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『青の姫君の森暮らし 〜化け物と恐れられた公爵令嬢は、今日も畑を耕します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第39話 青の姫君、決めつけない怖さを抱く


 翌朝、モリタンはまだ出ていなかった。


 それを確認した瞬間、胸の奥に小さな沈みが生まれた。


 もう、何度目の「まだ」だろう。


 アオジロウは葉を広げ始めている。


 ムラマルもゆっくりだが、ちゃんと土の上に立っている。


 青豆一号の古い虫食いの葉は、ついに夜のうちに自然に落ちていた。


 畑の土の上に、乾いた葉が一枚、静かに横たわっている。


 けれど、モリタンの札の前だけは変わらない。


 盛り上がりもない。


 割れ目もない。


 緑も白も見えない。


 ただ、雨上がりの湿りを少し残した土が、朝の光を受けて静かにそこにある。


 私は膝を折り、畝の前にしゃがんだ。


「おはようございます、モリタン」


 声は、思ったより落ち着いていた。


 心配はしている。


 けれど、昨日より焦りは少ない。


 モリタンの場所はある。


 村のみんなも待っている。


 花守り布にも余白がある。


 それでも、胸の奥に不安はある。


 出ないまま終わるのではないか。


 種が傷んでいるのではないか。


 森試験豆として、私の調整が間違っていたのではないか。


 そんな考えが浮かぶたび、私は深く息を吸った。


 決めつけない。


 まだ失敗と決まったわけではない。


 まだ成功とも決まっていない。


 ただ、今日も出ていない。


 それだけを記録する。


 私は青豆一号の落ちた葉をそっと拾った。


 乾いて軽い。


 指で触れると、かさりと小さな音がした。


 虫食いの穴は、そのまま残っている。


 けれど、その葉はもう青豆一号を苦しめてはいない。


 役目を終えて、土へ帰る準備をしている。


「頑張りましたね」


 私は小さく言った。


 そして、畑の端に用意してある土へ、その葉を置いた。


 ルルがしたように。


 終わりではなく、土へ戻るために。


 それから記録板を開いた。


 青豆一号、虫食い後二十二日目。


 古い葉、自然離脱。土へ返す。


 アオジロウ、葉、展開中。


 ムラマル、安定。


 モリタン、発芽なし。土表面、変化なし。


 観察者、失敗と決めつけない練習中。


 書いた後、私はしばらくその一文を見つめた。


 失敗と決めつけない練習中。


 それはモリタンのことだけではない。


 私自身のことでもある。


 公爵家から捨てられた私は、失敗だったのか。


 青の姫君と呼ばれた私は、化け物だったのか。


 家族に恐れられた私は、もう誰かと暮らすことに向いていないのか。


 そう決めつけてしまえば、楽な部分もある。


 でも、村で過ごす日々が、それはまだ早いと教えてくれている。


 フローラ先生と呼ばれる私。


 畑を見る私。


 歌を覚える私。


 リオやミナに心配される私。


 子供たちと記録を作る私。


 それらは、失敗という言葉だけでは片づけられない。


 モリタンも同じだ。


 まだ出ていない。


 それだけ。


 私は記録板を閉じ、立ち上がった。


 朝食を終える頃、リオとミナが来た。


 今日はガルドさんの気配が少し離れていて、さらに村側の見張りも外縁近くにいる。


 見られているかもしれない日常は、少しずつ複雑になっていた。


「おはよう、フローラ」


「おはようございます」


 リオはすぐに畑を見た。


「モリタンは?」


「まだです」


「そっか」


 彼は少しだけ眉を下げた。


 でも、すぐに言った。


「まだ失敗じゃないよな」


「はい」


「まだ出てないだけ」


「はい」


 ミナが私を見る。


「今日の記録は?」


 私は木板を見せた。


 ミナは声に出さず目で読み、柔らかく微笑んだ。


「失敗と決めつけない練習中」


「はい」


「とても大事ですね」


 リオも覗き込んだ。


「決めつけないって、難しいよな」


「そうですね」


「俺、すぐ決めつけるかも。嫌な奴は嫌な奴って」


 彼の言葉に、私は少し黙った。


 公爵家の使いたち。


 彼らは怖い。


 けれど、私は彼らをまだ知らない。


 敵だと決めつければ、心は一時的に固くなれる。


 でも、実際に何をしに来たのか、どう動くのかはまだ見ていない。


 もちろん、油断はしない。


 でも、決めつけすぎてもいけない。


「私も、すぐ怖いものだと決めつけそうになります」


 そう言うと、リオは少し気まずそうに森の奥を見た。


「まあ、怖いのは怖いけどな」


「はい。怖いです」


 ミナが静かに言う。


「怖いと感じることと、相手のすべてを決めつけることは別です」


「はい」


 私は頷いた。


 今日の村行きは短めに決まった。


 公爵家側が森の南側へ回り込む動きがあるため、薬草採りの場所はさらに村寄りにする。


 水場確認も短く。


 森へ戻る道は小川を長く使う。


 リオは今日も自然に振る舞おうとして、少しだけぎこちなかった。


 ミナが小声で注意する。


「リオ兄さん、自然に」


「自然にしようとしてる」


「だから不自然です」


「じゃあどうすればいいんだよ」


「いつも通りで」


「いつも通りだと怒られる」


「声量だけ控えめに」


「注文が多い」


 私はそのやり取りに笑ってしまった。


 笑い声は小さく。


 でも、確かに笑った。


 村へ着くと、子供たちは共同畑の前にいた。


 エマはもう、私の顔を見ただけで少し分かったらしい。


「モリタン、まだ?」


「はい。まだです」


「うー……」


 エマは頬を膨らませた。


 だが、すぐに両手で頬を押さえて戻す。


「でも、失敗じゃない」


「はい」


 ルルが頷く。


「出てないだけ」


「はい」


 ニコも言う。


「待つ場所ある」


「はい」


 リーナは花守り布の余白を確認して、小さく微笑んだ。


「今日も空いてる」


 サムは記録板に書く。


 モリタン、発芽なし。


 失敗と決めつけない。


 出ていないだけ。


 待つ場所あり。


 トトが腕を組んで言った。


「でも、ずっと出なかったら?」


 空気が少し止まった。


 トトは悪気なく、ただ本当に気になったのだろう。


 けれど、その問いはみんなの胸にあった不安でもあった。


 私は少し息を吸った。


「その時も、記録します」


「出なかったって?」


「はい。もし最後まで出なかったなら、どうして出なかったのか考えます。種の状態、土、水、気温、魔力環境。分かることを探します」


「失敗?」


 トトが聞く。


「失敗という言葉を使うこともあるかもしれません。でも、ただ駄目だったという意味にはしません」


「どういうこと?」


「次に育てるための記録にします」


 サムが顔を上げた。


「失敗も記録」


「はい」


「次のため」


「はい」


 エマが少し不満そうに言う。


「でも、出てほしい」


「私もです」


 私は正直に答えた。


「私も、モリタンに出てほしいです」


 その言葉に、子供たちは少し安心したようだった。


 先生だから冷静に見ているわけではない。


 私も出てほしい。


 でも、出なかった時のことも怖がりすぎずに考える。


 今日の授業は、「決めつけない記録」になった。


 木板に私は書いた。


 まだ出ていない。


 失敗と決まったわけではない。


 成功と決まったわけでもない。


 今日分かることを書く。


 明日また見る。


 サムは丁寧に写している。


 ニコが小さく言う。


「分からないまま置いておく?」


「はい」


「それ、そわそわする」


「します」


 私は頷いた。


「でも、分からないことを無理に決めると、間違えることがあります」


 ルルが言った。


「怖い人も?」


 私は花守り布に触れた。


「はい。公爵家の使いのことも、まだ分からないことがあります」


 広場が少し静かになる。


「怖いです。警戒はします。でも、何をする人たちなのか、まだ全部は分かりません」


 エマが小声で聞く。


「嫌な人じゃないかもしれない?」


 私はすぐには答えられなかった。


 怖い。


 嫌だ。


 会いたくない。


 その気持ちは確かにある。


 でも、全員をただ「嫌な人」と決めつけるのは、まだ違う。


「分かりません」


 私は正直に言った。


「嫌な人かもしれません。そうではない人もいるかもしれません。だから、油断せず、でも決めつけすぎず、見ます」


 子供たちは黙って聞いていた。


 村の大人たちも同じだった。


 リオは少し不満そうに腕を組んでいたが、何も言わなかった。


 ミナがそっと言う。


「難しいですね」


「はい。とても難しいです」


 昼前、村長さんから報告があった。


 公爵家側の斥候が、南側の薬草採り場に近い森の外縁まで来た可能性がある。


 まだ村人と接触はしていない。


 だが、薬草採りや水場確認の痕跡を読まれ始めているかもしれない。


 私は胸が冷たくなった。


「今日の帰りは?」


 村長さんは地面に線を描いた。


「今日は一度、村の中に戻ってから別の出口を使う。水場には寄らない。薬草は村内で整理してから帰る」


「はい」


「急に森へ入る姿を見せないためだ」


 ガルドさんが続ける。


「私が先に出ます。リオとミナは時間をずらしてフローラ殿と出る」


 リオが眉を寄せる。


「離れるのか」


「見える範囲だ。完全には離れない」


「分かった」


 リオは不満そうだが、頷いた。


 村長さんは私を見る。


「怖いか」


「はい」


「決めつけない話をしたばかりだが、警戒は緩めるな」


「はい」


「決めつけないことと、無防備になることは違う」


「分かっています」


 私は深く頷いた。


 午後は短く、薬草整理の時間になった。


 村内の屋根の下で、採ってきた薬草を選別する。


 洗うもの。


 乾かすもの。


 香りを残すもの。


 子供たちは手伝いながら、モリタンの話を続けていた。


「明日かな」


「明後日かも」


「寝坊しすぎ」


「考えてるの」


「森の子だからゆっくり」


 その会話が、少しずつ穏やかになっている。


 出ないことへの焦りが完全になくなったわけではない。


 でも、子供たちはそれぞれの言葉で、モリタンを待つ理由を作っている。


 リーナは花守り布の余白を指先で確認し、小さく言った。


「場所、ちゃんと残す」


「ありがとうございます」


「出ても出なくても、今日の場所は残す?」


 私は少し考えた。


「はい。今日の待った場所として、残したいです」


 リーナは嬉しそうに頷いた。


 夕方前、私は村を出た。


 今日はいつもと少し違う。


 一度、村の中で時間をずらす。


 ガルドさんが先に出る。


 少し後に、リオとミナと私が別の出口から出る。


 私は薬草籠を持ち、村の家々の間を歩いた。


 パン屋の女性が自然に声をかける。


「フローラちゃん、薬草は足りたかい?」


「はい。今日は十分です」


「雨後は足元に気をつけなよ」


「ありがとうございます」


 それは、外から見ても自然な会話だった。


 けれど、その裏には村全体の連携がある。


 見られているかもしれない日常。


 皆がそれを支えてくれている。


 森へ戻る道は、短いが緊張した。


 遠くに、人の気配があったような気がした。


 でも、ガルドさんの合図は異常なし。


 私は振り返らず、足元を見て歩いた。


 決めつけない。


 でも油断しない。


 怖い。


 でも歩く。


 森の家に着くと、私はすぐ畑へ向かった。


 モリタンは、まだ出ていなかった。


 そのことに、少しだけ胸が沈む。


 けれど、私は膝をつき、静かに言った。


「ただいま。今日も、あなたの場所はありました。みんな、待っています」


 風が小さく吹いた。


 返事はない。


 でも、私はその沈黙を失敗とは決めつけなかった。


 夜、日記帳を開く。


 今日もモリタンは出なかった。


 でも、失敗と決めつけない話をした。


 もし出なかったとしても、それは次のための記録になると話した。


 公爵家の使いも、怖いけれど、まだ分からないことがある。


 決めつけない。


 でも、油断しない。


 これがとても難しい。


 私はペンを止めた。


 難しい。


 本当に難しい。


 相手を全部敵だと思えば、怖さの形は単純になる。


 モリタンを失敗だと決めれば、待つ苦しさは終わる。


 でも、それは本当に見ることではない。


 私は最後に書いた。


 決めつけると、少し楽になる。


 でも、見えなくなるものがある。


 私は怖くても、まだ見たい。


 モリタンの土も。


 公爵家の使いの本当の目的も。


 自分の心も。


 日記帳を閉じる。


 外は静かだ。


 私は花守り布を畳み、モリタンの余白をそっと撫でた。


「また明日」


 アオジロウへ。


 ムラマルへ。


 まだ出ないモリタンへ。


 そして、決めつけない怖さを抱えている私へ。


 また明日。


 明日も、見ます。

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