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『青の姫君の森暮らし 〜化け物と恐れられた公爵令嬢は、今日も畑を耕します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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45/101

第45話 青の姫君、離れていても続く手を知る


 翌朝、私は自分の足音を数えながら畑へ向かった。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 土は乾き始めている。


 昨日よりも踏み跡は残りにくい。


 けれど、私は足元を見る癖をやめなかった。


 怖い時ほど数える。


 怖い時ほど足元を見る。


 昨日、リオとミナが先に村を出て、私が後から出た。


 ほんの短い時間だった。


 ガルドさんもいた。


 村の人たちも見てくれていた。


 危険に放り出されたわけではない。


 それでも、リオとミナが隣にいない道は、思った以上に心細かった。


 そして、ちゃんと合流できた時。


 リオが駆け寄らず、その場で待っていてくれた時。


 ミナが「歩けましたね」と言ってくれた時。


 私は、自分が一人ではないことを、また別の形で知った。


 ずっと隣にいることだけが、守ることではない。


 離れていても、見ている。


 近づきすぎず、待っている。


 それも守りなのだと、昨日リオは覚えようとしてくれた。


 私はそれを思い出しながら、第二の畝の前にしゃがんだ。


 アオジロウは、葉をしっかり広げている。


 ムラマルは、ゆっくりだが安定して伸びている。


 モリタンは、昨日よりほんの少しだけ、白緑の芽先を上へ向けていた。


 小さい。


 本当に小さい。


 けれど、もう土の中だけの存在ではない。


 私は静かに微笑んだ。


「おはようございます」


 三つの芽に声をかける。


「今日も、見ています」


 記録板を開く。


 青豆一号、古い葉離脱後三日目。新葉良好。


 アオジロウ、葉展開。状態良好。


 ムラマル、ゆるやかに伸長。


 モリタン、芽先、わずかに伸長。非常に小さいが安定。


 観察者、離れていても守られていたことを思い出す。


 書いてから、胸が少し熱くなった。


 離れていても守られていた。


 それは、今の私にはとても大切な言葉だった。


 私はずっと、捨てられたと思っていた。


 実際に、森へ置かれた。


 誰も見張らず、誰も世話をせず、ただ遠ざけられた。


 あの時の「離れる」は、守りではなかった。


 少なくとも、私にはそう感じられなかった。


 だから、離れることは怖い。


 近くに誰かがいないと、また置いていかれたように感じる。


 けれど昨日のリオたちは違った。


 離れた。


 でも、切れなかった。


 先で待っていてくれた。


 それが、私の中にある古い怖さを少しだけ揺らした。


 離れることが、必ずしも捨てることではないのかもしれない。


 私は花守り布の三つの芽を撫でた。


 アオジロウ、ムラマル、モリタン。


 三つの刺繍は布の上で並んでいる。


 畑では、それぞれの距離で育っている。


 近すぎず。


 離れすぎず。


 根が絡みすぎないように。


 でも、同じ畝の中で。


「距離も、育てるために必要なのですね」


 そう呟くと、朝の風が小さく畑を撫でた。


 朝食を終える頃、リオとミナが来た。


 今日は昨日と同じように、ガルドさんが少し離れた場所を確認している。


 リオは森の道から現れると、私を見るなり少しだけ気まずそうに言った。


「昨日、大丈夫だったか」


「はい」


「いや、聞いたけどさ。改めて」


「怖かったです。でも、大丈夫でした」


 リオはほっとしたように息を吐いた。


「俺、待ってるだけって変な感じだった」


「そうなのですか」


「駆け寄りたかった。でも、近づきすぎるなって言われてたから」


 ミナが静かに頷く。


「ちゃんと守れていましたよ」


「そうか?」


「はい。距離を守ることも、守ることです」


 リオは少し照れたように顔を逸らした。


「……なら、よかった」


 その言葉に、私は胸が温かくなる。


「私も、待っていてもらえて嬉しかったです」


 リオは目を瞬いた。


「本当か」


「はい」


「そっか」


 彼はそれ以上言わなかった。


 でも、口元が少し緩んでいた。


 三人で畑を見る。


 リオは今日も三つの芽を順番に確認した。


「アオジロウ、ムラマル、モリタン。全員いる」


「はい」


「モリタン、ちょっと伸びたな」


「はい」


「よし」


 ミナは記録板を見て、柔らかく微笑んだ。


「離れていても守られていたことを思い出す」


「はい」


「今日は、その話を村でもしてもいいかもしれませんね」


「離れる話を?」


「はい。子供たちも、合図の時に親と一瞬離れるかもしれません。離れていても、決めた場所で待つことを覚えるのは大事です」


 私は少し考え、頷いた。


「分かりました」


 ガルドさんが合流し、今日の道を説明する。


「今日は村へ入る時間を少し遅らせます。昨日、北寄りの外縁に気配がありました。新しい足跡は見つかっていませんが、こちらの経路を探られている可能性があります」


「はい」


「帰りはまた時間差を使います。ただし、今日はフローラ殿が先に村を出ます」


 リオが反射的に顔を上げた。


「フローラが先?」


「はい。リオとミナは後から出ます」


 胸が少し冷えた。


 昨日は二人が先に出て、私が後から出た。


 今日は逆。


 私が先に出る。


 もちろんガルドさんがいる。


 村の見張りもいる。


 でも、リオとミナを後ろに残して出ることになる。


 また違う怖さがあった。


 ミナが私を見る。


「フローラ」


「はい」


「怖いですね」


「はい」


「でも、昨日できました。今日は形が違うだけです」


「はい」


 リオは唇を引き結んだ。


「俺、あとから行く」


「はい」


「必ず合流する」


「はい」


 私は頷いた。


 怖い。


 けれど、決めた通りに動く。


 合図のある日常。


 距離も守り。


 離れていても、続く手がある。


 村へ向かう道では、リオが少しだけ無理に明るく話した。


「今日のスープ、今度こそ芋だと思う」


 ミナが言う。


「昨日も言っていました」


「今日は当たる」


「根拠は?」


「芋の気配」


「ありません」


 私は笑った。


「でも、当たるかもしれません」


「ほら、フローラは分かってる」


「可能性はあります」


「それ、あんまり味方じゃないな」


 怖さがある。


 でも、芋の話もある。


 その両方を胸に、私は足元を見ながら歩いた。


 村に着くと、入口の見張りが丸を作った。


 異常なし。


 けれど、彼の目は北側の森へ何度も向いていた。


 村全体の空気が、昨日よりさらに静かだった。


 子供たちの声はある。


 パンの匂いもある。


 水桶の音もある。


 でも、誰もが耳の端で森を聞いている。


 共同畑の前では、エマが今日も待っていた。


「三人、元気?」


「はい。全員無事です」


「モリタンは?」


「少し伸びました」


 エマは両手を握った。


「モリタン、がんばってる!」


 ニコがムラマルの記録を覗き込み、サムが今日の変化を書き始める。


 ルルは私の顔を見て、少し首を傾げた。


「フローラ先生、怖い?」


 子供は、本当に鋭い。


 私は少ししゃがんだ。


「はい。今日は帰りに、私が先に村を出ます」


 エマの顔が少し曇る。


「一人?」


「いいえ。ガルドさんが一緒です。村の人も見ています。リオとミナは後から合流します」


 ニコが小さく言う。


「離れるけど、合流する」


「はい」


 ルルが頷く。


「待つ場所がある?」


「はい。合流する場所があります」


 サムがすぐ記録板を出す。


 離れても合流する。


 待つ場所あり。


 距離も守り。


 リーナが花守り布を見て言った。


「芽も、少し離れてる」


「はい」


「でも同じ畝」


「はい」


 私は微笑んだ。


「今日の授業は、その話にしましょう」


 木板に私は、三つの芽を描いた。


 隣同士。


 けれど、少しずつ間隔がある。


「芽は、近すぎると育ちにくいことがあります」


 子供たちが真剣に見ている。


「根が絡みすぎたり、水や栄養を取り合ったり、風が通りにくくなったりします。だから、植える時には間隔を空けます」


 エマが聞く。


「離れてる方がいいの?」


「近すぎない方がいい、です。でも、離れすぎても世話がしにくくなります」


 トトが腕を組む。


「また加減」


「はい。また加減です」


 サムが記録する。


 近すぎても育ちにくい。


 離れすぎても世話しにくい。


 加減。


 リオが後ろで小さく呟いた。


「人もだな」


 ミナが微笑む。


「最近、リオ兄さんの畑たとえが増えましたね」


「畑がそう言ってるからな」


 私は少し笑った。


 でも、本当にそうだと思った。


 近づきたい。


 守りたい。


 離れたくない。


 でも、近づきすぎれば、かえって相手を危険にすることがある。


 今のリオがそうだ。


 私のそばにいたい。


 でも、そばにいすぎると目立つ。


 だから距離を取る。


 それは、拒絶ではない。


 守るための間隔だ。


 私は木板にもう一つ書いた。


 離れることと、捨てることは違う。


 書いた瞬間、胸が少し痛んだ。


 子供たちは黙ってその文字を見た。


 ミナも、リオも、村の大人たちも。


 私は少し息を吸った。


「私は、離れることが怖いです」


 静かに言った。


「昔、遠ざけられたことがあるからです。でも、昨日、リオとミナが先に行き、私は後から合流しました。離れていました。でも、捨てられたわけではありませんでした」


 エマの目が少し潤む。


 ニコは記録板を握る手に力を入れている。


 ルルが小さく言う。


「待ってたから?」


「はい。待っていてくれたからです」


 リーナが言う。


「場所があったから」


「はい」


 私は頷いた。


「合流する場所があれば、離れていてもつながれます」


 サムが書く。


 合流する場所があれば、離れていてもつながる。


 その文字を見た時、私は胸が熱くなった。


 これもまた、村記録になるのだろう。


 昼前、村長さんから具体的な帰路の確認があった。


 今日は私が先に出る。


 ガルドさんと一緒に北の小川手前まで行く。


 そこで待たず、少し進んだ薬草石の近くで短く確認。


 リオとミナは少し遅れて村を出て、別の小道から合流する。


 万が一合流できなければ、鳥笛ではなく白布の合図。


 鐘は鳴らさない。


 村に戻る場合の道も確認する。


 私は一つ一つ頷いた。


 怖い。


 でも、決めることで少し怖さが形になる。


 リオは何度も地図を見た。


「ここで合流だな」


「はい」


 ガルドさんが頷く。


「焦って走らないこと」


「分かってる」


「フローラ殿も、合流地点で立ち止まりすぎないこと。確認したら進みます」


「はい」


 ミナが私の手を一瞬握った。


「後から行きます」


「はい」


 短い握手。


 すぐに離れる。


 距離も守り。


 でも、その一瞬で十分だった。


 午後は短く、子供たちと合流場所の話をした。


 エマは「待ち合わせ場所」と言った。


「そうですね。待ち合わせ場所です」


「でも、危ない待ち合わせ」


「はい。だから決めておきます」


 ニコが聞く。


「もし会えなかったら?」


「次の場所を決めておきます」


 サムが記録する。


 合流場所。


 次の場所。


 戻る場所。


 ルルが言う。


「場所があると、怖さが少し小さい」


「はい」


 本当にそうだ。


 モリタンの場所。


 地下倉庫。


 小川の合流地点。


 村長宅の裏。


 場所があることで、怖さは少し小さくなる。


 夕方前。


 私が先に村を出る時間になった。


 リオとミナはまだ村に残る。


 リオは口を引き結び、私を見ていた。


 駆け寄らない。


 近づきすぎない。


 でも、目はずっとこちらにある。


「行ってきます」


 私が言うと、リオは小さく頷いた。


「後で」


「はい。後で」


 ミナも微笑む。


「合流場所で」


「はい」


 私はガルドさんと村を出た。


 背中に村の気配がある。


 エマたちの視線も感じる。


 パン屋の女性が自然に手を振ってくれる。


 私は薬草籠を抱え、足元を見ながら歩いた。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 呼吸を数える。


 怖い。


 でも、私は一人ではない。


 ガルドさんが少し前にいる。


 村が後ろにある。


 リオとミナが後から来る。


 合流場所がある。


 小川の音が近づく。


 鳥が一度鳴く。


 私は数えた。


 一回。


 それきり。


 鳥だ。


 小川手前を過ぎ、薬草石の近くへ向かう。


 そこは小さな白い石が三つ並んでいる場所だ。


 今日の合流地点。


 私は立ち止まりそうになったが、ガルドさんが小さく手で進む合図をした。


 立ち止まりすぎない。


 少し先へ進み、薬草を見るふりをする。


 手が少し震えた。


 私は薬草の葉に触れ、香りを嗅いだ。


 鎮静茶に使う葉。


 心を落ち着ける香り。


 しばらくして、後方から足音がした。


 私は振り返りたいのを我慢する。


 ガルドさんの合図を見る。


 丸。


 異常なし。


 それから、リオの声が小さく聞こえた。


「フローラ」


 私はゆっくり振り向いた。


 リオとミナがいた。


 走っていない。


 息も乱していない。


 でも、リオの顔には安堵がはっきり浮かんでいた。


「合流できましたね」


 私が言うと、リオは大きく頷いた。


「ああ」


 ミナが微笑む。


「できました」


 その瞬間、胸の奥にあった硬いものが少し溶けた。


 離れた。


 でも、合流できた。


 今日も。


 森の家に戻ると、私はまっすぐ畑へ向かった。


 三つの芽は無事だった。


 私はしゃがみ込み、今日のことを伝えた。


「今日は、私が先に村を出ました。怖かったです。でも、合流できました。離れていても、手は続いていました」


 アオジロウの葉が風に揺れる。


 ムラマルも小さく揺れる。


 モリタンはまだ小さいまま、静かに上を向いている。


 夜。


 日記帳を開いた。


 今日、離れることと捨てることは違う、と話した。


 合流する場所があれば、離れていてもつながる。


 私は先に村を出た。


 怖かった。


 でも、ガルドさんがいて、村が後ろにあり、リオとミナが後から来た。


 合流できた。


 リオは走らず待ってくれた。


 ミナは後から来てくれた。


 離れていても、守られていた。


 私はペンを止めた。


 昔の私は、離れることを捨てられることだと思った。


 今も、そう思ってしまう。


 でも今日、少し違う形を知った。


 離れても、戻れる場所がある。


 離れても、待っている人がいる。


 離れても、合流できる。


 それは、私にとって新しい経験だった。


 私は最後に書いた。


 距離も守り。


 場所も守り。


 待つことも守り。


 私はまだ、離れることが怖い。


 でも、今日の私は、合流できた。


 日記帳を閉じる。


 外の森は静かだった。


 私は花守り布を膝に置き、三つの芽を撫でた。


「また明日」


 青豆一号へ。


 アオジロウへ。


 ムラマルへ。


 モリタンへ。


 村のみんなへ。


 そして、離れていても続く手を知った私へ。


 また明日。


 明日も、見ます。

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