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『青の姫君の森暮らし 〜化け物と恐れられた公爵令嬢は、今日も畑を耕します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第2話 青の姫君、村人にお茶を出す



 友達ができた。


 その事実は、私が思っていたよりもずっと不思議なものだった。


 リオとミナ。


 それから、二人の叔父であるガルドさん。


 森で黒爪熊に追われていた三人を助け、薬草を渡し、その代金として私は「友達の作り方」を教えてもらった。


 結果として、契約書は不要らしい。


 誓約魔法も不要。


 証人も不要。


 王国法に基づく署名も不要。


 友達というものは、どうやらもっと柔らかく、曖昧で、温かいもののようだった。


 その日の夕方、リオたちは村へ帰っていった。


 薬草と調合薬を大事そうに抱え、何度も振り返りながら。


「また来るからなー!」


 リオが森の道の向こうで大きく手を振った。


 ミナも少し恥ずかしそうに、けれど確かに手を振ってくれた。


 ガルドさんは最後まで丁寧に頭を下げていた。


 私は家の前に立ったまま、三人の姿が木々の間に消えるまで見送った。


 足音が遠ざかる。


 枝を踏む音が小さくなる。


 リオの声も、ミナの声も、ガルドさんの低い声も、やがて森の音に溶けていく。


 そして、また静かになった。


 風が吹く。


 畑の葉が揺れる。


 井戸の滑車が小さく軋む。


 どこかで鳥が鳴く。


 それは、昨日までと同じ森の音だった。


 けれど、不思議だった。


 同じ静けさのはずなのに、少しだけ違って聞こえる。


 胸の奥に、さっきまで人の声があった場所が残っている。


 そこだけが、ほんのり温かい。


 私は自分の手を見た。


 リオと握手した手。


 ミナと握手した手。


 特別な魔法を受けたわけではない。


 祝福でも、契約でも、儀式でもない。


 ただ人の手に触れただけ。


 それなのに、掌にまだ温度が残っているような気がした。


「友達……」


 声に出してみる。


 森が返事をするわけではない。


 でも、その言葉は空気の中にふわりと浮かび、葉擦れの音に混じって消えた。


 私は畑の脇に置いていた籠を持ち上げた。


 中には赤いトマトがいくつも入っている。


 リオに、次はこれでスープを作ると言った。


 楽しみにしてる、と彼は言った。


 楽しみにしてる。


 また来る。


 それはつまり、私は準備をして待っていていいということだろうか。


 人を待つ。


 誰かのために料理を考える。


 誰かが喜ぶ顔を想像する。


 そのどれもが、私にはほとんど初めてだった。


 屋敷にいた頃、私は誰かを待ったことがあっただろうか。


 父様が帰ってくるのを待ったことはある。


 母様の体調がよくなるのを待ったこともある。


 けれど、それは胸が重くなる待ち方だった。


 今日のこれは違う。


 少し落ち着かなくて、少し楽しみで、少し怖い。


 また来ると言っていたけれど、本当に来るのだろうか。


 もし来なかったら。


 森での生活に戻るだけだ。


 昨日までと同じ。


 困ることはない。


 食べ物もある。


 水もある。


 結界もある。


 一人で生きていける。


 そう思ったのに、胸の奥が小さく沈んだ。


「……困る、のかしら」


 私は籠を抱え直した。


 分からない。


 友達が来ない時、人はどうするのだろう。


 怒るのだろうか。


 悲しむのだろうか。


 心配するのだろうか。


 そもそも、友達とはどの程度の頻度で会うものなのか。


 毎日?


 三日に一度?


 一週間に一度?


 月に一度でも友達なのだろうか。


 契約期間がないので判断が難しい。


「やっぱり、少しだけ契約書があった方が便利なのでは……」


 そう呟いてから、リオに「いらない!」と全力で言われたことを思い出す。


 あの表情は本気だった。


 なら、いらないのだろう。


 私は家に入り、台所に籠を置いた。


 まずはスープの試作をすることにした。


 トマトを湯剥きする。


 鍋に玉ねぎに似た野草を刻んで入れる。


 角兎の干し肉を少し戻し、細かく裂く。


 薬草園の香草を一枚。


 塩。


 魚の骨で取った出汁。


 煮込むと、台所に甘酸っぱい香りが広がった。


 屋敷の厨房で食べていた洗練された料理とは違う。


 見た目も素朴で、器も木製。


 でも、湯気は温かく、香りは優しかった。


 私は小皿に少し取り、味見する。


「……少し酸味が強いわね」


 リオは元気そうだから濃い味でも良いかもしれない。


 ミナは柔らかい味の方が好きそう。


 ガルドさんには塩気が足りないかもしれない。


 私は三人の顔を思い出しながら、味を調整した。


 不思議だった。


 一人で食べる料理なら、食べられれば良い。


 保存が利き、栄養があり、毒がなければ問題ない。


 けれど、誰かに出すとなると、急に考えることが増える。


 熱すぎないか。


 味は濃すぎないか。


 器は欠けていないか。


 席は足りるか。


 お茶は何を淹れるか。


 菓子もあった方がいいのか。


 屋敷の茶会では菓子が出ていた。


 友達が来る時も菓子は必要だろうか。


「……必要、よね」


 たぶん。


 私は小麦に似た穀物粉を取り出した。


 森の木の実を砕き、蜂蜜代わりの樹液を煮詰め、薄い焼き菓子を作る。


 最初の一枚は焦げた。


 二枚目は少し硬い。


 三枚目で形が整った。


 四枚目は悪くない。


 私は皿に並べてみた。


 数は足りる。


 ただ、見た目が少し地味だ。


 花を添えるべきだろうか。


 食用花なら薬草園にある。


 でも、友達に花を添えた菓子を出すのは重すぎるだろうか。


 恋愛小説では、騎士が令嬢に花を贈っていた。


 つまり、花は恋愛寄りの可能性がある。


 友達に出すのは危険かもしれない。


 私は真剣に悩んだ。


「……花はやめましょう」


 恋愛経験ゼロの私に、花の扱いはまだ早い。


 そう判断し、焼き菓子はそのままにした。


 夜になっても、私は落ち着かなかった。


 暖炉の前で本を開いても、同じ行を何度も読んでしまう。


 裁縫をしても、針目が少し乱れる。


 魔法陣の改良をしようとしても、友達用の椅子の数が気になった。


 今、家には椅子が二脚しかない。


 私用と、作業用。


 来客が三人なら足りない。


 椅子を作る必要がある。


 私は夜中に作業室へ行き、木材を取り出した。


 森で拾った倒木を乾燥させ、加工したものだ。


 魔法で形を整えれば簡単に作れる。


 けれど、ただの椅子では味気ない。


 座り心地。


 高さ。


 背もたれの角度。


 リオは落ち着きがなさそうだから頑丈に。


 ミナは足を怪我していたから少し低めに。


 ガルドさんは体格がいいから幅を広めに。


 そう考えながら作っていると、三脚できた頃には深夜になっていた。


 私は椅子を居間に並べた。


 一脚。


 二脚。


 三脚。


 そして、私の椅子。


 四脚。


 小さな居間に椅子が四つある。


 それだけで、部屋の空気が変わった気がした。


 誰かが座る場所がある。


 それはつまり、誰かがここにいてもいいということ。


 私はしばらく椅子を眺めていた。


 胸の奥が、少しだけくすぐったかった。


 翌朝。


 リオたちは来なかった。


 当然だ。


 昨日の今日である。


 村では熱病の人がいると言っていた。


 薬草を届け、調合薬を渡し、説明し、休む必要もあるだろう。


 分かっている。


 分かっているのに、私は朝食後、何度も結界の外へ意識を向けた。


 人の反応はない。


 昼もない。


 夕方もない。


 私は畑に水をやりながら、自分に言い聞かせた。


「友達は毎日来るものではない」


 豆が風に揺れた。


「たぶん」


 豆は答えない。


 三日経っても、リオたちは来なかった。


 五日目、私は焼き菓子の試作を増やしすぎて、保存瓶がいっぱいになった。


 七日目、椅子に布の座面をつけた。


 八日目、トマトスープの味がかなり完成した。


 九日目の朝。


 結界が人の気配を捉えた。


 私は畑で薬草を摘んでいた手を止めた。


 人。


 複数。


 前回より多い。


 六人。


 いや、七人。


 子供が二人。


 大人が五人。


 その中にリオとミナ、ガルドさんの反応がある。


 私は立ち上がった。


 心臓が、少し速い。


 走って迎えに行くべきか。


 でも、走ると待っていたことが露骨すぎるかもしれない。


 友達相手に露骨なのは駄目なのか。


 分からない。


 私は一度家に戻り、手を洗い、髪を整え、エプロンの汚れを払った。


 それから玄関の前に立った。


 待つ。


 森の奥から声が聞こえた。


「こっちだって! もう少し!」


「リオ、あまり先に行かないで」


「分かってるって!」


「分かってないから言ってるの」


 リオとミナの声だ。


 胸の奥が、ふわっと温かくなった。


 本当に来た。


 また来ると言って、本当に来た。


 不思議なことに、それだけで私は少し泣きそうになった。


 泣かないけれど。


 やがて木々の間から、リオが現れた。


 その後ろにミナ。


 ガルドさん。


 さらに、大人の男女が数人。


 皆、緊張した顔をしていた。


 荷物を抱えている者もいる。


 籠を持つ者。


 布袋を持つ者。


 樽を小さくしたような容器を抱える者。


 リオが私を見つけるなり、大きく手を振った。


「フローラ!」


 名前を呼ばれた。


 私は少しだけ頬が緩むのを感じた。


「こんにちは、リオ。ミナ。ガルドさん」


「来たぞ!」


「はい」


「本当に来たぞ!」


「はい」


「なんでそんな不思議そうなんだ?」


 リオが首を傾げる。


 私は少し考えた。


「本当に来るか、分からなかったので」


 そう言うと、リオは目を丸くした。


 ミナが少し悲しそうな顔をした。


「来ますよ。約束しましたから」


「約束……」


「はい」


 ミナが優しく笑った。


「友達ですから」


 その言葉が、胸に落ちた。


 温かくて、少し痛い。


 友達ですから。


 私はその言葉を心の中で何度も繰り返した。


 リオの後ろにいた大人たちが、そわそわと視線を交わす。


 ガルドさんが一歩前に出た。


「フローラ殿。本日は、村の者を連れて参りました」


「村の方々ですか」


「はい。先日の薬のおかげで、熱病の子供たちの熱が下がりました。命を救われた者もいます。どうしても礼を言いたいと」


 大人たちは一斉に頭を下げた。


 森の中で、五人の大人が私に向かって深く頭を下げる。


 私は少し困った。


 頭を下げられるのは慣れている。


 公爵令嬢としてなら。


 でも、今の私は公爵令嬢ではない。


 少なくとも、そう扱われたいわけではない。


 畑仕事の服を着て、森の家に住む、ただのフローラだ。


 それに、感謝されることにも慣れていない。


 いや、正確には、心のこもった感謝に慣れていない。


「あの、頭を上げてください」


 私が言うと、大人たちはゆっくり顔を上げた。


 一人の女性が前に出る。


 三十代くらいだろうか。


 疲れた顔をしているが、目元が優しい。


 彼女は胸に抱えていた籠を差し出した。


「これ、村で焼いたパンです。大したものじゃありませんが……本当に、ありがとうございました。うちの子、三日も熱が下がらなくて……もう駄目かと……」


 途中で声が詰まる。


 女性は唇を噛み、目元を拭った。


 隣の男性がそっと肩に手を置く。


 私は籠を受け取った。


 温かい。


 焼き立てなのか、布越しにほんのり熱が伝わる。


 パンの匂いがした。


 屋敷の白パンとは違う、素朴で力強い香り。


「ありがとうございます」


 私が礼を言うと、女性は驚いたように目を丸くした。


「い、いえ! お礼を言うのはこちらで……!」


「パンは好きです」


「そ、そうですか。それならよかったです」


 女性は少しだけ笑った。


 別の男性が布袋を差し出す。


「これは豆です。村で採れたもので」


「ありがとうございます」


「これは干し果物です」


「ありがとうございます」


「これは羊毛で……その、使えるかどうか」


「助かります」


 次々に渡される。


 私は一つ一つ受け取った。


 森で自給自足できるとはいえ、人の手で作られたものは貴重だ。


 それに、何より。


 誰かが私のために持ってきてくれたものだった。


 その事実が、品物以上に重かった。


 どうすればいいか分からないくらい、嬉しかった。


 リオが得意げに言った。


「俺が言ったんだ。フローラは一人で森に住んでるから、村の物を持っていこうって」


「リオ」


 ミナが慌てて袖を引く。


「そういうの、自分で言うとちょっと……」


「え、なんで?」


「なんでも」


 兄妹のやり取りに、村人たちの緊張が少しだけ緩んだ。


 しかし、完全には消えていない。


 皆、私を見ている。


 幼い少女が一人で森に住み、黒爪熊を一瞬で倒し、治癒魔法を使い、熱病に効く薬を調合した。


 冷静に考えれば、怪しい。


 怖いと思うのが普通だ。


 それでも彼らは来た。


 礼を言うために。


 私に会うために。


「よろしければ、お茶を飲んでいかれますか」


 気づけば、そう言っていた。


 村人たちは固まった。


 リオの顔が輝いた。


「いいのか!?」


「はい。椅子もあります」


「椅子?」


「作りました」


「作った!?」


 リオの声が大きい。


 村人たちがざわりとした。


「椅子を……?」


「この子が?」


「いや、でも黒爪熊を倒したって……」


「ガルドが見たって言ってたし……」


「魔女、なのか?」


「馬鹿、聞こえるぞ」


 小さな囁きが耳に届く。


 魔女。


 化け物よりは、少し柔らかい言葉だろうか。


 いや、あまり変わらないかもしれない。


 私は表情を整えた。


 怖がられるのは慣れている。


 少しだけ胸が痛むだけだ。


 すると、ミナがきゅっと眉を寄せた。


「フローラは魔女じゃありません」


 静かな声だった。


 でも、はっきりしていた。


 村人たちが気まずそうに黙る。


 ミナは続けた。


「私たちを助けてくれました。薬もくれました。だから、そんな言い方は嫌です」


 私はミナを見た。


 小さな少女が、私のために怒っている。


 その事実が、うまく飲み込めなかった。


 私のために。


 怖がられても仕方ない私のために。


 誰かが言葉を返してくれる。


 それがこんなに温かいとは知らなかった。


 ガルドさんも低い声で言った。


「俺も見た。フローラ殿は確かに普通ではない力を持っている。だが、少なくとも俺たちを助けてくれた恩人だ。礼を言いに来たなら、まず礼を尽くせ」


 村人たちはそれぞれ視線を落とした。


 一人の年配の男性が頭を下げる。


「すまなかった、お嬢さん。悪気はなかったんだが……怖かったのも事実だ」


 正直な言葉だった。


 だから私は、頷いた。


「はい。慣れています」


 その場が静かになった。


 しまった。


 今の返答は、たぶん正しくなかった。


 リオが苦い顔をした。


 ミナは泣きそうな顔になった。


 ガルドさんは眉間に深い皺を寄せた。


 年配の男性は、まるで自分が傷ついたような顔をした。


「……慣れちゃ、いけねえこともある」


 男性が呟いた。


 私は首を傾げた。


「そうなのですか」


「ああ。少なくとも、子供がそんな顔で言うことじゃねえ」


 子供。


 私は十歳だ。


 確かに子供なのだろう。


 でも、屋敷ではいつからか子供として扱われなくなった。


 天才。


 青の姫君。


 化け物。


 危険な存在。


 そう呼ばれることはあっても、ただの子供だと言われることはなかった。


 私はどう返せばいいか分からず、少し黙った。


 リオが空気を変えるように声を上げた。


「なあ、フローラ! お茶! お茶飲みたい!」


「リオ、言い方」


「だって飲みたいし!」


 ミナが呆れる。


 村人たちの間に小さな笑いが起きた。


 私は少し救われた気持ちで頷いた。


「では、準備します。中へどうぞ」


 結界を通す。


 村人たちは一人ずつ、恐る恐る足を踏み入れた。


 結界内の空気は外より穏やかで、温度も少し高い。


 虫もほとんど入らない。


 魔力の流れを感じ取れる人なら、違和感を覚えるだろう。


 村人たちは周囲を見回していた。


「森の中とは思えねえな……」


「畑がある」


「あれ、薬草か?」


「花も咲いてる」


「水場まで……」


「本当に一人で?」


 囁きが広がる。


 私は家の扉を開けた。


「狭いですが」


「いや、十分だ!」


 リオが真っ先に入ろうとして、ミナに袖を掴まれた。


「先に大人の人たち」


「えー」


「えーじゃない」


 兄妹のやり取りを見て、私はまた少し不思議な気持ちになった。


 こういう会話は、本にはあまり載っていない。


 貴族の会話は、もっと整っている。


 言葉の裏に意味があり、沈黙にも計算がある。


 けれどリオとミナの会話は、もっと直接的で、表情がよく動いて、言葉が生きているようだった。


 居間に全員は入れない。


 なので、村人たちには庭の木陰にも座ってもらうことにした。


 作った椅子は四脚。


 足りない分は丸太を整えて腰掛けにする。


 魔法で一瞬で形を整えると、村人たちがまたざわめいた。


「今、何を……」


「木が勝手に……」


「魔法って、こんなこともできるのか?」


「いや、できる人はいるだろうけど……」


「一瞬で?」


 私は手を止めた。


 また、やりすぎただろうか。


 人前で魔法を使う時の加減が難しい。


 屋敷では、使えば恐れられた。


 森では、必要なら使う。


 村人の前では、どちらが正しいのかまだ分からない。


 リオが丸太椅子に腰掛け、ぴょんと跳ねた。


「すげえ! 座りやすい!」


「本当ですか?」


「うん! これ、村にも欲しい!」


「リオ」


 ミナがまた注意する。


 リオは頭を掻いた。


「いや、だって便利じゃん」


 村人の一人が遠慮がちに丸太椅子に座った。


 その顔が少し驚いたように緩む。


「……確かに、座りやすいな」


「腰が楽だ」


「背もたれがあればもっと……いや、贅沢か」


 村人たちの反応を見て、私は少し安心した。


 怖がられるだけではない。


 便利だと思ってもらえることもある。


 私は台所へ向かった。


 湯を沸かす。


 茶葉は薬草を乾燥させたもの。


 香りは少し甘く、後味がすっきりしている。


 大人数分の茶器はない。


 木のカップを急いで作る。


 これも魔法で形を整えたが、さすがに人前ではなく台所の奥でやった。


 焼き菓子を皿に並べる。


 パンを切る。


 トマトスープを温める。


 鍋から立ち上る湯気に、台所が赤い香りで満たされた。


 人に出す料理。


 私は味見をする。


 酸味。


 塩気。


 甘み。


 大丈夫。


 たぶん。


 でも、急に不安になった。


 村の人の口に合わなかったらどうしよう。


 リオが楽しみにしていると言ってくれた。


 ミナもきっと食べる。


 まずかったら。


 変な味だと思われたら。


 また来たくないと思われたら。


 私は鍋の前で固まった。


 料理でこんなに緊張する日が来るとは思わなかった。


 魔法師団長と戦った時より緊張している。


 黒爪熊を倒した時より、ずっと。


「フローラ?」


 台所の入口からミナの声がした。


 振り返ると、彼女が心配そうに覗いていた。


「大丈夫ですか?」


「はい。大丈夫です」


「でも、少し顔が……」


「味が、不安で」


「味?」


「お客様に出す料理なので」


 ミナは目を丸くした後、ふわりと笑った。


「いい匂いです」


「匂いと味は違います」


「それはそうですけど……でも、きっと大丈夫です。フローラが作ってくれたものなら、嬉しいです」


「嬉しい」


「はい」


 ミナは少し照れたように続けた。


「誰かが自分のために作ってくれたものって、それだけで嬉しいです」


 私は鍋を見た。


 誰かのために作ったもの。


 それだけで嬉しい。


 そういう考え方があるのか。


「……勉強になります」


「え?」


「ありがとうございます」


 私が真面目に言うと、ミナはくすっと笑った。


「フローラって、時々先生みたいです」


「先生、ですか」


「でも、時々すごく小さい子みたい」


「私は十歳なので、小さい子では?」


「あ、そうでした」


 ミナは自分で言ってから、少し慌てた。


「ごめんなさい。悪い意味じゃなくて」


「分かっています」


 私は頷いた。


 不思議と嫌ではなかった。


 天才でも、化け物でも、青の姫君でもなく。


 小さい子。


 それは少し、くすぐったい言葉だった。


 ミナが手伝うと言ってくれた。


 私は一瞬迷った。


 客人に手伝わせるのは礼儀としてどうなのだろう。


 でも、ミナは友達だ。


 友達は手伝うものなのかもしれない。


 私は木のカップを彼女に渡した。


「では、これを並べてもらえますか」


「はい」


 ミナは嬉しそうに受け取った。


 その姿を見て、私は小さく息を吐いた。


 一人で準備するより、二人で準備する方が、少し楽しい。


 知らなかった。


 お茶会は、庭で開くことになった。


 木陰に丸太椅子を並べ、簡易のテーブルを出す。


 トマトスープ。


 焼き菓子。


 村のパン。


 薬草茶。


 干し果物。


 豪華ではない。


 けれど、テーブルの上は思ったより賑やかになった。


 リオは座るなり、スープを見つめて目を輝かせた。


「これがトマトのスープか!」


「熱いので気をつけてください」


「分かった!」


 返事は早いが、たぶん分かっていない。


 案の定、リオは一口目で舌を火傷しかけた。


「あっつ!」


「だから言いました」


「でもうまい!」


 リオは目を丸くした。


「何これ、うまい! 酸っぱいけど甘い! 肉入ってる! これ何の肉?」


「角兎です」


「角兎!?」


 村人たちがざわついた。


「角兎って、畑荒らす魔物だろ」


「すばしっこくて捕まらねえやつだ」


「肉はうまいけど、狩るのが面倒で……」


「これ、一人で?」


「はい」


 私は頷いた。


 また空気が少し固まる。


 リオは気にせず食べ続けた。


「すげえな! フローラ、狩りもできるのか!」


「生活に必要なので」


「生活に必要でも、普通はできないぞ!」


「そうなのですか」


「そうだよ!」


 この会話は、もう何度目だろう。


 普通の基準がまだ分からない。


 ミナはスープを両手で包むように持ち、少しずつ飲んでいた。


「美味しいです。体が温まります」


「酸味は強くないですか?」


「ちょうどいいです」


「よかった」


 私は少しだけ肩の力を抜いた。


 ガルドさんも静かにスープを飲み、頷いた。


「これはうまい。干し肉の戻し方がいい」


「ありがとうございます」


 村人たちも恐る恐る口をつけ、やがて表情を和らげた。


「本当だ、うまい」


「森の野草も入ってるのか?」


「この香り、薬草茶にも似てるな」


「パンに合う」


「うちでも作れるか?」


 会話が少しずつ増えていく。


 最初は私を見ていた視線が、スープやパンや畑に移り、やがて互いの顔へと散っていく。


 空気が柔らかくなる。


 私はそれを不思議な気持ちで眺めていた。


 人が集まって食事をすると、空気が変わる。


 屋敷の晩餐とは違う。


 そこには格式があった。


 席順。


 話題。


 礼儀。


 音を立てないこと。


 美しい所作。


 相手に失礼のない言葉。


 でも、ここにはもっと素朴なものがある。


 熱いと言って笑うリオ。


 ゆっくり味わうミナ。


 パンをスープに浸す村人。


 干し果物を勧め合う女性たち。


 ガルドさんの低い笑い声。


 誰かが話し、誰かが頷き、誰かが笑う。


 その輪の端に、私も座っている。


 自分の家なのに、少しだけ借り物の場所みたいだった。


 それでも、悪くなかった。


 食後、村人たちの一人が畑を見せてほしいと言った。


 年配の男性で、名前はバルドさん。


 村で長く畑を見てきた人らしい。


 私は案内した。


 バルドさんは畑の前で足を止め、しばらく無言だった。


 豆の蔓。


 芋の葉。


 トマト。


 薬草。


 果樹。


 土の状態。


 水はけ。


 支柱。


 彼は一つ一つ見て、しゃがみ込み、土を指でつまんだ。


「……嬢ちゃん」


「はい」


「この畑、誰が作った?」


「私です」


「一人で?」


「はい」


「いつから?」


「半年ほど前です」


 バルドさんは黙った。


 長い沈黙だった。


 周りの村人たちも黙る。


 リオだけが落ち着きなく畑を覗いている。


 ミナは不安そうに私とバルドさんを見比べていた。


 やがて、バルドさんは深く息を吐いた。


「化け物みたいな畑だな」


 その言葉に、周囲が凍った。


 リオが顔を強張らせる。


 ミナが何か言おうとする。


 ガルドさんも目を細めた。


 私は表情を動かさなかった。


 化け物。


 やっぱり、そう見えるのか。


 ところが、バルドさんはすぐに続けた。


「褒めてるんだぞ」


「……褒めている」


「ああ。こんな土、村でもなかなか作れねえ。野菜の葉も強い。病気が少ねえ。水も良く回ってる。支柱の立て方も考えられてる。見ろ、このトマト。皮が薄いのに割れてねえ。普通じゃねえ」


「普通ではない」


「いい意味でだ」


 バルドさんは私を見た。


 その目に恐怖は少なかった。


 職人が、別の職人の仕事を見るような目だった。


「嬢ちゃん、畑が好きか」


 私は少し考えた。


 好き。


 そう言われると、胸にすっと落ちるものがあった。


「はい。好きです」


「そうか」


 バルドさんはにやりと笑った。


「なら、今度うちの村の畑も見に来い」


 私は瞬きをした。


「村へ、ですか」


「ああ。教えてほしいことが山ほどある。もちろん無理にとは言わん。だが、嬢ちゃんの畑はいい。魔法だけじゃねえ。ちゃんと土を見てる」


 ちゃんと土を見てる。


 その言葉が、なぜかとても嬉しかった。


 私は魔法を褒められることはあった。


 頭の良さを褒められることもあった。


 容姿を褒められることは、数え切れないほどあった。


 でも、自分が毎日手を汚して作った畑を、そんなふうに見てもらったのは初めてだった。


「……ありがとうございます」


 声が少し小さくなった。


 リオが明るく言う。


「フローラ、村に来いよ! 俺たちの家も案内する!」


「村……」


 私は森の外を思い浮かべた。


 人がいる場所。


 家が並び、声があり、子供が走り、大人が働く場所。


 興味はある。


 でも、怖くもある。


 村の人たちは今、笑っている。


 けれど、もっと多くの人が私を見たらどうなるだろう。


 青の髪。


 深い青の瞳。


 公爵家の一人娘だと知られたら。


 力を見られたら。


 また化け物と呼ばれるだろうか。


 いや、今も呼ばれた。


 でも、バルドさんの言葉は少し違った。


 違いが難しい。


 私は答えに迷った。


 沈黙が落ちる。


 リオが口を開きかけたが、ミナがそっと腕を引いた。


 ガルドさんが落ち着いた声で言う。


「急がなくていい。村に来るのが不安なら、我々がまた来ればいい」


「……いいのですか」


「もちろんだ。ここはフローラ殿の家だ。無理に外へ出る必要はない」


 その言葉に、胸の奥が少し緩んだ。


 無理に外へ出なくていい。


 誰かに命じられるのではなく、自分で決めていい。


 屋敷を出された時、私は選べなかった。


 父様の命令で、馬車に乗った。


 この森に置かれた。


 でも今、村へ行くかどうかは、私が決めていい。


 それが少し、怖くて。


 少し、嬉しかった。


「考えます」


 私はそう答えた。


 リオは頷いた。


「じゃあ、考えてからでいい! でも来たら絶対楽しいぞ!」


「楽しい」


「うん! 村には人がいっぱいいるし、市もあるし、焼きたてのパンもあるし、ミナの作るジャムもうまい!」


「リオ兄さん、勝手に言わないで」


「だって本当だろ」


「そうだけど……」


 ミナは頬を赤くした。


 ジャム。


 手作り。


 私は少し興味を持った。


「ジャム、作れるのですか」


「少しだけです」


「教えてもらえますか」


 私が尋ねると、ミナは驚いたように目を丸くした。


「私が、フローラに?」


「はい」


「でも、フローラの方が何でもできるんじゃ……」


「ジャムは作ったことがありません」


「そうなんですか?」


「はい。本で読んだことはありますが、実践はまだです」


 ミナは少し考え、それから嬉しそうに笑った。


「じゃあ、今度一緒に作りましょう」


 一緒に。


 その言葉にも、まだ慣れない。


 一人でやるのではなく。


 教わる。


 並んで作る。


 失敗したら笑うのだろうか。


 成功したら一緒に喜ぶのだろうか。


「はい。お願いします」


 私が頷くと、ミナの笑顔がさらに明るくなった。


 その後、村人たちは薬草園も見た。


 ガルドさんは薬草の種類に驚き、村の女性たちは花壇に目を細めた。


 一人の若い母親が、薬草茶の作り方を教えてほしいと言った。


 私は簡単な解熱茶と胃に優しい茶の配合を紙に書いた。


 紙は貴重なので、木板に焼き付ける形にした。


 魔法で文字を焼き付けると、また村人たちが驚いた。


「す、すごい……」


「これなら雨に濡れても消えません」


「いや、そういう問題では……」


 ガルドさんが苦笑する。


 リオはもう慣れてきたのか、楽しそうにしている。


「フローラの普通は普通じゃないからな!」


「普通の基準を学習中です」


「学習するものなのか?」


「はい。たぶん」


 リオは笑った。


 私はそれを見て、少しだけ自分も笑った。


 夕方が近づくと、村人たちは帰る準備を始めた。


 森の道は日が落ちると危険になる。


 私は結界の外まで見送ることにした。


 薬草を追加で渡し、焼き菓子も包んだ。


 村人たちは恐縮していたが、リオが嬉しそうに受け取った。


「これ、持って帰っていいのか?」


「はい。たくさん作ったので」


「やった!」


 ミナが小さく笑う。


「リオ兄さん、半分は家族の分だからね」


「分かってるって」


「絶対分かってない」


 村人たちが笑った。


 その笑い声が森に響く。


 私はその輪の少し外に立っていた。


 でも、前ほど遠くは感じなかった。


 帰り際、最初にパンをくれた女性が私の前に来た。


「フローラちゃん」


 ちゃん。


 私は少し固まった。


 フローラ殿でも、お嬢さんでも、お嬢様でもない。


 フローラちゃん。


 なんだか、胸の奥がくすぐったい。


「はい」


「また、来てもいいかしら」


「はい」


「今度は、うちの子も連れてきてもいい? 熱が下がったら、あなたにお礼を言いたいって」


「……私に?」


「ええ。命の恩人だから」


 命の恩人。


 大げさだと思った。


 私は薬を渡しただけ。


 でも、女性の目は真剣だった。


「はい。お待ちしています」


 私がそう言うと、女性はほっとしたように笑った。


 そして、少し迷った後、私の頭に手を伸ばしかけた。


 途中で止まる。


 触れていいか分からなかったのだろう。


 私も分からなかった。


 貴族令嬢の頭に、村の女性が触れることは普通ならない。


 でも、今の私は。


 今の私は、どうしたいのだろう。


 私は少しだけ頭を下げた。


 女性の手が、そっと私の髪に触れた。


 優しく撫でられる。


 母様の手を思い出した。


 昔、まだ私を怖がっていなかった頃の母様。


 柔らかく髪を撫でて、今日も綺麗ねと笑ってくれた母様。


 胸が急に熱くなった。


 私は瞬きをした。


 涙は出ない。


 出なかったけれど、目の奥が少し痛かった。


「いい子ね」


 女性が呟いた。


 私は何も言えなかった。


 いい子。


 その言葉も、久しぶりだった。


 天才ではなく。


 化け物ではなく。


 青の姫君でもなく。


 いい子。


 村人たちが森の道を帰っていく。


 今度は一人ではない。


 リオが何度も振り返る。


「また来るからな!」


「はい」


「今度は村にも来いよ!」


「考えます」


「絶対だぞ!」


「考えます」


 同じ返事をすると、リオは笑いながら手を振った。


 ミナも控えめに手を振る。


 ガルドさんが一礼する。


 バルドさんが「畑、忘れるなよ」と声をかける。


 パンをくれた女性が笑う。


 私は手を振り返した。


 ぎこちなかったかもしれない。


 でも、リオは満足そうだった。


 やがて、彼らの姿が木々の向こうに消えた。


 森はまた静かになった。


 けれど、やはり昨日までの静けさとは違う。


 庭には丸太椅子がいくつも残っている。


 テーブルには空になった器。


 スープの香り。


 笑い声の余韻。


 踏まれた草。


 人がここにいた痕跡が、あちこちに残っている。


 私はそれを片付けながら、一つ一つ確かめた。


 カップを洗う。


 器を拭く。


 椅子を戻す。


 テーブルをしまう。


 残ったパンを布に包む。


 作業は増えた。


 一人で食べるより、ずっと手間がかかった。


 でも、不思議と疲れは嫌なものではなかった。


 暖炉に火を入れ、夜の支度をする。


 家の中には、村のパンの匂いが残っていた。


 私は椅子に座り、今日もらった豆や干し果物を眺めた。


 いただきもの。


 贈り物。


 屋敷にも贈り物は山ほど来ていた。


 宝石や絹や香油や高価な菓子。


 けれど、それらは私自身へというより、スプリング公爵家へ向けられたものだった。


 あるいは、青の姫君という価値ある存在へ。


 今日もらったパンは違う。


 私が渡した薬への感謝。


 私が一人でいることへの心配。


 私に食べてほしいという気持ち。


 それが入っている。


 だから、宝石よりずっと温かかった。


 私はパンを少し切り、口に運んだ。


 素朴な味。


 少し硬い。


 でも、噛むほど甘い。


 美味しい。


「……美味しいわ」


 誰もいない部屋でそう呟く。


 少しだけ、声が震えた。


 その頃。


 私の知らない場所で、私のことは少しずつ広がり始めていた。


 森の近くにある小さな村、リーフェ村。


 そこでは、ガルドさんたちの帰還と共に大騒ぎになっていた。


「黒爪熊を一瞬で倒した?」


「十歳くらいの女の子が?」


「森の奥に一人で住んでる?」


「薬草園を持ってる?」


「結界まで張ってる?」


「そんな馬鹿な」


 村の広場に人が集まる。


 水汲みの女たち。


 畑帰りの男たち。


 子供を抱いた母親。


 老人。


 リオは身振り手振りを交えて話していた。


「だから本当だって! 黒爪熊がこう、でっかくて! 俺たちもう駄目だって思ったら、フローラがすっと出てきて、片手を上げて、静かにって言ったんだ! そしたらドーン! 熊が地面に!」


「話を盛ってないでしょうね」


 ミナが横から言う。


「盛ってない! むしろ足りない!」


「足りないって何よ」


「フローラのすごさは俺の言葉じゃ伝わらない!」


「それは少し分かるけど」


 村人たちは半信半疑だった。


 だが、熱病で寝込んでいた子供たちの熱が下がったのは事実。


 ガルドが黒爪熊の毛と爪を持ち帰ったのも事実。


 そして、森の中で受けたもてなしの話を同行した村人たちが口々に語ったことで、疑いは少しずつ驚きに変わっていった。


「薬草茶の木板を見ろよ。文字が焼き付けてある」


「こんな細かい字を?」


「魔法で一瞬だったらしい」


「スープがうまかったって本当か?」


「ああ。角兎の肉入りだ」


「角兎を狩って食ってるのか……」


「畑もすごかった。バルド爺が黙り込むくらいだ」


「じゃあ本物だ」


 村の中で、フローラという名前は一晩で広まった。


 森の奥に住む青い髪の少女。


 黒爪熊を倒した不思議な子。


 薬を作れる子。


 畑を耕す子。


 一人で暮らしている子。


 怖い。


 怪しい。


 すごい。


 かわいそう。


 会ってみたい。


 いろいろな感情が混ざり合い、噂は形を変えながら村の中を歩いていく。


 その中で、ガルドは村長の家を訪れていた。


 村長は白髪混じりの男で、リーフェ村を長くまとめてきた人物だった。


 彼はガルドの話を黙って聞き、深く考え込んだ。


「青い髪の少女、か」


「はい」


「名はフローラと言ったな」


「そうです」


「家名は?」


「聞いていません」


「聞かなかったのか」


「聞けませんでした」


 ガルドは正直に答えた。


「あの子は、何か事情を抱えています。森で一人暮らしていることも、あの力も、ただ事ではありません。だが、悪い子ではない」


 村長は目を細めた。


「悪い子ではない、か」


「はい。ミナの足を治し、薬を分け、今日は村人に茶まで出してくれました。自分が怖がられることにも慣れているようで……正直、胸が痛みました」


「十歳ほどの子供が、か」


「はい」


 沈黙が落ちる。


 村長の家の暖炉が、ぱちりと音を立てた。


「貴族の子ではないのか」


「可能性はあります。所作が違いました。礼の仕方、言葉遣い、食器の扱い……森で暮らしているとは思えないほど整っていた」


「青い髪」


「はい」


「スプリング公爵家の血筋には、青い髪が多いと聞く」


 ガルドは表情を固くした。


「まさか」


「分からん。噂程度だ。だが、王都では青の姫君と呼ばれる公爵令嬢がいたと、行商人が話していたことがある」


「公爵令嬢が、こんな森に一人で?」


「普通はない」


「では」


「普通ではない事情があるのだろう」


 村長は椅子にもたれた。


 深い皺の刻まれた顔に、難しい色が浮かぶ。


「この件は、むやみに外へ漏らすな。村の中では止めよう」


「やはり、危険ですか」


「ああ。あの子が本当に貴族の子なら、我々が軽々しく扱っていい話ではない。そうでなくとも、力のある子供が森に一人でいると知れば、よからぬ者が寄ってくる」


「盗賊や、奴隷商人……」


「それだけではない。貴族、魔法師、教会、冒険者。欲しがる者はいくらでもいる」


 ガルドは拳を握った。


「守るべきでしょうか」


「こちらが守れる相手か?」


 村長の問いに、ガルドは黙った。


 黒爪熊を一瞬で倒す少女。


 森に結界を張り、一人で生きる少女。


 力だけなら、村が守る必要はないかもしれない。


 だが。


「力ではなく、別のものから守る必要がある」


 村長は静かに言った。


「人の悪意や、欲だ。ああいう子供は、そこに弱いかもしれん」


 ガルドは頷いた。


 フローラは強い。


 だが、人に慣れていない。


 感謝されて戸惑い、友達の作り方を真剣に尋ね、怖がられることに慣れていると平然と言う。


 あの子は、一人で生きる術を持っている。


 けれど、人の中で生きる術は、ほとんど知らない。


「リオとミナは、また行くと言っています」


「行かせろ」


「いいのですか」


「子供同士の方が、あの子も楽だろう。ただし、大人が必ず同行すること。村の外の者には話さないこと。贈り物は負担にならぬ程度にすること」


「分かりました」


 村長はしばらく黙った後、小さく息を吐いた。


「森の奥に青い髪の姫君か……」


「村長?」


「いや。物語なら、ここから騒がしくなるところだと思ってな」


 ガルドは苦笑した。


「すでに十分騒がしいです」


「そうだな」


 村長は暖炉の火を見つめた。


「だが、悪い騒がしさではないといい」


 一方その頃、私は何も知らず、家の中で真剣に悩んでいた。


 問題は、村へ行くかどうか。


 リオは楽しそうだと言った。


 ミナはジャムを教えてくれると言った。


 バルドさんは畑を見に来いと言った。


 村の女性は、子供を連れて来たいと言った。


 ガルドさんは無理に外へ出なくていいと言った。


 選択肢が多い。


 多すぎる。


 屋敷では、命令されることが多かった。


 学びなさい。


 訓練しなさい。


 礼をしなさい。


 黙りなさい。


 行きなさい。


 ここにいなさい。


 自分で選べることは、意外と少なかった。


 森で暮らすようになってからは、毎日自分で選んだ。


 何を食べるか。


 どこを直すか。


 何を育てるか。


 どこへ行くか。


 でも、それらは生活の選択だった。


 人と関わる選択は、また違う。


 村に行けば、人がいる。


 視線がある。


 声がある。


 噂になるかもしれない。


 怖がられるかもしれない。


 公爵家に知られるかもしれない。


 父様が迎えに来るかもしれない。


 また閉じ込められるかもしれない。


 あるいは、今度こそ完全に消されるかもしれない。


 私は暖炉の前で膝を抱えた。


 火が揺れている。


 赤い光が床に落ちる。


 家の中は温かい。


 外では夜の森がざわめいている。


 私は強い。


 魔物は怖くない。


 盗賊も、たぶん怖くない。


 でも、人の視線は怖い。


 父様の目。


 母様の目。


 訓練場の沈黙。


 廊下で逸らされた視線。


 化け物という言葉。


 それらは、どんな魔物の爪より深く残っている。


「……私は、村に行きたいのかしら」


 自分に尋ねる。


 すぐには答えが出ない。


 リオの笑顔を思い出す。


 ミナの「友達ですから」を思い出す。


 バルドさんの畑を褒める声を思い出す。


 女性が頭を撫でてくれた手を思い出す。


 胸が温かくなる。


 同時に、怖くなる。


 温かいものを知ると、失うのが怖くなる。


 知らなければ平気だったのに。


 一人なら、一人のままでいられたのに。


 また来ると言われたから、待つようになった。


 友達だと言われたから、嬉しくなった。


 村に来いと言われたから、行きたいと思ってしまった。


「困ったわ」


 本当に困った。


 森での生活よりずっと難しい。


 魔法陣なら、構造を分解すれば理解できる。


 畑なら、土と水と日当たりを見れば改善できる。


 魔物なら、急所と習性を覚えれば対処できる。


 でも、人の心は分からない。


 自分の心でさえ、分からない。


 私は机に向かい、紙を出した。


 村へ行く利点。


 村へ行く欠点。


 まず利点。


 一、友達に会える。


 二、ジャムを教えてもらえる。


 三、畑を見られる。


 四、人の暮らしを学べる。


 五、必要な物を交換できるかもしれない。


 六、楽しいかもしれない。


 次に欠点。


 一、怖がられるかもしれない。


 二、身元が知られるかもしれない。


 三、迷惑をかけるかもしれない。


 四、公爵家に知られるかもしれない。


 五、人が多い。


 六、礼儀作法が村に合っているか分からない。


 七、友達用の挨拶がまだ曖昧。


 八、恋愛に関する花の扱いも未解決。


 書いているうちに、少しずつ項目がおかしくなってきた気がする。


 私はペンを置いた。


 欠点の方が多い。


 でも、利点の一番目が強すぎる。


 友達に会える。


 それだけで、他の項目が少し軽くなる。


 私は紙を折りたたみ、引き出しにしまった。


「次に来た時、聞きましょう」


 誰に。


 リオに?


 ミナに?


 ガルドさんに?


 たぶん、ミナがいい。


 リオは勢いで「来ればいい!」と言う。


 それも悪くないけれど、ミナの方が少し落ち着いている。


 私はそう決めた。


 その夜、眠る前に窓の外を見た。


 結界の内側で、花壇の小さな花が月明かりを受けている。


 村へ行くなら、何を持って行けばいいのだろう。


 手土産。


 貴族の訪問なら贈り物が必要だ。


 村の場合は?


 薬草茶。


 トマト。


 焼き菓子。


 角兎の干し肉。


 どれが適切なのか。


 私は考えながら、ふと笑ってしまった。


 怖い。


 不安。


 でも、少し楽しみ。


 そんな感情が一緒にある。


 友達とは、ずいぶん厄介なものだ。


 でも。


「嫌ではないわね」


 私は小さく呟いた。


 暖炉の火が、ぱちりと鳴った。


 まるで返事のようだった。


 翌日から、私は少しずつ村へ行く準備を始めた。


 まだ行くと決めたわけではない。


 決めたわけではないが、準備は必要だ。


 服を整える。


 公爵令嬢らしすぎる服は駄目。


 畑仕事用では失礼かもしれない。


 なら、動きやすく清潔なワンピース。


 色は淡い青。


 髪はどうするか。


 青い髪は目立つ。


 隠すべきだろうか。


 でも、リオたちは知っている。


 隠して行くと、逆に怪しい。


 手土産は焼き菓子と薬草茶。


 ミナへのお礼に、きれいな瓶も作ろう。


 ジャムを教えてもらうなら、瓶は必要だ。


 バルドさんにはトマトの種。


 ただし、魔力調整したものなので、村の畑で育つか確認が必要。


 リオには……何がいいのだろう。


 剣?


 いや、危ない。


 魔道具?


 もっと危ない。


 焼き菓子でいいだろう。


 リオは食べ物で喜ぶ気がする。


 考えることは多い。


 けれど、その一つ一つが生活に色を足していくようだった。


 森の家は、以前より少し賑やかになった。


 まだ私一人しかいない時間の方が長い。


 でも、椅子は四脚ある。


 カップも増えた。


 保存瓶も増えた。


 玄関の横には、村の人にもらった豆の袋が置いてある。


 棚にはミナに教わる予定のジャム用瓶。


 机の引き出しには、村へ行く利点と欠点を書いた紙。


 すべてが、誰かと繋がっている。


 捨てられた森。


 死ぬはずだった場所。


 誰にも見つからないはずだった家。


 そこに、少しずつ道ができていく。


 村へ続く道。


 人へ続く道。


 友達へ続く道。


 私はその道を、まだ少し怖がっている。


 けれど、以前のように完全に背を向けたいとは思わなかった。


 次にリオたちが来たら。


 私は、こう聞くつもりだ。


 村へ行っても、いいですか。


 その言葉を口にする練習を、私は畑の前で何度もした。


「村へ行っても、いいですか」


 豆が揺れる。


「村へ、行っても……」


 トマトが赤く光る。


「いい、ですか」


 森は答えない。


 けれど風が優しく吹いて、私の空色の髪を揺らした。


 まるで、行っておいで、と背中を押すように。


 私は空を見上げた。


 木々の隙間から見える空は、澄んだ青だった。


 かつて私が、青の姫君と呼ばれた色。


 でも今は、誰かに与えられた名前ではなく。


 ただ、私の上に広がる自由な空の色だった。

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