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『青の姫君の森暮らし 〜化け物と恐れられた公爵令嬢は、今日も畑を耕します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第46話 青の姫君、近づく足音を数える


 翌朝、森の空気は妙に静かだった。


 鳥は鳴いている。


 風もある。


 葉も揺れている。


 けれど、その一つ一つの音が、いつもより遠くから聞こえるような気がした。


 私は玄関の前に立ち、しばらく耳を澄ませた。


 一度。


 二度。


 鳥の声。


 間が空く。


 風。


 葉擦れ。


 小川。


 知らない足音はない。


 少なくとも、結界の内側には。


 私は胸に手を当て、ゆっくり息を吐いた。


 昨日、私は先に村を出た。


 リオとミナから少し離れて、ガルドさんと歩いた。


 怖かった。


 けれど、合流できた。


 離れることと、捨てられることは違う。


 合流する場所があれば、離れていてもつながる。


 そう日記に書いた。


 書いた後も、胸の奥にはまだ怖さが残っていた。


 でも、今朝その怖さは、昨日ほど尖っていない。


 消えたわけではない。


 ただ、名前がついた。


 距離の怖さ。


 合流できる安心。


 その二つが、私の中で並んでいる。


 私は花守り布を整え、畑へ向かった。


 青豆一号は、新しい葉をしっかり伸ばしている。


 古い葉を落とした後、どこか堂々として見えた。


 アオジロウは葉を広げ、朝露を受けている。


 ムラマルは、ゆっくりだけれど確実に伸びている。


 モリタンはまだ小さい。


 けれど昨日より、ほんの少しだけ緑が濃くなっているように見えた。


 私はしゃがみ、目を細めた。


「おはようございます」


 小さく声をかける。


「今日も、全員いますね」


 その言葉だけで、胸の奥が温かくなる。


 全員いる。


 見える場所に。


 同じ畝の中に。


 近すぎず、離れすぎず。


 それぞれの間隔で。


 私は記録板を開いた。


 青豆一号、古い葉離脱後四日目。新葉良好。


 アオジロウ、葉展開。朝露あり。


 ムラマル、ゆるやかに伸長。


 モリタン、芽先、緑やや濃く見える。要継続観察。


 観察者、距離の怖さに名前をつけた。


 書いてから、少しだけ手を止めた。


 距離の怖さ。


 それは私の中に長くあったものだ。


 屋敷から離された時。


 誰も来なかった時。


 家族から遠ざけられた時。


 私は「離れる」を「捨てられる」と同じ意味で覚えてしまった。


 でも今は、少し違う。


 リオとミナは離れた。


 でも戻ってきた。


 村の人たちは近くにいない時間も、合図や場所で私を守ってくれている。


 畑の芽たちも少し離れている。


 でも同じ畝にいる。


 距離には、いくつもの意味がある。


 怖い距離。


 守る距離。


 育てる距離。


 待つ距離。


 私はそれを、まだ学んでいる途中だ。


 朝食を終える頃、リオとミナが来た。


 今日はガルドさんが先に北の道を確認している。


 リオは森の道から姿を見せると、少しだけ大げさに手を上げた。


「おはよう、フローラ」


「おはようございます」


 ミナが私の顔を見る。


「昨日の疲れは残っていませんか?」


「少し緊張は残っています。でも、大丈夫です」


「眠れました?」


「はい」


 リオがほっとしたように笑った。


「昨日、俺も落ち着かなかった」


「そうなのですか」


「フローラが先に行くって、変な感じだった。見えてるのに、すぐ横にいないのが」


 ミナが頷く。


「でも、リオ兄さんは走りませんでした」


「走ったら怒られるだろ」


「怒るというより、目立ちます」


「分かってる」


 リオは少し不満そうに言ったが、すぐ真面目な顔になった。


「でも、待つって難しいな」


「はい」


 私は頷いた。


「とても難しいです」


 三人で畑へ向かう。


 リオは三つの芽を順番に見て、安心したように言った。


「全員いる」


「はい」


「モリタン、ちょっと色変わった?」


「私もそう見えました。ただ、まだ記録としては要観察です」


「要観察」


 リオはその言葉を気に入ったように繰り返した。


「俺も要観察だな」


 ミナが笑う。


「リオ兄さんはいつも要観察です」


「ひどい」


 私は思わず笑った。


 畑の前の笑い。


 それが今日もある。


 そのことに、私は静かに感謝した。


 ガルドさんが合流したのは、その少し後だった。


 彼の表情はいつも通り落ち着いている。


 けれど、目が少しだけ鋭かった。


「今日は村へ入る前に注意があります」


「はい」


「北寄りの道にも、外縁から確認されたような跡があります。はっきりした足跡ではありませんが、草の倒れ方が不自然です」


 胸が冷える。


 リオの表情も引き締まった。


「じゃあ、もう北も危ないのか?」


「すぐ危険というわけではありません。ただ、こちらが道を変えていることを、相手も見ている可能性が高い」


 ミナが静かに言う。


「今日はどう動きますか」


「村へは行きます。ただし、滞在は短く。帰りは時間差ではなく、村の荷車と一緒に出る形を取ります」


「荷車?」


「はい。パン屋と薬草の荷を動かす日という形にします」


 私は頷いた。


 村全体が、また一つ動きを変える。


 同じ方法を続ければ読まれる。


 変えすぎても不自然。


 だから、日常の中にある別の動きを使う。


「分かりました」


 リオが言った。


「俺は?」


「今日は荷車の後ろを歩く。フローラ殿のすぐ横ではなく、少し後ろです」


 リオは一瞬だけ眉を寄せた。


 でも、すぐに頷いた。


「距離も守り」


「はい」


 私が言うと、リオは少し照れたように笑った。


「覚えた」


 村へ向かう道は、いつも以上に耳を澄ませる道だった。


 足元を見る。


 鳥の声を数える。


 風と葉擦れを聞き分ける。


 リオとミナの足音を覚える。


 ガルドさんの合図を見る。


 怖い時に数えるものは、昨日より増えていた。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 鳥、一回。


 小川の音。


 リオの足音。


 ミナの布が擦れる音。


 知らない足音はない。


 村の入口に着くと、見張りの若者が丸の合図をした。


 異常なし。


 けれど、今日は彼が小声で付け加えた。


「北の外、少し気をつけて」


「はい」


 村の中は、一見いつも通りだった。


 パンの匂い。


 水桶の音。


 子供たちの声。


 共同畑の葉が揺れる音。


 けれど、大人たちの動きが少しだけ違う。


 パン屋の女性は、いつもより外へ出る回数が多い。


 村長さんの家の前には、荷車の準備がある。


 若者たちは雑談をしているようで、視線は村の外へ向いている。


 見られているかもしれない日常。


 その日常が、さらに細かく編まれていた。


 共同畑の前では、エマが私を見つけて手を振った。


「三人、元気?」


「はい。三人とも無事です」


「モリタンは?」


「少し緑が濃く見えました。まだ要観察です」


 サムがすぐに書く。


 モリタン、緑やや濃い。要観察。


 エマが首を傾げる。


「要観察って、かっこいい」


 トトが腕を組む。


「俺も要観察って言われたい」


「トトはいつも要観察」


 ルルが即答した。


 周囲が笑う。


 トトは不満そうにしたが、少し嬉しそうでもあった。


 リーナは花守り布を見て言った。


「今日、モリタンの糸を少し濃くする?」


「まだ様子を見ましょう」


「要観察?」


「はい」


 リーナは真剣に頷いた。


「じゃあ、糸も待つ」


 今日の授業は、「変化をすぐ決めつけない」から始まった。


 私は木板に、モリタンの芽を描く。


 昨日の色。


 今日の色。


 少し濃く見えるけれど、光の加減かもしれない。


 目の錯覚かもしれない。


 本当に濃くなったのかもしれない。


「見えたことを書きます。でも、すぐ結論にしません」


 サムが頷く。


「要観察」


「はい」


 ニコが聞く。


「嬉しい変化も、決めつけない?」


「はい。嬉しい変化も、確認します」


 エマが少し不満そうに言う。


「でも喜びたい」


「喜んでいいです」


「いいの?」


「はい。ただ、記録では確認を続けます」


 ルルが頷く。


「嬉しい。でも見る」


「はい」


 私は木板に書いた。


 嬉しい。


 でも見る。


 怖い。


 でも見る。


 分からない。


 だから見る。


 サムがその言葉を写す。


 村の大人たちも、少し離れて聞いていた。


 今日のこの言葉は、畑だけではない。


 公爵家の動きもそうだ。


 北側に痕跡がある。


 怖い。


 でも見る。


 向こうが近づいているかもしれない。


 分からない。


 だから見る。


 決めつけず、油断せず、観察する。


 昼前、村長さんが私たちを呼んだ。


 村長の家の横には荷車がある。


 パンの籠、薬草の束、布袋。


 外から見れば、村の中で荷を動かす準備にしか見えない。


 けれど、その配置にも意味がある。


 私が帰る時、荷車と一緒に移動するためだ。


 村長さんは低い声で言った。


「北側も読まれ始めている」


「はい」


「今日は荷車を使う。フローラは荷車の横で薬草の束を見る役。リオは後ろ。ミナは少し前。ガルドは外で合流する」


「はい」


 リオが確認する。


「俺は後ろ」


「そうだ。近づきすぎない。だが離れすぎない」


「分かった」


 ミナが言う。


「私は前で道を見る形ですね」


「そうだ」


 村長さんは私を見た。


「もし外から声をかけられても、フローラは答えない。パン屋の女将か私が答える」


 胸が少し強張る。


「はい」


「顔を伏せすぎるな。不自然だ。だが、目を合わせなくていい」


「はい」


「花守り布はそのまま」


 私は布に触れた。


「分かりました」


 接触前夜。


 そんな言葉が胸に浮かぶ。


 まだ直接来てはいない。


 でも、声をかけられる可能性を想定する段階に来ている。


 リオが少し低い声で言った。


「俺、声かけられても怒らない」


 バルドさんが腕を組む。


「当たり前だ」


「分かってる。でも言っとく」


 ミナが静かに言う。


「言葉にしておくのは大事です」


 リオは頷いた。


「怒らない。走らない。近づきすぎない」


 私はその言葉を聞いて、胸が熱くなった。


 リオも、自分の怖さと怒りを扱おうとしている。


 それが分かる。


 午後、子供たちにも荷車の日常を手伝ってもらった。


 もちろん、危険な意図までは詳しく言わない。


 けれど「今日は荷車と一緒に薬草を運ぶ」と伝えると、エマは張り切って薬草袋を持とうとした。


「重いものは大人が持ちます」


「軽いのは?」


「これなら」


 私は乾燥済みの軽い葉の袋を渡した。


 エマは大事そうに抱える。


 ニコは袋の数を数える。


 ルルは落とさないように紐を確認する。


 サムは当然記録する。


 リーナは布袋のほつれを見つけて直した。


 トトは荷車の車輪を見て「回るところかっこいい」と言っていた。


 その姿は本当に日常だった。


 だからこそ、守りになった。


 夕方前、荷車が動き出した。


 パン屋の女性が前で自然に話す。


「今日はこっちの薬草も乾かすんだろう?」


「はい。湿気が抜けたので、陰干しに向いています」


 私は荷車の横で答える。


 リオは後ろ。


 ミナは少し前。


 村長さんは遠くから見ている。


 ガルドさんは村の外で合流する。


 村の入口を出る時、胸が強く鳴った。


 一。


 二。


 三。


 呼吸を数える。


 荷車の車輪が土を踏む音。


 ぎしり。


 ぎしり。


 パン屋の女性の足音。


 ミナの軽い足音。


 リオの少し重い足音。


 私は全部を数える。


 村の外縁に近づいた時。


 森の方から、かすかな物音がした。


 枝が折れる音。


 小さい。


 けれど、自然の音ではないように感じた。


 リオの足音が一瞬止まりかける。


 私は振り向きそうになった。


 その瞬間、パン屋の女性が自然な声で言った。


「あら、車輪に泥がついたねえ。ちょっとゆっくり行こうか」


 合図ではない。


 でも、全員に「落ち着け」と伝える言葉だった。


 私は荷車の横で足を止めすぎず、少し速度を落とした。


 ミナが前で自然に振り返る。


 リオは後ろで拳を握っていたが、動かなかった。


 偉い。


 そう思った。


 森の外から声はかからなかった。


 ガルドさんが合流地点で手を丸にする。


 異常なし。


 けれど、何かがいたかもしれない。


 見られていたかもしれない。


 荷車はゆっくり進み、小川沿いへ出た。


 そこでようやく、少し息を吐けた。


 リオが小声で言った。


「今の、聞こえたか」


「はい」


「俺、動かなかった」


「はい」


「怒らなかった」


「はい」


 私は振り返らず、小さく言った。


「守ってくれました」


 後ろで、リオが息を呑む気配がした。


「……そっか」


 その声は、少し震えていた。


 森の家に戻ると、私はすぐ畑へ向かった。


 三つの芽は無事だった。


 何も変わっていない。


 でも、今日はそれがとてもありがたかった。


 私はしゃがみ込み、報告した。


「今日は、近くで枝の折れる音がしました。怖かったです。でも、誰も走りませんでした。怒りませんでした。荷車で戻れました」


 風が三つの芽を小さく揺らす。


 夜、日記帳を開いた。


 今日、荷車と一緒に村を出た。


 北側も読まれ始めているかもしれない。


 森の外縁で枝の折れる音がした。


 見られていたかもしれない。


 怖かった。


 リオは動かなかった。


 怒らなかった。


 パン屋さんが自然に声をかけて、みんなを落ち着かせてくれた。


 荷車の音を数えた。


 足音を数えた。


 帰ってこられた。


 私はペンを止めた。


 近づく足音。


 見えない視線。


 枝の折れる音。


 それらは確かに怖い。


 でも今日、私はそれだけを覚えているわけではない。


 荷車の音。


 パン屋さんの声。


 リオが踏みとどまったこと。


 ミナが自然に振り返ったこと。


 ガルドさんの丸の合図。


 それらも、同じ日の記録だ。


 私は最後に書いた。


 怖い音が近づいている。


 でも、守る音も一緒にある。


 荷車の音。


 足音。


 声。


 合図。


 私はそれを数えながら、明日も歩く。


 日記帳を閉じる。


 外の森は静かだった。


 けれど、その静けさの向こうに、誰かがいるかもしれない。


 私は怖い。


 でも、畑には三つの芽がある。


 村には、荷車の音がある。


 リオは怒らず踏みとどまった。


 それは、とても大きなことだった。


 私は花守り布の三つの芽を撫で、小さく言った。


「また明日」


 青豆一号へ。


 アオジロウへ。


 ムラマルへ。


 モリタンへ。


 村のみんなへ。


 そして、近づく足音を数えた私へ。


 また明日。


 明日も、見ます。

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