第48話 青の姫君、知らない声に名前を呼ばれる
翌朝。
私は、自分の名前を声に出してから畑へ向かった。
「フローラ・フォン・スプリング」
小さな声だった。
誰に聞かせるためでもない。
鏡の中の自分へ。
花守り布をかぶる前の、空色の髪をした自分へ。
私はもう一度、ゆっくりと言った。
「私の名前は、フローラ・フォン・スプリング」
その名前は、私のものだ。
公爵家の名前でもある。
父様と母様から与えられた名前でもある。
青の姫君と呼ばれていた頃の名前。
化け物と恐れられ、森へ遠ざけられた娘の名前。
そして今、リーフェ村でフローラ先生と呼ばれている私の名前でもある。
どれか一つだけではない。
私は花守り布を手に取った。
布の端には三つの芽。
アオジロウ。
ムラマル。
モリタン。
待った時間。
育てている時間。
守られている時間。
私は刺繍を指先で撫で、それから布をかぶった。
鏡の中から、空色の髪が消える。
代わりに、村の女性たちが縫ってくれた花と芽が見える。
「私は森で薬草を学んでいます」
昨日、村長さんと決めた言葉を口にする。
「村長に身元を預けています」
もう一度。
「今は答えられません」
そして。
「村長に聞いてください」
言葉はまだ硬い。
口になじんでいない。
それでも、何もないよりはいい。
種を植える前に畝を作る。
言葉を必要とする前に、置く場所を作る。
私は息を吸った。
一つ。
吐く。
二つ。
「今日も、見ます」
そう言って、家の外へ出た。
朝の森は、薄い霧に包まれていた。
木々の間に白い靄が漂い、いつもなら遠くまで見える小道が途中で霞んでいる。
鳥の声は聞こえる。
一度。
二度。
少し離れた場所から、別の鳥が一度。
鳥笛ではない。
私は数え、確認した。
風は弱い。
霧のせいか、音が近く感じられる。
枝から落ちた雫が地面を打つ音まで、いつもより大きく聞こえた。
私は足元を見ながら畑へ向かった。
青豆一号。
新しい葉は順調。
古い葉を落とした部分も、傷んではいない。
アオジロウは、小さな葉を広げている。
ムラマルは、ゆっくりと茎を伸ばしている。
モリタンは、ようやく芽らしい形になり始めていた。
白っぽかった芽先に、柔らかな緑が増えている。
私はしゃがみ、少し目を細めた。
「おはようございます」
小さく声をかける。
「三人とも、今日もいますね」
いつもの確認。
全員いる。
それだけで、胸の奥に温かいものが生まれる。
私は記録板を開いた。
青豆一号、古い葉離脱後六日目。新葉良好。
アオジロウ、葉展開。状態良好。
ムラマル、ゆるやかに伸長。
モリタン、緑色増加。芽の形、明確になり始める。
三芽、異常なし。
観察者、自分の名前と、言ってよい言葉を朝に確認する。
書き終えた後、私は木板を胸に抱いた。
自分の名前。
言ってよい言葉。
言わなくてよい言葉。
昨日までは、それらを準備するだけだった。
今日、本当に使うことになるかもしれない。
そう思うと、指先が冷たくなる。
けれど、今は畑の前だ。
目の前にあるものを見る。
モリタンの緑。
ムラマルの茎。
アオジロウの葉。
青豆一号の新葉。
怖さを遠くへ押し込めるのではなく、今あるものと並べる。
少しして、結界に気配が触れた。
リオ。
ミナ。
そして、少し離れてガルドさん。
いつもの人たち。
私は立ち上がり、玄関の方へ向かった。
「おはよう、フローラ」
リオは声を抑えている。
「おはようございます」
ミナは私の顔を見て、すぐに少し眉を寄せた。
「緊張していますか」
「はい」
「言葉を練習しました?」
「はい」
リオが少し困ったような顔をする。
「本当に言うことになるかな」
「分かりません」
私は正直に答えた。
「でも、準備はしておきます」
リオは拳を握りかけた。
けれど、昨日と同じように、ゆっくり開いた。
「俺も、怒らないって練習した」
「ありがとうございます」
「でもさ」
彼は一度言葉を止めた。
「名前を呼ばれたら、嫌だよな」
胸の奥が、少し痛んだ。
「はい」
「フローラ・フォン・スプリングって」
「はい」
ミナが静かに私の隣へ立つ。
「でも、名前はフローラのものです」
私はミナを見る。
「公爵家の使いが呼んでも、村のみんなが呼んでも、名前自体はフローラのものです」
「……はい」
「呼ばれ方や、呼ぶ人によって、感じ方は違います。でも、取られるわけではありません」
私は花守り布の端に触れた。
名前を呼ばれることが怖い。
公爵家の名で呼ばれれば、昔の私へ引き戻されるような気がする。
でも、ミナの言う通りだ。
名前は私のもの。
呼ばれたからといって、すぐに従う必要はない。
リオが少し不器用に言う。
「俺はフローラって呼ぶ」
「はい」
「公爵令嬢じゃなくて」
「はい」
「フローラ先生って呼ばれてるフローラ」
胸が熱くなる。
「ありがとうございます」
リオは照れたようにそっぽを向いた。
ガルドさんが近づいてきた。
今日の彼は、いつも以上に表情が硬かった。
「村へ向かう前に、報告があります」
私たちは黙る。
「夜明け前、北側の外縁で人影が確認されました」
胸が強く鳴った。
一つ。
二つ。
呼吸を数える。
リオの顔が強張る。
ミナの手が、私の袖に触れる。
「距離は?」
リオが低い声で聞いた。
「村の見張りから見えるか見えないかの位置です。直接近づいてはいません。ただ、森と村の間を見ていた可能性があります」
「公爵家の使いですか」
私が聞くと、ガルドさんは慎重に答えた。
「可能性は高いです。ただし、まだ断定はしません」
決めつけない。
でも、警戒する。
何度も学んだ言葉が、ここで必要になる。
「今日は、村へ行けますか」
「行けます。ただし、滞在は短く。村の入口ではなく、西側の小道から入ります」
西側。
これまであまり使っていなかった道だ。
「帰りは?」
「状況を見て決めます。場合によっては、今日は村で待機してもらいます」
村で待機。
森の家へ帰れない可能性。
畑。
三つの芽。
青豆一号。
胸が急に締めつけられる。
「畑は……」
声が少し震えた。
ガルドさんはすぐに答えた。
「一日程度なら問題ありません。水分も十分です。結界もあります」
「でも」
「フローラ」
ミナが静かに呼ぶ。
「一晩離れても、捨てることにはなりません」
昨日の言葉。
離れることと、捨てることは違う。
私は畑を見る。
三つの芽。
小さい。
弱い。
でも、結界がある。
土がある。
水分がある。
そして、私が戻るつもりで離れる。
「……はい」
私はゆっくり頷いた。
「必要なら、村で待ちます」
ガルドさんも頷く。
「それがよいです」
村へ向かう準備は、いつもより慎重だった。
薬草籠には、本当に村へ持っていくものを入れる。
偽装だけではなく、日常として。
花守り布を整える。
客人札を確認する。
言葉をもう一度口の中で繰り返す。
私は森で薬草を学んでいます。
村長に身元を預けています。
今は答えられません。
村長に聞いてください。
リオは少し後ろ。
ミナは横。
ガルドさんは先行。
霧の残る森を、私たちは西側へ回った。
普段より道が狭い。
草が膝に触れる。
足元の石も少ない。
私は一歩ずつ、慎重に歩いた。
鳥の声。
一度。
二度。
遠くで小枝が落ちる音。
自然の音。
ガルドさんの合図は丸。
異常なし。
けれど、胸は落ち着かない。
村に近づくと、いつもの入口とは違う景色が見えた。
家々の裏側。
薪置き場。
小さな物置。
村の人たちが普段見せない生活の裏側。
パン屋の煙突から煙が上がっている。
井戸の音がする。
誰かが野菜を洗っている。
日常はある。
でも、大人たちの目は森へ向いていた。
西の小道に待っていた村長さんが、手で丸を作る。
今は問題なし。
私は息を吐いた。
村へ入ると、子供たちはいつもの共同畑には集められていなかった。
今日は村長宅に近い家の軒下で待っている。
エマ、ニコ、ルル、トト、サム、リーナ。
全員が大人の近くにいる。
私を見ると、エマが立ち上がりかけた。
けれど、母親に手を握られ、止まる。
「フローラ先生」
小さな声だった。
「おはようございます」
私は近づきすぎないようにしながら、子供たちの前へ行く。
「三人、元気?」
エマが聞く。
「はい。三人とも無事です」
子供たちがほっとする。
ニコが小さく聞く。
「今日、森に帰る?」
胸が少し痛んだ。
「まだ分かりません。村長さんと相談します」
ルルが言う。
「帰れなくても、芽は待ってる?」
「はい」
「捨てない?」
「絶対に捨てません」
私ははっきり答えた。
自分にも言い聞かせるように。
「必要なら一晩離れます。でも、戻ります」
サムが記録板を開く。
一晩離れても、捨てない。
戻る。
トトが真剣な顔で言う。
「モリタンも待てたから、畑も待てる」
「はい」
その言葉に救われた。
畑も待てる。
私がいなくても、少しの間は。
信じる。
待つ。
距離も守り。
育てるとは、ずっとそばにいることだけではない。
今日の授業は、共同畑ではなく軒下で行うことになった。
木板を膝に置き、子供たちと小さな声で話す。
題は自然と「離れている間の世話」になった。
「畑から離れる時、何を確認する?」
サムが聞く。
私は木板に書いた。
土の水分。
結界。
天気。
戻る予定。
代わりに見る人。
「今日は、森の畑の土は十分湿っています。雨の予定もありません。結界もあります」
ニコが聞く。
「代わりに見る人は?」
「今日は、いません」
そう答えると、子供たちの顔が少し曇った。
「でも、一日なら大丈夫です。植物は、いつも人に見られていなくても育ちます」
サムが頷く。
「見ていない時も育つ」
「はい」
アオジロウが出た時にも話した。
眠っている間に。
村にいる間に。
見えないところで。
植物は育つ。
「信じて離れることも、世話です」
私は木板に書いた。
信じて離れる。
エマが首を傾げる。
「離れるのに世話?」
「はい。必要な準備をして、戻ると決めて離れます」
ルルが言う。
「捨てるのと違う」
「はい」
リーナが花守り布の三つの芽を見て言う。
「布は一緒」
「はい」
「畑は離れても、布の三人は一緒」
私は胸に手を当てた。
「そうですね」
三つの芽は、花守り布にある。
畑から離れても、記録と一緒にいられる。
それは、本物の芽そのものではない。
でも、つながりだ。
午前の終わり頃。
村の外から、馬の足音が聞こえた。
最初は遠かった。
低く。
一定の間隔で。
土を踏む音。
一頭ではない。
私は息を止めた。
一つ。
二つ。
三つ。
複数。
村全体の空気が変わった。
話していた大人たちが、慌てず立ち上がる。
パン屋の女性は籠を置き、子供たちの近くへ寄る。
ガルドさんが村長さんを見る。
村長さんは短く頷いた。
まだ鐘は鳴らない。
足音だけ。
決めつけない。
でも、準備する。
エマの手を母親が握る。
ニコは記録板を胸に抱く。
ルルはリーナの手を握る。
トトは立ち上がりかけ、バルドさんの視線で座り直す。
サムは何かを書こうとして、手が震えていた。
私は呼吸を数えた。
一つ、吸う。
二つ、吐く。
三つ、足音。
四つ、村長さんを見る。
馬の足音は、村の入口付近で止まった。
沈黙。
長い。
誰も声を出さない。
森の鳥の声だけが、遠くで聞こえる。
やがて、男の声がした。
「ごめんください」
低く、よく通る声。
怒鳴ってはいない。
威圧的でもない。
けれど、訓練された人間の声だった。
胸が強く締めつけられる。
公爵家の使い。
そう思った。
でも、まだ確認していない。
村長さんが、入口へ向かって歩き出した。
ガルドさんと、村の若者が二人ついていく。
バルドさんは子供たちと私の近くに残る。
「動くな」
低い声だった。
「はい」
私は答えた。
声が震えた。
リオが少し離れた位置で拳を握っている。
ミナが私の隣に立つ。
近づきすぎない。
でも、手を伸ばせば届く距離。
入口の方から、村長さんの声がする。
「何用かな」
「旅の途中の者です。森で人を探しています」
男の声。
知らない声。
でも、その言葉は私の胸を貫いた。
人を探している。
私は花守り布を握る。
サムが小さく息を呑む。
エマが母親の服に顔を寄せる。
村長さんは落ち着いて答えた。
「この辺りで人探しか。ずいぶん不便な場所を選んだものだ」
「探している方が、森にいる可能性があります」
「誰を?」
少し間が空いた。
そして男は言った。
「フローラ・フォン・スプリング公爵令嬢です」
自分の名前が、村の入口から届いた。
時間が止まった。
空気が冷たくなる。
花守り布の下で、頭皮が痛いほど髪が引っ張られる気がした。
フローラ・フォン・スプリング公爵令嬢。
昔の名前。
今も私の名前。
でも、その呼ばれ方は、屋敷の廊下を思い出させた。
使用人たちの頭を下げる姿。
父様の声。
母様の微笑み。
そして、怯えた目。
騎士団長が倒れた訓練場。
魔法師団長の青ざめた顔。
遠ざかる使用人たち。
閉じる扉。
別邸。
一人。
胸の中に、昔の景色が一気に流れ込んでくる。
息ができない。
ミナが小さく言った。
「数えて」
その声が、私を今へ引き戻した。
一つ。
吸う。
二つ。
吐く。
三つ。
花守り布。
四つ。
三つの芽。
五つ。
ミナの声。
六つ。
リオの足音。
私はまだ村にいる。
私は一人ではない。
入口の会話が続く。
「その名の令嬢を、なぜこの村で探す?」
村長さんの声は変わらない。
「詳しくは申し上げられません。ただ、公爵家からの正式な捜索です」
「捜索状は?」
「ございます」
紙の擦れる音。
村長さんが確認しているのだろう。
リオが低く呟く。
「正式……」
私は唇を噛んだ。
正式。
公爵家が本当に探している。
今さら。
どうして。
父様が命じたのか。
母様なのか。
家の都合なのか。
私を案じているのか。
分からない。
分からないから、決めつけない。
でも、怖い。
村長さんが言った。
「この村には、その名の令嬢はいない」
胸が大きく鳴った。
嘘。
でも、守るための言葉。
私は村にいる。
けれど、公爵令嬢としてここにいるわけではない。
村長さんは続ける。
「森で薬草を学んでいる娘ならいる。だが、その娘の身元は私が預かっている」
昨日、作った言葉。
私が言うはずだった言葉を、村長さんが先に使ってくれた。
言葉の護衛。
胸が熱くなる。
入口の男は少し黙った。
「その娘に、会わせていただけますか」
空気がさらに硬くなる。
リオの拳が震える。
でも、動かない。
ミナが私の横で、静かに呼吸している。
私は言葉を口の中で繰り返した。
私は森で薬草を学んでいます。
村長に身元を預けています。
今は答えられません。
村長に聞いてください。
村長さんの声。
「今日は会わせられない」
「理由を伺っても?」
「本人が望んでいないからだ」
その言葉が、まっすぐ胸に届いた。
本人が望んでいない。
私の意思。
私が望んでいないから。
身分でもなく。
公爵家の命令でもなく。
村の都合でもなく。
私の意思を理由にしてくれた。
目の奥が熱くなる。
入口の男――レナードは、しばらく答えなかった。
やがて、静かに言った。
「承知しました」
セイルらしき別の声が、低く割り込む。
「隊長。しかし――」
「黙れ」
短い声。
それから、最初の男が続けた。
「無理に会おうとはしません。ただ、こちらが危害を加える意図はないと、お伝えいただけますか」
危害を加える意図はない。
その言葉を、私はすぐには信じられなかった。
信じたいとも思わなかった。
でも、決めつけない。
記録する。
今言われたこととして。
村長さんは答えた。
「伝えるかどうかも、本人と相談する」
「それで結構です」
静かな声。
その声には、怒りも焦りもあまり感じられなかった。
でも、だからこそ怖い。
読めない。
私は花守り布を握りしめた。
やがて、馬具の音がした。
男たちはすぐには立ち去らなかった。
何か紙を渡したらしい。
村長さんが受け取る音。
それから。
「また日を改めます」
その言葉に、胸が冷たくなる。
また来る。
今日で終わりではない。
馬の足音が、少しずつ遠ざかる。
一つ。
二つ。
三つ。
森の向こうへ。
音が完全に消えるまで、誰も動かなかった。
沈黙が村全体を包んでいた。
長い。
息苦しい。
でも、誰も急がない。
村長さんが戻ってくる。
手には封書があった。
深い青の封蝋。
スプリング公爵家の紋章。
それを見た瞬間、私は立っていられなくなりそうだった。
ミナが私の肘を支える。
リオが一歩近づきかけ、止まる。
距離も守り。
でも、その顔は苦しそうだった。
村長さんは、私の少し前で立ち止まった。
「フローラ」
私は顔を上げた。
「はい」
「彼らは帰った」
「はい」
「無理に会おうとはしなかった」
「はい」
「これを置いていった」
封書。
父様の紋章。
手を伸ばす気になれない。
村長さんは無理に渡さなかった。
「今すぐ読まなくていい」
「……はい」
「読まなくてもいい」
胸が痛む。
「でも、持っていた方がいいでしょうか」
「それも、今決めなくていい」
今決めなくていい。
何度も救われた言葉。
私はゆっくり頷いた。
エマが母親の手を離れないまま、小さく聞いた。
「怖い人だった?」
私はすぐには答えられなかった。
村長さんも、私を見る。
私は考えた。
怖かった。
名前を呼ばれた。
会わせてほしいと言われた。
また来ると言った。
でも、力ずくでは入ってこなかった。
危害を加える意図はないと言った。
分からない。
だから。
「怖かったです」
私は正直に言った。
「でも、どんな人かは、まだ分かりません」
サムが震える手で記録する。
怖かった。
でも、どんな人かはまだ分からない。
ルルが言う。
「決めつけない?」
「はい」
「でも警戒する?」
「はい」
ニコが小さく頷く。
「いつもの」
「はい。いつものです」
いつもの。
畑で学んだこと。
怖い。
でも見る。
分からない。
だから見る。
決めつけない。
でも油断しない。
全部が、今日のためにあったように思えた。
昼食は、ほとんど味がしなかった。
村の人たちは普段通りを保とうとしていた。
パンが配られる。
スープが注がれる。
子供たちは小さな声で話す。
けれど、誰も完全にはいつも通りではない。
村長さんの机には封書が置かれている。
青い封蝋。
私は何度も見てしまう。
見たくないのに。
リオは私の正面ではなく、少し斜めに座っていた。
近づきすぎない。
でも見える場所。
ミナは隣で、時々私の呼吸を確認している。
「食べられますか」
「少し」
「無理しなくていいです」
「はい」
パンを一口。
噛む。
飲み込む。
それだけで、今日は疲れた。
食後、村長さんともう一度話した。
封書は、村長さんが預かることになった。
私が読むと決めるまで。
私はその決定に、ほっとした。
同時に、少しだけ気になった。
何が書いてあるのだろう。
父様の言葉か。
母様の言葉か。
家令か。
公爵家の事務的な文か。
案じている。
帰ってきてほしい。
それとも。
命令。
分からない。
でも、今は読まない。
それも、自分で選んでいい。
「今日、森へ戻りますか」
村長さんが聞いた。
私は少し迷った。
公爵家の使いは村から離れた。
でも、どこで見ているか分からない。
森の家へ戻れば、道を読まれるかもしれない。
「今日は、村にいた方がいいでしょうか」
「その方が安全だ」
胸が痛んだ。
畑。
三つの芽。
青豆一号。
私は花守り布に触れる。
布の中には、三つの芽がいる。
トトの言葉を思い出す。
モリタンも待てたから、畑も待てる。
「分かりました」
私は頷いた。
「今日は、村にいます」
リオがほっとしたように息を吐いた。
ミナも頷く。
村長さんは、私が休める部屋を用意してくれた。
以前使ったことのある、村長宅の奥の小さな部屋。
窓は村の内側に向いている。
外からは見えにくい。
寝台。
小さな机。
水差し。
簡素だが、温かい部屋。
私は荷物を置き、花守り布を外さず、椅子に座った。
森の家ではない。
いつもの机もない。
暖炉も違う。
畑は見えない。
胸が落ち着かない。
けれど、捨てたわけではない。
戻るために離れている。
私は記録板を開いた。
午後。
公爵家の使い、村へ来訪。
フローラ・フォン・スプリング公爵令嬢を探していると明言。
村長、本人が望んでいないため会わせないと回答。
使い、危害を加える意図はないと伝言。
封書あり。
観察者、怖かった。名前を呼ばれ、過去を思い出した。
観察者、今は封書を読まないと決める。
観察者、畑から一晩離れる。戻る予定あり。
書き終えた時、涙が一滴落ちた。
木板ではなく、手の甲へ。
私はそれを拭かなかった。
泣いてもいい。
嬉しい時も。
怖い時も。
リーナとニコに教わった。
扉が小さく叩かれた。
「フローラ」
ミナの声。
「はい」
「入ってもいいですか」
「はい」
ミナとリオが入ってくる。
リオは部屋の入口で少し止まった。
「近づいてもいいか」
その問いに、胸が熱くなった。
勝手に近づかない。
私に聞いてくれる。
「はい」
リオはゆっくり近づき、机の反対側に座った。
ミナは私の隣。
しばらく、誰も話さなかった。
沈黙。
でも、怖い沈黙ではない。
私が話すまで待ってくれている沈黙。
「名前を呼ばれました」
私は小さく言った。
「うん」
リオが答える。
「怖かったです」
「うん」
「でも、村長さんが、私が望んでいないから会わせないと言ってくれました」
「うん」
「私の意思を、理由にしてくれました」
声が震える。
ミナが私の手へ、自分の手を近づける。
触れる前に止める。
私は自分から、その手を握った。
「嬉しかったです」
「はい」
ミナが答える。
「怖いのに、嬉しかったです」
「両方あっていいです」
「はい」
リオが低く言った。
「俺、あの声聞いた時、飛び出したかった」
「はい」
「でも、出なかった」
「はい」
「フローラが決めることだから」
私はリオを見る。
彼の拳は膝の上で握られている。
でも、震えながらもそこにある。
「守ってくれました」
「俺、何もしてない」
「出なかったことが、守ることでした」
リオは目を伏せた。
それから、小さく頷いた。
「そっか」
夜。
私は村長宅の小さな部屋で、日記帳の代わりに記録板の裏へ言葉を書いた。
今日は森の家へ帰らない。
日記帳は家にある。
だから、ここに書く。
今日、公爵家の使いが村へ来た。
私の名前を呼んだ。
フローラ・フォン・スプリング公爵令嬢。
怖かった。
過去が戻ってきた。
でも、私は昔の屋敷に戻ったわけではない。
私は村にいた。
村長さんが、本人が望んでいないから会わせないと言ってくれた。
私の意思が守られた。
封書は読まないと決めた。
今日の私は、畑から離れている。
でも、捨てていない。
明日、戻るつもりでいる。
私は木板を膝に置いた。
窓の外には、村の灯りが見える。
森の家の夜とは違う。
人の声が遠くにある。
誰かが戸を閉める音。
食器を片づける音。
子供が笑う声。
村の日常。
その中に、私はいる。
私は花守り布を外し、膝に置いた。
三つの芽。
指で一つずつ撫でる。
「アオジロウ」
一つ。
「ムラマル」
二つ。
「モリタン」
三つ。
「青豆一号」
四つ。
数える。
畑は見えない。
でも、名前を呼べる。
つながっている。
私は小さく子守歌を歌った。
森の葉っぱが眠るころ
小さな灯りも目を閉じる
風よ静かに通りゃんせ
夢の小道を通りゃんせ
村長宅の小さな部屋に、私の声が落ちる。
今日は森へ届かないかもしれない。
それでも歌う。
歌い終えた後、私は窓の外へ向かって言った。
「また明日」
青豆一号へ。
アオジロウへ。
ムラマルへ。
モリタンへ。
森の家へ。
村のみんなへ。
そして、自分の名前を知らない声に呼ばれても、自分の言葉を失わなかった私へ。
「また明日」
明日、戻ります。




