第3話 青の姫君、はじめて村へ行く
村へ行っても、いいですか。
その一言を、私は何度も練習した。
畑の前で。
井戸の横で。
台所でスープを煮込みながら。
夜、暖炉の前で椅子に座りながら。
最初は声が少し硬かった。
次に、礼儀正しすぎた。
その次は、なぜか尋問のようになった。
友達に向ける言葉として、どれが正解なのか分からない。
貴族相手なら分かる。
目線は相手より少し低く。
声音は柔らかく。
けれど下手に出すぎず、家格を損なわない程度の品位を保つ。
言葉には礼を含め、同時にこちらの意志も示す。
そういう会話なら、何度も学んだ。
でも、友達に「村へ行きたい」と言う方法は、誰も教えてくれなかった。
「村へ行っても、いいですか」
朝の畑で、私はまた呟いた。
豆の蔓が風に揺れる。
トマトの実が赤く光る。
果樹の葉に朝露が残っていて、日差しを受けて小さな宝石のようにきらめいていた。
森の朝は静かだ。
屋敷の朝のように、廊下を歩く侍女の足音も、銀器の触れ合う音も、父様が執務室へ向かう気配もない。
あるのは鳥の声と、井戸の水の冷たさと、土の匂い。
それだけで、充分だと思っていた。
一人でいることに慣れていた。
慣れていたはずだった。
けれど、リオたちが来てから、この静けさの中に空席が見えるようになった。
庭の丸太椅子。
四脚に増えた木の椅子。
棚に並んだ余分なカップ。
誰かが座るための場所。
誰かに出すための器。
誰かと食べるかもしれない焼き菓子。
それらがあるだけで、私は以前のように「一人で問題ありません」とは言い切れなくなっていた。
問題はない。
生活はできる。
食料もある。
結界もある。
森の魔物程度なら危険ではない。
でも。
問題がないことと、寂しくないことは違うのだと、最近知った。
私は手元の籠を見下ろした。
中には手土産の候補が入っている。
焼き菓子。
薬草茶。
小さな瓶。
バルドさんに渡す予定のトマトの種。
ミナに見せるための空瓶。
リオ用に少し多めの焼き菓子。
村へ行くと決めたわけではない。
まだ、正式には。
けれど準備だけは進んでいた。
というより、準備をしないと落ち着かなかった。
手土産を用意している間は、不安から少し離れられる。
服を整えている間は、何を言われるか考えずに済む。
道順を確認している間は、村人たちの視線を想像しなくて済む。
だから私は準備をした。
何度も。
少し過剰なくらい。
その日の昼前、結界が人の気配を捉えた。
三人。
リオ、ミナ、ガルドさん。
もう、魔力の揺らぎと歩き方で分かるようになっていた。
リオは足音が軽く、少し前のめり。
ミナは丁寧に歩くが、時々兄を追いかけるように歩幅が乱れる。
ガルドさんは重心が低く、周囲を警戒しながら歩く。
森の奥から声がした。
「フローラー!」
リオの声だ。
大きい。
森の鳥が一斉に飛び立つ。
ガルドさんが低い声で注意する。
「リオ、森で大声を出すな」
「大丈夫だって! フローラの結界の近くだし!」
「それとこれとは別だ」
「はーい」
返事が軽い。
たぶん反省していない。
ミナの溜息が聞こえるような気がした。
私は家の前に出た。
今日は、動きやすい淡い青のワンピースを着ている。
公爵家にいた頃のような豪奢なものではない。
自分で織った布で作った、簡素な服。
けれど袖口には少しだけ刺繍を入れた。
青い小花。
友達の家を訪ねる服として適切かどうかは分からないが、畑仕事着よりは良いはずだ。
髪は背中に流したままでは目立ちすぎるので、緩く編んで片側に垂らした。
それでも空色は隠れない。
隠すつもりも、半分くらいはない。
リオが木々の間から飛び出してきた。
「フローラ!」
「こんにちは、リオ」
「おおっ」
リオが足を止めた。
その後ろから来たミナも、少し目を丸くする。
ガルドさんも一瞬だけ驚いた顔をした。
私は自分の服を見下ろした。
「変ですか」
「いや!」
リオが勢いよく首を振る。
「なんか、いつもより……えっと……」
言葉を探している。
ミナが小さく笑った。
「可愛いです、フローラ」
「可愛い」
私はその言葉を繰り返した。
可愛い。
幼い頃はよく言われた。
青の姫君は可愛らしい。
人形のように可愛い。
妖精のように可愛い。
けれど、その言葉はいつも少し遠かった。
私の容姿や家名に向けられたものであって、私自身に届いている感じがしなかった。
今のミナの声は違った。
服を見て、私を見て、素直に言ってくれた。
だから、少し照れた。
「ありがとうございます」
「その刺繍、自分で?」
「はい。少し曲がっていますが」
「全然曲がってません。すごく綺麗です」
ミナが近づき、袖口をそっと見た。
触れていいか迷うように指先が止まる。
私は袖を少し差し出した。
ミナは嬉しそうに刺繍を撫でた。
「青い花……フローラみたいです」
「私みたい」
「はい。可愛い」
また、可愛い。
胸の奥がくすぐったい。
リオが横から覗き込んだ。
「俺にはよく分かんないけど、似合ってるぞ!」
「ありがとうございます」
「うん!」
リオは満足そうに頷いた。
それから庭を見回し、テーブルの上の籠に目を留める。
「それ、何?」
「手土産です」
「手土産?」
「村へ行く場合に必要かと思いまして」
私がそう言うと、三人が同時に固まった。
リオの顔が、ぱっと明るくなる。
「村、来るのか!?」
その声に、私の心臓が跳ねた。
練習した言葉。
何度も何度も確かめた言葉。
今だ。
今、言えばいい。
私は両手を前で重ね、少しだけ息を吸った。
「……村へ行っても、いいですか」
言えた。
声は思っていたより小さかった。
でも、震えてはいなかったと思う。
リオは一瞬きょとんとして、それから笑った。
「いいに決まってるだろ!」
早い。
即答だった。
少し拍子抜けするくらい。
ミナも嬉しそうに頷いた。
「もちろんです。みんな、きっと喜びます」
「みんな」
その言葉に、少しだけ肩が強張った。
みんな。
たくさんの人。
たくさんの視線。
たくさんの声。
リオとミナとガルドさんだけなら、もう少し慣れてきた。
けれど村には、もっと大勢の人がいる。
私を知らない人。
私の力を噂で聞いただけの人。
怖がる人もいるかもしれない。
怪しむ人もいるかもしれない。
化け物と呼ぶ人も。
ミナが私の表情を見て、少し声を柔らかくした。
「無理に今日じゃなくても大丈夫ですよ」
「いえ」
私は首を振った。
今日行かなければ、また準備だけが増えていく。
不安は消えない。
むしろ大きくなる。
なら、今日行く方がいい。
たぶん。
「今日、行きたいです」
口にした瞬間、自分で少し驚いた。
行きたい。
そうか。
私は行きたいのだ。
怖いけれど。
不安だけれど。
それでも、行きたい。
リオが満面の笑みを浮かべた。
「よし! じゃあ行こう!」
「リオ」
ガルドさんが低い声で止める。
「はしゃぎすぎるな。フローラ殿は初めて村へ来るんだ。ゆっくり案内する」
「分かってるって」
「昨日も同じ返事をして、川で滑っただろう」
「それは石が悪い」
「石は悪くない」
ガルドさんが溜息をつく。
私は思わず少し笑った。
こういうやり取りにも、少しずつ慣れてきた。
慣れてきたけれど、まだ羨ましい。
家族のように遠慮なく言い合える距離。
言葉が少し乱れても壊れない関係。
私には、あまりなかったものだ。
「フローラ殿」
ガルドさんがこちらを見る。
「村へ向かう前に、一つだけ確認してもよろしいですか」
「はい」
「貴女の身元についてです」
空気が、少し変わった。
リオが「あ」と口を開き、ミナが不安そうに私を見る。
ガルドさんの声は穏やかだった。
けれど、真剣だった。
「村長とも話しました。貴女がただの子供ではないことは、誰の目にも明らかです。ですが、こちらから無理に詮索するつもりはありません」
「……はい」
「ただ、村には色々な人間がいます。悪い者ばかりではありませんが、全員が口の固い人間とも限りません。もし知られたくないことがあるなら、村でどう名乗るか決めておいた方がいい」
名乗り。
私は少し黙った。
フローラ・フォン・スプリング。
それが私の名前。
家名は、王国中に知られている。
青の髪と青い瞳を見られ、スプリングと名乗れば、気づく人はいるかもしれない。
いや、村人なら貴族の詳細には疎いかもしれないが、行商人や旅人がいれば分からない。
父様に知られたら。
公爵家に戻される?
それとも、さらに遠くへ捨てられる?
母様はどうしているのだろう。
まだ寝込んでいるのだろうか。
私が生きていると知ったら、どう思うのだろう。
会いたい。
怖い。
分からない。
私は自分の胸元に手を当てた。
そこに家紋はない。
今の私は、公爵家のドレスも宝石も身につけていない。
ただの森暮らしの少女。
「フローラ、とだけ名乗ります」
私は言った。
「家名は言いません」
ガルドさんは頷いた。
「承知しました。村長にもそう伝えます」
「村長さんは、知っているのですか」
「可能性だけです。青い髪の貴族がいるという噂程度は、村にも入りますから」
ミナが心配そうに近づいた。
「嫌なら、村に来なくても……」
「いいえ」
私はもう一度首を振った。
「行きます」
少しだけ声に力が入った。
リオがにっと笑う。
「大丈夫だって。何か言うやつがいたら、俺が言い返す」
「リオが言うと喧嘩になるでしょう」
ミナがすぐに指摘する。
「じゃあミナが言えよ」
「私は冷静に言います」
「冷静に怒る方が怖いぞ」
「兄さんよりはいいです」
二人の会話に、私はまた少し肩の力が抜けた。
ガルドさんも薄く笑っている。
「では、行きましょうか」
私は家の中へ戻り、戸締まりと結界の確認をした。
家を空ける。
それは初めてだった。
森へ採取に出ることはある。
川へ行くこともある。
丘へ行くこともある。
けれど、半日以上家を空けるかもしれない外出は初めてだ。
火は消した。
貯蔵庫の温度管理は維持。
畑の水やりは自動術式を一時起動。
侵入防止結界は通常より一段強める。
緊急時には私の魔力へ通知。
玄関の鍵を閉める。
振り返ると、小さな家がそこにあった。
森に捨てられた日に見た時は、古びた一軒家でしかなかった。
今は違う。
畑があり、花壇があり、椅子があり、私の暮らしがある。
帰る場所。
そう思った瞬間、胸に少し温かいものが広がった。
屋敷ではなく、この家が。
私は籠を持ち上げた。
「行きましょう」
森の道を歩く。
先頭はガルドさん。
その少し後ろをリオが歩き、時々振り返って私に話しかける。
ミナは私の隣を歩いてくれた。
最初は、私の歩幅に合わせてくれているのかと思った。
けれど、私が少し速く歩くとミナも速くなる。
遅くすると、ミナも遅くする。
明らかに合わせてくれている。
「疲れていませんか?」
ミナが尋ねる。
「大丈夫です」
「本当ですか?」
「はい。森はよく歩くので」
「でも、今日は緊張しているでしょう?」
私は少し驚いてミナを見た。
ミナは優しく笑っていた。
「顔が、少し硬いです」
「……分かりますか」
「少しだけ」
顔に出ていたらしい。
淑女教育では感情を表に出さない訓練も受けた。
けれど、ミナには分かるのか。
それは私の訓練が足りないからなのか、それとも友達だからなのか。
どちらか分からない。
「緊張しています」
私は正直に答えた。
「人が多い場所は、慣れていません」
「そうですよね」
「変なことをしたら、教えてください」
「変なこと?」
「礼儀が違う、会話がおかしい、魔法を使いすぎる、手土産が不適切、友達への距離感が変、などです」
ミナは一瞬目を丸くし、それから笑いをこらえるように口元を押さえた。
「そんなに心配していたんですか」
「はい」
「大丈夫です。フローラは丁寧すぎるくらいです」
「丁寧すぎるのも問題では」
「少なくとも、失礼ではありません」
「そうですか」
少し安心した。
前を歩いていたリオが振り返る。
「フローラはそのままでいいだろ!」
「そのまま」
「うん! 変なところも面白いし!」
「リオ兄さん」
ミナの声が低くなる。
「褒めてる! 褒めてるから!」
「本当に?」
「本当だって!」
リオは慌てて手を振った。
私は少し考えた。
変なところも面白い。
これは褒め言葉なのだろうか。
判断が難しい。
けれど、リオに悪意はない。
それは分かるようになってきた。
「ありがとうございます」
そう答えると、リオはほっとしたように笑った。
森の道は、私がいつも歩く範囲より外へ続いていた。
木々の密度が少しずつ薄くなる。
鳥の声が増える。
土の道に、人の足跡や荷車の轍が見え始める。
人が使う道。
それだけで、少し胸がざわついた。
森の奥では、すべてが自然の都合で動く。
木が倒れ、草が伸び、獣が通る。
けれどこの道には、人が歩いた跡がある。
誰かがここを通り、村へ行き、村から帰った。
その繰り返しが道になった。
私はその上を歩いている。
誰かの生活の上を。
「もう少しで見えるぞ」
リオが言った。
彼の声が少し弾んでいる。
私は無意識に籠の持ち手を握り直した。
ミナがそっと言う。
「大丈夫です。私たちがいます」
私たち。
その言葉が、足元を支えるようだった。
森を抜けた。
視界が開ける。
まず見えたのは、畑だった。
緩やかな斜面に沿って広がる畑。
小麦。
豆。
根菜。
ところどころに果樹。
土の道。
遠くに家々の屋根。
煙突から細く煙が上がっている。
鶏の鳴き声。
人の声。
子供の笑い声。
木を割る音。
水車の回る低い音。
リーフェ村。
私が初めて訪れる、人の暮らす場所。
大きな町ではない。
王都のような石造りの街並みもない。
公爵領の中心都市のような整った通りもない。
家は木と土壁で作られ、屋根は藁や木板。
道は舗装されていない。
畑の匂いと、煙の匂いと、焼きたてのパンの匂いが混ざっている。
それでも、私には眩しかった。
人がいる。
本当に、たくさん。
村人たちがこちらに気づいた。
畑仕事をしていた男性が手を止める。
水瓶を抱えた女性が足を止める。
子供たちが遊びをやめ、こちらを見る。
視線が集まる。
ざわ、と空気が揺れた。
「あれが……」
「森の子?」
「青い髪……」
「本当に子供じゃないか」
「リオたちを助けたっていう」
「黒爪熊を……?」
声が聞こえる。
小さな声。
遠慮した声。
驚き。
好奇心。
少しの警戒。
私は足を止めそうになった。
訓練場の記憶が蘇る。
大勢の視線。
静まり返った空気。
父様の硬い顔。
母様の怯えた目。
化け物。
胸の奥が冷たくなる。
その時、リオが私の前に出た。
大げさなくらい胸を張る。
「連れてきたぞ! フローラだ!」
声が大きい。
村中に響きそうだ。
私は驚いた。
ガルドさんが額に手を当てる。
「リオ……」
ミナが小さく溜息をつく。
しかし、リオはまったく気にしていない。
「俺たちの友達だ!」
その一言で、村人たちのざわめきが少し変わった。
森の子。
青い髪の子。
黒爪熊を倒した子。
薬をくれた子。
そういう噂の対象ではなく。
リオの友達。
その言葉が、私に場所を作ってくれた。
ミナも一歩前に出た。
「フローラです。今日は村を見に来てくれました」
静かで、丁寧な声。
ミナらしい。
ガルドさんも村人たちへ向かって言った。
「村長には話を通してある。皆、騒ぎすぎるなよ。フローラ殿は客人だ」
客人。
私は深く息を吸った。
ここで礼をするべきだ。
ただし、公爵家式の正式礼は重すぎる。
村に合わせた、簡易の礼。
私は籠を片手に持ち直し、軽く頭を下げた。
「フローラと申します。本日はお邪魔いたします」
言葉が少し硬い。
でも、間違ってはいないはず。
村人たちはぽかんとした。
一人の女性が小さく呟く。
「丁寧な子ねえ」
別の男性が頷く。
「本当に森に住んでるのか?」
「貴族様みたいな話し方だな」
「しっ」
聞こえている。
けれど、悪意は少ない。
好奇心の方が強い。
私は少しだけ肩の力を抜いた。
すると、小さな子供が一人、母親の後ろから顔を出した。
五歳くらいの男の子。
頬がまだ少し赤い。
熱病から回復した子だろうか。
彼は私をじっと見ていた。
母親が慌てて肩を押さえる。
「こら、失礼でしょう」
男の子は母親の手をすり抜けるように前へ出た。
小さな足で、とことこと私の前に来る。
私は膝を折り、目線を合わせた。
男の子はしばらく私を見つめ、それから言った。
「おくすり、ありがとう」
小さな声だった。
でも、はっきり聞こえた。
周囲が静かになる。
母親が目元を押さえた。
私は男の子を見た。
ありがとう。
その言葉が、胸の中にまっすぐ入ってきた。
「どういたしまして」
私は答えた。
「もう苦しくないですか」
「うん。もうあつくない」
「よかったです」
男の子は少し迷ってから、小さな花を差し出した。
道端に咲いていた白い花。
茎が少し曲がっている。
「これ、あげる」
花。
私は固まった。
花は恋愛寄りの可能性がある。
いや、これは子供からのお礼。
恋愛ではない。
おそらく。
たぶん。
私は慎重に花を受け取った。
「ありがとうございます」
男の子はにこっと笑い、母親のところへ戻った。
周囲の空気が一気に柔らかくなる。
「かわいいねえ」
「ちゃんとお礼言えたな」
「フローラちゃんも困ってたぞ」
「花をもらって固まってたな」
笑い声が広がる。
私は白い花を見つめた。
笑われている。
でも、嫌ではない。
怖がられているのではない。
場が和んでいる。
こういう笑われ方もあるのだ。
リオが横から覗き込む。
「フローラ、花もらって照れてるのか?」
「照れているのでしょうか」
「自分で分かんないのかよ」
「花の扱いは難しいので」
「花の扱い?」
リオが首を傾げる。
ミナがくすくす笑った。
「フローラ、今度その話も聞かせてください」
「はい。恋愛小説では花が重要でした」
「恋愛小説」
ミナの目が少し輝いた。
リオは興味なさそうな顔をしている。
私は何か言いすぎただろうかと思ったが、ミナは楽しそうだったので問題ないことにした。
村の中心へ向かう。
道の両側には家が並んでいる。
軒先で野菜を干す家。
薪を積む家。
布を干す家。
小さな鶏小屋がある家。
子供たちが私たちの後ろをついてくる。
最初は距離を取っていた。
でもリオが振り返って「来るなら来いよ」と言うと、わらわらと増えた。
小さな足音がいくつも後ろに続く。
視線を感じる。
青い髪を見ている。
服を見ている。
籠を見ている。
私の歩き方を見ている。
少し怖い。
でも、子供たちの視線は大人と違った。
恐怖よりも、好奇心。
不思議なものを見る目。
その中の一人、そばかすのある女の子が声を上げた。
「ねえ、髪、本当に青い!」
隣の子が慌てる。
「失礼だよ!」
「だって青いんだもん」
「そうだけど!」
私は立ち止まり、振り返った。
子供たちがびくっとする。
私は自分の編んだ髪を少し持ち上げた。
「触ってみますか」
子供たちは固まった。
リオが吹き出す。
「フローラ、いきなりそれはびっくりするって!」
「そうなのですか」
ミナが笑いながら説明する。
「たぶん、みんな気にはなってるけど、いきなり触るのは遠慮すると思います」
「なるほど」
私は髪を下ろした。
そばかすの女の子は、少しもじもじしてから言った。
「……ちょっとだけ、いい?」
「はい」
私は膝を折る。
女の子がそっと髪に触れた。
指先が本当に軽く、毛先を撫でる。
「ふわふわ……」
その声を聞いて、他の子供たちも少しずつ近づいてきた。
「僕も」
「私も見たい」
「本当に空みたい」
ミナが慌てて止める。
「みんな、順番。引っ張ったらだめよ」
リオは笑っている。
ガルドさんは周囲を警戒しつつ、どこか安心した顔をしていた。
私は子供たちに囲まれながら、少し戸惑っていた。
屋敷でも髪は褒められた。
けれど、触れるのは侍女だけだった。
貴族の子供たちと会う機会もほとんどなかった。
こんなふうに、純粋な好奇心で髪に触れられるのは初めてかもしれない。
怖くはない。
少しくすぐったい。
そばかすの女の子が言った。
「お姫様みたい」
その言葉に、胸が少しだけ止まった。
青の姫君。
屋敷。
釣書の山。
父様。
私は何も言えなかった。
するとリオが明るく言った。
「フローラは姫っていうより、畑の先生だぞ」
子供たちが笑った。
「畑の先生?」
「森で野菜作ってるんだって」
「魔法も使えるんでしょ?」
「熊倒したんでしょ?」
「すごい!」
お姫様という言葉が、別のものに変わっていく。
畑の先生。
森の友達。
熊を倒したすごい子。
私は小さく息を吐いた。
リオが意図して言ったのかは分からない。
たぶん、何も考えていない。
でも、助かった。
「畑は、少しだけ得意です」
私が言うと、子供たちの目が輝いた。
「教えて!」
「うちの豆、虫に食われた!」
「父ちゃんの畑、雨でぐちゃぐちゃ!」
「トマトある?」
「あります」
答えると、歓声が上がった。
人が集まる。
少し騒がしい。
怖い。
でも、私が思っていた怖さとは違った。
これは、飲み込まれる怖さではない。
近づかれる戸惑いだ。
村長の家は、村の中心にあった。
他の家より少し大きく、入口の横に古い鐘が吊るされている。
ガルドさんが扉を叩くと、中から低い声がした。
「入れ」
私たちは中へ入った。
子供たちは外で待つよう言われ、少し不満そうにしながらも散っていった。
家の中は木の匂いがした。
壁には村の地図。
棚には帳簿。
暖炉。
大きめの机。
そこに座っていたのは、白髪混じりの男性だった。
年齢は六十前後だろうか。
痩せているが、目は鋭い。
村長。
彼は立ち上がり、私を見た。
一瞬、その目が青い髪に留まる。
けれどすぐに表情を整えた。
「よく来てくれた、フローラ」
家名は呼ばない。
約束通り。
私は籠を置き、礼をした。
「お招きいただき、ありがとうございます」
「いや、こちらこそ村の者が世話になった。薬の件、改めて礼を言う」
村長が深く頭を下げる。
私は慌てた。
「頭を上げてください。私は、できることをしただけです」
「そのできることが、村にとっては大きかった」
村長は顔を上げ、静かに言った。
「三人、命が助かった。子供二人と老人一人だ。あのまま熱が続けば危なかった」
三人。
命。
私はその重みを少し遅れて理解した。
私が渡した薬。
森で採れる薬草。
いつもの調合。
それが誰かの命につながった。
知識としては分かる。
薬は人を治すためのものだ。
けれど、実際に感謝されると、胸の奥が落ち着かない。
「……助かって、よかったです」
それしか言えなかった。
村長は頷いた。
「それで十分だ」
リオとミナは壁際に立っていた。
ガルドさんは村長の横へ移動する。
私は籠を開けた。
「こちら、手土産です。焼き菓子と薬草茶、それからトマトの種を少し」
村長が目を丸くする。
「手土産まで?」
「村へ伺うなら必要かと思いまして」
「律儀な子だな」
村長は苦笑した。
「ありがとう。大切に使わせてもらう」
「トマトの種は、森の環境に合わせて少し性質を調整しています。村の畑で育てる場合、最初は小区画で試してください。土が合わない場合は改良が必要です。水はけが悪い場所では実割れする可能性があります。魔力を含む土壌では成長が早まりますが、与えすぎると味がぼやけます。あと、虫除けに使える薬草を近くに植えると――」
「フローラ」
リオが小声で呼んだ。
私は口を閉じた。
しまった。
説明が長かったかもしれない。
村長はしばらくぽかんとしていたが、やがて喉の奥で笑った。
「いや、助かる。バルドに聞かせてやりたい」
「必要なら書きます」
「ぜひ頼む」
私は頷いた。
これなら役に立てそうだ。
村長は椅子を勧めてくれた。
私は座る前に少し迷った。
貴族式なら、相手が座ってから。
でも村長はすでに座っていいと言っている。
ここでは従うのが正しいのだろう。
私は椅子に腰掛けた。
リオとミナも近くに座る。
村長はしばらく私を見つめていた。
視線は鋭い。
けれど、恐怖だけではない。
観察。
心配。
少しの疑念。
「フローラ」
「はい」
「君が何者か、無理に聞くつもりはない」
穏やかな声だった。
「ただ、この村に来る以上、いくつか約束してほしい」
「約束」
「一つ。村の中で危険な魔法を使わないこと。必要な時は、必ず誰か大人に知らせること」
「はい」
「二つ。村の外の者に、自分のことを軽々しく話さないこと」
「はい」
「三つ。困った時は、一人で抱え込まないこと」
私は少し止まった。
一つ目と二つ目は分かる。
危険回避。
情報管理。
合理的だ。
三つ目。
困った時、一人で抱え込まない。
それは、難しい。
私はずっと、一人でどうにかしてきた。
屋敷では相談できなかった。
森では相談相手がいなかった。
困ったことは自分で解決する。
それが普通だった。
「……努力します」
私はそう答えた。
村長は目を細める。
「努力、か」
「はい。まだ慣れていないので」
「正直でよろしい」
村長は小さく笑った。
「では、村として君を客人として迎える。好きに出入りしていい。ただし最初のうちは、リオかミナ、ガルドの誰かと一緒に来なさい」
「分かりました」
「それと、村の者が森の家へ押しかけすぎないようにも言っておく。君の暮らしを乱してはいけない」
私は驚いた。
「そこまで、考えてくださるのですか」
「当然だ。君は村を助けてくれたが、だからといって村の便利な薬師や魔法使いにしていいわけではない」
その言葉に、胸の奥がじんわり温かくなった。
便利な薬師。
便利な魔法使い。
私は、そう扱われても仕方ないと思っていたのかもしれない。
力がある。
知識がある。
だから求められる。
役に立つことで、ここにいていい理由を作る。
でも村長は、それを先に止めてくれた。
「ありがとうございます」
私が言うと、村長は少しだけ表情を緩めた。
「礼を言うのはこちらだ。まあ、村の者は遠慮がないからな。困ったらすぐ言いなさい」
「はい」
村長との挨拶が終わると、リオが待ってましたとばかりに立ち上がった。
「じゃあ村案内だ!」
「リオ、走らない」
ミナが即座に言う。
「分かってる!」
「分かってない返事です」
私は籠が軽くなったのを確認し、立ち上がった。
村長が焼き菓子を一つ手に取り、少し口元を緩める。
「これはうまそうだ。後で茶といただこう」
「お口に合えば嬉しいです」
「きっと合うさ」
その言葉を背に、私たちは村長の家を出た。
外には、さっきの子供たちがまだいた。
人数が増えている。
どうやら待っていたらしい。
私が出てくると、わっと声が上がった。
「出てきた!」
「フローラだ!」
「青い髪の子!」
「薬の子!」
「熊の子!」
熊の子。
私は少し首を傾げた。
黒爪熊を倒したからだろうか。
ミナが苦笑する。
「変な呼び方しないの」
「だって名前知らないもん!」
「フローラです」
私が言うと、子供たちは一斉に繰り返した。
「フローラ!」
名前が、たくさんの声で呼ばれる。
私は少し固まった。
屋敷では、私の名前を呼ぶ人は限られていた。
お嬢様。
青の姫君。
フローラ様。
父様と母様だけが、フローラと呼んだ。
それも、あの頃は。
今、村の子供たちは遠慮なく私の名前を呼ぶ。
少し乱暴で、少し賑やかで、けれどまっすぐ。
私は胸の前で手を重ねた。
「はい」
返事をすると、子供たちは笑った。
それだけで楽しいらしい。
不思議だ。
村案内は、まず井戸から始まった。
村の中央にある大きな井戸。
数人の女性が水を汲んでいた。
私を見ると少し緊張したが、リオが「フローラだぞ」と紹介すると、すぐに笑ってくれた。
「この前は薬をありがとうね」
「いえ」
「今日はゆっくり見ていって」
「はい」
井戸の水を少し見せてもらった。
硬度は森の井戸より高い。
少し鉄分がある。
煮沸すれば問題ないが、薬草茶には風味が影響するかもしれない。
私がそう言うと、水汲みの女性たちは驚いた。
「水を見ただけで分かるの?」
「少し舐めればもっと詳しく」
「いや、そこまでしなくていいよ」
リオが笑う。
「フローラ、何でも調べ始めるな!」
「気になったので」
「それが面白いんだよ」
また、面白い。
どうやらリオにとって私は面白いらしい。
次に向かったのはパン屋だった。
村で唯一の共同窯がある場所で、焼きたてのパンの香りが周囲に広がっていた。
私は思わず足を止めた。
温かい香り。
小麦。
焦げ目。
煙。
人の暮らしの匂い。
パン屋の女性が笑う。
「あら、フローラちゃん。パン好きって聞いたよ」
「はい。好きです」
「なら、これ食べてみな」
彼女は小さな丸パンを一つ渡してくれた。
焼きたてで、手に熱い。
私は両手で受け取り、少し冷ましてからかじった。
外は少し硬く、中は柔らかい。
森で焼くパンより香りが豊かだ。
共同窯の火力が安定しているのだろう。
「美味しいです」
私が言うと、パン屋の女性は嬉しそうに笑った。
「そうかいそうかい。森じゃ窯も大変だろう」
「小型の魔法窯を作りましたが、火力の広がりに少し課題があります」
「魔法窯?」
「はい。石窯の内部に熱循環の術式を――」
途中でミナが小さく袖を引いた。
私は止まった。
パン屋の女性は目を白黒させている。
「ええと、つまり、自分で窯を作ったのかい?」
「はい」
「すごいねえ……」
呆れ半分、感心半分。
怖がられてはいない。
それが分かって、少し安心した。
パン屋の前では、村の女性たちが集まっていた。
彼女たちは私の服や髪を見て、ひそひそと話している。
最初は警戒かと思った。
しかし内容は違った。
「あのワンピース、自分で縫ったのかしら」
「袖の刺繍、細かいわね」
「髪、綺麗ねえ」
「細いのに、ちゃんと食べてるのかしら」
「森で一人なんてねえ……」
心配。
好奇心。
少しの同情。
私はどう反応すればいいか分からず、パンを両手で持ったまま立っていた。
一人の女性が近づいてきた。
先日、子供の熱病で泣いていた母親だ。
「フローラちゃん」
「はい」
「今日来てくれて嬉しいわ。あの子も、あなたに会えて喜んでた」
「私も、花をいただきました」
「あら、そうなの。ふふ、あの子、朝から探してたのよ。一番綺麗な花をあげるんだって」
一番綺麗。
あの白い小さな花が。
私は胸が温かくなった。
「大切にします」
「道端の花だから、そんなにかしこまらなくていいのよ」
「でも、初めて村でいただいた花なので」
女性は一瞬目を丸くし、それから優しい顔になった。
「そう。じゃあ、大切な花ね」
「はい」
彼女は少し迷った後、私の肩に軽く手を置いた。
「困ったことがあったら、うちにもおいで。大したことはできないけど、ご飯くらいなら出せるから」
ご飯。
家においで。
あまりにも自然に言われたので、私は返事に詰まった。
リオが横から言う。
「おばさんのシチュー、うまいぞ!」
「リオはいつも食べに来るだけでしょう」
「だってうまいし」
女性が笑う。
私はその様子を見て、少しだけ分かった気がした。
村の人たちは、距離が近い。
言葉も、手も、笑い声も。
貴族社会のように、相手との間に見えない壁を作らない。
それが温かくもあり、怖くもある。
でも、今は少しだけ、温かさの方が勝っていた。
「ありがとうございます」
私が礼を言うと、女性は満足そうに頷いた。
次はバルドさんの畑だった。
村の端にある広い畑。
バルドさんは私を見るなり、にやりと笑った。
「来たな、畑の嬢ちゃん」
「お邪魔します」
「堅苦しい。畑に礼はいらねえ。土を見ろ」
「はい」
私はしゃがみ込み、土に触れた。
森の土とは違う。
人が長く耕してきた土。
肥料の匂い。
水分。
粘り。
少し疲れている。
連作の影響かもしれない。
豆の葉に小さな斑点がある。
病気の初期。
虫も少し。
私は立ち上がり、畑全体を見た。
「水はけが少し悪い場所があります。奥の区画は根が弱っています。豆は来季、場所を変えた方がいいです。虫除けにはこの薬草を畑の端に植えると効果があります。ただし増えすぎるので根止めが必要です」
バルドさんは腕を組み、黙って聞いていた。
周囲には村人が集まっている。
畑仕事をしていた人たちも、手を止めてこちらを見ている。
「続けろ」
バルドさんが言った。
「はい。土の疲れは、森の腐葉土を混ぜれば改善できます。ただ、そのまま入れると虫の卵が混じる可能性があるので、一度熱処理をした方が安全です。あと、この辺りは風が抜けにくいので、支柱の向きを変えると葉が乾きやすくなります」
「なるほどな」
バルドさんは土をつまみ、しばらく考え込んだ。
「嬢ちゃん、よく見てるな」
「畑は毎日見るので」
「それが大事だ。魔法で何でもできるのかと思ってたが、違うな」
「魔法だけでは、味が落ちます」
そう言うと、バルドさんは大きな声で笑った。
「いい! その通りだ! 魔法で無理に育てた野菜は味気ねえ。土と日と水と手間がいる!」
彼は嬉しそうだった。
まるで長年の仲間に会ったような顔。
その反応に、村人たちの空気も変わった。
バルドさんは村の畑の権威なのだろう。
その彼が私を認めたことで、周囲の視線から警戒が少し減った。
「この子、本当に分かるんだな」
「バルド爺が笑ってる」
「珍しいぞ」
「うちの畑も見てもらえないかな」
「順番だろ」
ざわめきが広がる。
私は少し慌てた。
「あの、一度にたくさんは難しいです」
すぐに村人たちが口々に謝った。
「ああ、悪い悪い」
「そうだよな、初めて来たのに」
「無理させちゃいけない」
バルドさんが周囲を睨む。
「お前ら、嬢ちゃんを使い潰す気か。今日は見学だ。畑の相談は日を改めろ」
村人たちは笑いながら引き下がった。
私はバルドさんに頭を下げた。
「ありがとうございます」
「気にするな。畑を見る目がある奴は貴重だ。大事に扱わねえとな」
大事に扱う。
その言葉に、また胸が温かくなる。
私は、ここで役に立てるかもしれない。
でも、役に立つからではなく、大事にしてもらえるかもしれない。
その違いはまだうまく言葉にできない。
けれど、確かに違った。
昼になると、村の広場で簡単な食事をすることになった。
村人たちが少しずつ食べ物を持ち寄る。
パン。
チーズ。
野菜の煮込み。
豆のスープ。
干し肉。
果物。
私は慌てて自分の焼き菓子も出した。
リオは当然のように私の隣に座った。
ミナも反対側に座る。
ガルドさんは少し離れて大人たちと話している。
子供たちは周りに集まった。
私は最初、どう食べればいいか分からなかった。
屋敷の食事には順序がある。
前菜、スープ、主菜、口直し、菓子。
食器の使い方も決まっている。
でもここでは、皆が好きなものを取り、話しながら食べている。
リオがパンを割って私に渡した。
「これ、さっきのパン屋のやつ。うまいぞ」
「ありがとうございます」
「あとこのチーズも食べろ」
「はい」
「豆スープも」
「リオ兄さん、そんなに一度に渡したら困るでしょう」
「だって食べてほしいし」
私の手元に食べ物が増えていく。
ミナが苦笑しながら、少し整理してくれた。
「ゆっくりで大丈夫です」
「はい」
私はパンを食べた。
チーズを少し。
豆スープを一口。
どれも素朴で、美味しかった。
味だけではない。
周りに人がいる。
誰かが笑っている。
誰かが食べ物を勧めてくれる。
食べた感想を待っている。
それが、味を変えている気がした。
「美味しいです」
私が言うたび、村人たちが嬉しそうにする。
それがまた不思議だった。
私が美味しいと言うだけで、誰かが喜ぶ。
屋敷では、料理を褒めても厨房長が遠くで礼をするだけだった。
ここでは、作った人が目の前で笑う。
その近さに、少し戸惑い、少し嬉しくなる。
食事の途中、子供たちが私に質問を始めた。
「フローラは森で一人なの?」
「はい」
「怖くないの?」
「魔物は結界で防げます」
「夜は?」
「暖炉があります」
「寂しくない?」
その質問で、少し空気が止まった。
尋ねたのは、そばかすの女の子だった。
彼女は悪気なく、純粋に聞いたのだろう。
リオが何か言おうとする。
ミナも私を見る。
私は少し考えた。
寂しくない。
以前ならそう答えた。
大丈夫です。
一人でも問題ありません。
そう言えた。
でも今は。
「……少し、寂しい時があります」
正直に言った。
子供たちは静かになった。
私は続けた。
「でも、リオとミナが来てくれるようになってから、少し変わりました」
「変わった?」
「はい。誰かを待つことを覚えました」
自分で言って、少し恥ずかしくなった。
でも、取り消す言葉ではない。
そばかすの女の子が、ぱっと笑った。
「じゃあ、私も行く!」
「え」
「森のおうち、見たい!」
「俺も!」
「私も!」
「畑見たい!」
「熊いる?」
「いません」
急に子供たちが盛り上がる。
ミナが慌てて止める。
「みんな、一度に行ったらフローラが困るから」
リオが笑う。
「でも賑やかになっていいんじゃないか?」
「賑やかすぎるのは困ります」
私は想像した。
森の家に村の子供たちが大勢。
畑を走り回る。
井戸を覗く。
薬草園に入る。
魔法陣に触る。
危険。
非常に危険。
「来る時は、大人の方と一緒にお願いします」
私が言うと、周囲の大人たちが笑った。
「ちゃんとしてるねえ」
「リオよりしっかりしてる」
「本当にな」
「なんで俺が比較に出るんだよ!」
リオが抗議し、また笑いが起きる。
その笑いの中心近くに、私もいた。
昼食後、ミナが家に案内してくれた。
リオとミナの家は、村の東側にあった。
木造の小さな家。
庭には洗濯物が揺れ、小さな花壇がある。
入口の横には薪が積まれ、窓辺には瓶が並んでいた。
「ここです」
ミナは少し照れたように言った。
「散らかっているかもしれませんけど」
「お邪魔します」
家の中は、温かい匂いがした。
木。
布。
干し草。
料理。
人が暮らしている匂い。
屋敷のような広さも豪華さもない。
でも、どこか安心する。
テーブルには使い込まれた傷。
椅子は不揃い。
棚には皿と瓶。
壁には古い外套。
窓辺には小さな布人形。
私は思わず見つめてしまった。
「それ、ミナが小さい頃から持ってるやつ」
リオが言った。
「リオ兄さん!」
ミナが慌てて顔を赤くする。
「いいじゃん。フローラなら笑わないだろ」
「そういう問題じゃないです」
私は布人形を見た。
少しほつれている。
でも大事にされているのが分かる。
「可愛いです」
私が言うと、ミナは恥ずかしそうに目を伏せた。
「……ありがとうございます」
「私も、人形は持っていました」
「そうなんですか?」
「はい。ですが、こちらへ来る時は持ってこられませんでした」
言ってから、少し胸が痛んだ。
幼い頃、母様が贈ってくれた人形。
青いドレスを着ていた。
屋敷の部屋に置いたままだ。
今もあるのだろうか。
捨てられただろうか。
誰かが片付けただろうか。
ミナは何も言わなかった。
ただ、布人形をそっと手に取り、私に見せてくれた。
「この子、名前はリリーです」
「リリー」
「小さい頃、寂しい時に一緒に寝ていました」
ミナの声は優しかった。
笑われたくないはずのものを、私に見せてくれている。
それは、信用なのだろうか。
私は布人形にそっと触れた。
「大切な友達ですね」
ミナは少し驚き、それから嬉しそうに頷いた。
「はい」
リオが頭を掻く。
「俺は人形の良さは分かんないけどな」
「兄さんはすぐ振り回すから駄目です」
「昔の話だろ」
「今でもやりそうです」
「やらないって!」
二人の会話を聞きながら、私は家の中を見回した。
ここには、生活の記憶がある。
傷。
ほつれ。
匂い。
声。
誰かが長く使ってきたもの。
森の家にも、これからそういう記憶が増えていくのだろうか。
リオとミナが来た日の椅子。
村人に出したカップ。
もらった白い花。
今日持ち帰るであろう何か。
そうやって、私の家も少しずつ変わっていくのだろうか。
ミナは棚から小さな瓶を取り出した。
「これが、私の作ったジャムです」
赤紫色のジャム。
森の木の実とは違う果実を使っているらしい。
スプーンで少しパンに塗ってくれた。
私は一口食べた。
甘酸っぱい。
果実の香りが残る。
少しだけ種の食感。
「美味しいです」
「本当ですか?」
「はい。甘みと酸味のバランスが良いです。加熱しすぎていないので香りも残っています」
ミナの顔がぱっと明るくなった。
「よかった……」
「作り方を教えてください」
「はい。今度、一緒に作りましょう」
また、一緒に。
今度。
次の約束。
私は頷いた。
「楽しみにしています」
そう言うと、ミナは少し照れたように笑った。
夕方が近づき、私は森へ帰ることになった。
村の人たちは、帰り際にもいろいろ持たせようとした。
パン。
野菜。
チーズ。
布。
果物。
私は断ろうとしたが、リオが「もらっとけって」と言い、ミナが「少しだけなら」と調整してくれた。
結局、来た時より籠が重くなった。
村の入口まで、多くの人が見送りに来てくれた。
子供たちは手を振っている。
パン屋の女性が「またおいで」と言う。
バルドさんが「次は畑の話だ」と言う。
村長は少し離れた場所で静かに頷いた。
私は振り返り、礼をした。
「今日は、ありがとうございました」
村人たちが口々に返す。
「こちらこそ」
「またね、フローラちゃん」
「気をつけて帰るんだよ」
「森で無茶するんじゃないよ」
「熊には気をつけて!」
「熊が気をつける方だろ」
最後の言葉に笑いが起きた。
私はどう返せばいいか迷い、少しだけ微笑んだ。
「熊には、なるべく気をつけます」
また笑いが起きる。
笑われる。
でも、温かい。
私は手を振った。
今度は、朝より少し自然にできたと思う。
森への帰り道、私はしばらく黙っていた。
リオも珍しく静かだった。
ミナは私の隣を歩き、ガルドさんは前で警戒している。
夕方の森は、昼とは違う匂いがした。
湿った土。
木の葉。
遠くで鳴く鳥。
日が傾き、木々の影が長く伸びる。
私は籠の重みを感じながら歩いた。
重い。
けれど嫌ではない。
村から持ち帰ったもの。
食べ物。
約束。
言葉。
笑い声。
全部が籠に入っているようだった。
「どうだった?」
リオが我慢できなくなったように尋ねた。
「村」
私は少し考えた。
一言では言えない。
怖かった。
緊張した。
驚いた。
嬉しかった。
疲れた。
温かかった。
また行きたい。
たくさんの感情が胸の中で混ざっている。
「……難しかったです」
私は正直に言った。
リオがきょとんとする。
「難しい?」
「はい。人が多くて、何をどう受け取ればいいか分からないことが多かったです。でも」
私は籠を抱え直した。
「楽しかったです」
そう言うと、リオが満面の笑みになった。
「だろ!」
ミナも嬉しそうに微笑んだ。
「よかったです」
「また、行ってもいいですか」
尋ねると、リオは当然のよう




