第41話 青の姫君、三つの芽の朝を迎える
翌朝、畑には三つの小さな芽が並んでいた。
アオジロウ。
ムラマル。
モリタン。
もちろん、同じ大きさではない。
アオジロウは一番先に出ただけあって、葉を少し広げている。
ムラマルは控えめながらも、土の上でしっかり立ち始めていた。
モリタンは、まだ本当に小さい。
昨日ようやく顔を出したばかりで、白緑の芽先を少しだけ土の上へ見せている。
それでも、三つ並んでいた。
私は畝の前にしゃがみ、しばらく何も言わなかった。
言葉にすると、こぼれてしまいそうだった。
長い時間だった。
実際には、ほんの数日だったのかもしれない。
でも、私にとってはずっと長い時間だった。
アオジロウが出た時、村は喜んだ。
ムラマルが出た時、ニコは泣いた。
モリタンが出るまで、みんなで待った。
出ない日を記録した。
失敗と決めつけない練習をした。
心配している、だが掘らないと笑い合った。
花守り布に余白を残した。
その全部が、今、畝の上に小さく並んでいる。
「おはようございます」
私は静かに言った。
「三人とも、今日も見ます」
朝の森は穏やかだった。
けれど、胸の奥には別の緊張もある。
公爵家の使いは、まだ近くにいる。
森の南側へ回り込み、薬草採りや水場確認の痕跡を読んでいるかもしれない。
昨日、レナードという名も知らない男が、森に生活があると確信し始めていることを、私は知らない。
けれど、近づかれている感覚はあった。
風の向きが変わるように。
森の外縁の気配が少し濃くなるように。
目に見えないものの声を聞こうとしたからこそ、私はその不穏さにも気づき始めていた。
私は記録板を開いた。
青豆一号、虫食い後二十四日目。
アオジロウ、葉展開中。
ムラマル、芽、安定。
モリタン、発芽二日目。白緑の芽先、土上に確認。変化わずか。
三つの芽、揃う。
観察者、嬉しい。だが、ここからが育てる時間。
書き終えた後、その最後の一文を見つめた。
ここからが育てる時間。
芽が出たら終わりではない。
むしろ、始まりだ。
出るまで待つ時間。
出た後に守る時間。
育てる時間。
変化を見る時間。
それぞれに難しさがある。
私は昨日、モリタンが出たことで一つの区切りを迎えた気がしていた。
けれど、今朝三つの芽を見て分かった。
区切りは、終わりではない。
次の始まりなのだ。
朝食を終える頃、結界にリオとミナの気配が触れた。
今日はガルドさんもいる。
リオは森の道から現れるなり、声を抑えたまま言った。
「モリタン、どうだ?」
「無事です」
「よし」
彼は小さく拳を握った。
ミナは花守り布を見る。
昨日リーナが縫ってくれたモリタンの芽が、布の余白に小さく収まっている。
「三つ揃いましたね」
「はい」
「布も、畑も」
「はい」
私は少し照れながら頷いた。
三人で畑へ向かう。
リオは畝の前にしゃがみ、三つの芽を順番に見た。
「アオジロウ、ムラマル、モリタン」
名前を一つずつ呼ぶ。
「揃ったな」
「はい」
「なんか、すげえな」
「はい」
リオは言葉を探すのが少し苦手だ。
でも、その「すげえな」に全部入っているように思えた。
ミナは静かに言う。
「待つ時間が、形になりましたね」
「はい」
ガルドさんは周囲を警戒しつつ、畝へ一度だけ視線を落とした。
「村へ伝えれば、また喜ぶでしょう」
「はい」
その声に少しだけ緊張が混ざった。
村へ伝えたい。
でも、村へ行く道は以前より危険になっている。
喜びを運ぶ道が、同時に警戒の道でもある。
私は記録板を抱えた。
「今日も、丁寧に運びます」
ガルドさんが頷いた。
「お願いします。今日は村へ入る前に、こちらで経路を一度変えます。南側は避けます」
「はい」
リオが顔を引き締める。
「向こう、近づいてるのか」
「可能性があります」
ミナが私の横に立つ。
「怖いですか」
「はい」
私は頷いた。
「でも、三つの芽を見せたいです」
「見せましょう。無理なく」
「はい」
村へ向かう道は、いつもよりさらに短く、静かだった。
薬草採りは最小限。
水場確認はしない。
小川沿いを長く歩き、足跡を切る。
リオは今日はあまり冗談を言わなかった。
それが逆に少し不自然に感じられたのか、ミナが小声で言う。
「リオ兄さん、少し話してください」
「え、話していいのか」
「黙りすぎると不自然です」
「難しいな、本当に」
リオは少し考え、それから言った。
「今日のスープ、根菜多いといいな」
私は思わず笑った。
「自然です」
「だろ?」
ミナも笑う。
「リオ兄さんらしいです」
その小さな会話をしながら、私たちは森を抜けた。
怖さは消えない。
でも、リオの根菜の話がある。
ミナの笑い声がある。
ガルドさんの合図がある。
足元には濡れすぎていない土がある。
私はそれらを一つずつ確かめながら歩いた。
村の入口では、見張りの若者が手で丸を作った。
異常なし。
そして私の顔を見るなり、小さく笑った。
「今日は、いい知らせ?」
私は頷いた。
「はい」
「三つ目?」
「三つ、揃いました」
若者は声を出さずに拳を握った。
「そっか」
その反応だけで、村がどれだけ待っていたか分かる。
共同畑の前では、子供たちが集まっていた。
エマは今日も小声の準備をしている。
サムは記録板を持ち、ニコはムラマルの記録を見返している。
ルルとトトはモリタンの歌を少し変えようとしている。
リーナは針箱を抱えていた。
私を見ると、全員が同時に静かになった。
エマが両手を口に当てたまま聞く。
「モリタンは?」
私はゆっくり頷いた。
「モリタンは、無事です」
子供たちの目が明るくなる。
「そして、アオジロウ、ムラマル、モリタン。三つの芽が揃いました」
一瞬の沈黙。
それから、エマが小声で叫んだ。
「三つ揃った!」
ニコが笑う。
「よかった」
ルルが胸に手を当てる。
「全員いる」
トトが得意げに言った。
「最後に出たやつが一番すごいかもしれない」
サムはすでに書いている。
三つの芽、揃う。
村、静かに喜ぶ。
エマ、小声で叫ぶ。
ルル、全員いると言う。
トト、最後に出たやつがすごい説を継続。
「説を継続って何だよ」
トトが不満そうに言う。
「村記録だから」
サムは真面目だった。
周囲の大人たちも集まってくる。
パン屋の女性が笑う。
「これで三つとも出たんだねえ」
「はい」
「じゃあ、今日は三芽祝いだ」
「みつめいわい?」
エマが首を傾げる。
「三つの芽のお祝いさ」
リオがすぐ反応した。
「パン?」
ミナが視線を向ける。
「リオ兄さん」
「聞いただけ」
パン屋の女性は笑った。
「今日は小さい丸パンならあるよ。三つの芽だから、三つに切って分けるかい?」
子供たちが小さく歓声を上げる。
村長さんも家の前から出てきた。
「三つ揃ったか」
「はい」
「よく待ったな」
その言葉は、昨日私に向けられたものでもあり、今日は村全体に向けられたもののようだった。
村長さんは子供たちを見た。
「皆、よく待った」
エマが胸を張る。
「掘らなかった!」
ニコも。
「決めつけませんでした」
ルルが続ける。
「場所、残した」
サムが言う。
「記録しました」
リーナが小さく。
「縫いました」
トトが腕を組む。
「最後まで見た」
村長さんはゆっくり頷いた。
「どれも大事だ」
その場に、柔らかな沈黙が落ちた。
群衆のざわめきではなく、村の人たちが同じものを胸に置いている沈黙。
三つの芽が揃った。
それだけのこと。
でも、それだけではない。
村が一緒に待てた証だった。
今日の授業は、「芽が揃った後にすること」になった。
私は木板に、三つの芽を描いた。
大きさを変える。
アオジロウは少し葉を広げている。
ムラマルは小さく立っている。
モリタンは芽先だけ。
「三つとも芽が出ました。でも、ここから同じように育つとは限りません」
サムが頷く。
「成長の違い」
「はい」
「比較記録、続ける」
「お願いします」
エマが手を上げる。
「もう安心?」
その問いに、私は少し考えた。
安心。
確かに、出たことには安心した。
でも、芽は弱い。
虫も来る。
雨も降る。
風も吹く。
公爵家の使いも近づいている。
「少し安心です」
私は正直に言った。
「でも、完全に安心ではありません。芽が出た後も、育てる時間が続きます」
ルルが頷く。
「出てからも見る」
「はい」
ニコが言う。
「待つ時間の次は、育てる時間?」
「はい」
私は木板に書いた。
待つ時間。
出会う時間。
育てる時間。
守る時間。
サムが真剣に写す。
リーナが言う。
「縫った後も、糸がほつれないように見る」
「同じですね」
私は微笑んだ。
リーナも小さく笑った。
昼前、村長さんから報告があった。
喜びの時間の後には、やはり警戒の話が来る。
村長の家の横で、私たちは集まった。
リオ、ミナ、ガルドさん、バルドさん。
村長さんは低い声で言った。
「森の南側で、見慣れぬ足跡が見つかった」
胸が冷えた。
「公爵家の使いですか」
「断定はできない。だが、革靴の跡だ。村人のものではない」
リオの拳が握られる。
「近いのか」
ガルドさんが答える。
「まだ森の家からは距離があります。ただ、薬草採り場の一つに近づいています」
バルドさんが地面に線を描く。
「今日から南側の薬草場は使わない。水場も一つ封じる」
「封じる?」
「使っていないように見せる。少なくとも当面は」
私は頷いた。
「分かりました」
村長さんは私を見る。
「今日は三つの芽が揃った。だが、森の外も動いている」
「はい」
「喜びを消す必要はない。だが、浮かれたまま帰らないこと」
「分かっています」
私は胸に手を当てた。
「三つの芽を守るためにも、丁寧に戻ります」
「よし」
村長さんは頷いた。
午後は短い祝いになった。
大きなことはしない。
パン屋の女性が小さな丸パンを三つに切り、子供たちと私たちに少しずつ分けた。
エマは新しい歌を作ろうとした。
三つの芽がそろったよ
森の畑でそろったよ
早い子 ゆっくりな子 考える子
みんなでこんにちは
みんなでおはよう
少し拙い。
でも、みんな笑顔だった。
サムが「三芽祝い歌、一番」と記録した。
エマがもう「また一番!?」と驚く流れまで、村の恒例になりつつある。
リーナは花守り布に、モリタンの芽をもう一針縫った。
ムラマルの色も隣に加える準備をしている。
布の中に、三つの芽が並ぶ。
それを見た時、私は胸がいっぱいになった。
森の畑で起きたことが、布に残る。
布に残ったものが、村の記録になる。
村の記録が、私の心を支える。
全部がつながっている。
夕方前、私は村を出た。
今日は南側を避ける。
薬草籠は軽い。
水場には寄らない。
小川沿いを長く進む。
リオはいつもより真剣で、それでも時々根菜の話をして自然さを保っていた。
ミナは私の隣で、足元と森の奥を交互に見ている。
ガルドさんは前方を確認している。
私は花守り布の三つの芽に触れた。
喜びがある。
怖さもある。
その両方を持って歩く。
森の家に着くと、まず畑へ向かった。
三つの芽はそこにある。
変わらず、小さく、頼りなく。
でも、確かに。
「ただいま」
私はしゃがんだ。
「村で、三芽祝いをしました。歌もできました。パンも少し食べました。みんな、よく待ったと言われました」
風が畑を撫でる。
アオジロウの葉が少し揺れた。
ムラマルも。
モリタンはまだ動かない。
でも、それでよかった。
夜、私は日記帳を開いた。
今日、三つの芽が揃った。
アオジロウ、ムラマル、モリタン。
村で三芽祝いをした。
エマが歌を作った。
リーナが花守り布に三つの芽を縫い始めた。
村長さんが、皆よく待ったと言ってくれた。
でも、森の南側で見慣れない足跡が見つかった。
公爵家の使いかもしれない。
怖い。
喜びと怖さが、同じ日にある。
私はペンを止めた。
同じ日にある。
それが今の私の日常だ。
嬉しいことだけの日は少ない。
怖いことだけの日でもない。
その混ざり方に、私は少しずつ慣れてきている。
慣れたくない気もする。
でも、混ざっていても歩けるようになることは、きっと大切だ。
私は最後に書いた。
三つの芽が揃った。
でも、ここで終わりではない。
ここから育てる。
ここから守る。
ここから、もっとよく見る。
待つ時間の次は、育てる時間。
私は明日も、見る。
日記帳を閉じる。
外の森は静かだった。
どこかで、知らない足跡が残っている。
でも、畑には三つの芽がある。
私は花守り布を膝に置き、三つの小さな刺繍を撫でた。
「また明日」
青豆一号へ。
アオジロウへ。
ムラマルへ。
モリタンへ。
村のみんなへ。
そして、喜びと怖さを同じ胸に抱えている私へ。
また明日。
明日も、見ます。




