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『青の姫君の森暮らし 〜化け物と恐れられた公爵令嬢は、今日も畑を耕します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第38話 青の姫君、まだ見えないものの声を聞く



 翌朝、森は昨日より少し明るかった。


 雨雲は東の空へ流れ、木々の隙間から薄い陽が差し込んでいる。


 濡れた葉は光を受けてきらきらと揺れ、地面の落ち葉にはまだ水分が残っていた。


 空気は湿っている。


 けれど、昨日のような重さはない。


 雨上がりの森が、ゆっくり息を整えているようだった。


 私は玄関の前で足元を見た。


 昨日、自分が歩いた跡はほとんど崩れている。


 けれど、完全には消えていない。


 水に流された線。


 泥に残ったかすかな凹み。


 葉の向き。


 それらを見ながら、バルドさんの言葉を思い出す。


 怖い時は遠くばかり見る。


 だが今日みたいな日は足元だ。


 足跡一つが道になる。


 私はゆっくり息を吸った。


 遠くの怖さ。


 公爵家の使い。


 斥候。


 森の西側から南へ回ろうとしているかもしれない気配。


 それらは確かに怖い。


 でも、今日の一歩を見なければならない。


 畑へ向かう一歩。


 村へ向かう一歩。


 戻ってくる一歩。


 それらを丁寧に選ぶことが、今の私にできる守りだった。


 花守り布の端に触れる。


 モリタンのために空けられた余白。


 そこは今日も空いている。


 私は布を整え、畑へ向かった。


 青豆一号は、雨の後でもしっかりしていた。


 古い虫食いの葉は、今朝、茎から半分ほど離れかけていた。


 もう、ほんの少し触れれば取れそうだ。


 でも、まだ自然には落ちていない。


 私は手を伸ばさなかった。


 アオジロウは、昨日の傾きから少し戻っていた。


 小さな葉が開き始めている。


 ムラマルも、ゆっくりだが安定している。


 そしてモリタン。


 まだ、出ていない。


 土の表面は、昨日より少し乾き始めていた。


 雨で締まった土が、朝の光を受けて薄く固まりかけている。


 私はしゃがみ込み、顔を近づけた。


 変化はない。


 割れ目もない。


 盛り上がりもない。


 けれど、昨日より土の呼吸が少し浅い気がした。


 土が固くなりすぎる前に、周囲を軽く整えた方がいいかもしれない。


 でも、真上は触らない。


 私は畝の端を見た。


 水の逃げ道は昨日整えたまま保たれている。


 落ち葉の詰まりもない。


 ただ、表面に薄い膜のように泥が固まっている場所がある。


 モリタンの真上ではない。


 少し横だ。


 そこだけなら、ほぐしても問題は少ない。


 私は細い小枝を使い、畝の横の固まりかけた土をほんの少しだけ崩した。


 空気が通るように。


 でも、種の場所には触れないように。


 作業はすぐに終えた。


 足りないようにも思う。


 もっとできる気もする。


 けれど、そこで止める。


 守りすぎると埋まる。


 私は小枝を置き、記録板を開いた。


 青豆一号、虫食い後二十一日目。


 古い葉、自然離脱間近。触らない。


 アオジロウ、葉展開中。雨後の傾き回復傾向。


 ムラマル、安定。


 モリタン、発芽なし。土表面、やや締まり。真上は触らず、周辺のみ軽く調整。


 観察者、まだ見えないものの声を聞こうとしている。


 書いた後、私は少し首を傾げた。


 声。


 モリタンは何も言わない。


 土も言葉を持たない。


 でも、見えないものにも、状態はある。


 湿り。


 硬さ。


 匂い。


 時間。


 それらを「声」と呼ぶなら、私は確かに聞こうとしていた。


 ただ見たいから見るのではなく。


 不安だから掘るのでもなく。


 相手の状態を知ろうとする。


 それが、今日の私の課題なのかもしれない。


 朝食を終えた頃、リオとミナが来た。


 ガルドさんは少し遅れて、周囲を確認しながら姿を見せる。


 リオは開口一番に聞いた。


「モリタンは?」


「まだです」


「そっか」


 彼は少し残念そうにしながらも、すぐに頷いた。


「でも、場所はある」


「はい」


 ミナが私の記録板を覗いた。


「まだ見えないものの声を聞こうとしている」


 少し声に出して読む。


 私は少し恥ずかしくなる。


「変でしょうか」


「いいえ」


 ミナは首を横に振った。


「とてもフローラらしいです」


「そうでしょうか」


「はい。無理に答えを出すのではなく、状態を聞く。とても大事だと思います」


 リオは少し難しい顔をした。


「声って、土の声?」


「言葉ではありません。土の状態を見るという意味です」


「なるほど。腹が減ってるかどうか顔見れば分かる、みたいな?」


「……近いような、違うような」


 ミナが笑った。


「でも、リオ兄さんにはそれでいいかもしれません」


「何だよそれ」


 私は笑った。


 朝の緊張が少し軽くなる。


 ガルドさんは森の奥を見てから言った。


「今日は、村へ行く前に少し西寄りの気配を確認します。ただし、フローラ殿は近づきません。移動経路はさらに短く」


「はい」


「昨日の雨で、向こうも動きやすくなっています。痕跡を探すには良い日です」


 胸が冷える。


 でも、私は頷いた。


「分かりました。足元を見ます」


「お願いします」


 村へ向かう道は、昨日よりさらに慎重だった。


 小川沿いを使う時間が長い。


 薬草採りも、村に近い場所で短く行う。


 リオは足元を見すぎて一度低い枝に頭をぶつけかけ、ミナに袖を引かれて止まった。


「足元だけじゃなく前も見て」


「足元見ろって言われたから」


「両方です」


「難しい」


 私は思わず笑った。


「遠くも、足元も、前も見る。確かに難しいですね」


 リオは少し照れながら言った。


「フローラでも難しいなら、俺が難しくても仕方ないな」


「はい」


 その言い方が妙に前向きで、また少し笑ってしまった。


 村に着くと、共同畑では子供たちがすでに集まっていた。


 エマは今日も小声で聞く。


「モリタンは?」


「まだです」


「まだかあ」


 彼女は肩を落とす。


 でも、今日はすぐに花守り布の余白を見る。


「場所はある?」


「はい。あります」


 リーナが頷く。


「まだ空けてる」


 ルルが言う。


「忘れてない」


 ニコが続ける。


「でも心配」


「はい」


 私は頷いた。


「心配してもいいです」


 サムがすぐ記録した。


 モリタン、発芽なし。


 心配してもいい。


 場所はある。


 忘れていない。


 トトが腕を組む。


「モリタン、じらすな」


 ルルが睨む。


「急がせない」


「急がせてない。ただ、じらすなって」


「同じ」


「違う」


 子供たちのやり取りに、大人たちが小さく笑う。


 私はその笑いを聞きながら、モリタンの沈黙が村の中で「待つ練習」になっているのを感じた。


 今日の共同畑では、青豆一号の古い葉のことを改めて話した。


 森でまだ取れそうで取れないこと。


 無理に触らず見ていること。


 ルルの豆の葉は土へ返ったこと。


 子供たちはそれぞれ、自分の豆の古い葉や傷んだ部分を見直した。


 エマが言う。


「マメタの葉はまだ元気」


「はい」


 ニコは自分の豆を見て言った。


「ニコ豆、少し曲がってるけど大丈夫?」


「大丈夫です。光の方へ向かっています」


「曲がってても、進んでる?」


「はい」


 ニコは嬉しそうに頷いた。


 サムは記録する。


 曲がっていても、光へ向かっている。


 リオがそれを見て言う。


「それ、いいな」


「リオ兄さんも曲がってますか」


 ミナが聞く。


「俺はまっすぐだろ」


「勢いで斜めに進むことは多いです」


「斜めでも進んでるならいいだろ」


 子供たちが笑う。


 私はそのやり取りを聞きながら、木板に今日の言葉を書いた。


 曲がっていても、光へ向かっている。


 まだ見えなくても、土の中で進んでいるかもしれない。


 見えないものの声を聞く。


 今日の授業は、その三つを中心にした。


 エマが首を傾げる。


「見えないものの声って難しい」


「はい。難しいです」


「どうやって聞くの?」


「よく見ること。急がないこと。前と比べること。分からない時は、分からないと記録すること」


 サムが頷く。


「分からないも記録」


「はい」


 ルルが小さく言う。


「怖いことも、分からない?」


「はい。分からないことがあります」


「分からないの怖い」


「はい。怖いです。でも、分からないまま決めつけると、もっと怖くなることがあります」


 私は言いながら、公爵家のことを思った。


 使いたちは怖い。


 でも、彼らが何を考えているのか、まだ全部は分からない。


 連れ戻すつもりなのか。


 探すだけなのか。


 本当に案じているのか。


 それとも公爵家の都合なのか。


 分からない。


 分からないから怖い。


 でも、分からないものを全部「敵」と決めつければ、見えるものも見えなくなるのかもしれない。


 もちろん、警戒は必要だ。


 けれど、決めつけすぎないことも必要だ。


 村長さんが少し離れた場所で、私の話を聞いていた。


 目が合うと、静かに頷いてくれた。


 昼前、その村長さんから報告があった。


 公爵家側の斥候が、昨日の雨の後の痕跡を確認しているらしい。


 直接村に近づいたわけではない。


 だが、森の南側へ回り込む動きがあった。


「今日の帰りは、さらに村側で時間を調整する」


 村長さんは言った。


「すぐ森へ入らず、共同の水場で薬草を洗う。それから戻る」


「はい」


「向こうに見られても、薬草仕事に見えるようにする」


 バルドさんが付け加える。


「ただし、わざとらしくするな」


 リオが小声で言う。


「自然に自然にって言われると不自然になる」


「だから普通にしろ」


「普通って難しい」


 バルドさんは少し笑った。


「なら、いつも通り少し失敗しろ」


「失敗前提!?」


 その場に少し笑いが起きた。


 私は笑いながらも、胸の奥の緊張は消えなかった。


 森の南側。


 それは少しずつ、私の家へ近づく方向でもある。


 午後は短い薬草洗いの実演をした。


 村の共同水場で、採った薬草をどの程度洗うか。


 洗いすぎると香りが抜けるもの。


 泥だけ落とすもの。


 陰干しするもの。


 子供たちは興味深そうに見ていた。


 エマは水を跳ねさせすぎて、ニコに注意される。


「水、飛んでる」


「ちょっとだけ!」


「記録板にかかる」


「それはだめ!」


 サムは記録板を守るように抱えていた。


 その様子に、村の大人たちがまた笑う。


 見られているかもしれない日常の中で、こういう笑いが残っている。


 それが何より大事なのだと思った。


 夕方前、私は村を出た。


 共同水場で薬草を洗い、籠に入れ直す。


 ガルドさんが先に道を見て、リオとミナが私のそばを歩く。


 今日は、少し遠くで誰かの気配を感じたような気がした。


 本当にいたのかは分からない。


 ただ、森の空気の一部が少し固くなったように感じた。


 私は振り返らなかった。


 ガルドさんの合図を見る。


 異常なし。


 足元を見る。


 一歩。


 もう一歩。


 怖い時ほど、足元。


 森の家に着くと、私は深く息を吐いた。


 第二の畝へ向かう。


 アオジロウ。


 ムラマル。


 モリタン。


 モリタンは、まだ出ていない。


 けれど、今朝整えた周辺の土は崩れていなかった。


 私はしゃがみ、小さく言う。


「今日は、見えないものの声を聞く話をしました。みんな、あなたのことを忘れていません」


 風が吹き、花守り布の端が揺れた。


 モリタンの余白も、静かに揺れた。


 夜。


 私は日記帳を開いた。


 今日もモリタンは出なかった。


 でも、土の周りを少し整えた。


 真上は触らなかった。


 村では、見えないものの声を聞く話をした。


 分からないことも記録する、と話した。


 公爵家の使いたちは、森の南側へ回り込む動きがあるらしい。


 怖い。


 でも、まだ分からないこともある。


 決めつけすぎず、警戒する。


 それが難しい。


 私はペンを止めた。


 決めつけない。


 でも油断しない。


 待つ。


 でも放置しない。


 守る。


 でも埋めない。


 どれも、加減ばかりだ。


 私は天才だったはずなのに、こういうことは本当に難しい。


 でも、村のみんなと一緒なら、少しずつ覚えられる気がする。


 最後に書いた。


 まだ見えないものにも、声があるのかもしれない。


 土の声。


 怖さの声。


 自分の心の声。


 聞き間違えることもある。


 でも、聞こうとすることをやめたくない。


 日記帳を閉じる。


 外の森は静かだった。


 私は花守り布を畳み、モリタンの余白をそっと撫でた。


「また明日」


 アオジロウへ。


 ムラマルへ。


 まだ見えないモリタンへ。


 そして、まだ見えないものの声を聞こうとしている私へ。


 また明日。


 明日も、見ます。

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