第40話 青の姫君、最後の芽におはようを言う
その朝、私は少しだけ遅く目を覚ました。
窓の外は、もう淡い光に包まれている。
夜明け前の灰色ではなく、朝と呼べる明るさだった。
鳥の声も、すでに森のあちこちから聞こえている。
珍しいことだった。
私はいつも、畑が気になって早く起きる。
とくにモリタンが出なくなってからは、夜明け前に目が覚めることが増えていた。
まだ出ていないかもしれない。
今日こそ出ているかもしれない。
その二つの思いに挟まれて、眠りは浅くなっていた。
けれど今朝は、深く眠っていたらしい。
体が少し重い。
けれど、嫌な重さではない。
ようやく少し眠れた後の、柔らかな重さだった。
私は寝台の上でしばらく座ったまま、窓の外を見ていた。
森は静かだ。
雨上がりから数日が過ぎ、湿りすぎていた空気も落ち着いている。
光はやわらかく、木々の葉は穏やかに揺れていた。
私は胸に手を当てる。
今日も、モリタンは出ていないかもしれない。
そう思った。
けれど、その思いは以前ほど鋭く胸を刺さなかった。
出ていない日も、モリタンの時間。
場所はある。
忘れていない。
失敗と決めつけない。
心配している。だが掘らない。
村のみんなと何度も繰り返してきた言葉が、胸の中に静かに積もっている。
だから私は、急いで寝台から飛び降りなかった。
ゆっくり立ち上がり、顔を洗い、髪を梳いた。
空色の髪が、朝の光を受けて淡く揺れる。
昔なら、この髪は青の姫君の証だった。
今は、花守り布の下に隠す髪。
でも、嫌いではない。
私は髪を丁寧にまとめ、机の上の花守り布を手に取った。
布には、青い花と白い花。
その下に、アオジロウの小さな芽。
ムラマルの色を待つ糸。
そして、モリタンのために空けられた余白。
何も縫われていない場所。
けれど、その余白はもう空っぽではなかった。
村の子供たちの声がある。
リーナの指先がある。
サムの記録がある。
エマの小声の叫びがある。
ニコの涙がある。
ルルの「急がなくていい」がある。
トトの「最後にすごいかもしれない」がある。
リオの不器用な励ましがある。
ミナの優しい確認がある。
村長さんの静かな言葉がある。
バルドさんの土の教えがある。
ガルドさんの守る目がある。
その全部が、その余白に込められている。
私は余白を指先で撫でた。
「今日も、場所はあります」
そう言って、布をかぶった。
外へ出ると、森の空気は澄んでいた。
昨日まで足元に残っていた泥の重さは少し引き、土はほどよく湿っている。
強すぎない朝日が、畑の上に斜めに落ちていた。
私は足元を見ながら、ゆっくり歩く。
怖い時ほど足元を見る。
嬉しい時も、足元を見る。
今日がどんな日か、まだ分からない。
だから、丁寧に歩く。
青豆一号の前で立ち止まった。
古い虫食いの葉は、もう土へ返す場所に置かれている。
新しい葉は大きくなり、最初の頃よりずっと豆らしい姿になっていた。
「おはようございます、青豆一号」
私は声をかけた。
アオジロウは葉を広げている。
ムラマルもゆっくりと伸びている。
そして、モリタン。
私はすぐには近づかなかった。
一度、深く息を吸った。
今日も出ていないかもしれない。
それでも見る。
今日こそ出ているかもしれない。
それでも触らない。
私は畝の前にしゃがんだ。
モリタンの札の前。
土は静かに見えた。
一瞬、何も変わっていないように見えた。
胸の奥が、少し沈む。
けれど、私はすぐに決めつけなかった。
見る。
昨日と比べる。
土の色。
表面の硬さ。
小さな影。
光の当たり方。
私は顔を少し近づけた。
そして、気づいた。
モリタンの札のすぐ横。
ほんのわずかに、土が盛り上がっている。
昨日はなかった。
たぶん、なかった。
いや、決めつけない。
私はさらに息を潜める。
盛り上がりの中央に、ごく細い線があった。
割れ目というには浅い。
ただ、土の粒と粒の間に、朝の光が引っかかっている。
私は動けなくなった。
心臓が、ゆっくりと強く鳴る。
モリタン。
私は名前を呼びそうになって、飲み込んだ。
大きな声を出す必要はない。
土の前では、静かに。
私は両手を膝の上で握った。
触らない。
絶対に触らない。
ここまで待った。
村のみんなと待った。
花守り布に場所を作って待った。
今日、この小さな違和感を、私の指で壊してはいけない。
朝日が少し強くなる。
木々の間から、細い光が畝の上に落ちた。
その光が、モリタンの札の前の土を照らす。
しばらく何も起きなかった。
森の鳥が鳴く。
遠くで小川が流れる。
葉の先から水滴が落ちる。
私はただ、見ていた。
すると。
土の細い線が、ほんの少し広がった。
音はしない。
けれど、確かに動いた。
土の粒が一つ、横へ転がる。
その下から、白いものが見えた。
細い。
本当に細い。
頼りないほど小さな芽の先。
白く、少しだけ緑を含んだそれが、土の間からゆっくりと顔を出していた。
私は息を止めた。
モリタンが、出ている。
いや、出ようとしている。
今、この瞬間に。
私は叫ばなかった。
泣き崩れもしなかった。
ただ、畝の前で静かに座り、胸の奥が熱くなるのを感じていた。
長い時間を待っていた。
出ない日を何度も記録した。
心配していると書いた。
掘らないと書いた。
失敗と決めつけないと書いた。
場所を用意した。
声を聞こうとした。
足元を見た。
守りすぎないようにした。
それら全部の時間が、この小さな白い芽の先に集まっているようだった。
私はそっと頭を下げた。
「おはようございます、モリタン」
声は小さかった。
けれど、震えていた。
「待っていました」
土は返事をしない。
芽はまだ、ほんの少しだけだ。
でも、確かにそこにある。
私は記録板を取り出した。
手が震える。
でも、ゆっくり書いた。
青豆一号、虫食い後二十三日目。
アオジロウ、葉展開中。
ムラマル、安定。
モリタン、発芽開始。
土割れ、小。
白緑の芽先、視認。
触らない。
水やり不要。
観察者、静かに嬉しい。
最後の一文を書いて、私は少し笑った。
静かに嬉しい。
本当に、そうだった。
胸の奥では大きな波が立っている。
でも、外へは静かに出したかった。
モリタンは、ゆっくり出てきた子だ。
その子の前では、私もゆっくり喜びたい。
結界に気配が触れた。
リオとミナだ。
少し遅れてガルドさん。
私は立ち上がりかけて、また座り直した。
走らない。
叫ばない。
でも、知らせたい。
胸が弾む。
花守り布の余白が、風で小さく揺れた。
森の道からリオが現れた。
「おはよう、フローラ」
私は立ち上がり、彼らの方を向いた。
リオは私の顔を見て、すぐに足を止めた。
「……出た?」
声が小さい。
ミナも息を呑む。
私は頷いた。
「モリタンが、発芽を始めました」
沈黙。
リオは口を開けた。
けれど声を出さなかった。
両手を握り、目だけを大きくしている。
ミナは片手で口元を押さえた。
「本当に……?」
「はい」
「見ても?」
「はい」
三人で畝へ近づく。
リオは、今までで一番慎重に歩いた。
少し大げさなくらいゆっくり。
でも、誰も笑わなかった。
モリタンの札の前にしゃがむ。
リオはしばらく探し、やがて白緑の芽先を見つけた。
「……いた」
彼は本当に小さな声で言った。
「いたな」
「はい」
「モリタン、いた」
その言葉に、私は胸が熱くなった。
出た、ではなく。
いた。
まるで、ずっとそこにいたことを見つけたような言葉だった。
ミナが静かに目を潤ませる。
「ずっと、土の中で準備していたんですね」
「はい」
リオが小さく言う。
「失敗じゃなかった」
「はい」
「遅かっただけでもないな。モリタンの時間だったんだな」
私は頷いた。
「はい。モリタンの時間でした」
ガルドさんも近づき、少し離れた場所から畝を見た。
彼は微かに表情を和らげた。
「よかったですね」
「はい」
本当に、その一言だった。
よかった。
モリタンが出たこと。
待てたこと。
触らなかったこと。
場所を残せたこと。
全部が、よかった。
村へ知らせる準備をした。
今日はいつも以上に慎重に動く必要がある。
公爵家側の監視は続いている。
森の南側へ近づいている可能性もある。
だが、今日は村へ伝えたい。
モリタンが出た。
その知らせを、村で待っている子供たちへ。
私は薬草籠を整えた。
今日は短い薬草確認だけにする。
移動経路はガルドさんが選ぶ。
リオは嬉しすぎて不自然にならないよう、ミナに何度も注意されていた。
「リオ兄さん、顔がにやけています」
「無理だろ」
「少し抑えて」
「モリタン出たんだぞ」
「分かっています。でも見られているかもしれません」
「……分かった」
リオは顔を引き締めようとした。
けれど、すぐにまた緩む。
私はそれを見て、小さく笑った。
「私も、同じです」
「フローラも?」
「はい。顔に出ているかもしれません」
ミナが優しく言った。
「少しだけ出ています。でも、とても良い顔です」
その言葉に、私は頬が熱くなった。
村へ向かう道は、いつも通り慎重だった。
足元を見る。
小川を使う。
薬草採り場で少し葉を確認する。
急がない。
でも、胸の中はずっと明るかった。
怖さはある。
けれど、今日はその怖さの中に、モリタンの芽があった。
村の入口では、見張りの若者が手で丸を作った。
異常なし。
彼は私たちの顔を見て、少し首を傾げる。
「何かあった?」
リオが口を開きかける。
ミナが袖を引く。
私は小さく微笑んだ。
「畑の知らせです」
若者は目を瞬いた。
そして察したように、顔を明るくした。
「……モリタン?」
「はい」
彼は声を抑えながら、拳を握った。
「そっか。よかった」
その一言が、村へ入る前から胸に沁みた。
共同畑の前では、子供たちが待っていた。
エマ。
ニコ。
ルル。
トト。
サム。
リーナ。
みんな、私を見る。
最初に聞いたのは、やはりエマだった。
でも、今日の声はいつもよりさらに小さかった。
「モリタンは……?」
私は花守り布の余白に触れた。
そして、静かに言った。
「モリタンが、発芽を始めました」
世界が、止まったようだった。
子供たちは誰も声を出さなかった。
エマでさえ、両手で口を押さえたまま固まっている。
ニコは目を丸くしている。
ルルは息を呑んで、リーナの手を握った。
トトは腕を組むのも忘れていた。
サムは記録板を持ったまま、書くことを忘れている。
リーナの目には、すぐに涙が浮かんだ。
「……場所」
彼女が小さく言った。
「場所、ある」
「はい」
私は頷いた。
「モリタンの場所に、縫えます」
その瞬間、エマが小声で叫んだ。
「モリタン、おはよう!」
小声だった。
でも、村中に届いた気がした。
子供たちが一斉に息を吐く。
そして、小さな歓声が広がった。
「出た!」
「やっと!」
「急がなくてよかった!」
「待ってた!」
「モリタン、おはよう!」
村の大人たちも集まってくる。
パン屋の女性は目元を押さえた。
「まあ……本当に出たんだねえ」
ニコの母親が微笑む。
「みんなで待ったものね」
バルドさんが少し離れた場所で腕を組み、深く頷いた。
「出たか」
それだけだった。
でも、その声には確かな喜びがあった。
サムがようやく我に返り、慌てて記録板へ書き始めた。
モリタン、発芽開始。
土割れ、小。
白緑の芽先。
フローラ先生、静かに嬉しい。
エマ、小声で「おはよう」。
リーナ、泣く。
「泣いてない……」
リーナが小さく言ったが、涙はこぼれていた。
ルルが優しく言う。
「嬉しい時も泣いていい」
その言葉に、リーナは頷いた。
私は胸がいっぱいになった。
アオジロウの時は、驚きと大きな喜び。
ムラマルの時は、ニコの涙。
モリタンの時は、長く待った村全体の安堵だった。
出ない日を何度も越えた。
場所を残した。
余白を守った。
失敗と決めつけなかった。
その全部が、今、村の空気になっている。
リーナは花守り布を手に取り、余白の場所を確認した。
「今日、縫っていい?」
「はい」
「すぐじゃなくて、丁寧に縫う」
「お願いします」
彼女は深い緑と、少し白を含んだ糸を取り出した。
モリタンの色。
まだ見えなかった色。
長く待っていた色。
村の広場の端で、リーナは布を膝に置き、一針目を入れた。
子供たちも大人たちも、自然と静かになった。
針が布を通る。
糸が引かれる。
小さな余白に、最初の色が入る。
私はその様子を、息を潜めて見ていた。
待つ場所が、帰ってきた場所に変わっていく。
そんな気がした。
エマが小さく歌い始めた。
即興だった。
モリタンおはよう
ゆっくりおはよう
森の土から目を覚まし
みんなの場所へ
おかえりなさい
誰も笑わなかった。
少し拙い歌。
でも、今日のモリタンにはぴったりだった。
リオが小さく呟く。
「おかえり、か」
ミナが頷く。
「ずっと待っていましたから」
私は花守り布に入っていく糸を見つめた。
帰ってきた。
モリタンはどこかへ行っていたわけではない。
ずっと土の中にいた。
それでも、出てきた芽を迎える言葉は「おかえり」でもいい気がした。
待つ場所へ。
忘れられていなかった場所へ。
戻ってきたように。
昼前、村長さんが静かに言った。
「今日はよい日だな」
「はい」
私は頷いた。
村長さんは花守り布のモリタンの芽を見た。
「待てたな」
「はい」
「掘らずに」
「はい」
「決めつけずに」
「はい」
「よく待った」
その言葉に、私は少し泣きそうになった。
私は天才だった。
何でも早くできた。
待つことは、得意ではなかった。
けれど今、私は「よく待った」と言われて嬉しい。
それは、これまでのどんな褒め言葉よりも胸に残った。
その頃、森の南側では、ダンが濡れた土の上に膝をついていた。
雨後の痕跡は、完全には消えていない。
むしろ、場所によっては新しい動きが見えやすくなっていた。
薬草を採った跡。
水場で洗った痕跡。
小川へ向かう足運び。
どれも自然に見える。
だが、自然すぎる。
必要なものだけを採り、必要な場所だけを踏み、痕跡を水で切っている。
森で暮らす者の手だ。
ダンは立ち上がり、レナードへ報告した。
「薬草採りの痕跡がある。だが、ただの村人にしては動きが慎重すぎる」
セイルが低く言う。
「やはり匿っている」
レナードは森の奥を見た。
「生活がある」
「生活?」
「ただ隠れているだけではない。薬草を採り、水を見て、道を整え、痕跡を消す。誰かが森で暮らしている」
その声は静かだった。
「そして村は、その生活を支えている」
セイルは拳を握る。
「ならば、明日にでも村へ」
「まだだ」
「隊長」
「力で近づけば壊れる」
レナードはそう言った。
自分でも、なぜその言葉を選んだのか分からなかった。
だが、森の痕跡はそう語っていた。
誰かが、壊されまいとしている。
誰かが、守りすぎず、でも丁寧に生活を守っている。
それを力任せに踏み荒らせば、探しているものは見つかっても、取り返しのつかないことになるかもしれない。
レナードは低く命じた。
「監視を続ける。だが、村人には接触しない。森の中へもまだ入らない」
「いつまで待つのですか」
セイルの声には苛立ちがある。
レナードは答えた。
「相手がこちらを見ざるを得なくなるまでだ」
森の奥で、小さな芽がようやく顔を出したことを、彼らは知らない。
だが、待つ時間は、向こう側にも始まっていた。
夕方、私は森へ戻った。
花守り布には、リーナが縫ってくれたモリタンの小さな芽が加わっている。
まだ仮縫いに近い。
けれど、余白はもうただの余白ではない。
アオジロウ。
ムラマル。
モリタン。
三つの芽が、布の中に並び始めていた。
森の家に着くと、私はすぐ第二の畝へ向かった。
モリタンの白緑の芽先は、朝と大きく変わらない。
でも、確かにそこにある。
私はしゃがみ、村でのことを伝えた。
「みんな、とても喜んでいました。エマが歌を作りました。リーナがあなたを布に縫ってくれました。サムが全部記録しました。村長さんが、よく待ったと言ってくれました」
声が少し震えた。
「モリタン。おはようございます。そして……おかえりなさい」
風が吹いた。
小さな芽は揺れない。
けれど、花守り布の端がふわりと動いた。
夜。
私は日記帳を開いた。
今日、モリタンが発芽を始めた。
白緑の小さな芽先が見えた。
私は「おはようございます」と言った。
村では、エマが「おかえりなさい」と歌った。
リーナが花守り布の余白にモリタンを縫ってくれた。
待つ場所が、帰ってきた場所になった。
私はよく待ったと言われた。
嬉しかった。
とても、嬉しかった。
私はペンを止めた。
涙が一滴、日記帳に落ちそうになった。
慌てて顔を上げる。
泣きたくなった。
でも、悲しい涙ではない。
長い待ち時間が、ようやく形になった涙だ。
私は最後に書いた。
待つことは、何もしないことではなかった。
場所を用意し、記録し、歌い、心配し、でも掘らずにいることだった。
モリタンは、今日、帰ってきた。
私もいつか、どこかへ帰るのだろうか。
それが公爵家なのか、森なのか、村なのかは、まだ分からない。
でも今は、この森の家に「ただいま」と言える。
それだけで、十分だと思った。
日記帳を閉じる。
外の森は静かだった。
私は花守り布を膝に置き、三つの芽をそっと撫でた。
アオジロウ。
ムラマル。
モリタン。
それから、子守歌を歌った。
森の葉っぱが眠るころ
小さな灯りも目を閉じる
風よ静かに通りゃんせ
夢の小道を通りゃんせ
歌い終えた後、もう一つ。
エマの今日の歌を、小さくなぞった。
モリタンおはよう
ゆっくりおはよう
森の土から目を覚まし
みんなの場所へ
おかえりなさい
私は窓の外へ向かって言った。
「また明日」
青豆一号へ。
アオジロウへ。
ムラマルへ。
モリタンへ。
村のみんなへ。
そして、長く待った後で、少しだけ帰る場所を知った私へ。
また明日。
明日も、見ます。




