、よかった……」
「ただし、対応は急いだ方がいいです」
私は家の中から紙と木板を持ってきた。
紙は貴重なので、説明用には木板が便利だ。
魔法で簡単な図を焼き付ける。
豆の葉。
病斑。
処理する範囲。
土の湿り具合。
風の通り道。
リオが横から覗き込んだ。
「うわ、分かりやすい」
「本当ですか?」
「絵がうまい!」
「図です」
「図がうまい!」
リオは何でも勢いよく褒める。
少し恥ずかしい。
でも、悪い気はしない。
私は説明を始めた。
「まず、症状の出た葉は切り取ってください。ただし畑の中に捨てず、必ず焼却します。湿ったまま放置すると広がります」
「焼くんだな」
ダンさんが真剣に頷く。
「はい。次に、密集している株は少し間引いて風通しを良くしてください。水やりは朝に。夕方以降に葉が濡れたままになると悪化します」
「朝か……」
ネイトさんが呟く。
「あと、土の表面に敷き草をすると泥はねを防げます。ただし湿りすぎる場所では逆効果なので、畑を見て調整が必要です」
バルドさんが腕を組んで頷いた。
「理屈が通ってるな」
「薬草を使った予防液も作れます。ただし濃すぎると葉を傷めます。薄めて、まず一部に試してください」
「その薬草は村でも採れるか?」
「森の浅い場所にもあります。ですが似た毒草があるので、最初は一緒に確認した方がいいです」
ガルドさんが静かに言う。
「では、採取は俺が付き添いましょう」
「助かります」
説明している間、男性二人の表情が変わっていった。
最初は不安と焦り。
次第に、やるべきことが見えてきた顔になる。
問題が大きくても、手順が分かれば人は動ける。
それは魔法も畑も同じなのかもしれない。
ネイトさんが遠慮がちに手を上げた。
「あの、フローラちゃん」
「はい」
「もし……もしよかったら、畑を直接見てもらうことはできますか。もちろん、無理にとは言わないんですけど」
彼の声には切実さがあった。
まだ若い。
任された畑を失敗させたくないのだろう。
私は少し考えた。
昨日村へ行ったばかり。
また今日も村へ行く。
人の多い場所はまだ疲れる。
けれど、畑を見るなら役に立てる。
それに、病気が広がるなら早い方がいい。
「行きます」
私が答えると、ネイトさんの顔が明るくなった。
「本当ですか!」
「はい。ただし、こちらの畑の水やり設定を調整してからでもいいですか」
「もちろんです!」
リオが嬉しそうに拳を握る。
「じゃあ今日も村だな!」
「はい」
昨日より不思議と怖さは少なかった。
緊張はある。
けれど目的がある。
畑を見る。
病気を防ぐ。
それなら私は動ける。
準備を整え、薬草用の小袋、記録板、簡易診断用の魔道具を持つ。
村へ向かう道すがら、リオは隣でずっと話していた。
「ミナも来たがってたんだけどさ、今日は母さんの手伝いなんだ」
「そうなのですか」
「昨日、フローラとジャム作る約束したってずっと言ってた」
「本当ですか」
「うん。瓶を洗ってたぞ。まだ作る日も決まってないのに」
私は少し驚いた。
ミナも準備をしている。
私と同じように。
その事実が嬉しい。
「私も瓶を用意しています」
「似た者同士だな」
「似ていますか?」
「たぶん。二人とも真面目だし」
真面目。
それはよく言われる。
でも、ミナと似ていると言われるのは少し嬉しかった。
ガルドさんとバルドさんは前を歩きながら、畑の話をしている。
ダンさんとネイトさんは私の説明を繰り返し確認していた。
「症状の葉は焼く」
「水は朝」
「風通し」
「予防液は薄める」
その真剣な様子を見て、私も気を引き締めた。
村に着くと、昨日よりも視線が柔らかかった。
「あ、フローラちゃんだ」
「今日も来たのかい」
「畑を見に来てくれたんだって」
「助かるねえ」
声があちこちから聞こえる。
昨日のようなざわめきはある。
でも、驚きより歓迎が増えている。
子供たちが手を振る。
私は少し迷いながら手を振り返した。
昨日より自然にできた気がする。
リオが横で得意げに言う。
「もう村に馴染んできたな!」
「まだ二回目です」
「二回来たらもう知り合いだろ」
「そうなのですか」
「そうだぞ」
リオの基準はいつも早い。
でも、嫌ではない。
最初に向かったのはネイトさんの畑だった。
村の東側、少し低い土地。
見た瞬間、私は原因の一端を理解した。
風が抜けにくい。
周囲に低木が多く、朝露が乾きにくい。
豆の株が少し密集しすぎている。
葉の一部に斑点。
まだ広がり始め。
「ここは湿気が残りやすいですね」
私はしゃがみ、土を触った。
昨日の雨のせいもあるが、表面だけでなく中も少し重い。
「畝を少し高くした方がいいです。あと、この低木を少し剪定して風を通してください」
ネイトさんが慌てて頷く。
「はい!」
「全部切る必要はありません。風の道を作るだけでいいです」
「風の道……」
彼は畑を見回した。
私は木板に簡単な図を書く。
風がどちらから来るか。
湿気が溜まる場所。
病気が出やすい範囲。
ネイトさんは真剣に覗き込んだ。
近くで作業していた村人たちも集まってくる。
「なるほど、そこを開けるのか」
「うちも似てるな」
「風なんか気にしたことなかった」
バルドさんが皆を一喝する。
「見たいなら静かに聞け。邪魔するな」
村人たちは慌てて口を閉じた。
私は少し驚いた。
こんなに人が集まるとは思わなかった。
昨日よりも多い。
視線が背中に集まる。
少し緊張する。
けれど、皆の目は畑を見ていた。
私の髪や魔法ではなく、私が指す土と葉を見ている。
それなら平気だ。
私は続けた。
「病気の葉を切る時は、使った刃物を一株ごとに拭いてください。病気を広げることがあります」
「刃物もか!」
ダンさんが驚く。
「はい。薬草酒か熱湯で」
「面倒だな……」
誰かが呟いた。
バルドさんがすぐ睨む。
「面倒を惜しんで畑を駄目にする方が面倒だ」
「そりゃそうだ」
小さな笑いが起きる。
私は、少しだけ説明しやすくなった。
次にダンさんの畑へ向かう。
こちらは日当たりが良いが、別の問題があった。
畑の端に水が流れ込み、雨の後だけ一部が過湿になる。
さらに、芋の葉に虫食いが出ている。
「こちらは病気より虫の被害が先にあります」
「虫か……」
ダンさんが顔をしかめる。
「薬で一気に殺せませんか」
「できますが、おすすめしません」
「何故ですか」
「強すぎる薬は土の中の良い虫や微生物まで弱らせます。短期的には効きますが、長く見ると畑が疲れます」
ダンさんは黙った。
畑を見つめる。
その顔には焦りがある。
「でも、収穫が減ると困るんだ。今年は家族が増えたばかりで……」
家族。
私は彼の手を見る。
大きく、荒れた手。
生活を支える手。
畑は理論だけではない。
ここで採れるものが、誰かの食卓に並ぶ。
赤子の口に入るかもしれない。
冬を越すための倉に入るかもしれない。
だから焦る。
焦って当然だ。
「被害の強い場所だけ、薄い防虫液を使いましょう。全体には使わず、まず虫を寄せにくい薬草を畑の端に植えます。あと、芋の近くに相性の良い豆を少し混ぜると土にも良いです」
「混ぜて植えるのか?」
「はい。ただし間隔が重要です。詰めすぎると逆効果です」
私は線を引きながら説明した。
ダンさんは何度も頷く。
周りの村人たちも真剣だ。
リオだけは途中で飽きたのか、子供たちと小声で何か話していた。
しかし私が虫除け薬草の名前を出した途端、急に顔を上げた。
「それ、森に取りに行くやつ?」
「はい」
「俺も行く!」
「遊びではありません」
ガルドさんが即座に言う。
「分かってるって!」
「その返事は信用ならん」
村人たちが笑った。
畑の確認が終わる頃には、昼近くになっていた。
予定より時間がかかった。
ただ見るだけのつもりが、相談が増えた。
豆、芋、麦、果樹。
村人たちは次々と聞きたがる。
バルドさんが止めてくれなければ、私はずっと畑に立っていたかもしれない。
「今日はここまでだ」
バルドさんの声に、不満そうな声が上がる。
「でも、うちの果樹も」
「うちの麦が」
「水路のことだけでも」
「駄目だ」
バルドさんはぴしゃりと言った。
「嬢ちゃんは村の道具じゃねえ。昨日来たばかりの客だ。あれもこれも押しつけるな」
村人たちは気まずそうに黙った。
私は少し驚いた。
村の人たちが悪意で言っているのではないことは分かる。
困っている。
知りたい。
助かりたい。
だから聞いている。
でも、バルドさんは線を引いてくれた。
村長もそうだった。
便利な薬師や魔法使いにしてはいけない。
その言葉を思い出す。
私は、役に立てるなら頑張ろうとしてしまう。
それが認められる理由になると思ってしまう。
でも、この村では、誰かがそれを止めてくれる。
それが少し、怖いくらい優しい。
ネイトさんが頭を下げた。
「すみません、フローラちゃん。俺たち、つい」
「いいえ。畑のことは大事ですから」
「でも、バルド爺の言う通りだ。今日は本当に助かりました。これだけで十分です」
ダンさんも深く頭を下げる。
「ありがとう。家族も安心する」
「まだ安心は早いです。数日、葉の様子を見てください。悪化したらすぐ教えてください」
「分かった」
バルドさんが満足そうに笑う。
「よし。じゃあ昼だ。飯にするぞ」
「飯?」
「働いたら食う。村の決まりだ」
「私は働いたのでしょうか」
私が尋ねると、その場の大人たちが一瞬黙り、それから笑った。
「働いたよ!」
「十分すぎるくらいだ!」
「畑を三つも救ったかもしれないんだぞ」
「フローラちゃんは真面目だねえ」
笑い声に包まれる。
昨日より、少し怖くない。
村の広場へ戻ると、すでに昼食の準備が始まっていた。
誰かが知らせに行ったのだろう。
大きな鍋にスープ。
焼いたパン。
畑で採れた野菜。
昨日より人数は少ないが、それでも賑やかだ。
ミナも来ていた。
彼女は私を見ると、小走りで近づいてきた。
「フローラ、お疲れ様です」
「ミナ」
「畑を見ていたんですよね。大丈夫ですか? 疲れていませんか?」
「少しだけ」
正直に言った。
ミナは嬉しそうに笑った。
「ちゃんと言えましたね」
「はい。村長さんとの約束なので」
困った時、一人で抱え込まない。
疲れた時に疲れたと言うのも、その一つだろうか。
ミナは私を木陰の席へ案内してくれた。
「今日はここで座ってください。リオ兄さん、フローラにあれこれ持ってきすぎないでね」
「え、なんで俺だけ先に注意されるんだ?」
「昨日やったからです」
「今日は気をつけるって!」
リオはそう言いながら、すでにパンとスープを持ってきていた。
ミナがじっと見る。
リオは少し気まずそうに皿を置いた。
「……これだけ」
「本当に?」
「あとチーズ少し」
「リオ兄さん」
「少しだって!」
私は思わず笑った。
声が小さく漏れた程度だったけれど、リオとミナが同時にこちらを見た。
「フローラ、笑った」
リオが言う。
「笑います」
「いや、前より自然だった」
「そうでしょうか」
ミナが優しく頷いた。
「はい。とても」
そう言われると、急に恥ずかしくなる。
私はスープの器に視線を落とした。
湯気が立っている。
村の豆スープ。
素朴で温かい香り。
ひと口飲むと、体に染みるようだった。
「美味しいです」
私が言うと、近くにいた女性が嬉しそうに笑った。
「たくさん食べてね」
「はい」
昼食の間、村人たちは畑の話をしていた。
どこの水はけが悪い。
今年は虫が多い。
バルドさんが若い頃はもっと大変だった。
ネイトさんが初めて任された畑で失敗した話。
ダンさんの家に赤子が生まれた話。
その赤子が夜泣きするせいで、ダンさんが寝不足だという話。
笑い声。
相槌。
茶化し。
心配。
人の暮らしの中に、畑がある。
畑の中に、家族がいる。
私はそれを聞きながら、森の畑を思い浮かべた。
私の畑は、私のためにある。
食べるため。
生きるため。
好きだから。
でも村の畑は、もっと多くの人につながっている。
子供の食事。
冬の保存食。
市場での交換。
税。
種。
来年。
その重みを考えると、軽々しく魔法で変えてはいけないと改めて思った。
知識は役に立つ。
でも、押しつければ壊すこともある。
父様たちは、私に多くを学ばせた。
領地経営も、農政も、魔法も、薬草も。
その知識を、私は今、村の畑で使っている。
皮肉だろうか。
それとも、これで良かったのだろうか。
分からない。
けれど、目の前でネイトさんが少し安心した顔でスープを飲んでいる。
ダンさんが家族の話をして笑っている。
それだけは、確かに良いことのように思えた。
昼食後、ミナが私を家の裏へ連れて行った。
そこには小さな作業台と、果実の入った籠があった。
「少しだけ、ジャム作りを見ますか?」
「いいのですか」
「はい。本格的には今度一緒にやりたいですけど、今日は疲れているでしょうから、見学だけ」
気遣われている。
私は頷いた。
「見たいです」
ミナは嬉しそうに果実を洗い始めた。
赤紫色の小さな実。
村の近くで採れるベリーらしい。
傷んだ実を丁寧に取り除き、鍋に入れる。
砂糖は貴重なので少なめ。
代わりに甘い根を煮詰めた蜜を使う。
火にかけると、甘酸っぱい香りが広がった。
ミナの手つきは慣れていた。
派手ではない。
魔法のように一瞬で変わるわけでもない。
でも、丁寧だ。
実を潰しすぎない。
焦げないように混ぜる。
灰汁を取る。
香りを確かめる。
「すごいですね」
私が言うと、ミナは驚いたように顔を上げた。
「私がですか?」
「はい」
「そんな……普通です」
「普通でも、すごいです」
私は鍋を見つめた。
「私は魔法で温度を一定にできます。焦がさないようにすることもできます。でも、ミナは火の様子を見て、香りを見て、手で覚えている。それは本だけでは分かりません」
ミナは少し赤くなった。
「そんなふうに言われたの、初めてです」
「本当ですか」
「はい。ジャム作りなんて、村の女の子なら皆少しはできますから」
「それでも、ミナのジャムは美味しかったです」
ミナは鍋を混ぜる手を少し止めた。
それから、小さく笑った。
「ありがとうございます。フローラに褒められると、なんだかすごく嬉しいです」
「私も、ミナに刺繍を褒められて嬉しかったです」
口にしてから、少し照れる。
ミナも照れたように笑った。
作業台の周りに、穏やかな沈黙が落ちる。
鍋がことこと音を立てる。
甘い香り。
木陰を通る風。
遠くでリオの声。
誰かに急かされることもなく、比べられることもなく、ただ隣で同じものを見る時間。
友達とは、こういう沈黙も含むのかもしれない。
ミナがぽつりと言った。
「フローラは、昨日より少し村に慣れましたね」
「そう見えますか」
「はい。でも、無理はしないでくださいね」
「……はい」
「皆、フローラに助けてもらって嬉しいんです。でも、嬉しいと頼りたくなってしまうから」
ミナは鍋を見つめたまま言った。
「私も、フローラが何でもできるから、ついすごいって思ってしまいます。でも、フローラも疲れるんですよね」
「疲れます」
「寂しくもなる」
「はい」
「怖くもなる」
私は少し黙った。
ミナは見抜いている。
私が村に来る時、緊張していること。
視線を怖がっていること。
役に立とうとしすぎること。
それを責めずに、ただ隣で言葉にしてくれる。
「怖くなります」
私は小さく答えた。
「人に見られるのは、まだ少し怖いです」
「……前に、怖い思いをしたんですか」
ミナの声は慎重だった。
踏み込みすぎないように、でも聞きたいと伝える声。
私は鍋の赤紫色を見つめた。
父様の顔。
母様の目。
訓練場の沈黙。
化け物。
言葉にしようとすると、胸が重くなる。
「怖がられました」
それだけ言った。
ミナは手を止めた。
私は続けた。
「私ができることを見て、皆が怖がりました。最初は褒めてくれたのに、途中から違う顔になりました」
「家族も?」
私は答えられなかった。
でも、沈黙が答えになった。
ミナは唇を噛んだ。
「……ひどいです」
「そうでしょうか」
「そうです」
ミナの声は静かだったが、震えていた。
怒っている。
私のために。
「できることが多いからって、怖がっていい理由にはなりません」
「でも、普通ではありませんから」
「普通じゃなくても、フローラはフローラです」
その言葉に、胸が痛くなった。
フローラはフローラ。
簡単な言葉。
でも、私はそれをずっと聞きたかったのかもしれない。
青の姫君でも。
天才でも。
化け物でも。
公爵令嬢でもなく。
ただのフローラ。
ミナは少し慌てたように鍋へ視線を戻した。
「ごめんなさい。私、偉そうに」
「いいえ」
私は首を振った。
「嬉しいです」
ミナは小さく息を吐いた。
「なら、よかったです」
ジャムが煮詰まる。
ミナは小さな皿に少し取って冷まし、私に差し出した。
「味見、お願いします」
私は受け取り、口にした。
甘酸っぱい。
昨日食べたものより少し香りが強い。
火の通りも良い。
「美味しいです」
「本当ですか」
「はい。少し酸味が残っていて、パンに合うと思います」
ミナの顔がほころぶ。
その笑顔を見て、私は思った。
褒めると、人はこんな顔をする。
それは屋敷でも知っていたはずなのに、こんなに近くで見たのは初めてかもしれない。
その後、私は小瓶にジャムを少し分けてもらった。
代わりに、森で採れた香草を渡した。
ミナはそれを大事そうに受け取った。
夕方前、私は森へ帰ることになった。
今日は畑の診断で時間を使ったため、村に長居しすぎないようガルドさんが気を配ってくれた。
リオは不満そうだった。
「もう帰るのか?」
「フローラ殿は疲れている」
ガルドさんが言う。
「そっか……」
リオは少ししょんぼりした。
私はその顔を見て、なぜか胸がきゅっとした。
「また来ます」
私が言うと、リオはすぐ顔を上げた。
「絶対だぞ」
「はい」
「今度は村の裏山も案内する!」
「危険では?」
「危険じゃないところ!」
ガルドさんが咳払いする。
「リオ」
「分かってるって! ちゃんと大人と一緒に行く!」
「それならいい」
ミナが小瓶を包んで渡してくれた。
「今日のジャムです。少しだけですけど」
「ありがとうございます。大切に食べます」
「また作りますから、食べ切って大丈夫ですよ」
「そうなのですか」
「はい。次は一緒に」
一緒に。
また約束が増えた。
私は頷いた。
「楽しみにしています」
村を出る時、畑の方からネイトさんとダンさんが走ってきた。
「フローラちゃん!」
ネイトさんが息を切らしている。
「今日は本当にありがとう!」
ダンさんも頭を下げる。
「言われた通りにやってみる。結果は必ず知らせる」
「はい。無理に急ぎすぎないでください。畑は急に変えすぎても負担になります」
「分かった」
バルドさんが後ろから歩いてくる。
「嬢ちゃん」
「はい」
「今度、ちゃんと時間を取って畑の話をしよう。俺も聞きたいことがある」
「私でよければ」
「嬢ちゃんがいいんだ」
バルドさんは真っ直ぐに言った。
「魔法がどうこうじゃねえ。畑を見る目がいい。俺はそれが気に入った」
胸の奥が熱くなった。
「ありがとうございます」
私が頭を下げると、バルドさんは少し照れくさそうにそっぽを向いた。
「礼ばっかり言うな。こっちが礼を言う立場だ」
村人たちが笑う。
私はその笑い声の中で、少しだけ笑った。
森へ帰る道。
今日はガルドさんとリオが送ってくれた。
ミナは家の手伝いで村に残った。
夕方の森は少し涼しい。
葉の隙間から橙色の光が差し込む。
リオは拾った枝を剣のように振り回そうとして、ガルドさんに止められていた。
「森でむやみに振るな」
「ちょっとだけ」
「駄目だ」
「フローラならいいよな?」
「私は振り回しません」
「そういう意味じゃなくて」
リオが口を尖らせる。
私は少し考えた。
「枝を振るなら、周囲三歩以内に人がいないことを確認し、足場を見て、振り終わりの位置を意識した方が安全です」
「ほら、フローラは教えてくれる!」
「遊びではなく安全指導です」
ガルドさんが笑った。
「リオ、一本取られたな」
「えー」
そのやり取りが可笑しくて、私はまた笑った。
リオがこちらを見る。
「やっぱり今日、よく笑うな」
「そうですか」
「うん。いいと思う」
まっすぐな言葉だった。
胸が少し温かくなる。
「ありがとうございます」
「フローラはさ」
リオが枝を地面に捨て、少し真面目な顔になった。
「村で疲れたら、ちゃんと言えよ」
「ミナにも言われました」
「なら俺も言う。皆、フローラがすごいから頼りたくなるけど、嫌なら嫌って言っていいからな」
「嫌」
私はその言葉を繰り返した。
言っていい。
それは簡単なようで、難しい。
屋敷では嫌と言わなかった。
教育も、訓練も、模擬戦も、別邸行きも。
嫌だと言えば、何か変わったのだろうか。
分からない。
でも、言わなかった。
言えなかった。
「練習します」
私が言うと、リオは一瞬きょとんとした。
「嫌って言う練習?」
「はい」
「じゃあ今言ってみろよ」
「今ですか」
「うん。俺に」
ガルドさんが少し目を細める。
リオは悪気なく笑っている。
私は少し迷った。
嫌。
たった一文字。
でも口にするには、思ったより力がいる。
「……嫌、です」
小さな声だった。
リオは満足そうに頷いた。
「よし!」
「よし、なのですか」
「言えたじゃん」
「はい」
「じゃあ次はもっと普通に」
「普通に」
「嫌だ、でいい」
「嫌だ」
「そうそう」
リオは笑った。
私は少し不思議な気持ちだった。
嫌だと言っても、リオは怒らない。
嫌われない。
空気が壊れない。
むしろ嬉しそうにしている。
人付き合いは、やはり難しい。
でも、少しずつ覚えられるのかもしれない。
家に着くと、ガルドさんが周囲を確認してくれた。
「結界に異常は?」
「ありません」
「なら安心です」
リオが手を振る。
「またな、フローラ!」
「はい。また」
「嫌って言う練習、忘れるなよ!」
「覚えておきます」
ガルドさんが苦笑する。
「妙な宿題を出すな」
「大事だろ?」
「まあ、大事ではある」
二人の背中が森の中へ消えていく。
私は家の前で見送った。
静けさが戻る。
でも、今日もその静けさは冷たくない。
私は家に入り、ミナにもらったジャムを棚に置いた。
畑の記録板を机に置き、今日見た村の畑の状態を書き始める。
ネイトさんの畑。
湿気。
風通し。
豆の病気。
ダンさんの畑。
虫。
水流。
芋と豆の混植案。
バルドさんとの相談予定。
書くことが多い。
でも、ただの記録ではない。
誰かの顔が浮かぶ記録だ。
ネイトさんの不安な顔。
ダンさんの家族の話。
バルドさんの笑い声。
ミナのジャム。
リオの宿題。
嫌だ、と言う練習。
私はペンを止めた。
「嫌だ」
小さく言ってみる。
誰も怒らない。
家は静か。
「嫌、です」
丁寧に言ってみる。
やはり何も起きない。
少しだけ笑ってしまった。
こんな練習をしている元公爵令嬢が他にいるだろうか。
たぶん、いない。
でも、今の私には必要だ。
夜、夕食に村のチーズと森の野菜を使ったスープを作った。
パンにミナのジャムを少し塗る。
甘酸っぱい味が広がる。
「美味しい」
声に出す。
次に会ったら、ミナに言おう。
とても美味しかった、と。
それから、作り方を教えてほしい、と。
そして、疲れた時は疲れたと言う練習をしている、と。
リオに言うと笑われそうだ。
ミナに言えば、きっと真面目に聞いてくれる。
ガルドさんは頷いてくれるだろう。
バルドさんは「畑も人も無理に育てるな」とでも言いそうだ。
私はそう想像して、また少し笑った。
暖炉の火が揺れる。
白い花は机の上で静かに萎れ始めている。
でも、今日の私はそれを悲しいだけとは思わなかった。
花が枯れても、もらったことは消えない。
今日の畑の相談も、村の笑い声も、ミナのジャムも、リオの宿題も。
形は変わるかもしれない。
でも、私の中に残る。
私は日記帳を開いた。
今日、畑の相談を受けた。
村の畑は、森の畑より多くの人につながっている。
だから慎重に見なければならない。
バルドさんに、畑を見る目がいいと言われた。
嬉しかった。
ミナに、フローラはフローラだと言われた。
とても嬉しかった。
リオに、嫌だと言う練習を出された。
難しい。
でも、できるようになりたい。
そこまで書いて、私は少し考えた。
最後に一文を足す。
私は今日、少しだけ役に立てた。
でも、役に立つためだけに村へ行きたいわけではないと思った。
書き終えて、日記帳を閉じる。
その一文は、私にとって大事なものに思えた。
役に立つことは嬉しい。
けれど、それだけではない。
私はリオに会いたい。
ミナと話したい。
村のパンを食べたい。
バルドさんと畑の話をしたい。
子供たちに名前を呼ばれるのは少し怖いけれど、嫌ではない。
村へ行く理由が、少しずつ増えている。
そしてそれは、全部が全部、必要に迫られたものではない。
好きだから。
会いたいから。
知りたいから。
そういう理由で動いてもいいのだと、私は少しずつ学び始めていた。
翌朝。
私は畑でトマトを収穫していた。
村へ持っていく種とは別に、完熟した実を選ぶ。
すると、結界の外に小さな反応があった。
人ではない。
小動物。
いや、魔物に近い。
けれど敵意は弱い。
私は籠を置き、結界の端へ向かった。
そこにいたのは、小さな茶色の獣だった。
兎に似ているが、額に角はない。
足に怪我をしている。
森狐の子供だ。
魔物化しかけているが、まだ弱い。
私を見ると、逃げようとしてよろめいた。
「大丈夫です」
私はしゃがんだ。
「治療します。嫌なら、逃げてもいいです」
嫌なら。
その言葉を自然に使ったことに、少し驚く。
森狐の子は逃げなかった。
怯えた目で私を見ている。
私はゆっくり手を伸ばし、治癒魔法をかけた。
光が足を包む。
傷が塞がる。
森狐の子は不思議そうに足を動かした。
そして、私を見上げる。
礼を言うわけではない。
当然だ。
獣だから。
でも、しばらく私を見た後、森の奥へ走っていった。
私はその背中を見送った。
「……行ってらっしゃい」
呟くと、風が吹いた。
畑の葉が揺れる。
今日も森は静かだ。
けれど、どこか遠くで村の鐘が鳴った。
小さく、かすかに。
村は今日も動いている。
畑があり、人がいて、誰かが笑い、誰かが困り、誰かが助け合っている。
その中に、私の名前も少しだけ混ざり始めている。
青の姫君。
化け物。
捨てられた公爵令嬢。
森で畑を耕す少女。
畑の先生。
フローラ。
呼び名は増えていく。
でも、私は私だ。
まだ友達の作り方も、嫌だと言う方法も、恋愛小説の花の意味もよく分からない。
それでも。
今日も畑を耕そう。
誰かに出すスープのことを考えながら。
また村へ行く日のことを、少し楽しみにしながら。
私は鍬を手に取った。
朝の光の中、土を起こす。
湿った土の匂いが立ち上る。
森の空気が肺に満ちる。
遠くで村の鐘がもう一度鳴った。
私は顔を上げ、木々の向こうを見た。
「次は、ジャム作りね」
そう呟くと、胸の奥がふわりと温かくなった。
今日も私は、森で暮らしている。
捨てられた場所で。
けれど、もうただ捨てられただけの場所ではない。
ここから道が伸びている。
村へ。
友達へ。
まだ知らない明日へ。
私はその道を、少しずつ歩き始めていた。




