第42話 青の姫君、育てる時間に入る
朝の畑は、昨日より少しだけ大人びて見えた。
不思議なものだと思う。
芽が一つ増えただけ。
いや、正確には、三つの芽が揃っただけ。
畑の広さが変わったわけではない。
土の色が劇的に変わったわけでもない。
森の空気も、井戸の水も、家の壁も、昨日と同じ場所にある。
それなのに、第二の畝は昨日までとは違って見えた。
待つ場所ではなくなった。
出てきたものを育てる場所になった。
私は畝の前にしゃがみ、三つの芽を順番に見た。
アオジロウは、三つの中で一番はっきりした葉を広げている。
まだ小さいけれど、もう「芽」というより「小さな豆の苗」と呼んでもいいかもしれない。
ムラマルは控えめに立っている。
昨日より少しだけ茎が伸び、葉になりかけた部分が開こうとしていた。
モリタンは、まだ本当に小さい。
白緑の芽先が、ようやく土の上に出ているだけ。
でも、もう土の中だけの存在ではない。
そこにいる。
見える。
私はその事実を、何度も確かめるように見つめた。
「おはようございます」
小さく声をかける。
「今日からは、育てる時間ですね」
言ってから、胸の奥に少し緊張が走った。
待つ時間も難しかった。
でも、育てる時間はもっと難しいかもしれない。
芽が出れば終わりではない。
むしろ、ここから虫も来る。
雨も来る。
風も来る。
水が多すぎれば弱る。
少なすぎても弱る。
触りすぎれば折れる。
放っておきすぎれば見落とす。
守りすぎれば埋まる。
守らなければ流される。
私は記録板を開いた。
青豆一号、虫食い後二十五日目。
アオジロウ、葉展開。状態良好。
ムラマル、葉展開準備。状態安定。
モリタン、発芽三日目。芽先、わずかに上向き。非常に小さいため注意。
三つの芽、育成段階へ移行。
観察者、喜びの次に責任を感じている。
書いてから、私は少し苦笑した。
責任。
重い言葉だ。
けれど、その通りだった。
私はこの芽たちを待った。
村のみんなと一緒に待った。
そして芽が出た。
だから今度は、育てなければならない。
見守るだけではなく、必要な時に手を入れる。
でも、手を出しすぎない。
その加減を覚えなければならない。
花守り布の端に触れる。
アオジロウ、ムラマル、モリタン。
三つの小さな刺繍が、まだ仮縫いのまま布に並んでいる。
布の上でも、畑の上でも、三つは揃った。
それが嬉しい。
でも同時に、失いたくないと思う。
失いたくないと思うと、怖くなる。
私は深く息を吸った。
「怖くても、見ます」
そう呟いた時、結界に気配が触れた。
リオとミナ。
そして、少し離れてガルドさん。
今日はさらに遠くにもう一人、村側の見張りの気配があった。
南側の見慣れない足跡。
昨日の報告が、村の守り方をまた一段変えていた。
玄関の方へ向かうと、リオが先に手を上げた。
「おはよう、フローラ」
「おはようございます」
ミナは私の顔を見て、すぐに聞いた。
「眠れましたか?」
「はい。少し考えましたが、眠れました」
「三つ揃った翌日ですからね」
リオが畑を見る。
「三人は?」
「無事です」
「よし」
彼は心底ほっとしたように笑った。
三人。
リオが自然にそう呼んだことが、少し嬉しかった。
豆なのに。
畑の芽なのに。
でも、アオジロウ、ムラマル、モリタンは、もうただの試験豆ではない。
村のみんなに名前を呼ばれ、歌われ、記録され、布に縫われた存在だ。
三人。
そう呼ばれても、もう違和感はなかった。
三人で畑へ向かう。
リオはアオジロウを見て頷き、ムラマルを見て微笑み、モリタンの前で少し声を落とした。
「モリタン、ちっさいな」
「はい」
「でもいるな」
「はい」
「昨日より、ちょっと出てる?」
「わずかに上向きです」
「すげえな」
リオの「すげえ」は今日も真っ直ぐだった。
ミナは花守り布を見て、畑を見て、静かに言う。
「布と畑が同じになってきましたね」
「はい」
「でも、布に縫うと残りますが、畑は毎日変わります」
「はい」
「だから、記録が必要ですね」
私は頷いた。
畑は変わる。
布は残る。
記録はつなぐ。
村の日々は、その三つで支えられているのかもしれない。
ガルドさんが近づき、少し低い声で言った。
「今日は村へ行く前に、確認があります」
「はい」
「南側の薬草場は使いません。水場も一つ封じています。今日は北寄りの道を使いますが、そこも長くは使えません」
「分かりました」
「それと、村長からです。今日の午後、接触時の合図を改めて確認したいとのことです」
接触時。
その言葉に、胸が冷えた。
公爵家の使いと、いずれ接触するかもしれない。
分かっていた。
けれど、言葉になると重い。
リオの表情も硬くなる。
「もう来るってことか?」
「すぐではありません。ただ、備えを具体的にする段階です」
ガルドさんは落ち着いている。
その落ち着きに、私は少し救われた。
ミナが私の袖にそっと触れる。
「フローラ」
「はい」
「怖いですか」
「はい」
私は正直に答えた。
「でも、確認します」
「一緒に」
「はい。一緒に」
村へ向かう道は、北寄りだった。
足元は昨日より乾いているが、まだ柔らかい場所がある。
私たちは石場と小川を選びながら進んだ。
リオは今日は少しだけ話した。
「三芽祝いのパン、うまかったな」
「はい」
「今日もあるかな」
「毎日祝いにはならないと思います」
「だよなあ」
ミナが笑う。
「芽が出た後は育てる時間ですから、毎日お祝いではなく毎日観察です」
「観察にもパンがあっていいだろ」
「それは別問題です」
その会話に、私は笑った。
怖い話を聞いた後でも笑える。
でも、笑いすぎず、足元を見る。
今の私たちは、その加減を少しずつ覚えている。
村に着くと、入口の見張りが手で丸を作った。
異常なし。
ただ、その顔は昨日より少し引き締まっていた。
南側の足跡の件は、村全体に伝わっているのだろう。
共同畑の前では、子供たちが待っていた。
エマは私を見るなり小声で言った。
「三人、元気?」
「はい。三人とも無事です」
「やった」
声は小さい。
でも、顔は明るい。
ニコが聞く。
「モリタン、昨日より出た?」
「わずかに上向きです」
サムがすぐ記録する。
モリタン、わずかに上向き。
リーナが花守り布を見る。
「あとで、ムラマルとモリタンも少し縫う」
「お願いします」
ルルが言った。
「出た後も見る」
「はい」
トトが腕を組む。
「ここから競争か?」
「競争ではありません」
私はすぐに答えた。
トトは少し驚いた顔をする。
「違うの?」
「違います。比べますが、勝ち負けではありません」
サムが頷く。
「違いの記録」
「はい」
「アオジロウが早くても、ムラマルがゆっくりでも、モリタンが遅くても、それぞれの育ち方」
「その通りです」
トトは少し考えた。
「じゃあ、誰が一番すごいとかない?」
「ありません」
「でも、モリタンは最後に出たからすごい説は?」
ルルが小さく笑った。
「説は記録」
サムが真面目に書く。
トト、モリタン最後に出たからすごい説を継続。ただし勝ち負けではない。
「なんで全部書くんだよ!」
「村記録だから」
またいつものやり取り。
大人たちが笑う。
その笑いが、少し張り詰めた村の空気を和らげた。
今日の授業は「育てる時間」になった。
私は木板に三つの段階を書いた。
待つ時間。
芽が出る時間。
育てる時間。
「昨日、三つの芽が揃いました。とても嬉しいことです。でも、ここからは育てる時間です」
子供たちは真剣に聞いている。
「育てる時間には、毎日見ることが大切です。芽が出たからもう安心、ではありません。小さい芽は、雨にも虫にも風にも弱いです」
エマが少し不安そうになる。
「虫、来る?」
「来るかもしれません」
「やだ」
「私も嫌です。でも、来るかもしれないと知っていれば、早く見つけられます」
ルルが頷く。
「虫食いの時と同じ」
「はい」
ニコが言う。
「怖いけど見る」
「はい」
サムが記録する。
芽が出た後も、見る。
安心しすぎない。
怖がりすぎない。
リーナが小さく言う。
「縫った後も、糸を見る」
「はい」
「ほつれたら直す」
「畑も同じです」
私は微笑んだ。
「育てるとは、続けて見ることです」
その言葉を、私自身も胸に入れた。
フローラ先生と呼ばれる私。
村との関係。
自分の心。
それらも、芽が出たから終わりではない。
育てる必要がある。
続けて見て、必要なら直して、急がず、放っておかず。
昼前、村長さんに呼ばれた。
村長の家の横には、ガルドさん、バルドさん、リオ、ミナがいた。
村長さんは地面に簡単な図を描く。
村。
森。
北の道。
南の薬草場。
水場。
森の家の方向。
「接触時の合図を確認する」
その声は低く、落ち着いていた。
私は背筋を伸ばす。
「はい」
「公爵家の使いが村へ来た場合、鐘は二回。森側から近づく気配があった場合は、鳥笛を三度」
ガルドさんが続ける。
「村にいる時に鐘二回なら、フローラ殿は村長宅の裏へ。そこから地下倉庫へ入ります」
「はい」
「森にいる時に鳥笛三度なら、家から出ず、結界を通常より一段だけ強めて待機。強めすぎないこと」
「はい」
強めすぎない。
守りすぎると埋まる。
ここでも同じだ。
村長さんは私を見た。
「接触は避けられないかもしれない。だが、今すぐこちらから出ていく必要はない」
「はい」
「逃げるだけでもない。隠れるだけでもない。まず状況を見る」
「はい」
リオが言った。
「俺は?」
「村にいる時は、普段通りに動け。フローラのそばに寄りすぎるな。かえって目立つ」
リオは不満そうに眉を寄せた。
「でも」
ミナが静かに言う。
「守りたいから近づきすぎると、フローラが隠れていることを教えてしまいます」
リオは口を閉じた。
しばらくして、渋々頷く。
「……分かった」
バルドさんが言った。
「守るってのは、前に立つだけじゃねえ」
「分かってる」
「分かってねえ顔だな」
「今分かろうとしてる」
リオのその返事に、少しだけ空気が緩んだ。
私はリオを見て、静かに言った。
「リオが普段通りにしてくれることも、私を守ることになります」
リオは目を瞬いた。
「そうか」
「はい」
「じゃあ、普段通りにする」
ミナが小さく微笑む。
「声量は控えめに」
「分かってる」
午後は、子供たちに直接怖がらせすぎない範囲で、合図の確認をした。
鐘二回は大人の近くへ。
鳥笛三度は家から出ない。
走らない。
叫ばない。
勝手に探しに行かない。
エマは真剣な顔で頷いた。
「私、叫ばない」
「はい」
「でも、怖い」
「怖い時は、大人の手を握ってください」
ルルがすぐに言う。
「一緒に見る」
「はい。一緒に」
サムは合図表を作り始めた。
ニコは鐘の音を聞き間違えないよう、村長さんに確認している。
リーナは花守り布の三つの芽を見て、小さく言った。
「芽を守るみたいに、みんなも守る」
「はい」
私は頷いた。
その言葉に胸が少し熱くなった。
夕方前、私は村を出た。
今日は北の道。
水場には寄らない。
薬草採りも最低限。
南側は使わない。
リオは少し離れすぎず、近づきすぎず歩く練習をしていた。
ミナが横で小さく指示を出す。
「その距離です」
「これくらいか」
「はい」
「近づきたいけどな」
「今は距離も守りです」
「分かった」
私はその会話を聞きながら、足元を見た。
距離も守り。
近づくことだけが優しさではない。
離れることも、時に守ることになる。
森の家に戻ると、私は畑へ向かった。
三つの芽は無事だった。
アオジロウ。
ムラマル。
モリタン。
私はしゃがみ込み、今日のことを報告した。
「今日は、合図を確認しました。もし怖いことが来ても、決めた通りに動きます。あなたたちも、明日また見ます」
風が吹き、三つの芽のうちアオジロウだけが少し揺れた。
夜。
日記帳を開く。
今日から、育てる時間に入った。
芽が出た後も見る。
安心しすぎない。
怖がりすぎない。
村では接触時の合図を確認した。
鐘二回。
鳥笛三度。
地下倉庫。
結界は一段だけ。
守るために近づきすぎないこともあると知った。
リオがそれを覚えようとしてくれている。
私はペンを止めた。
育てる時間。
それは、畑だけではない。
村との関係も。
リオやミナとの距離も。
私自身の怖さも。
全部、育てる時間に入っているのかもしれない。
芽が出た。
でも、まだ弱い。
だから、毎日見る。
私は最後に書いた。
待つ時間が終わり、育てる時間が始まった。
育てるとは、近づくことだけではない。
離れて見ること。
手を出さないこと。
必要な時にだけ支えること。
そして、明日も見ると決めること。
日記帳を閉じる。
外の森は静かだった。
けれど、その静けさの向こうに、公爵家の気配が近づいている。
私は怖い。
でも、畑には三つの芽がある。
村には合図がある。
私には花守り布がある。
私は布の三つの芽を撫で、小さく言った。
「また明日」
青豆一号へ。
アオジロウへ。
ムラマルへ。
モリタンへ。
村のみんなへ。
そして、育てる時間に入った私へ。
また明日。
明日も、見ます。




