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『青の姫君の森暮らし 〜化け物と恐れられた公爵令嬢は、今日も畑を耕します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第1話 青の姫君、森に捨てられる



 私の名前は、フローラ・フォン・スプリング。


 王国貴族筆頭、スプリング公爵家の一人娘である。


 ……と、言えば、たいていの人はまず目を丸くする。


 スプリング公爵家。


 この国でその名を知らぬ者はいない。


 王家に次ぐ格式を持ち、古くから王国の春を司る領地を治め、歴代当主は宰相、騎士団長、魔法師団長、外交官、学者、時に王妃さえ輩出してきた名門中の名門。


 社交界では、その家名だけで挨拶の角度が変わる。


 商人は背筋を伸ばし、地方貴族は声を震わせ、下級貴族の令嬢たちは扇の陰で羨望と嫉妬を混ぜた溜息をつく。


 そんな家に、私は生まれた。


 しかも、一人娘として。


 父様はそれはもう大層私を可愛がった。


 初めて私が泣けば、医師が五人呼ばれた。


 初めて私が笑えば、屋敷中に祝宴が開かれた。


 初めて私が立てば、父様はその場で泣き崩れ、母様は笑いながら父様の背を撫で、祖父様は「これは王国の歴史に残る一歩だ」と大真面目に言い、祖母様は「記録係を呼びなさい」と命じた。


 使用人たちまで、まるで自分の子や孫のように私を見守っていた。


「お嬢様、本日もなんと愛らしい」


「まあ、髪が朝日に透けておりますわ」


「青の姫君……まさにその名の通りでございます」


 物心つく頃には、私はそう呼ばれていた。


 青の姫君。


 母様譲りの澄み渡る空色の髪。


 父様と同じ、深い海を思わせる青い瞳。


 白い肌。整った顔立ち。細い指。小さな唇。


 自分では鏡を見ても、そこまで特別だとは思わなかった。


 鏡の中の少女は、毎朝少し眠そうな顔をして、髪を梳かれる間に欠伸を噛み殺しているだけだったから。


 けれど、周囲の反応を見る限り、どうやら私は美しいらしかった。


 屋敷に来る貴族たちは、私を見るたび一瞬言葉を失った。


 年配の夫人は目を潤ませ、若い令息は頬を赤くし、父親たちは商談のついでのような顔をしながら、しっかりと釣書を置いていった。


 それはもう、山のように。


 本当に、山だった。


 執務室の机に積まれた釣書は、最初こそ整然と重ねられていたが、三日もすれば高さを増し、五日で斜めに傾き、一週間後には父様の書類を押し退けて崩れた。


 その日、父様は珍しく執務室で叫んだ。


「何故、まだ三歳の娘に七十を過ぎた隠居侯爵から釣書が来るのだ!」


 扉の外で聞いていた私は、首を傾げた。


 七十歳。


 それは祖父様より少し若いくらいだろうか。


 結婚というものが何かよく分かっていなかった私は、後で母様に尋ねた。


「母様、七十歳の方と結婚すると、何をするのですか?」


 母様は飲んでいた紅茶を噴きかけた。


 隣にいた侍女長は笑顔のまま固まり、父様は偶然通りかかった廊下で足を止め、そのまま無言で執務室へ戻っていった。


 その日の夕食は、少しだけ空気が重かった。


 今なら分かる。


 父様は大変だったのだ。


 生まれたばかりの赤子から、孫どころかひ孫がいてもおかしくない老人まで。


 あらゆる家から、あらゆる思惑を乗せた縁談が舞い込んできた。


 最初は父様も笑っていた。


「我が娘がそれほど魅力的だということだな」


 母様も楽しそうだった。


「ふふ、けれどフローラはまだ小さいのですよ。皆様、気が早すぎますわ」


 祖父母も笑っていた。


 使用人たちも、誇らしげだった。


 けれど、やがて笑えなくなった。


 釣書だけならまだいい。


 贈り物も増えた。


 宝石、絹、珍しい菓子、魔道具、絵本、異国の人形、香油。


 それらは厳重に確認され、危険がないと判断された物だけが私の手元に届いた。


 だが、危険は贈り物の中にだけあるわけではなかった。


 ある日、屋敷の外壁付近で怪しい男が捕まった。


 また別の日、庭師に扮した刺客が捕らえられた。


 さらに別の日、私の乳母を買収しようとした商人が地下牢へ送られた。


 最初は何も知らなかった。


 大人たちは、私に怖い思いをさせないよう隠していたから。


 けれど子供というものは、大人が思うより周囲を見ている。


 廊下を歩く護衛の数が増えた。


 窓の外に立つ騎士の顔が険しくなった。


 侍女たちの笑顔の裏に、張り詰めたものが混ざるようになった。


 父様が私を抱き上げる腕に、力が入るようになった。


 母様が私の髪を撫でる指先が、少し震えるようになった。


「フローラ」


 ある夜、父様は私を膝に乗せて言った。


「お前は、誰にもやらん」


 私は小さく瞬きをした。


「誰にも、ですか?」


「ああ。どこの馬の骨とも知れぬ者にも、王子にも、老人にも、欲深い貴族にも。お前はずっとここにいればいい」


 父様の声は優しかった。


 けれど、その奥にある何かが、少し怖かった。


 母様は隣で苦笑していた。


「あなた、フローラが困っていますよ」


「困らせてなどいない。私は父として当然のことを言っているだけだ」


「でも、いつかはこの子にも選ぶ日が来ます」


「来ない。婿を取ればいい」


「まあ」


「養子も不要だ。フローラがスプリングを継ぐ。必要な教育はすべて受けさせる。婿は……そうだな、私が選ぶ。いや、選ばない。誰も認めたくない」


「あなた」


 母様が困ったように微笑む。


 私は二人の会話を聞きながら、父様の胸に頬を預けていた。


 あの頃は、まだ温かかった。


 私の世界は、父様の腕と、母様の膝と、祖父母の笑い声と、使用人たちの柔らかな視線でできていた。


 だから、教育が始まった時も、私は疑わなかった。


 これも愛なのだと。


 最初は淑女教育だった。


 姿勢。


 歩き方。


 礼の角度。


 微笑み方。


 扇の扱い。


 視線の置き方。


 紅茶の飲み方。


 言葉遣い。


 沈黙の意味。


 そして、会話における沈黙の使い方。


 私はどれも嫌いではなかった。


 ただ、退屈だった。


 家庭教師の夫人は毎回感心した。


「お嬢様は本当に覚えが早くていらっしゃいます」


「そうですか?」


「ええ。一度教えただけで、これほど完璧に」


「でも、これは覚えればいいだけでは?」


 私がそう言うと、夫人は一瞬言葉に詰まった。


 その顔を見て、私は失敗したのだと思った。


 だから慌てて言い直した。


「えっと……先生の教え方が、お上手だからです」


 夫人は目を丸くした後、嬉しそうに笑った。


 ああ、今のは正解だったのだ。


 そう学んだ。


 勉強も同じだった。


 歴史。


 語学。


 算術。


 領地経営。


 税制。


 治水。


 農政。


 外交史。


 王国法。


 魔物分布。


 薬草学。


 鉱物学。


 地図の読み方。


 手紙の書き方。


 人の顔色の読み方。


 私はそれらを吸い込むように覚えた。


 覚えたくて覚えたのではない。


 覚えられてしまったのだ。


 一度読めば、大体頭に入った。


 二度読めば、ほぼ間違えなかった。


 三度読めば、先生に質問できた。


 先生たちは最初、喜んだ。


「素晴らしい!」


「さすがスプリング公爵家のお嬢様だ!」


「神童ですな!」


 父様も母様も喜んだ。


 祖父様は鼻が高いと言い、祖母様は私を抱き締めた。


 使用人たちは私が試験で満点を取るたび、厨房で小さな祝い菓子を焼いてくれた。


 だから私は頑張った。


 褒められると嬉しかったから。


 父様が笑ってくれるのが嬉しかったから。


 母様が誇らしそうに頬を緩めるのが好きだったから。


 けれど、教育はそこで終わらなかった。


「身を守る術も必要だ」


 父様は言った。


「この子は狙われやすい。護衛だけでは足りぬ」


 そうして、武術の訓練が始まった。


 最初に渡された木剣は、私の腕には少し重かった。


 手の皮が剥けた。


 足がもつれた。


 何度も転んだ。


 膝に擦り傷ができ、肘に痣ができ、夜になると布団の中で体がじんじん痛んだ。


 だけど、訓練場で剣を振るうのは嫌いではなかった。


 風を切る音が好きだった。


 足裏に伝わる地面の硬さが好きだった。


 何より、剣の軌道には答えがあった。


 礼儀や社交のように相手の機嫌で正解が変わることはない。


 振る。


 踏み込む。


 避ける。


 受ける。


 返す。


 体が覚えれば、剣は応えてくれた。


 魔法もそうだった。


 魔力を感じる。


 流す。


 練る。


 形にする。


 火、水、風、土、光。


 初級魔法から始まり、中級、上級へ。


 詠唱を覚え、魔法陣を描き、属性の相性を学び、魔力の効率化を研究した。


 私は魔法が好きだった。


 魔法は美しかった。


 指先に集まる光。


 空気に描かれる紋様。


 世界の理に触れるような感覚。


 詠唱を省略できるようになった時、魔法師の先生は涙を流して喜んだ。


 無詠唱で上級魔法を発動した時、先生は腰を抜かした。


 片手で同時に三つの魔法を制御した時、先生は翌日から来なくなった。


 別の先生が来た。


 その先生も来なくなった。


 また別の先生が来た。


 その先生は三日で辞表を出した。


 父様は笑っていた。


「我が娘は天才だな!」


 母様も笑っていた。


「ええ。本当に、すごい子」


 私はその言葉が嬉しかった。


 天才。


 最初は、甘い響きだった。


 褒め言葉だった。


 愛されるための証明だった。


 だから、私はもっと頑張った。


 もっとできるようになれば、もっと喜んでもらえると思った。


 そして十歳になる頃には、私はすべての教育を終えていた。


 淑女教育は完璧。


 勉学は全科目満点。


 武術では大人の騎士数人を相手にしても負けない。


 魔法は上級魔法を片手無詠唱で扱える。


 領地経営の問題を解けば、父様の補佐官が青ざめた。


 薬草を調合すれば、宮廷薬師が首を傾げながら何度も瓶を覗き込んだ。


 料理は厨房長に止められながら覚えた。


 裁縫は侍女に教わり、三日後には自分のリボンを縫った。


 できることが増えるたび、私は思った。


 きっと、皆が喜んでくれる。


 もっと褒めてくれる。


 もっと笑ってくれる。


 でも、ある日を境に、何かが変わった。


 きっかけは、たぶん訓練場だった。


 その日、父様は騎士団長と魔法師団長を屋敷に招いていた。


 私の実力を測るためだと聞かされていた。


 訓練場には、多くの人が集まっていた。


 父様。


 母様。


 祖父母。


 騎士たち。


 魔法師たち。


 使用人たち。


 皆が私を見ていた。


 以前なら、その視線は温かかった。


 その日は違った。


 期待があった。


 好奇心があった。


 少しの不安もあった。


 私は木剣を握り、礼をした。


 相手は騎士団長。


 王国最強の剣士の一人。


 大きな体。分厚い胸板。灰色の髭。傷だらけの手。


 彼は優しく笑った。


「お嬢様、怖がらずともよい。これは試合です。怪我はさせません」


「はい。よろしくお願いいたします」


 私はそう答えた。


 合図が鳴った。


 次の瞬間、騎士団長が地面に転がっていた。


 静まり返った。


 訓練場を囲んでいた人々の呼吸が、一斉に止まったようだった。


 私自身も驚いた。


 あまりにも簡単だったからではない。


 皆が、あまりにも静かだったから。


 私は木剣を下ろし、騎士団長に駆け寄った。


「大丈夫ですか?」


「あ、ああ……」


 騎士団長は目を見開いたまま、空を見上げていた。


「今、何が……」


「踏み込みが少し大きかったので、軸足を払いました」


 私が説明すると、彼はゆっくりとこちらを見た。


 その目に、私は初めて知る感情を見た。


 恐怖だった。


 次に魔法師団長との模擬戦が行われた。


 魔法障壁を張り、制限付きで魔法を撃ち合う。


 私は先生たちに教わった通り、相手の魔力の流れを読み、詠唱の前に属性を推測し、相殺し、足元に拘束陣を置いた。


 魔法師団長は一歩も動けず、空中に展開した私の魔法陣を見上げたまま降参した。


 また、静かになった。


 風が吹いた。


 訓練場の砂が少し舞い、私の頬に触れた。


 遠くで鳥が鳴いた。


 私は振り返った。


 父様を見た。


 母様を見た。


 褒めてほしかった。


 いつものように笑ってほしかった。


 けれど、父様は笑っていなかった。


 母様も、笑っていなかった。


 祖父様は口元を押さえ、祖母様は胸に手を当てていた。


 使用人たちは視線を逸らした。


 誰も何も言わなかった。


「……父様?」


 私が呼ぶと、父様の肩がぴくりと揺れた。


 その反応を見て、胸の奥が冷たくなった。


 私は何か失敗したのだろうか。


 手加減が足りなかったのだろうか。


 でも、怪我はさせていない。


 ちゃんと模擬戦の範囲に収めた。


 魔法も威力を抑えた。


 騎士団長も魔法師団長も生きている。


 殺していない。


 なのに。


「フローラ」


 父様の声は、硬かった。


「今日は……もう休みなさい」


「はい」


 私は礼をした。


 その場を離れる時、背中に刺さる視線を感じた。


 その日から、屋敷の空気は変わった。


 廊下ですれ違う使用人が、私を見ると一瞬だけ息を呑む。


 侍女が髪を梳かす手を震わせる。


 騎士が私の近くに立つ時、剣の柄に触れる。


 家庭教師たちは目を合わせなくなる。


 食卓では会話が減った。


 父様は忙しいと言って、私と会う時間を減らした。


 母様は体調が悪いと言って、寝室にいることが増えた。


 祖父母は領地の静養地へ移った。


 使用人たちは優しかった。


 優しかったけれど、以前とは違った。


 私が近づくと、ほんの少しだけ体が強張る。


 私が笑うと、笑い返してくれる。


 けれど、その笑顔は薄い硝子のようだった。


 触れれば割れてしまいそうだった。


 最初は、理由が分からなかった。


 だから私は、もっと良い子でいようとした。


 授業では間違えなかった。


 訓練では力を抑えた。


 魔法はなるべく使わなかった。


 食事の時は静かにした。


 母様の部屋の前に花を置いた。


 父様の執務室には入らないようにした。


 使用人には必ず礼を言った。


 けれど、何も戻らなかった。


 ある夜、私は廊下で父様と母様の声を聞いた。


 聞くつもりはなかった。


 母様に届けるために摘んだ花を持って、寝室へ向かっていただけだった。


 扉の隙間から、声が漏れていた。


「あの子は危険だ」


 父様の声だった。


 私の足が止まった。


「あなた……」


 母様の声は掠れていた。


「フローラは、あなたの娘です」


「分かっている!」


 父様が声を荒らげた。


 私は花束を抱き締めた。


「分かっているとも! だからこそ、どうすればいいか分からないのだ!」


「まだ十歳なのですよ」


「十歳で騎士団長を倒す子供がどこにいる! 魔法師団長を封じる子供がどこにいる! あの子は……あれは……」


 沈黙。


 長い沈黙だった。


 私は息を止めていた。


 廊下の燭台の火が、小さく揺れた。


 花束から甘い匂いがした。


 母様が震える声で言った。


「化け物だと、言うのですか」


 父様は答えなかった。


 答えなかったことが、答えだった。


 私の手から、花束が落ちた。


 小さな音だった。


 けれど扉の向こうの会話が止まった。


 私は拾わず、逃げた。


 自室に戻り、扉を閉めた。


 寝台に座り、膝の上で手を握った。


 泣かなかった。


 涙は出なかった。


 ただ、胸の中に何もない場所ができた。


 ぽっかりと穴が空いたようだった。


 化け物。


 その言葉は、思ったよりも冷たかった。


 それから父様は、屋敷に帰らない日が増えた。


 外に女性を作ったと、使用人たちが噂していた。


 母様はますます痩せた。


 青白い顔で寝台に横たわり、私が部屋に入ると微笑もうとした。


 けれど、その目の奥には怯えがあった。


 母様まで。


 そう思った瞬間、私は部屋に入るのをやめた。


 母様を苦しめたくなかった。


 私を見てつらいなら、見ない方がいい。


 そう考えた。


 今思えば、私は馬鹿だった。


 十歳の子供だった。


 それでも当時の私は、自分なりに正しいと思った。


 会わないことが優しさなのだと。


 父様とも、ほとんど話さなくなった。


 食卓には一人分の皿だけが置かれるようになった。


 広い食堂に、私一人。


 銀の食器が音を立てるたび、天井に反響した。


 以前は父様が今日の出来事を話し、母様が微笑み、祖父様が昔話をし、祖母様が菓子を勧めてくれた。


 今は、スープの湯気だけが揺れている。


 私はそこで初めて気づいた。


 私は、友達がいなかった。


 同年代の子供と遊んだことがない。


 手紙を交わす相手もいない。


 秘密を打ち明ける相手もいない。


 泣きたい時に隣に座ってくれる誰かもいない。


 私は青の姫君だった。


 スプリング公爵家の一人娘だった。


 天才だった。


 けれど、ただのフローラとして笑い合える相手は、一人もいなかった。


 縁談は山ほど来た。


 けれど、恋というものも知らなかった。


 誰かを好きになるとは、どういうことなのか。


 手を繋ぐと、何が嬉しいのか。


 誰かに会いたくて胸が苦しくなるとは、どんな感覚なのか。


 舞踏会で踊る相手を見て頬を染める令嬢たちの気持ちが、私には分からなかった。


 知らないまま、私は屋敷の中で一人になった。


 そして、ある朝。


 父様に呼ばれた。


 執務室だった。


 窓の外は曇っていた。


 空は低く、灰色の雲が屋敷の尖塔に触れそうだった。


 父様は机の向こうに座っていた。


 目の下に濃い隈があった。


 以前より痩せていた。


 髪には白いものが混じっていた。


 私は淑女として礼をした。


「お呼びでしょうか、父様」


「……ああ」


 父様はしばらく黙っていた。


 机の上には書類が数枚。


 封蝋のついた命令書。


 地図。


 鍵。


 小さな袋。


 それらを見た時、胸の奥が静かになった。


 何かが終わるのだと、分かった。


「フローラ」


「はい」


「お前のために、別邸を用意した」


「別邸、ですか」


「領地の端だ。森に囲まれていて静かだ。お前はしばらく、そこで暮らしなさい」


 父様は私を見なかった。


 書類を見ていた。


 まるで、そこに答えが書いてあるかのように。


「しばらくとは、どれくらいでしょうか」


「……必要なだけだ」


「母様には、お会いできますか」


 父様の指がぴくりと動いた。


「今は体調が悪い」


「では、お手紙を」


「控えなさい」


「……はい」


 私は頷いた。


 父様は鍵と袋を差し出した。


「屋敷は小さいが、生活に必要なものはある。金も入れてある。困ることはない」


 嘘だと思った。


 けれど私は、そう言わなかった。


「使用人は?」


「……いない」


「護衛は?」


「いない」


「家庭教師は?」


「不要だろう」


 父様の声に、ほんの少し棘が混じった。


 私は鍵を受け取った。


 冷たかった。


 金属の冷たさが、掌から腕へ、胸へと伝わっていく。


「分かりました」


 それだけ言うと、父様はようやく顔を上げた。


 私を見る。


 その目に、愛がなかったわけではない。


 きっと、あった。


 でも、愛よりも恐怖の方が大きかった。


 父様は私を怖がっていた。


 自分の娘を。


「フローラ」


「はい」


「恨むな」


 不思議な言葉だった。


 謝罪ではなかった。


 言い訳でもなかった。


 命令のようで、願いのようでもあった。


 私は少し考えた。


 恨む。


 その感情が胸の中にあるか探した。


 怒り。


 悲しみ。


 寂しさ。


 困惑。


 いろいろなものはあった。


 けれど、恨みはよく分からなかった。


「分かりません」


 正直に言った。


 父様の顔が歪んだ。


「私は、父様を恨めばいいのですか?」


「……もう行きなさい」


「はい」


 私は礼をした。


 執務室を出る。


 扉が閉まる直前、父様が何か言いかけた気がした。


 けれど、言葉にはならなかった。


 その日のうちに、私は屋敷を出た。


 見送りは少なかった。


 侍女長と、数人の使用人。


 彼らは皆、泣きそうな顔をしていた。


 けれど誰も私を止めなかった。


「お嬢様……」


 侍女長が震える声で言った。


 私の髪を幼い頃から梳いてくれた人だった。


 彼女の手はいつも温かかった。


 その手が今、胸の前で固く握られている。


「どうか、お体を大切に」


「はい。あなたも」


 私は微笑んだ。


 淑女教育で習った通りの、きれいな微笑みだったと思う。


 侍女長は泣いた。


 その涙を見ても、私は何と言えばいいか分からなかった。


 友達なら、抱き締めるのだろうか。


 家族なら、泣いて縋るのだろうか。


 でも私は公爵令嬢で、彼女は使用人で。


 そして私は、化け物で。


 距離の測り方が分からなかった。


 だからただ、礼をした。


 馬車に乗る。


 扉が閉まる。


 屋敷が遠ざかる。


 窓の外で、長く暮らした白い館が少しずつ小さくなっていった。


 庭園。


 噴水。


 薔薇のアーチ。


 温室。


 訓練場。


 母様の部屋の窓。


 父様の執務室。


 すべてが遠ざかる。


 私は膝の上で手を重ねた。


 泣かなかった。


 泣き方が、分からなかった。


 馬車は長い時間走った。


 舗装された道を抜け、街を越え、村を越え、畑を越え、やがて森の道に入った。


 車輪が石を踏むたび、車体が揺れた。


 窓の外は木ばかりになった。


 木。


 木。


 木。


 本当に、木ばかり。


 枝葉が空を覆い、昼なのに薄暗い。


 鳥の声が遠くで聞こえた。


 時折、茂みの奥で何かが動く気配がした。


 護衛はいない。


 御者も口数が少なかった。


 彼は屋敷から派遣された人ではなく、途中の村で雇われた男だった。


 私の身分を知らないのか、知っていて知らないふりをしているのか。


 どちらでもよかった。


 夕方近くになって、馬車が止まった。


「着きました」


 御者が短く言った。


 扉を開けると、湿った土の匂いがした。


 目の前にあったのは、屋敷ではなかった。


 別邸という言葉から想像するような、庭付きの小館でもなかった。


 小さな一軒家だった。


 木造の壁。


 古びた屋根。


 小さな窓。


 傾いた柵。


 庭と呼ぶには狭い土の場所。


 井戸。


 畑らしき荒れた区画。


 周囲には森。


 人の気配はない。


 風が吹くと、木々がざわざわと鳴った。


 御者は荷物を下ろすと、すぐに帰っていった。


 馬車の音が遠ざかる。


 蹄の音が小さくなる。


 やがて完全に消える。


 私は一人になった。


 森の中に、十歳の少女が一人。


 普通なら、泣くところだと思う。


 あるいは怒るところかもしれない。


 助けを呼ぶ。


 父を恨む。


 母を恋しがる。


 屋敷に帰りたいと叫ぶ。


 けれど私は、しばらく家を見つめた後、鍵を取り出した。


「まずは中の確認ね」


 声に出すと、少し落ち着いた。


 扉を開ける。


 ぎい、と音がした。


 中は埃っぽかった。


 小さな居間。


 台所。


 寝室。


 物置。


 暖炉。


 家具は最低限。


 寝台は固そうで、机は傷だらけ。


 棚には古い鍋と皿が数枚。


 水瓶は空。


 食料は乾いたパンと塩漬け肉が少し。


 金貨の袋は、十歳の少女が一人で数ヶ月暮らすには足りるかもしれないが、ここは森の中だ。


 店がない。


 買う相手がいない。


 つまり、あまり意味がない。


 私は部屋の真ん中に立ち、考えた。


 状況を整理する。


 一、私はスプリング公爵家から離された。


 二、使用人はいない。


 三、護衛もいない。


 四、周囲は森。


 五、食料は少ない。


 六、水は井戸がある。


 七、魔物がいる可能性が高い。


 八、帰れと言われていない。


 九、迎えが来る予定も聞いていない。


 十、私はたぶん、捨てられた。


「……なるほど」


 私は頷いた。


 捨てられた。


 声に出すと、思ったよりも軽い言葉だった。


 胸は痛んだ。


 痛んだけれど、痛いだけではお腹は膨れない。


 夜になれば寒くなる。


 森には獣も魔物もいる。


 泣くのは後でもできる。


 たぶん。


 私は荷物を置き、家の外に出た。


 まず結界。


 魔力を広げ、家と庭を包む。


 外敵の侵入を防ぐための基礎結界。


 さらに魔物避け。


 虫除け。


 雨漏り防止。


 温度調整。


 防音は……少しだけ。


 完全に静かだと逆に怖い。


 木々の音くらいは聞こえた方がいい。


 地面に指で魔法陣を描き、井戸水の浄化を設定する。


 畑の土を調べる。


 痩せている。


 放置されていたのだろう。


 腐葉土を混ぜれば改善できる。


 魔力を流しすぎると不自然に育つので注意。


 森の魔物分布を確認するため、簡易索敵を展開。


 近くに小型の獣が三。


 魔物反応が二。


 大きな反応は遠い。


 今夜は問題なさそう。


 私は空を見上げた。


 日が傾いていた。


 木々の隙間から差し込む夕陽が、細い金色の線になって地面に落ちている。


 屋敷の庭とは違う。


 整えられていない。


 誰かの手で美しく飾られていない。


 でも、不思議と嫌ではなかった。


 風が葉を揺らす。


 土の匂いが濃い。


 遠くで川の音がする。


「川があるのね」


 水源は大事だ。


 明日確認しよう。


 その日は、残っていたパンと塩漬け肉を食べた。


 固かった。


 屋敷の料理とは比べものにならない。


 けれど、空腹だったから美味しかった。


 寝台はやはり固かった。


 毛布も薄い。


 暖炉に火を入れ、結界の調整をし、窓の鍵を確認する。


 それから寝台に横になった。


 天井の木目を見つめる。


 暗い。


 静か。


 広すぎた屋敷とは違い、この家は狭い。


 狭いのに、ひどく空っぽだった。


 私は目を閉じた。


 父様の声が蘇る。


 恨むな。


 母様の怯えた目が浮かぶ。


 化け物。


 胸がきゅっと痛んだ。


 私は寝返りを打った。


 誰かに手を握ってほしいと思った。


 でも、誰もいない。


 友達がいれば、こういう時、何か言ってくれるのだろうか。


 大丈夫、とか。


 寂しいね、とか。


 一緒にいるよ、とか。


 そういう言葉を、誰かがくれるのだろうか。


 私はそれを想像しようとした。


 うまくできなかった。


「……友達って、どうやって作るのかしら」


 誰も答えない。


 暖炉の薪が、ぱちりと鳴った。


 その音を聞きながら、私は眠った。


 翌朝。


 私は空腹で目を覚ました。


 そして理解した。


 悲しむにも体力がいる。


 まず食料だ。


 井戸水を飲み、髪を結び、動きやすい服に着替える。


 昨日までの公爵令嬢らしいドレスでは、森を歩けない。


 荷物の中にあった簡素なワンピースを着て、裾を少し上げ、腰に短剣を差す。


 外に出ると、朝の森は冷たかった。


 空気に湿り気があり、草の葉に露が光っている。


 鳥の声。


 虫の羽音。


 遠くの川音。


 屋敷の朝とは全然違う。


 侍女がカーテンを開ける音もない。


 銀盆に乗せられた朝食もない。


 父様の新聞をめくる音も、母様の紅茶の香りもない。


 でも、朝は朝だった。


 太陽は昇る。


 お腹は空く。


 なら、動くしかない。


 私は川を探した。


 索敵と地形把握を使えば難しくない。


 十分ほど森を歩くと、小さな川に出た。


 水は澄んでいて、石の上をさらさら流れている。


 魚影が見えた。


「食べられる魚ね」


 毒はない。


 骨は多そう。


 味は……分からない。


 私は川辺にしゃがみ、罠を作った。


 普通の罠ではない。


 魔法陣を水中に固定し、魚が通ると軽く眠らせ、鱗と内臓を処理し、冷却保存用の小箱へ転送する。


 そこまで組んでから、私は少し考えた。


「……やりすぎかしら」


 たぶん、やりすぎだ。


 でも一人で暮らすなら効率は大事。


 屋敷の料理人ならもっと上手に捌くのだろうけれど、いないものは仕方ない。


 私は罠を起動させた。


 水面が一瞬だけ淡く光る。


 すぐに魚が一匹、魔法陣にかかった。


 ぴち、と跳ねたかと思うと、処理され、小箱に送られる。


「よし」


 朝食は確保できた。


 次は畑。


 家に戻り、土を耕す。


 鍬は古かったが、魔法で補強すれば使えた。


 土を掘り返し、石を取り除き、腐葉土を作るため森の落ち葉を集める。


 薬草学と農政学の知識を総動員し、土壌改良の計画を立てる。


 問題は種だった。


 家に残っていたのは古い豆と芋が少し。


 発芽するか怪しい。


 私は豆を手に取り、魔力で状態を調べた。


 生命力は弱い。


 でも、完全に死んではいない。


「なら、いけるわね」


 品種改良は慎重にしなければならない。


 やりすぎると、普通の植物ではなくなる。


 私は豆と芋の生命力を整え、成長しやすいよう少しだけ性質を補強した。


 寒さに強く。


 病気に強く。


 実りを多く。


 味は……甘めがいい。


 さらに、森で見つけた野草のうち食用可能なものを数種類移植する。


 ついでに果樹も欲しい。


 年中実がなる木があれば便利だ。


 ただし、自然界の理から外れすぎると周囲の魔力循環に影響が出る。


 季節ごとに違う実をつける程度なら許容範囲だろう。


 私は小さな苗を作り、畑の端に植えた。


 昼過ぎには、畑らしきものができていた。


 汗を拭う。


 手は土で汚れている。


 爪の間にも泥が入っている。


 公爵令嬢としては、きっとあり得ない姿だ。


 でも、誰も見ていない。


 怒る侍女もいない。


 礼儀作法の先生もいない。


 父様もいない。


 母様もいない。


 私は泥だらけの手を見つめた。


 少しだけ、笑った。


「……自由、なのかしら」


 捨てられた。


 でも、自由でもある。


 その二つが同じ場所にあるのは、不思議だった。


 昼食は魚を焼いた。


 塩を振っただけ。


 少し焦げた。


 でも美味しかった。


 夕方には小型の魔物が結界に触れた。


 角兎だった。


 額に小さな角を持つ、攻撃的な兎型魔物。


 食べられる。


 私は短剣を持って外に出た。


 角兎は結界の外で威嚇していた。


 赤い目。


 鋭い角。


 普通の子供なら泣くかもしれない。


 私は少し悩んだ。


「一匹だと、今日食べる分と干し肉に少し……」


 角兎が突進してきた。


 私は避け、首元を軽く叩いた。


 魔物は気絶した。


 殺すのは一瞬だった。


 血抜き。


 解体。


 肉の保存。


 皮の処理。


 すべて本で読んだ通りにやった。


 少し手間取ったが、できた。


 夕食は角兎の肉と野草のスープ。


 味は薄かった。


 でも温かかった。


 その夜、私は机に向かい、生活計画を書いた。


 食料確保。


 畑の整備。


 家の修繕。


 衣服の管理。


 防衛結界の強化。


 周辺地図作成。


 薬草採取。


 保存食作り。


 薪の確保。


 やることは多い。


 多いけれど、なぜか嫌ではなかった。


 屋敷で詰め込まれていた勉強とは違う。


 これは、自分が明日生きるための作業だった。


 誰かに褒められるためではない。


 父様に認められるためでもない。


 母様に笑ってもらうためでもない。


 私が、私のためにすること。


 それが少しだけ、不思議で。


 少しだけ、嬉しかった。


 森での生活は、思ったより早く整った。


 一週間で家の修繕が終わった。


 雨漏りは魔法で塞ぎ、床板は補強し、窓には防寒と防犯の術式を刻んだ。


 二週間で畑が芽吹いた。


 豆は元気に蔓を伸ばし、芋は土の中で育ち始めた。


 野草は根付き、果樹の苗も小さな葉を広げた。


 三週間で保存食が増えた。


 干し肉。


 干し魚。


 薬草茶。


 木の実の粉。


 野草の塩漬け。


 一ヶ月後には、私は森の中で普通に暮らしていた。


 普通に。


 そう、私にとっては普通だった。


 朝起きて、井戸水で顔を洗う。


 畑を見る。


 川の罠を確認する。


 森を歩き、薬草を摘む。


 魔物が来れば倒す。


 昼に料理をする。


 午後は家を直したり、本を読んだり、魔法陣を改良したりする。


 夕方にはお茶を淹れる。


 夜は暖炉の前で裁縫をする。


 衣服も自分で作るようになった。


 魔力で糸を生成し、森で採れる繊維と混ぜ、布を織る。


 最初は不格好だった。


 袖の長さが左右で違った。


 裾も少し曲がった。


 でも、誰も笑わなかった。


 笑う人がいないのは寂しいことかもしれない。


 でも、失敗を怖がらなくていいのは楽だった。


 私は少しずつ、自分の暮らしを作っていった。


 ただ一つ、困ったことがあった。


 話し相手がいない。


 森には鳥がいる。


 兎もいる。


 鹿もいる。


 魔物もいる。


 でも、人はいない。


 私は自分で思っていた以上に、誰かの声に飢えていた。


 屋敷では一人だった。


 でも、完全な無音ではなかった。


 使用人の足音。


 厨房の音。


 廊下の話し声。


 遠くで響く笑い声。


 父様の怒鳴り声。


 母様の咳。


 誰かがどこかにいる気配があった。


 ここには、それがない。


 森の音はある。


 風も、水も、鳥も、虫も。


 けれど人の声はない。


 ある日、私は畑の豆に話しかけていた。


「今日はよく伸びたわね」


 豆は答えない。


「でも、そちらに伸びると支柱が足りないわ」


 答えない。


「……友達というのは、こういう感じではないわよね」


 私は真剣に考えた。


 友達。


 同年代。


 会話。


 遊ぶ。


 秘密を共有する。


 お茶を飲む。


 一緒に笑う。


 本で読んだことはある。


 けれど実践したことはない。


 そもそも、どう始めるのだろう。


 友達になってください、と言うのだろうか。


 それとも契約書を書くのだろうか。


 契約なら分かる。


 目的、期間、義務、権利、違約時の対応。


 でも友達とは、そういうものではなさそうだ。


「難しいわね」


 私は豆に言った。


 豆は風に揺れた。


 少しだけ、返事をしてくれたように見えた。


 恋愛についても、時々考えた。


 というのも、荷物の中に恋愛小説が一冊入っていたからだ。


 誰が入れたのかは分からない。


 侍女長だろうか。


 表紙には、金髪の騎士と桃色のドレスを着た令嬢が描かれている。


 内容は、身分違いの二人が困難を乗り越えて結ばれる話だった。


 私は暖炉の前で読みながら、何度も首を傾げた。


 騎士が令嬢に「あなたをお慕いしております」と告げる。


 令嬢は頬を染めて涙ぐむ。


 私は本を閉じた。


「慕う……尊敬とは違うのかしら」


 もう一度読む。


 手が触れ合う場面で、令嬢の胸が高鳴る。


 私は自分の手を見た。


 誰かと手が触れた記憶を探す。


 父様。


 母様。


 侍女長。


 武術の先生。


 医師。


 それから……騎士団長を投げた時。


 胸は高鳴らなかった。


 むしろ相手の重心の方が気になった。


「恋愛、難しいわ」


 私は本に栞を挟んだ。


 魔法陣より難しい。


 領地経営より難しい。


 税制よりも、外交よりも、恋愛小説の登場人物の心の動きは分かりにくかった。


 でも、少しだけ羨ましかった。


 誰かに会いたいと思うこと。


 誰かに名前を呼ばれて嬉しくなること。


 誰かが隣にいるだけで、世界が違って見えること。


 そういうものが本当にあるなら。


 一度くらい、知ってみたいと思った。


 でも、この森には誰もいない。


 だから私は本を閉じ、湯を沸かし、お茶を淹れた。


 今日も一人。


 明日もたぶん一人。


 それでも生活は続く。


 私は森暮らしに適応した。


 適応しすぎたと言ってもいい。


 半年が過ぎる頃には、家はもう民家ではなくなっていた。


 外から見れば小さな一軒家。


 しかし内部には空間拡張を施し、貯蔵庫、作業室、書斎、浴室まで作った。


 庭には畑。


 果樹。


 薬草園。


 小さな花壇。


 井戸の横には洗い場。


 結界の内側だけは、穏やかな空気が流れている。


 魔物は来るが、結界に触れた時点で大抵逃げる。


 逃げないものは食材になる。


 大型魔物も二度来た。


 一度目は森猪。


 家より大きかった。


 肉が多く、保存に苦労した。


 二度目は影狼。


 毛皮が温かかった。


 どちらも私にとっては少し手間のかかる来客だった。


 私は森の地図も作った。


 川。


 泉。


 薬草群生地。


 魔物の巣。


 危険区域。


 木の実が採れる場所。


 見晴らしのいい丘。


 その丘はお気に入りになった。


 晴れた日にそこへ行くと、遠くにスプリング公爵領の町が見える。


 さらに遠くには、屋敷の尖塔らしきものも見えた。


 私は時々そこに座り、町を眺めた。


 帰りたいかと聞かれれば、分からない。


 屋敷には思い出がある。


 父様と母様が笑っていた頃の記憶もある。


 でも、今戻ったところで、私はまた恐れられるだけだろう。


 それなら、この森の方がいい。


 豆は逃げない。


 魚は驚かない。


 魔物は襲ってくるが、それは恐怖ではなく本能だ。


 人の目の方が、ずっと痛かった。


 ある日の昼下がり。


 私は畑でトマトを収穫していた。


 赤く艶やかな実が籠に入っていく。


 品種改良の結果、甘味が強く、皮が薄く、日持ちもする。


 今年の出来はかなり良い。


「これは乾燥させても美味しそうね」


 そう呟いた時だった。


 結界が震えた。


 魔物ではない。


 人だ。


 しかも複数。


 私は手を止めた。


 森に人が来るのは珍しい。


 迷った猟師か。


 盗賊か。


 公爵家の追手か。


 あるいは、私を始末しに来た誰かか。


 そこまで考えて、私は少し首を傾げた。


「始末するなら、遅すぎるわね」


 半年も放置してから来るのは、計画性がない。


 私は籠を置き、結界の外へ意識を向けた。


 反応は三つ。


 一つは大人。


 二つは子供に近い。


 魔力反応は弱い。


 怪我をしている。


 追われている?


 森の奥から、枝を折る音がした。


 荒い息。


 足音。


 誰かが必死に走っている。


「こっちだ!」


 少年の声。


「待って、もう……!」


 少女の声。


「止まるな! あれが来る!」


 大人の声。


 その後ろから、重い地響き。


 大型魔物だ。


 私は索敵を伸ばした。


 森熊。


 ただの熊ではない。


 魔力を帯びた黒爪熊。


 成獣。


 かなり興奮している。


 人間三人では逃げ切れない。


 私は少し考えた。


 関わらないという選択肢もある。


 結界の中にいれば安全だ。


 彼らがどうなろうと、私の生活には関係ない。


 私は捨てられた身だ。


 人の社会に戻る気もない。


 面倒事は避けたい。


 そう思った。


 思ったのに、足はもう動いていた。


 木々の間を抜ける。


 青い髪が風に流れる。


 畑仕事用の服のまま、私は結界の外へ出た。


 三人が見えた。


 中年の男。


 十五、六歳くらいの少年。


 私と同じか少し上の少女。


 三人とも泥だらけで、顔色が悪い。


 少女は足を引きずっている。


 少年が彼女を支え、男が後ろを振り返りながら剣を構えていた。


 その背後から、黒い巨体が現れる。


 黒爪熊。


 大きい。


 普通の馬車より大きい。


 口から涎を垂らし、赤い目で獲物を睨んでいる。


「逃げてください!」


 少年が私を見て叫んだ。


 私は少し驚いた。


 知らない相手なのに、私を心配した。


 変な人だ。


「危ないです!」


 少女も叫んだ。


 やっぱり変だ。


 自分の方が危ないのに。


 黒爪熊が咆哮した。


 空気が震える。


 鳥が一斉に飛び立つ。


 男が剣を握り直した。


「子供たちだけでも……!」


 その声には覚悟があった。


 でも、勝てない。


 私は前に出た。


 少年が目を見開く。


「何してるんだ!」


「少し下がってください」


「は!?」


「危ないので」


 私は黒爪熊を見上げた。


 大きい。


 肉は硬そう。


 毛皮は使える。


 爪は素材になる。


 胆は薬になる。


 ただ、興奮状態なので血抜きに注意。


 そんなことを考えていると、黒爪熊が腕を振り上げた。


 男が叫ぶ。


 少女が悲鳴を上げる。


 少年が走り出そうとする。


 私は片手を上げた。


「静かに」


 風が止まった。


 次の瞬間、黒爪熊の巨体が地面に沈んだ。


 殺してはいない。


 重力制御で押さえ、意識を刈り取っただけだ。


 地面が揺れた。


 土煙が上がる。


 森が静まり返る。


 三人は固まっていた。


 私は黒爪熊の状態を確認し、問題ないと判断した。


「大丈夫ですか?」


 振り返って尋ねる。


 誰も答えない。


 少年は口を開けたまま。


 少女は涙目のまま。


 男は剣を構えた姿勢で石像のようになっている。


 ああ。


 まただ。


 私は胸の奥が少し冷えるのを感じた。


 この顔を知っている。


 訓練場で見た顔。


 父様がした顔。


 母様がした顔。


 恐怖。


 やっぱり、人は私を怖がる。


「……すみません」


 私は視線を落とした。


「驚かせましたね」


 沈黙が落ちた。


 森の中で、葉が擦れる音だけがした。


 その沈黙を破ったのは、少年だった。


「す……」


「す?」


「すっげええええええええええええええええええええ!!」


 森に、少年の叫び声が響いた。


 私は思わず瞬きをした。


 恐怖ではなかった。


 少年の目は輝いていた。


 まるで珍しい宝石でも見つけたように、私を見ている。


「今の何!? 魔法!? 剣なしで!? 詠唱もなしで!? 黒爪熊だぞ!? 大人の冒険者五人でも逃げるやつだぞ!? すごい! すごすぎる!」


「えっと……」


 困った。


 怖がられると思っていたので、褒められる準備をしていなかった。


 少女も震えながら言った。


「あ、ありがとうございます……助かりました……」


 男も我に返り、慌てて頭を下げた。


「命の恩人です。本当に、ありがとうございます」


 三人が頭を下げる。


 私はどうすればいいか分からず、少しだけ後ずさった。


 感謝されるのは久しぶりだった。


 屋敷でも礼は言われていた。


 でもそれは、使用人としての礼儀だった。


 今の言葉は違う。


 本当に、私に向けられていた。


「あの……頭を上げてください」


 私が言うと、三人は顔を上げた。


 少年が一歩近づく。


「君、名前は?」


「フローラです」


「フローラ! 俺はリオ! こっちは妹のミナで、叔父のガルド!」


「兄妹、ですか」


「うん!」


 リオと名乗った少年は、まだ興奮している。


 少女、ミナは恥ずかしそうに礼をした。


 ガルドは警戒を解かず、それでも私への敵意はなかった。


「君はこの森に住んでいるのか?」


「はい」


「一人で?」


「はい」


 三人の顔が変わった。


 驚き。


 困惑。


 心配。


 恐怖ではない。


 心配。


 私はその違いに戸惑った。


「一人って……家族は?」


 リオが尋ねる。


 私は少しだけ黙った。


 森の空気が肌に触れる。


 父様の声が遠くで響く。


 恨むな。


「いません」


 私は答えた。


「ここでは、一人です」


 ミナが唇を噛んだ。


 ガルドが眉を寄せた。


 リオは何か言おうとして、けれど言葉を選んでいるようだった。


 その沈黙が、少し痛かった。


 だから私は話題を変えた。


「怪我をしていますね。治療します」


「え、いや、そこまでしてもらうわけには」


「放置すると腫れます」


 私はミナの足元にしゃがんだ。


 足首を捻っている。


 骨は無事。


 靭帯に軽い損傷。


 治癒魔法で治せる。


「触れます」


「あ、はい……」


 ミナの足首に手をかざす。


 淡い光。


 腫れが引く。


 痛みも消える。


 ミナは目を丸くした。


「痛くない……」


「しばらく走らない方がいいです」


「ありがとう……ございます」


「どういたしまして」


 私は立ち上がった。


 リオがまた目を輝かせた。


「治癒魔法も使えるの!?」


「少しだけ」


「少しだけ!?」


 ガルドが小さく咳払いした。


「フローラ殿。重ね重ね感謝します。我々は薬草採取に来たのですが、黒爪熊に遭遇してしまいまして」


「薬草ですか」


「はい。村で熱病が出ており、薬師に頼まれたものを探していました」


「何の薬草ですか?」


 ガルドが名前を告げた。


 私は頷いた。


「あります」


「本当ですか!」


「家の薬草園に」


 三人がまた固まった。


「薬草園?」


「はい。よければ分けます」


 私は結界の方へ歩き出した。


 三人は顔を見合わせ、おずおずとついてくる。


 結界を通る時、私は一時的に通行許可を出した。


 リオが感心したように周囲を見る。


「うわ……空気が違う」


「結界内なので」


「結界ってこんな簡単に張れるものなのか?」


「簡単ではないのですか?」


「簡単じゃないよ!」


 リオの反応は大きい。


 少しうるさい。


 でも、不快ではなかった。


 家が見えると、三人はさらに驚いた。


 小さな家。


 整った畑。


 果樹。


 薬草園。


 花壇。


 干し肉用の棚。


 薪置き場。


 井戸。


 洗い場。


 森の中にぽつんとある、私の暮らし。


 ミナが小さく呟いた。


「きれい……」


 私はその言葉に、胸が少し温かくなった。


「そうですか?」


「はい。すごく」


 きれい。


 この場所を、そう言ってくれる人がいるとは思わなかった。


 私は薬草園から必要な草を摘み、束にする。


 ついでに解熱用の調合薬も作った。


 ガルドは恐縮しきりだった。


「こんなにいただいてしまっては……」


「村で必要なのでしょう?」


「ですが」


「代金は不要です」


「いえ、そういうわけには」


 私は考えた。


 お金はあっても使う場所がない。


 食料もある。


 素材もある。


 今欲しいもの。


 私は少し悩み、リオたちを見た。


「では、一つ教えてください」


「何でしょう」


「友達は、どうやって作るのですか?」


 沈黙。


 風が吹いた。


 畑の豆が揺れた。


 リオが目を丸くし、ミナが口元を押さえ、ガルドが何とも言えない顔をした。


 私

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