第1話 青の姫君、森に捨てられる
私の名前は、フローラ・フォン・スプリング。
王国貴族筆頭、スプリング公爵家の一人娘である。
……と、言えば、たいていの人はまず目を丸くする。
スプリング公爵家。
この国でその名を知らぬ者はいない。
王家に次ぐ格式を持ち、古くから王国の春を司る領地を治め、歴代当主は宰相、騎士団長、魔法師団長、外交官、学者、時に王妃さえ輩出してきた名門中の名門。
社交界では、その家名だけで挨拶の角度が変わる。
商人は背筋を伸ばし、地方貴族は声を震わせ、下級貴族の令嬢たちは扇の陰で羨望と嫉妬を混ぜた溜息をつく。
そんな家に、私は生まれた。
しかも、一人娘として。
父様はそれはもう大層私を可愛がった。
初めて私が泣けば、医師が五人呼ばれた。
初めて私が笑えば、屋敷中に祝宴が開かれた。
初めて私が立てば、父様はその場で泣き崩れ、母様は笑いながら父様の背を撫で、祖父様は「これは王国の歴史に残る一歩だ」と大真面目に言い、祖母様は「記録係を呼びなさい」と命じた。
使用人たちまで、まるで自分の子や孫のように私を見守っていた。
「お嬢様、本日もなんと愛らしい」
「まあ、髪が朝日に透けておりますわ」
「青の姫君……まさにその名の通りでございます」
物心つく頃には、私はそう呼ばれていた。
青の姫君。
母様譲りの澄み渡る空色の髪。
父様と同じ、深い海を思わせる青い瞳。
白い肌。整った顔立ち。細い指。小さな唇。
自分では鏡を見ても、そこまで特別だとは思わなかった。
鏡の中の少女は、毎朝少し眠そうな顔をして、髪を梳かれる間に欠伸を噛み殺しているだけだったから。
けれど、周囲の反応を見る限り、どうやら私は美しいらしかった。
屋敷に来る貴族たちは、私を見るたび一瞬言葉を失った。
年配の夫人は目を潤ませ、若い令息は頬を赤くし、父親たちは商談のついでのような顔をしながら、しっかりと釣書を置いていった。
それはもう、山のように。
本当に、山だった。
執務室の机に積まれた釣書は、最初こそ整然と重ねられていたが、三日もすれば高さを増し、五日で斜めに傾き、一週間後には父様の書類を押し退けて崩れた。
その日、父様は珍しく執務室で叫んだ。
「何故、まだ三歳の娘に七十を過ぎた隠居侯爵から釣書が来るのだ!」
扉の外で聞いていた私は、首を傾げた。
七十歳。
それは祖父様より少し若いくらいだろうか。
結婚というものが何かよく分かっていなかった私は、後で母様に尋ねた。
「母様、七十歳の方と結婚すると、何をするのですか?」
母様は飲んでいた紅茶を噴きかけた。
隣にいた侍女長は笑顔のまま固まり、父様は偶然通りかかった廊下で足を止め、そのまま無言で執務室へ戻っていった。
その日の夕食は、少しだけ空気が重かった。
今なら分かる。
父様は大変だったのだ。
生まれたばかりの赤子から、孫どころかひ孫がいてもおかしくない老人まで。
あらゆる家から、あらゆる思惑を乗せた縁談が舞い込んできた。
最初は父様も笑っていた。
「我が娘がそれほど魅力的だということだな」
母様も楽しそうだった。
「ふふ、けれどフローラはまだ小さいのですよ。皆様、気が早すぎますわ」
祖父母も笑っていた。
使用人たちも、誇らしげだった。
けれど、やがて笑えなくなった。
釣書だけならまだいい。
贈り物も増えた。
宝石、絹、珍しい菓子、魔道具、絵本、異国の人形、香油。
それらは厳重に確認され、危険がないと判断された物だけが私の手元に届いた。
だが、危険は贈り物の中にだけあるわけではなかった。
ある日、屋敷の外壁付近で怪しい男が捕まった。
また別の日、庭師に扮した刺客が捕らえられた。
さらに別の日、私の乳母を買収しようとした商人が地下牢へ送られた。
最初は何も知らなかった。
大人たちは、私に怖い思いをさせないよう隠していたから。
けれど子供というものは、大人が思うより周囲を見ている。
廊下を歩く護衛の数が増えた。
窓の外に立つ騎士の顔が険しくなった。
侍女たちの笑顔の裏に、張り詰めたものが混ざるようになった。
父様が私を抱き上げる腕に、力が入るようになった。
母様が私の髪を撫でる指先が、少し震えるようになった。
「フローラ」
ある夜、父様は私を膝に乗せて言った。
「お前は、誰にもやらん」
私は小さく瞬きをした。
「誰にも、ですか?」
「ああ。どこの馬の骨とも知れぬ者にも、王子にも、老人にも、欲深い貴族にも。お前はずっとここにいればいい」
父様の声は優しかった。
けれど、その奥にある何かが、少し怖かった。
母様は隣で苦笑していた。
「あなた、フローラが困っていますよ」
「困らせてなどいない。私は父として当然のことを言っているだけだ」
「でも、いつかはこの子にも選ぶ日が来ます」
「来ない。婿を取ればいい」
「まあ」
「養子も不要だ。フローラがスプリングを継ぐ。必要な教育はすべて受けさせる。婿は……そうだな、私が選ぶ。いや、選ばない。誰も認めたくない」
「あなた」
母様が困ったように微笑む。
私は二人の会話を聞きながら、父様の胸に頬を預けていた。
あの頃は、まだ温かかった。
私の世界は、父様の腕と、母様の膝と、祖父母の笑い声と、使用人たちの柔らかな視線でできていた。
だから、教育が始まった時も、私は疑わなかった。
これも愛なのだと。
最初は淑女教育だった。
姿勢。
歩き方。
礼の角度。
微笑み方。
扇の扱い。
視線の置き方。
紅茶の飲み方。
言葉遣い。
沈黙の意味。
そして、会話における沈黙の使い方。
私はどれも嫌いではなかった。
ただ、退屈だった。
家庭教師の夫人は毎回感心した。
「お嬢様は本当に覚えが早くていらっしゃいます」
「そうですか?」
「ええ。一度教えただけで、これほど完璧に」
「でも、これは覚えればいいだけでは?」
私がそう言うと、夫人は一瞬言葉に詰まった。
その顔を見て、私は失敗したのだと思った。
だから慌てて言い直した。
「えっと……先生の教え方が、お上手だからです」
夫人は目を丸くした後、嬉しそうに笑った。
ああ、今のは正解だったのだ。
そう学んだ。
勉強も同じだった。
歴史。
語学。
算術。
領地経営。
税制。
治水。
農政。
外交史。
王国法。
魔物分布。
薬草学。
鉱物学。
地図の読み方。
手紙の書き方。
人の顔色の読み方。
私はそれらを吸い込むように覚えた。
覚えたくて覚えたのではない。
覚えられてしまったのだ。
一度読めば、大体頭に入った。
二度読めば、ほぼ間違えなかった。
三度読めば、先生に質問できた。
先生たちは最初、喜んだ。
「素晴らしい!」
「さすがスプリング公爵家のお嬢様だ!」
「神童ですな!」
父様も母様も喜んだ。
祖父様は鼻が高いと言い、祖母様は私を抱き締めた。
使用人たちは私が試験で満点を取るたび、厨房で小さな祝い菓子を焼いてくれた。
だから私は頑張った。
褒められると嬉しかったから。
父様が笑ってくれるのが嬉しかったから。
母様が誇らしそうに頬を緩めるのが好きだったから。
けれど、教育はそこで終わらなかった。
「身を守る術も必要だ」
父様は言った。
「この子は狙われやすい。護衛だけでは足りぬ」
そうして、武術の訓練が始まった。
最初に渡された木剣は、私の腕には少し重かった。
手の皮が剥けた。
足がもつれた。
何度も転んだ。
膝に擦り傷ができ、肘に痣ができ、夜になると布団の中で体がじんじん痛んだ。
だけど、訓練場で剣を振るうのは嫌いではなかった。
風を切る音が好きだった。
足裏に伝わる地面の硬さが好きだった。
何より、剣の軌道には答えがあった。
礼儀や社交のように相手の機嫌で正解が変わることはない。
振る。
踏み込む。
避ける。
受ける。
返す。
体が覚えれば、剣は応えてくれた。
魔法もそうだった。
魔力を感じる。
流す。
練る。
形にする。
火、水、風、土、光。
初級魔法から始まり、中級、上級へ。
詠唱を覚え、魔法陣を描き、属性の相性を学び、魔力の効率化を研究した。
私は魔法が好きだった。
魔法は美しかった。
指先に集まる光。
空気に描かれる紋様。
世界の理に触れるような感覚。
詠唱を省略できるようになった時、魔法師の先生は涙を流して喜んだ。
無詠唱で上級魔法を発動した時、先生は腰を抜かした。
片手で同時に三つの魔法を制御した時、先生は翌日から来なくなった。
別の先生が来た。
その先生も来なくなった。
また別の先生が来た。
その先生は三日で辞表を出した。
父様は笑っていた。
「我が娘は天才だな!」
母様も笑っていた。
「ええ。本当に、すごい子」
私はその言葉が嬉しかった。
天才。
最初は、甘い響きだった。
褒め言葉だった。
愛されるための証明だった。
だから、私はもっと頑張った。
もっとできるようになれば、もっと喜んでもらえると思った。
そして十歳になる頃には、私はすべての教育を終えていた。
淑女教育は完璧。
勉学は全科目満点。
武術では大人の騎士数人を相手にしても負けない。
魔法は上級魔法を片手無詠唱で扱える。
領地経営の問題を解けば、父様の補佐官が青ざめた。
薬草を調合すれば、宮廷薬師が首を傾げながら何度も瓶を覗き込んだ。
料理は厨房長に止められながら覚えた。
裁縫は侍女に教わり、三日後には自分のリボンを縫った。
できることが増えるたび、私は思った。
きっと、皆が喜んでくれる。
もっと褒めてくれる。
もっと笑ってくれる。
でも、ある日を境に、何かが変わった。
きっかけは、たぶん訓練場だった。
その日、父様は騎士団長と魔法師団長を屋敷に招いていた。
私の実力を測るためだと聞かされていた。
訓練場には、多くの人が集まっていた。
父様。
母様。
祖父母。
騎士たち。
魔法師たち。
使用人たち。
皆が私を見ていた。
以前なら、その視線は温かかった。
その日は違った。
期待があった。
好奇心があった。
少しの不安もあった。
私は木剣を握り、礼をした。
相手は騎士団長。
王国最強の剣士の一人。
大きな体。分厚い胸板。灰色の髭。傷だらけの手。
彼は優しく笑った。
「お嬢様、怖がらずともよい。これは試合です。怪我はさせません」
「はい。よろしくお願いいたします」
私はそう答えた。
合図が鳴った。
次の瞬間、騎士団長が地面に転がっていた。
静まり返った。
訓練場を囲んでいた人々の呼吸が、一斉に止まったようだった。
私自身も驚いた。
あまりにも簡単だったからではない。
皆が、あまりにも静かだったから。
私は木剣を下ろし、騎士団長に駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
「あ、ああ……」
騎士団長は目を見開いたまま、空を見上げていた。
「今、何が……」
「踏み込みが少し大きかったので、軸足を払いました」
私が説明すると、彼はゆっくりとこちらを見た。
その目に、私は初めて知る感情を見た。
恐怖だった。
次に魔法師団長との模擬戦が行われた。
魔法障壁を張り、制限付きで魔法を撃ち合う。
私は先生たちに教わった通り、相手の魔力の流れを読み、詠唱の前に属性を推測し、相殺し、足元に拘束陣を置いた。
魔法師団長は一歩も動けず、空中に展開した私の魔法陣を見上げたまま降参した。
また、静かになった。
風が吹いた。
訓練場の砂が少し舞い、私の頬に触れた。
遠くで鳥が鳴いた。
私は振り返った。
父様を見た。
母様を見た。
褒めてほしかった。
いつものように笑ってほしかった。
けれど、父様は笑っていなかった。
母様も、笑っていなかった。
祖父様は口元を押さえ、祖母様は胸に手を当てていた。
使用人たちは視線を逸らした。
誰も何も言わなかった。
「……父様?」
私が呼ぶと、父様の肩がぴくりと揺れた。
その反応を見て、胸の奥が冷たくなった。
私は何か失敗したのだろうか。
手加減が足りなかったのだろうか。
でも、怪我はさせていない。
ちゃんと模擬戦の範囲に収めた。
魔法も威力を抑えた。
騎士団長も魔法師団長も生きている。
殺していない。
なのに。
「フローラ」
父様の声は、硬かった。
「今日は……もう休みなさい」
「はい」
私は礼をした。
その場を離れる時、背中に刺さる視線を感じた。
その日から、屋敷の空気は変わった。
廊下ですれ違う使用人が、私を見ると一瞬だけ息を呑む。
侍女が髪を梳かす手を震わせる。
騎士が私の近くに立つ時、剣の柄に触れる。
家庭教師たちは目を合わせなくなる。
食卓では会話が減った。
父様は忙しいと言って、私と会う時間を減らした。
母様は体調が悪いと言って、寝室にいることが増えた。
祖父母は領地の静養地へ移った。
使用人たちは優しかった。
優しかったけれど、以前とは違った。
私が近づくと、ほんの少しだけ体が強張る。
私が笑うと、笑い返してくれる。
けれど、その笑顔は薄い硝子のようだった。
触れれば割れてしまいそうだった。
最初は、理由が分からなかった。
だから私は、もっと良い子でいようとした。
授業では間違えなかった。
訓練では力を抑えた。
魔法はなるべく使わなかった。
食事の時は静かにした。
母様の部屋の前に花を置いた。
父様の執務室には入らないようにした。
使用人には必ず礼を言った。
けれど、何も戻らなかった。
ある夜、私は廊下で父様と母様の声を聞いた。
聞くつもりはなかった。
母様に届けるために摘んだ花を持って、寝室へ向かっていただけだった。
扉の隙間から、声が漏れていた。
「あの子は危険だ」
父様の声だった。
私の足が止まった。
「あなた……」
母様の声は掠れていた。
「フローラは、あなたの娘です」
「分かっている!」
父様が声を荒らげた。
私は花束を抱き締めた。
「分かっているとも! だからこそ、どうすればいいか分からないのだ!」
「まだ十歳なのですよ」
「十歳で騎士団長を倒す子供がどこにいる! 魔法師団長を封じる子供がどこにいる! あの子は……あれは……」
沈黙。
長い沈黙だった。
私は息を止めていた。
廊下の燭台の火が、小さく揺れた。
花束から甘い匂いがした。
母様が震える声で言った。
「化け物だと、言うのですか」
父様は答えなかった。
答えなかったことが、答えだった。
私の手から、花束が落ちた。
小さな音だった。
けれど扉の向こうの会話が止まった。
私は拾わず、逃げた。
自室に戻り、扉を閉めた。
寝台に座り、膝の上で手を握った。
泣かなかった。
涙は出なかった。
ただ、胸の中に何もない場所ができた。
ぽっかりと穴が空いたようだった。
化け物。
その言葉は、思ったよりも冷たかった。
それから父様は、屋敷に帰らない日が増えた。
外に女性を作ったと、使用人たちが噂していた。
母様はますます痩せた。
青白い顔で寝台に横たわり、私が部屋に入ると微笑もうとした。
けれど、その目の奥には怯えがあった。
母様まで。
そう思った瞬間、私は部屋に入るのをやめた。
母様を苦しめたくなかった。
私を見てつらいなら、見ない方がいい。
そう考えた。
今思えば、私は馬鹿だった。
十歳の子供だった。
それでも当時の私は、自分なりに正しいと思った。
会わないことが優しさなのだと。
父様とも、ほとんど話さなくなった。
食卓には一人分の皿だけが置かれるようになった。
広い食堂に、私一人。
銀の食器が音を立てるたび、天井に反響した。
以前は父様が今日の出来事を話し、母様が微笑み、祖父様が昔話をし、祖母様が菓子を勧めてくれた。
今は、スープの湯気だけが揺れている。
私はそこで初めて気づいた。
私は、友達がいなかった。
同年代の子供と遊んだことがない。
手紙を交わす相手もいない。
秘密を打ち明ける相手もいない。
泣きたい時に隣に座ってくれる誰かもいない。
私は青の姫君だった。
スプリング公爵家の一人娘だった。
天才だった。
けれど、ただのフローラとして笑い合える相手は、一人もいなかった。
縁談は山ほど来た。
けれど、恋というものも知らなかった。
誰かを好きになるとは、どういうことなのか。
手を繋ぐと、何が嬉しいのか。
誰かに会いたくて胸が苦しくなるとは、どんな感覚なのか。
舞踏会で踊る相手を見て頬を染める令嬢たちの気持ちが、私には分からなかった。
知らないまま、私は屋敷の中で一人になった。
そして、ある朝。
父様に呼ばれた。
執務室だった。
窓の外は曇っていた。
空は低く、灰色の雲が屋敷の尖塔に触れそうだった。
父様は机の向こうに座っていた。
目の下に濃い隈があった。
以前より痩せていた。
髪には白いものが混じっていた。
私は淑女として礼をした。
「お呼びでしょうか、父様」
「……ああ」
父様はしばらく黙っていた。
机の上には書類が数枚。
封蝋のついた命令書。
地図。
鍵。
小さな袋。
それらを見た時、胸の奥が静かになった。
何かが終わるのだと、分かった。
「フローラ」
「はい」
「お前のために、別邸を用意した」
「別邸、ですか」
「領地の端だ。森に囲まれていて静かだ。お前はしばらく、そこで暮らしなさい」
父様は私を見なかった。
書類を見ていた。
まるで、そこに答えが書いてあるかのように。
「しばらくとは、どれくらいでしょうか」
「……必要なだけだ」
「母様には、お会いできますか」
父様の指がぴくりと動いた。
「今は体調が悪い」
「では、お手紙を」
「控えなさい」
「……はい」
私は頷いた。
父様は鍵と袋を差し出した。
「屋敷は小さいが、生活に必要なものはある。金も入れてある。困ることはない」
嘘だと思った。
けれど私は、そう言わなかった。
「使用人は?」
「……いない」
「護衛は?」
「いない」
「家庭教師は?」
「不要だろう」
父様の声に、ほんの少し棘が混じった。
私は鍵を受け取った。
冷たかった。
金属の冷たさが、掌から腕へ、胸へと伝わっていく。
「分かりました」
それだけ言うと、父様はようやく顔を上げた。
私を見る。
その目に、愛がなかったわけではない。
きっと、あった。
でも、愛よりも恐怖の方が大きかった。
父様は私を怖がっていた。
自分の娘を。
「フローラ」
「はい」
「恨むな」
不思議な言葉だった。
謝罪ではなかった。
言い訳でもなかった。
命令のようで、願いのようでもあった。
私は少し考えた。
恨む。
その感情が胸の中にあるか探した。
怒り。
悲しみ。
寂しさ。
困惑。
いろいろなものはあった。
けれど、恨みはよく分からなかった。
「分かりません」
正直に言った。
父様の顔が歪んだ。
「私は、父様を恨めばいいのですか?」
「……もう行きなさい」
「はい」
私は礼をした。
執務室を出る。
扉が閉まる直前、父様が何か言いかけた気がした。
けれど、言葉にはならなかった。
その日のうちに、私は屋敷を出た。
見送りは少なかった。
侍女長と、数人の使用人。
彼らは皆、泣きそうな顔をしていた。
けれど誰も私を止めなかった。
「お嬢様……」
侍女長が震える声で言った。
私の髪を幼い頃から梳いてくれた人だった。
彼女の手はいつも温かかった。
その手が今、胸の前で固く握られている。
「どうか、お体を大切に」
「はい。あなたも」
私は微笑んだ。
淑女教育で習った通りの、きれいな微笑みだったと思う。
侍女長は泣いた。
その涙を見ても、私は何と言えばいいか分からなかった。
友達なら、抱き締めるのだろうか。
家族なら、泣いて縋るのだろうか。
でも私は公爵令嬢で、彼女は使用人で。
そして私は、化け物で。
距離の測り方が分からなかった。
だからただ、礼をした。
馬車に乗る。
扉が閉まる。
屋敷が遠ざかる。
窓の外で、長く暮らした白い館が少しずつ小さくなっていった。
庭園。
噴水。
薔薇のアーチ。
温室。
訓練場。
母様の部屋の窓。
父様の執務室。
すべてが遠ざかる。
私は膝の上で手を重ねた。
泣かなかった。
泣き方が、分からなかった。
馬車は長い時間走った。
舗装された道を抜け、街を越え、村を越え、畑を越え、やがて森の道に入った。
車輪が石を踏むたび、車体が揺れた。
窓の外は木ばかりになった。
木。
木。
木。
本当に、木ばかり。
枝葉が空を覆い、昼なのに薄暗い。
鳥の声が遠くで聞こえた。
時折、茂みの奥で何かが動く気配がした。
護衛はいない。
御者も口数が少なかった。
彼は屋敷から派遣された人ではなく、途中の村で雇われた男だった。
私の身分を知らないのか、知っていて知らないふりをしているのか。
どちらでもよかった。
夕方近くになって、馬車が止まった。
「着きました」
御者が短く言った。
扉を開けると、湿った土の匂いがした。
目の前にあったのは、屋敷ではなかった。
別邸という言葉から想像するような、庭付きの小館でもなかった。
小さな一軒家だった。
木造の壁。
古びた屋根。
小さな窓。
傾いた柵。
庭と呼ぶには狭い土の場所。
井戸。
畑らしき荒れた区画。
周囲には森。
人の気配はない。
風が吹くと、木々がざわざわと鳴った。
御者は荷物を下ろすと、すぐに帰っていった。
馬車の音が遠ざかる。
蹄の音が小さくなる。
やがて完全に消える。
私は一人になった。
森の中に、十歳の少女が一人。
普通なら、泣くところだと思う。
あるいは怒るところかもしれない。
助けを呼ぶ。
父を恨む。
母を恋しがる。
屋敷に帰りたいと叫ぶ。
けれど私は、しばらく家を見つめた後、鍵を取り出した。
「まずは中の確認ね」
声に出すと、少し落ち着いた。
扉を開ける。
ぎい、と音がした。
中は埃っぽかった。
小さな居間。
台所。
寝室。
物置。
暖炉。
家具は最低限。
寝台は固そうで、机は傷だらけ。
棚には古い鍋と皿が数枚。
水瓶は空。
食料は乾いたパンと塩漬け肉が少し。
金貨の袋は、十歳の少女が一人で数ヶ月暮らすには足りるかもしれないが、ここは森の中だ。
店がない。
買う相手がいない。
つまり、あまり意味がない。
私は部屋の真ん中に立ち、考えた。
状況を整理する。
一、私はスプリング公爵家から離された。
二、使用人はいない。
三、護衛もいない。
四、周囲は森。
五、食料は少ない。
六、水は井戸がある。
七、魔物がいる可能性が高い。
八、帰れと言われていない。
九、迎えが来る予定も聞いていない。
十、私はたぶん、捨てられた。
「……なるほど」
私は頷いた。
捨てられた。
声に出すと、思ったよりも軽い言葉だった。
胸は痛んだ。
痛んだけれど、痛いだけではお腹は膨れない。
夜になれば寒くなる。
森には獣も魔物もいる。
泣くのは後でもできる。
たぶん。
私は荷物を置き、家の外に出た。
まず結界。
魔力を広げ、家と庭を包む。
外敵の侵入を防ぐための基礎結界。
さらに魔物避け。
虫除け。
雨漏り防止。
温度調整。
防音は……少しだけ。
完全に静かだと逆に怖い。
木々の音くらいは聞こえた方がいい。
地面に指で魔法陣を描き、井戸水の浄化を設定する。
畑の土を調べる。
痩せている。
放置されていたのだろう。
腐葉土を混ぜれば改善できる。
魔力を流しすぎると不自然に育つので注意。
森の魔物分布を確認するため、簡易索敵を展開。
近くに小型の獣が三。
魔物反応が二。
大きな反応は遠い。
今夜は問題なさそう。
私は空を見上げた。
日が傾いていた。
木々の隙間から差し込む夕陽が、細い金色の線になって地面に落ちている。
屋敷の庭とは違う。
整えられていない。
誰かの手で美しく飾られていない。
でも、不思議と嫌ではなかった。
風が葉を揺らす。
土の匂いが濃い。
遠くで川の音がする。
「川があるのね」
水源は大事だ。
明日確認しよう。
その日は、残っていたパンと塩漬け肉を食べた。
固かった。
屋敷の料理とは比べものにならない。
けれど、空腹だったから美味しかった。
寝台はやはり固かった。
毛布も薄い。
暖炉に火を入れ、結界の調整をし、窓の鍵を確認する。
それから寝台に横になった。
天井の木目を見つめる。
暗い。
静か。
広すぎた屋敷とは違い、この家は狭い。
狭いのに、ひどく空っぽだった。
私は目を閉じた。
父様の声が蘇る。
恨むな。
母様の怯えた目が浮かぶ。
化け物。
胸がきゅっと痛んだ。
私は寝返りを打った。
誰かに手を握ってほしいと思った。
でも、誰もいない。
友達がいれば、こういう時、何か言ってくれるのだろうか。
大丈夫、とか。
寂しいね、とか。
一緒にいるよ、とか。
そういう言葉を、誰かがくれるのだろうか。
私はそれを想像しようとした。
うまくできなかった。
「……友達って、どうやって作るのかしら」
誰も答えない。
暖炉の薪が、ぱちりと鳴った。
その音を聞きながら、私は眠った。
翌朝。
私は空腹で目を覚ました。
そして理解した。
悲しむにも体力がいる。
まず食料だ。
井戸水を飲み、髪を結び、動きやすい服に着替える。
昨日までの公爵令嬢らしいドレスでは、森を歩けない。
荷物の中にあった簡素なワンピースを着て、裾を少し上げ、腰に短剣を差す。
外に出ると、朝の森は冷たかった。
空気に湿り気があり、草の葉に露が光っている。
鳥の声。
虫の羽音。
遠くの川音。
屋敷の朝とは全然違う。
侍女がカーテンを開ける音もない。
銀盆に乗せられた朝食もない。
父様の新聞をめくる音も、母様の紅茶の香りもない。
でも、朝は朝だった。
太陽は昇る。
お腹は空く。
なら、動くしかない。
私は川を探した。
索敵と地形把握を使えば難しくない。
十分ほど森を歩くと、小さな川に出た。
水は澄んでいて、石の上をさらさら流れている。
魚影が見えた。
「食べられる魚ね」
毒はない。
骨は多そう。
味は……分からない。
私は川辺にしゃがみ、罠を作った。
普通の罠ではない。
魔法陣を水中に固定し、魚が通ると軽く眠らせ、鱗と内臓を処理し、冷却保存用の小箱へ転送する。
そこまで組んでから、私は少し考えた。
「……やりすぎかしら」
たぶん、やりすぎだ。
でも一人で暮らすなら効率は大事。
屋敷の料理人ならもっと上手に捌くのだろうけれど、いないものは仕方ない。
私は罠を起動させた。
水面が一瞬だけ淡く光る。
すぐに魚が一匹、魔法陣にかかった。
ぴち、と跳ねたかと思うと、処理され、小箱に送られる。
「よし」
朝食は確保できた。
次は畑。
家に戻り、土を耕す。
鍬は古かったが、魔法で補強すれば使えた。
土を掘り返し、石を取り除き、腐葉土を作るため森の落ち葉を集める。
薬草学と農政学の知識を総動員し、土壌改良の計画を立てる。
問題は種だった。
家に残っていたのは古い豆と芋が少し。
発芽するか怪しい。
私は豆を手に取り、魔力で状態を調べた。
生命力は弱い。
でも、完全に死んではいない。
「なら、いけるわね」
品種改良は慎重にしなければならない。
やりすぎると、普通の植物ではなくなる。
私は豆と芋の生命力を整え、成長しやすいよう少しだけ性質を補強した。
寒さに強く。
病気に強く。
実りを多く。
味は……甘めがいい。
さらに、森で見つけた野草のうち食用可能なものを数種類移植する。
ついでに果樹も欲しい。
年中実がなる木があれば便利だ。
ただし、自然界の理から外れすぎると周囲の魔力循環に影響が出る。
季節ごとに違う実をつける程度なら許容範囲だろう。
私は小さな苗を作り、畑の端に植えた。
昼過ぎには、畑らしきものができていた。
汗を拭う。
手は土で汚れている。
爪の間にも泥が入っている。
公爵令嬢としては、きっとあり得ない姿だ。
でも、誰も見ていない。
怒る侍女もいない。
礼儀作法の先生もいない。
父様もいない。
母様もいない。
私は泥だらけの手を見つめた。
少しだけ、笑った。
「……自由、なのかしら」
捨てられた。
でも、自由でもある。
その二つが同じ場所にあるのは、不思議だった。
昼食は魚を焼いた。
塩を振っただけ。
少し焦げた。
でも美味しかった。
夕方には小型の魔物が結界に触れた。
角兎だった。
額に小さな角を持つ、攻撃的な兎型魔物。
食べられる。
私は短剣を持って外に出た。
角兎は結界の外で威嚇していた。
赤い目。
鋭い角。
普通の子供なら泣くかもしれない。
私は少し悩んだ。
「一匹だと、今日食べる分と干し肉に少し……」
角兎が突進してきた。
私は避け、首元を軽く叩いた。
魔物は気絶した。
殺すのは一瞬だった。
血抜き。
解体。
肉の保存。
皮の処理。
すべて本で読んだ通りにやった。
少し手間取ったが、できた。
夕食は角兎の肉と野草のスープ。
味は薄かった。
でも温かかった。
その夜、私は机に向かい、生活計画を書いた。
食料確保。
畑の整備。
家の修繕。
衣服の管理。
防衛結界の強化。
周辺地図作成。
薬草採取。
保存食作り。
薪の確保。
やることは多い。
多いけれど、なぜか嫌ではなかった。
屋敷で詰め込まれていた勉強とは違う。
これは、自分が明日生きるための作業だった。
誰かに褒められるためではない。
父様に認められるためでもない。
母様に笑ってもらうためでもない。
私が、私のためにすること。
それが少しだけ、不思議で。
少しだけ、嬉しかった。
森での生活は、思ったより早く整った。
一週間で家の修繕が終わった。
雨漏りは魔法で塞ぎ、床板は補強し、窓には防寒と防犯の術式を刻んだ。
二週間で畑が芽吹いた。
豆は元気に蔓を伸ばし、芋は土の中で育ち始めた。
野草は根付き、果樹の苗も小さな葉を広げた。
三週間で保存食が増えた。
干し肉。
干し魚。
薬草茶。
木の実の粉。
野草の塩漬け。
一ヶ月後には、私は森の中で普通に暮らしていた。
普通に。
そう、私にとっては普通だった。
朝起きて、井戸水で顔を洗う。
畑を見る。
川の罠を確認する。
森を歩き、薬草を摘む。
魔物が来れば倒す。
昼に料理をする。
午後は家を直したり、本を読んだり、魔法陣を改良したりする。
夕方にはお茶を淹れる。
夜は暖炉の前で裁縫をする。
衣服も自分で作るようになった。
魔力で糸を生成し、森で採れる繊維と混ぜ、布を織る。
最初は不格好だった。
袖の長さが左右で違った。
裾も少し曲がった。
でも、誰も笑わなかった。
笑う人がいないのは寂しいことかもしれない。
でも、失敗を怖がらなくていいのは楽だった。
私は少しずつ、自分の暮らしを作っていった。
ただ一つ、困ったことがあった。
話し相手がいない。
森には鳥がいる。
兎もいる。
鹿もいる。
魔物もいる。
でも、人はいない。
私は自分で思っていた以上に、誰かの声に飢えていた。
屋敷では一人だった。
でも、完全な無音ではなかった。
使用人の足音。
厨房の音。
廊下の話し声。
遠くで響く笑い声。
父様の怒鳴り声。
母様の咳。
誰かがどこかにいる気配があった。
ここには、それがない。
森の音はある。
風も、水も、鳥も、虫も。
けれど人の声はない。
ある日、私は畑の豆に話しかけていた。
「今日はよく伸びたわね」
豆は答えない。
「でも、そちらに伸びると支柱が足りないわ」
答えない。
「……友達というのは、こういう感じではないわよね」
私は真剣に考えた。
友達。
同年代。
会話。
遊ぶ。
秘密を共有する。
お茶を飲む。
一緒に笑う。
本で読んだことはある。
けれど実践したことはない。
そもそも、どう始めるのだろう。
友達になってください、と言うのだろうか。
それとも契約書を書くのだろうか。
契約なら分かる。
目的、期間、義務、権利、違約時の対応。
でも友達とは、そういうものではなさそうだ。
「難しいわね」
私は豆に言った。
豆は風に揺れた。
少しだけ、返事をしてくれたように見えた。
恋愛についても、時々考えた。
というのも、荷物の中に恋愛小説が一冊入っていたからだ。
誰が入れたのかは分からない。
侍女長だろうか。
表紙には、金髪の騎士と桃色のドレスを着た令嬢が描かれている。
内容は、身分違いの二人が困難を乗り越えて結ばれる話だった。
私は暖炉の前で読みながら、何度も首を傾げた。
騎士が令嬢に「あなたをお慕いしております」と告げる。
令嬢は頬を染めて涙ぐむ。
私は本を閉じた。
「慕う……尊敬とは違うのかしら」
もう一度読む。
手が触れ合う場面で、令嬢の胸が高鳴る。
私は自分の手を見た。
誰かと手が触れた記憶を探す。
父様。
母様。
侍女長。
武術の先生。
医師。
それから……騎士団長を投げた時。
胸は高鳴らなかった。
むしろ相手の重心の方が気になった。
「恋愛、難しいわ」
私は本に栞を挟んだ。
魔法陣より難しい。
領地経営より難しい。
税制よりも、外交よりも、恋愛小説の登場人物の心の動きは分かりにくかった。
でも、少しだけ羨ましかった。
誰かに会いたいと思うこと。
誰かに名前を呼ばれて嬉しくなること。
誰かが隣にいるだけで、世界が違って見えること。
そういうものが本当にあるなら。
一度くらい、知ってみたいと思った。
でも、この森には誰もいない。
だから私は本を閉じ、湯を沸かし、お茶を淹れた。
今日も一人。
明日もたぶん一人。
それでも生活は続く。
私は森暮らしに適応した。
適応しすぎたと言ってもいい。
半年が過ぎる頃には、家はもう民家ではなくなっていた。
外から見れば小さな一軒家。
しかし内部には空間拡張を施し、貯蔵庫、作業室、書斎、浴室まで作った。
庭には畑。
果樹。
薬草園。
小さな花壇。
井戸の横には洗い場。
結界の内側だけは、穏やかな空気が流れている。
魔物は来るが、結界に触れた時点で大抵逃げる。
逃げないものは食材になる。
大型魔物も二度来た。
一度目は森猪。
家より大きかった。
肉が多く、保存に苦労した。
二度目は影狼。
毛皮が温かかった。
どちらも私にとっては少し手間のかかる来客だった。
私は森の地図も作った。
川。
泉。
薬草群生地。
魔物の巣。
危険区域。
木の実が採れる場所。
見晴らしのいい丘。
その丘はお気に入りになった。
晴れた日にそこへ行くと、遠くにスプリング公爵領の町が見える。
さらに遠くには、屋敷の尖塔らしきものも見えた。
私は時々そこに座り、町を眺めた。
帰りたいかと聞かれれば、分からない。
屋敷には思い出がある。
父様と母様が笑っていた頃の記憶もある。
でも、今戻ったところで、私はまた恐れられるだけだろう。
それなら、この森の方がいい。
豆は逃げない。
魚は驚かない。
魔物は襲ってくるが、それは恐怖ではなく本能だ。
人の目の方が、ずっと痛かった。
ある日の昼下がり。
私は畑でトマトを収穫していた。
赤く艶やかな実が籠に入っていく。
品種改良の結果、甘味が強く、皮が薄く、日持ちもする。
今年の出来はかなり良い。
「これは乾燥させても美味しそうね」
そう呟いた時だった。
結界が震えた。
魔物ではない。
人だ。
しかも複数。
私は手を止めた。
森に人が来るのは珍しい。
迷った猟師か。
盗賊か。
公爵家の追手か。
あるいは、私を始末しに来た誰かか。
そこまで考えて、私は少し首を傾げた。
「始末するなら、遅すぎるわね」
半年も放置してから来るのは、計画性がない。
私は籠を置き、結界の外へ意識を向けた。
反応は三つ。
一つは大人。
二つは子供に近い。
魔力反応は弱い。
怪我をしている。
追われている?
森の奥から、枝を折る音がした。
荒い息。
足音。
誰かが必死に走っている。
「こっちだ!」
少年の声。
「待って、もう……!」
少女の声。
「止まるな! あれが来る!」
大人の声。
その後ろから、重い地響き。
大型魔物だ。
私は索敵を伸ばした。
森熊。
ただの熊ではない。
魔力を帯びた黒爪熊。
成獣。
かなり興奮している。
人間三人では逃げ切れない。
私は少し考えた。
関わらないという選択肢もある。
結界の中にいれば安全だ。
彼らがどうなろうと、私の生活には関係ない。
私は捨てられた身だ。
人の社会に戻る気もない。
面倒事は避けたい。
そう思った。
思ったのに、足はもう動いていた。
木々の間を抜ける。
青い髪が風に流れる。
畑仕事用の服のまま、私は結界の外へ出た。
三人が見えた。
中年の男。
十五、六歳くらいの少年。
私と同じか少し上の少女。
三人とも泥だらけで、顔色が悪い。
少女は足を引きずっている。
少年が彼女を支え、男が後ろを振り返りながら剣を構えていた。
その背後から、黒い巨体が現れる。
黒爪熊。
大きい。
普通の馬車より大きい。
口から涎を垂らし、赤い目で獲物を睨んでいる。
「逃げてください!」
少年が私を見て叫んだ。
私は少し驚いた。
知らない相手なのに、私を心配した。
変な人だ。
「危ないです!」
少女も叫んだ。
やっぱり変だ。
自分の方が危ないのに。
黒爪熊が咆哮した。
空気が震える。
鳥が一斉に飛び立つ。
男が剣を握り直した。
「子供たちだけでも……!」
その声には覚悟があった。
でも、勝てない。
私は前に出た。
少年が目を見開く。
「何してるんだ!」
「少し下がってください」
「は!?」
「危ないので」
私は黒爪熊を見上げた。
大きい。
肉は硬そう。
毛皮は使える。
爪は素材になる。
胆は薬になる。
ただ、興奮状態なので血抜きに注意。
そんなことを考えていると、黒爪熊が腕を振り上げた。
男が叫ぶ。
少女が悲鳴を上げる。
少年が走り出そうとする。
私は片手を上げた。
「静かに」
風が止まった。
次の瞬間、黒爪熊の巨体が地面に沈んだ。
殺してはいない。
重力制御で押さえ、意識を刈り取っただけだ。
地面が揺れた。
土煙が上がる。
森が静まり返る。
三人は固まっていた。
私は黒爪熊の状態を確認し、問題ないと判断した。
「大丈夫ですか?」
振り返って尋ねる。
誰も答えない。
少年は口を開けたまま。
少女は涙目のまま。
男は剣を構えた姿勢で石像のようになっている。
ああ。
まただ。
私は胸の奥が少し冷えるのを感じた。
この顔を知っている。
訓練場で見た顔。
父様がした顔。
母様がした顔。
恐怖。
やっぱり、人は私を怖がる。
「……すみません」
私は視線を落とした。
「驚かせましたね」
沈黙が落ちた。
森の中で、葉が擦れる音だけがした。
その沈黙を破ったのは、少年だった。
「す……」
「す?」
「すっげええええええええええええええええええええ!!」
森に、少年の叫び声が響いた。
私は思わず瞬きをした。
恐怖ではなかった。
少年の目は輝いていた。
まるで珍しい宝石でも見つけたように、私を見ている。
「今の何!? 魔法!? 剣なしで!? 詠唱もなしで!? 黒爪熊だぞ!? 大人の冒険者五人でも逃げるやつだぞ!? すごい! すごすぎる!」
「えっと……」
困った。
怖がられると思っていたので、褒められる準備をしていなかった。
少女も震えながら言った。
「あ、ありがとうございます……助かりました……」
男も我に返り、慌てて頭を下げた。
「命の恩人です。本当に、ありがとうございます」
三人が頭を下げる。
私はどうすればいいか分からず、少しだけ後ずさった。
感謝されるのは久しぶりだった。
屋敷でも礼は言われていた。
でもそれは、使用人としての礼儀だった。
今の言葉は違う。
本当に、私に向けられていた。
「あの……頭を上げてください」
私が言うと、三人は顔を上げた。
少年が一歩近づく。
「君、名前は?」
「フローラです」
「フローラ! 俺はリオ! こっちは妹のミナで、叔父のガルド!」
「兄妹、ですか」
「うん!」
リオと名乗った少年は、まだ興奮している。
少女、ミナは恥ずかしそうに礼をした。
ガルドは警戒を解かず、それでも私への敵意はなかった。
「君はこの森に住んでいるのか?」
「はい」
「一人で?」
「はい」
三人の顔が変わった。
驚き。
困惑。
心配。
恐怖ではない。
心配。
私はその違いに戸惑った。
「一人って……家族は?」
リオが尋ねる。
私は少しだけ黙った。
森の空気が肌に触れる。
父様の声が遠くで響く。
恨むな。
「いません」
私は答えた。
「ここでは、一人です」
ミナが唇を噛んだ。
ガルドが眉を寄せた。
リオは何か言おうとして、けれど言葉を選んでいるようだった。
その沈黙が、少し痛かった。
だから私は話題を変えた。
「怪我をしていますね。治療します」
「え、いや、そこまでしてもらうわけには」
「放置すると腫れます」
私はミナの足元にしゃがんだ。
足首を捻っている。
骨は無事。
靭帯に軽い損傷。
治癒魔法で治せる。
「触れます」
「あ、はい……」
ミナの足首に手をかざす。
淡い光。
腫れが引く。
痛みも消える。
ミナは目を丸くした。
「痛くない……」
「しばらく走らない方がいいです」
「ありがとう……ございます」
「どういたしまして」
私は立ち上がった。
リオがまた目を輝かせた。
「治癒魔法も使えるの!?」
「少しだけ」
「少しだけ!?」
ガルドが小さく咳払いした。
「フローラ殿。重ね重ね感謝します。我々は薬草採取に来たのですが、黒爪熊に遭遇してしまいまして」
「薬草ですか」
「はい。村で熱病が出ており、薬師に頼まれたものを探していました」
「何の薬草ですか?」
ガルドが名前を告げた。
私は頷いた。
「あります」
「本当ですか!」
「家の薬草園に」
三人がまた固まった。
「薬草園?」
「はい。よければ分けます」
私は結界の方へ歩き出した。
三人は顔を見合わせ、おずおずとついてくる。
結界を通る時、私は一時的に通行許可を出した。
リオが感心したように周囲を見る。
「うわ……空気が違う」
「結界内なので」
「結界ってこんな簡単に張れるものなのか?」
「簡単ではないのですか?」
「簡単じゃないよ!」
リオの反応は大きい。
少しうるさい。
でも、不快ではなかった。
家が見えると、三人はさらに驚いた。
小さな家。
整った畑。
果樹。
薬草園。
花壇。
干し肉用の棚。
薪置き場。
井戸。
洗い場。
森の中にぽつんとある、私の暮らし。
ミナが小さく呟いた。
「きれい……」
私はその言葉に、胸が少し温かくなった。
「そうですか?」
「はい。すごく」
きれい。
この場所を、そう言ってくれる人がいるとは思わなかった。
私は薬草園から必要な草を摘み、束にする。
ついでに解熱用の調合薬も作った。
ガルドは恐縮しきりだった。
「こんなにいただいてしまっては……」
「村で必要なのでしょう?」
「ですが」
「代金は不要です」
「いえ、そういうわけには」
私は考えた。
お金はあっても使う場所がない。
食料もある。
素材もある。
今欲しいもの。
私は少し悩み、リオたちを見た。
「では、一つ教えてください」
「何でしょう」
「友達は、どうやって作るのですか?」
沈黙。
風が吹いた。
畑の豆が揺れた。
リオが目を丸くし、ミナが口元を押さえ、ガルドが何とも言えない顔をした。
私




