第44話 青の姫君、怖さの数え方を覚える
翌朝、私は鳥の声を数えていた。
一度。
少し間が空いて、もう一度。
それから、遠くで別の鳥が三度続けて鳴いた。
胸が小さく跳ねる。
けれど、私はすぐに寝台から飛び起きなかった。
耳を澄ませる。
音の高さ。
間隔。
方向。
鳥笛とは違う。
森の鳥の声だ。
私は寝台の上でゆっくり息を吐いた。
「鳥です」
昨日と同じように、自分に言う。
合図を覚えた日常は、朝の音まで変えてしまう。
でも、怖さに飲まれず確認できた。
それだけで、昨日より少しだけ前へ進めた気がした。
私は身支度を整え、花守り布を手に取った。
アオジロウ、ムラマル、モリタン。
三つの小さな芽の刺繍が、布の端に並んでいる。
まだ完全ではない。
糸の端も残っている。
それでも、布の中に森の畑があるようだった。
外へ出ると、空気は乾き始めていた。
雨の気配はもう薄い。
土は落ち着き、踏めば少し沈むが、深い足跡にはなりにくい。
私は足元を見ながら畑へ向かった。
青豆一号は、古い葉を落とした後、さらに新しい葉を伸ばしている。
アオジロウは葉を広げ、三つの中で一番元気に見えた。
ムラマルはゆっくりながらも安定している。
モリタンは、昨日よりほんの少しだけ芽先を持ち上げていた。
私はしゃがみ、静かに微笑んだ。
「おはようございます」
声をかける。
三つとも返事はない。
でも、その沈黙はもう寂しいものではなかった。
見える場所にいる沈黙。
育っている途中の沈黙。
私は記録板を開いた。
青豆一号、古い葉離脱後二日目。新葉良好。
アオジロウ、葉展開。状態良好。
ムラマル、ゆるやかに伸長。
モリタン、芽先、わずかに上向き。
観察者、鳥の声を数えて落ち着く。
書いた後、私は木板の端を指でなぞった。
怖さの数え方。
鳥の声。
鐘の音。
呼吸。
足音。
畑の変化。
数えることで、怖さは少し形になる。
形になれば、少し扱える。
それは、畑の記録と似ている。
何となく怖い、ではなく。
鳥が三度鳴った。
けれど笛ではない。
鐘は鳴っていない。
大人は動いていない。
だから、今は日常を続ける。
私は記録板を胸に抱いた。
少しずつ。
本当に少しずつだが、怖さの中でも立っていられる時間が増えている。
朝食を済ませる頃、リオとミナが来た。
今日はガルドさんが先に北側を見に行っており、あとから合流する予定だった。
リオは私を見るなり、少し得意げに言った。
「今日、俺も鳥の声数えた」
「そうなのですか」
「三回鳴いたけど、笛じゃなかった」
ミナが微笑む。
「リオ兄さん、ちゃんと確認していました」
「鍋の音にも驚かなかった」
「今日は鍋の音がありませんでした」
「それは言わなくていい」
私は小さく笑った。
「私も今朝、鳥の声を数えました」
「だよな。数えると、ちょっと落ち着く」
「はい」
ミナが頷いた。
「怖い時に、数えられるものがあるのは大切ですね」
三人で畑を見た。
リオはアオジロウを見て嬉しそうにし、ムラマルを見て「ゆっくりだな」と言い、モリタンの前で少し声を低くした。
「モリタン、昨日より上向きだな」
「はい」
「よし」
その短い言葉に、どれだけ彼が待っていたかが滲んでいた。
ミナは花守り布と畑を見比べる。
「今日、リーナがまた縫いたがりますね」
「はい。きっと」
「布の記録も育っていきますね」
「はい」
布の記録。
畑の記録。
村の記録。
私の日記。
いくつもの記録が、同じ日々を別の形で残している。
村へ向かう道は、今日も北寄りだった。
南側の薬草場と水場は使わない。
ガルドさんが先に見た道を通り、足跡を残しにくい場所を選ぶ。
リオは声量を抑えつつ、いつも通りに近い話をしてくれた。
「今日こそスープに芋が多い気がする」
「根拠は?」
ミナが聞く。
「俺の勘」
「当たりませんね」
「まだ分からないだろ」
「昨日も外れました」
私は二人の会話を聞きながら、足元を見て歩いた。
怖さはある。
でも、リオの芋の話がある。
それだけで、道がただの逃げ道ではなくなる。
日常の道になる。
村の入口で、見張りの若者が丸の合図をした。
異常なし。
彼も少し笑って言う。
「今日は鳥がよく鳴くね」
「はい。数えました」
「みんな数えてるよ」
そう言われて、私は少し驚いた。
合図のある日常は、私だけでなく村全体に広がっている。
共同畑の前では、子供たちが待っていた。
エマは私を見ると、小声で聞く。
「三人、元気?」
「はい。三人とも無事です」
「モリタンは?」
「少し上向きです」
エマは両手を握った。
「よし!」
ニコが言う。
「ムラマルは?」
「ゆるやかに伸びています」
「ムラマルらしい」
ルルがアオジロウの記録を覗き込む。
「アオジロウは早い」
「はい」
トトが腕を組む。
「でも競争じゃない」
「その通りです」
サムがすぐ書いた。
トト、競争ではないと理解。
「そこ書くなよ!」
「成長記録」
サムは真顔だった。
村の大人たちが笑う。
エマは鳥の声がするたびに指を折って数えていた。
一回。
二回。
別の鳥。
それをサムが横から「同じ鳥か確認」と言う。
ニコは鐘の方を一度見てから、また豆に視線を戻した。
ルルは大人の手の位置を確認し、それから自分の豆の葉を見た。
みんな、怖さの中で日常を続ける練習をしている。
今日の授業は自然と「怖さの数え方」になった。
私は木板に大きく書いた。
怖い時に数えるもの。
音の回数。
呼吸。
足音。
周りの人。
畑の変化。
「怖い時、頭の中では怖さがどんどん大きくなることがあります」
私は言った。
「でも、数えると、今ここにあるものへ戻ってこられます」
エマが手を上げる。
「鳥が三回鳴いたら?」
「まず、笛か鳥か聞きます」
「笛っぽかったら?」
「大人を見ます」
「大人が走ってなかったら?」
「まだ決めつけません」
サムが記録する。
聞く。
数える。
見る。
決めつけない。
ルルが小さく聞いた。
「怖い時、息も数える?」
「はい」
「どうやって?」
「吸う時に一つ、吐く時に二つ。ゆっくり数えます」
私は実際にやって見せた。
吸って、一。
吐いて、二。
吸って、三。
吐いて、四。
子供たちも一緒にやってみる。
広場に、不思議な沈黙が落ちた。
皆が同じように息を吸い、吐く。
大人たちも少し離れて、その様子を見ている。
リオもやっていた。
ミナが横で微笑む。
「リオ兄さん、真面目ですね」
「悪いかよ」
「いいことです」
私はその光景を見て、胸が温かくなった。
怖さを消す魔法ではない。
でも、怖さに飲まれないための小さな方法。
村の子供たちが、それを一緒に覚えている。
昼前、リーナが花守り布にムラマルの糸をさらに縫い足した。
ニコが隣で歌う。
ムラマル出たよ
ゆっくり出たよ
土の布団を押し上げて
こんにちは
こんにちは
今日は、歌の途中で鳥が鳴った。
エマが指を立てる。
「一回」
少し間が空いて、また鳴る。
「二回」
それで終わった。
エマは少し緊張していたが、やがて息を吐いた。
「鳥」
「はい」
私は頷く。
「確認できましたね」
サムが記録した。
歌の途中、鳥二回。合図ではない。歌継続。
リーナは針を止めず、静かに縫い続けた。
それが、とても強く見えた。
怖い音がしても、確認して、続ける。
針を進める。
日常を続ける。
午後、村長さんから報告があった。
南側に新しい足跡はない。
だが、北寄りの道に近い外縁で、草の倒れ方を調べたような跡がある。
公爵家側が、こちらの経路変更に気づき始めている可能性がある。
私は胸が冷えた。
「今日の帰りは?」
村長さんは静かに答えた。
「時間をずらす。リオとミナは先に村を出る。フローラは少し後に、パン屋の女将と薬草の話をしてから出る。ガルドが外で合流する」
リオの顔が強張る。
「俺たちが先に?」
「近づきすぎると目立つ。距離も守りだ」
昨日聞いた言葉。
リオは唇を引き結び、頷いた。
「分かった」
ミナも不安そうだったが、静かに言った。
「フローラ、必ず合流します」
「はい」
私も怖かった。
リオとミナが先に出る。
私は少し後。
もちろん村の中には大人がいる。
ガルドさんも外で待つ。
でも、いつもの二人が横にいない時間ができる。
怖い。
私は息を数えた。
一。
二。
三。
四。
村長さんがそれを見て、静かに頷いた。
「よい。怖い時ほど数えなさい」
「はい」
夕方前。
リオとミナが先に村を出た。
リオは何度も振り返りそうになり、そのたびにミナに袖を引かれていた。
私はパン屋の女性のところで、薬草茶の話をしていた。
「この葉は乾かしすぎると香りが飛びます」
「じゃあ半日くらいかね」
「はい。風通しの良い場所で」
会話は自然だった。
でも、私の胸は緊張している。
パン屋の女性は、それに気づいていた。
彼女はパンを並べながら、低い声で言った。
「大丈夫。みんな見てるよ」
「はい」
「怖い時は?」
「数えます」
「そうだね」
少し時間を置いて、私は村を出た。
籠を持ち、薬草を抱え、いつものように。
けれど、いつもの横にリオとミナはいない。
村の外で、ガルドさんが合流した。
「大丈夫ですか」
「はい」
「行きましょう」
森の道を進む。
少し先で、リオとミナが待っているはずだ。
私は足元を見た。
一歩。
二歩。
三歩。
呼吸を数える。
鳥が一度鳴く。
私は止まらず、耳だけ澄ませた。
続かない。
鳥だ。
やがて、小川の手前でリオとミナが見えた。
リオは私を見るなり、ほっとした顔をした。
でも駆け寄らない。
その場で待っている。
距離も守り。
彼はちゃんと覚えていた。
「フローラ」
「はい」
「大丈夫だったか」
「はい」
ミナが微笑む。
「よく歩けましたね」
「怖かったです」
「でも、歩けました」
「はい」
森の家へ戻ると、私は畑へ向かった。
三つの芽は無事だった。
今日もそこにいる。
私はしゃがみ、静かに言った。
「今日は、怖さを数えて歩きました。途中でリオとミナと離れました。でも、また合流できました」
アオジロウの葉が揺れる。
ムラマルも少し揺れる。
モリタンはまだ小さいまま、けれど確かに上を向いていた。
夜。
日記帳を開く。
今日、怖さの数え方を村で話した。
音の回数。
呼吸。
足音。
周りの人。
畑の変化。
帰りはリオとミナが先に出て、私は後から出た。
怖かった。
でも、パン屋さんと薬草の話をして、数えて、歩いた。
ちゃんと合流できた。
公爵家側は北寄りの動きにも気づき始めているかもしれない。
怖い。
でも、怖さを数える方法を少し覚えた。
私はペンを止めた。
怖さは、完全には小さくならない。
けれど、数えると輪郭が出る。
輪郭が出ると、歩く場所が見える。
私は最後に書いた。
怖さをなくすことはできない。
でも、怖さの中で数えることはできる。
一つ、息を吸う。
二つ、息を吐く。
三つ、足元を見る。
四つ、明日も見る。
日記帳を閉じる。
外の森は静かだった。
私は花守り布を膝に置き、三つの芽を撫でる。
「また明日」
青豆一号へ。
アオジロウへ。
ムラマルへ。
モリタンへ。
村のみんなへ。
そして、怖さの数え方を覚え始めた私へ。
また明日。
明日も、見ます。




