第47話 青の姫君、言葉の畝を作る
翌朝、私は畑へ出る前に、しばらく玄関の内側で立っていた。
外は明るい。
森はいつものように朝を迎えている。
鳥が鳴き、葉が揺れ、遠くで小川が流れている。
何も起きていない朝。
けれど、昨日の枝の折れる音が、まだ耳の奥に残っていた。
ぱきり。
小さな音だった。
でも、自然の音ではないように感じた。
誰かがいたのかもしれない。
見られていたのかもしれない。
公爵家の使いが、もう村の外縁近くまで来ているのかもしれない。
私は花守り布の端を握った。
布には三つの芽がある。
アオジロウ。
ムラマル。
モリタン。
畑の記録。
村の記録。
私が待った証。
その布をかぶっていると、少しだけ息がしやすい。
けれど、布は壁ではない。
外からの視線を完全に防げるわけではない。
いつか、見られる。
いつか、問われる。
あなたは誰ですか、と。
なぜ森にいるのですか、と。
スプリング公爵家の令嬢ではありませんか、と。
そう聞かれた時、私は何と答えるのだろう。
私は玄関の戸に手を置いたまま、しばらく動けなかった。
怖い。
けれど、畑を見なければならない。
怖い朝でも、芽は育つ。
私は息を数えた。
一つ、吸う。
二つ、吐く。
三つ、戸を開ける。
四つ、外へ出る。
朝の空気が頬に触れた。
少し冷たい。
でも、昨日より乾いている。
私は足元を見ながら畑へ向かった。
青豆一号は、新葉をさらに伸ばしていた。
アオジロウは葉の縁が少し開き、光を受けている。
ムラマルも、ゆっくりと上へ向かっている。
モリタンは小さいままだが、昨日より少し緑が濃くなっているように見えた。
私はしゃがみ、胸の奥に温かさが戻るのを感じた。
「おはようございます」
声に出す。
「今日も、全員いますね」
それだけで、少し落ち着く。
私は記録板を取り出した。
青豆一号、古い葉離脱後五日目。新葉良好。
アオジロウ、葉展開。朝日を受ける。
ムラマル、ゆるやかに伸長。
モリタン、緑やや濃い可能性。要継続観察。
観察者、問われた時の言葉を考え始める。
書いてから、手が止まった。
問われた時の言葉。
それは畑の記録ではない。
でも、今日の私には必要な記録だった。
私は今まで、隠れる準備をしてきた。
合図。
道。
荷車。
地下倉庫。
結界。
距離。
合流場所。
けれど、もし逃げ切れなかったら。
もし、声をかけられたら。
もし、目の前に立たれたら。
私は黙るのか。
否定するのか。
逃げるのか。
それとも、何かを言うのか。
その準備は、まだできていない。
私は土を見つめた。
種を植える前に畝を作る。
雨が来る前に排水を整える。
虫が来る前に葉を見る。
なら、言葉も同じかもしれない。
問われてから慌てて掘り返すのではなく、先に畝を作っておく。
言葉の畝。
そう思った瞬間、少しだけ胸が落ち着いた。
答えを決めきる必要はない。
でも、言葉の置き場所を作ることはできる。
朝食を終える頃、リオとミナが来た。
今日はガルドさんが村側で確認をしてから合流するため、二人だけが先に森の家へ来た。
リオは私の顔を見るなり、眉を寄せた。
「眠れたか?」
「はい。少し」
「昨日の音、気になるよな」
「はい」
正直に頷く。
リオは拳を握りかけ、すぐに開いた。
それに気づいて、私は胸が少し熱くなった。
怒らない。
走らない。
近づきすぎない。
彼は昨日、自分で言ったことを覚えている。
ミナが静かに言う。
「今日は、何か考えていましたか?」
「はい」
「何を?」
「もし問われた時の言葉です」
二人が少し黙った。
リオの顔が強張る。
「問われた時って……公爵家の奴らに?」
「はい」
「そんなの、答えなくていい」
反射的な声だった。
でも、すぐにリオは口を閉じた。
ミナがそっと見る。
リオは深く息を吸った。
「……悪い。今のは、俺が怖かった」
その言葉に、私は驚いた。
リオが、自分の怖さを言葉にした。
「リオ」
「答えなくていいって言えば、何か守れる気がした。でも、フローラがどうするかの話だよな」
彼は少し苦しそうに言った。
「俺が決めることじゃない」
胸が熱くなる。
「ありがとうございます」
「礼を言うことか?」
「はい。言い直してくれたので」
リオは照れたように顔を逸らした。
ミナが微笑む。
「言葉の準備は、大切かもしれません」
「はい」
私は記録板を見せた。
観察者、問われた時の言葉を考え始める。
ミナは頷いた。
「今日の村で、村長さんにも相談しましょう」
「はい」
三人で畑を見た。
リオは三つの芽を確認しながら、静かに言った。
「言葉の畝、作るみたいなものか」
私は驚いて彼を見た。
「同じことを考えていました」
「え、ほんとか」
「はい」
リオは少し嬉しそうにした。
「俺、畑で考えるの上手くなってきたかも」
ミナが笑う。
「確かに、最近は畑語が増えましたね」
「畑語って何だよ」
そのやり取りに、私は笑った。
怖い朝でも笑える。
それが、今の私を支えている。
村へ向かう道では、昨日の荷車ではなく、通常の薬草籠を使った。
同じ方法を続けないためだ。
今日はリオが少し後ろ、ミナが横。
村の外でガルドさんが合流する予定。
私は足元と音を数えながら歩いた。
鳥、一回。
小川。
リオの足音。
ミナの衣擦れ。
枝の音はない。
知らない足音もない。
村の入口では、見張りの若者が丸の合図をした。
異常なし。
ただし、彼は小さく言った。
「昨日の場所、朝見たけど、枝が折れてた。人か獣かはまだ分からない」
胸が冷える。
やはり、音は本当にあった。
リオの足音が後ろで一瞬止まる。
でも、彼は何も言わなかった。
私は頷いた。
「分かりました」
共同畑の前では、子供たちが待っていた。
エマが小声で聞く。
「三人、元気?」
「はい。三人とも無事です」
その答えに、子供たちはほっとしたように笑った。
サムが記録板を構える。
ニコが聞く。
「モリタンは?」
「緑が少し濃く見えました。まだ要観察です」
リーナが糸箱を覗く。
「濃い緑、出す?」
「まだ待ちましょう」
「要観察」
「はい」
ルルが私の顔を見た。
「フローラ先生、今日は別の怖い顔」
やはり気づかれた。
私はしゃがみ込む。
「はい。今日は、もし誰かに聞かれた時、何と答えるかを考えています」
エマの顔が強張る。
「公爵家の人?」
「はい。まだ来たわけではありません。でも、考えておこうと思います」
サムが真剣に記録板を持ち直す。
「言葉の準備」
「はい」
今日の授業は、「言葉の畝」になった。
私は木板に畑の絵を描く。
種を植える前に畝を作る。
水が流れる道を作る。
芽が出る場所を空ける。
「言葉も、急に必要になると慌てます」
私は言った。
「怖い時は、言いたくないことまで言ってしまったり、何も言えなくなったりします。だから、前もって置き場所を作っておきます」
エマが首を傾げる。
「置き場所?」
「はい。どんなことは言うのか。どんなことは言わないのか。誰に助けを求めるのか。それを決めておくことです」
ニコが聞く。
「全部言わなくていい?」
「はい。全部言わなくていいです」
ルルが言う。
「嘘は?」
私は少し考えた。
「嘘をつくと、後で苦しくなることがあります。でも、全部を言わないことはできます」
サムが書く。
嘘と、全部言わないことは違う。
リオが後ろで小さく言った。
「それ、大事だな」
ミナも頷く。
私は続けた。
「例えば、私は森の薬師見習いです。これは本当です」
子供たちが頷く。
「でも、私がどこの生まれかを、すぐに全員へ言う必要はありません」
エマが真剣な顔で言う。
「フローラ先生は、フローラ先生」
「はい」
胸が少し熱くなった。
「ありがとうございます」
リーナが花守り布を見て言う。
「布の中には、三つの芽がある。でも外からは全部見えない」
「はい」
「でも、嘘じゃない」
「その通りです」
私は微笑んだ。
サムはそれも記録した。
布の中にはある。外から全部見えない。でも嘘ではない。
村の大人たちも聞いていた。
この話は子供たちだけのものではない。
村全体が、これから必要になる話だった。
昼前、村長さんと話した。
村長宅の横。
リオ、ミナ、ガルドさん、バルドさんもいる。
私は自分から切り出した。
「もし、公爵家の使いに問われた時の言葉を考えたいです」
村長さんは静かに頷いた。
「よい判断だ」
胸が少し軽くなった。
「逃げる準備も、隠れる準備も大切だ。だが、言葉の準備も必要だ」
「はい」
村長さんは一つずつ確認した。
「まず、村の中で誰かに問われた場合。君は直接答えない。私か、その場の大人が答える」
「はい」
「君が答える必要がある場合は、『私は森で薬草を学んでいます』。それだけでよい」
「はい」
「出自を問われたら、『今は村長に身元を預けています』と答えなさい」
私は少し息を呑んだ。
「村長に、身元を」
「そうだ。嘘ではない。君は今、この村と関わり、私が責任を持っている」
胸が熱くなる。
身元を預ける。
それは、とても重い言葉だった。
「よろしいのですか」
村長さんは静かに言った。
「とうに預かっているつもりだ」
私は何も言えなくなった。
リオが小さく笑う。
「よかったな」
ミナは目元を和らげている。
バルドさんは腕を組み、照れ隠しのようにそっぽを向いた。
「嬢ちゃん一人で抱えんな」
ガルドさんも頷く。
「言葉にも護衛が必要です」
その言葉に、胸の奥が震えた。
言葉にも護衛。
私の口から出る言葉を、村の人たちが守ってくれる。
それは、新しい守られ方だった。
午後、私は子供たちと一緒に「言っていい言葉」「言わなくていい言葉」を木板に整理した。
言っていい。
森で薬草を学んでいます。
村長に身元を預けています。
今は答えられません。
村長に聞いてください。
言わなくていい。
森の家の場所。
結界のこと。
畑の詳しい場所。
地下倉庫。
子供たちは真剣だった。
エマが言う。
「私、聞かれても言わない」
「はい。でも、一人で答えようとしないでください」
「大人に言う」
「はい」
ニコが言う。
「村長さんに聞いてください、って言う」
「はい」
ルルが小さく言う。
「怖かったら、手を握る」
「はい」
サムが全部記録する。
リーナは花守り布の端を握っていた。
「言葉にも、布みたいに隠すところがある」
「はい」
「でも、全部隠すわけじゃない」
「はい」
トトが腕を組む。
「難しいけど、分かる気がする」
その言葉が、今日の成果だった。
難しいけど、分かる気がする。
それで十分だ。
夕方前、今日は荷車ではなく、パン屋の女性と村長さんが途中まで一緒に歩く形になった。
私は薬草籠を持つ。
リオは少し後ろ。
ミナは横。
ガルドさんは外で合流。
村の入口を出る時、私は何度も心の中で言葉を唱えた。
私は森で薬草を学んでいます。
村長に身元を預けています。
今は答えられません。
村長に聞いてください。
その言葉は、まだ少しぎこちない。
でも、何もないよりずっといい。
森の外縁で、また小さな物音がした。
昨日より遠い。
枝ではなく、草が擦れる音。
パン屋の女性が自然に言った。
「今日は風が出てきたねえ」
村長さんが穏やかに答える。
「夕方の風だな」
それだけで、私の心は少し落ち着いた。
大人たちが、音を日常に戻してくれる。
ガルドさんの丸の合図。
異常なし。
私たちは歩き続けた。
森の家に戻ると、私は畑へ向かった。
三つの芽は無事だった。
私はしゃがみ、今日のことを報告した。
「今日は、言葉の畝を作りました。もし問われても、全部を言わなくていいと教わりました。村長さんが、身元を預かってくれていると言ってくれました」
声が少し震えた。
「言葉にも護衛があるそうです」
風が吹く。
三つの芽が小さく揺れた。
夜、日記帳を開く。
今日、言葉の準備をした。
私は森で薬草を学んでいます。
村長に身元を預けています。
今は答えられません。
村長に聞いてください。
森の家の場所、結界、地下倉庫、畑の詳しい場所は言わない。
嘘をつくことと、全部言わないことは違う。
村長さんが、とうに身元を預かっているつもりだと言ってくれた。
言葉にも護衛が必要だと、ガルドさんが言った。
私はペンを止めた。
泣きそうだった。
言葉を守ってもらえる。
それは、初めてのことかもしれない。
屋敷では、私につけられた言葉ばかりだった。
青の姫君。
天才。
化け物。
危険。
遠ざけるべき娘。
でも今は、私が選ぶ言葉を、村が一緒に守ってくれる。
私は最後に書いた。
言葉の畝を作った。
まだ芽は出ていない。
でも、もし問われた時、私は少しだけ自分の言葉を守れるかもしれない。
日記帳を閉じる。
外の森は静かだ。
でも、誰かが近づいているかもしれない。
私は怖い。
それでも、今日は言葉がある。
私は花守り布の三つの芽を撫で、小さく言った。
「また明日」
青豆一号へ。
アオジロウへ。
ムラマルへ。
モリタンへ。
村のみんなへ。
そして、自分の言葉を少しずつ作り始めた私へ。
また明日。
明日も、見ます。




