第37話 青の姫君、雨上がりの土を見る
雨は、夜明け前に止んでいた。
目を覚ました時、家の中はまだ湿った空気に包まれていた。
暖炉の火は小さく、昨日の雨音を聞き続けたせいか、部屋全体が少し眠たげに沈んでいる。
私は寝台の上でしばらく耳を澄ませた。
屋根を叩く音はない。
代わりに、軒先から落ちる水滴の音が聞こえる。
ぽたり。
ぽたり。
少し遅れて、森の奥で鳥が鳴いた。
雨の後の鳥の声は、いつもより澄んでいる気がする。
私はゆっくり起き上がった。
胸の中には、すぐに畑への心配が浮かんだ。
アオジロウは倒れていないだろうか。
ムラマルは泥に埋もれていないだろうか。
モリタンの土は固くなっていないだろうか。
昨日の合言葉が頭をよぎる。
守りすぎると埋まる。
でも、守らなければ流されることもある。
その加減を、私はまだ学んでいる途中だ。
身支度を整え、花守り布を手に取る。
布は昨夜のうちに乾かしたが、どこか雨の匂いが残っていた。
青い花。
白い花。
アオジロウの小さな芽。
ムラマルの色の布片。
そして、モリタンのための余白。
私はその余白に触れた。
「今日も、場所はあります」
小さく言う。
それから布をかぶり、外へ出た。
雨上がりの森は、いつもと違う顔をしていた。
木の幹は黒く濡れ、葉の一枚一枚に水滴が乗っている。
地面は柔らかく、落ち葉は湿って色を濃くしていた。
森全体が水を含み、重く、静かに息をしている。
足跡が残りやすい朝だ。
私はまず、玄関前の土を見た。
昨日の帰りについた跡は、雨で少し崩れている。
完全には消えていない。
けれど、形は曖昧になっている。
雨は痕跡を流す。
同時に、新しい痕跡を深く残す。
私は足を置く場所を選びながら畑へ向かった。
青豆一号は無事だった。
古い虫食いの葉は、雨に濡れて重くなり、茎の下へ垂れている。
けれど、本葉はしっかりしていた。
水滴が葉の端から落ちる。
ぽたり、と土に吸い込まれる。
「おはようございます」
私はそっと声をかけた。
次に第二の畝へ目を向ける。
アオジロウは、少し横に傾いていた。
雨粒の重さに押されたのかもしれない。
けれど折れてはいない。
ムラマルも、土に近い位置で小さく耐えていた。
私は胸を撫で下ろした。
そしてモリタン。
まだ出ていない。
土の表面は、雨で少し締まっている。
水は溜まっていない。
畝の形も崩れていない。
けれど、昨日より表面が固そうに見えた。
私は手を伸ばしかけた。
表面だけ、ほんの少しほぐした方がいいのではないか。
モリタンが出ようとしているなら、固い土は邪魔になるかもしれない。
でも、今触ると、逆に内部を崩してしまうかもしれない。
湿った土は、見た目より重い。
私は指先を止めた。
考える。
守るべきか。
待つべきか。
何もしないことが正しいのか。
少し手を入れることが正しいのか。
昨日の言葉が胸に戻る。
守りすぎると埋まる。
でも、守らなければ流される。
加減。
私は土を直接触らず、畝の横の排水溝を見た。
そこには、少し落ち葉が詰まっている。
水は引いているが、次に降れば流れが悪くなるかもしれない。
モリタンの真上を触るのではなく、周囲の水の逃げ道を整える。
それなら、芽を傷つけずに守れる。
私は小枝を使い、畝から少し離れた排水の筋をそっと整えた。
土を大きく動かさない。
水が次に流れる道だけを作る。
アオジロウとムラマルの周りも確認し、泥が跳ねた場所をほんの少し整える。
その作業を終えた時、胸の中の焦りが少しだけ落ち着いた。
手を出す場所を間違えなければ、守れる。
直接掘らなくても、できることはある。
私は記録板に書いた。
青豆一号、虫食い後二十日目。
雨上がり。
アオジロウ、やや傾きあり。折れなし。
ムラマル、低いが安定。
モリタン、発芽なし。土表面、雨でやや締まる。直接触れず、周囲の排水のみ調整。
観察者、守り方を選ぶ練習中。
書き終えて、私は息を吐いた。
「守り方を選ぶ」
それは、今日の言葉だった。
しばらくして、結界に気配が触れた。
リオ、ミナ、ガルドさん。
今日は雨上がりなので、村側の若者も少し近くまで来ている。
リオは森の道から現れるなり、足元を見て顔をしかめた。
「うわ、ぬかるんでる」
「足跡が残りやすいです」
「だよな。気をつける」
ミナは私の裾を見て、すぐに言った。
「畑、見ましたか」
「はい」
「大丈夫でしたか」
「アオジロウは少し傾いていますが、折れていません。ムラマルも大丈夫です。モリタンはまだです」
リオが少しだけ肩を落とす。
「まだか」
「はい。でも、排水は整えました」
「土は触った?」
「直接は触っていません。周りだけです」
リオは少し考え、頷いた。
「守りすぎると埋まる。でも守らないと流れる」
「はい」
ミナが微笑む。
「守り方を選んだんですね」
「はい」
ガルドさんは畑の周囲を見てから、静かに言った。
「今日の道は難しいです。雨で昨日までの痕跡は流れていますが、新しく歩けば深く残る。村へ行くなら、ほぼ水沿いを使います」
「分かりました」
「公爵家側に斥候がいるなら、雨上がりの痕跡は読みに来る可能性があります」
胸が少し冷える。
雨は畑だけでなく、敵にも情報を与える。
私は花守り布の端を握った。
「今日は、村へ行かない方がいいでしょうか」
そう聞くと、ガルドさんは少し考えた。
「完全に止めると不自然です。ですが、滞在時間は短く。目的は雨後の薬草確認と、村の共同畑の排水確認。それで十分です」
リオが頷く。
「いつも通りっぽく、でも短く」
「はい」
ミナが私を見る。
「体調は?」
「少し緊張しています。でも大丈夫です」
「疲れは?」
「昨日よりは軽いです」
「なら、行きましょう」
こうして確認してもらえることが、今の私にはありがたかった。
以前なら、自分が動けるかどうかだけで判断していた。
今は、怖さも疲れも含めて考える。
それは弱くなったのではなく、少し丁寧になったのだと思いたい。
村へ向かう道は、水の音に満ちていた。
小川は昨日より少し太く、流れが速い。
石は濡れて滑りやすい。
リオは何度も足元を確かめていた。
「滑るなよ」
ミナが言う。
「言われなくても分かってる」
「初日に滑りかけた人は信用しすぎません」
「まだ言うか」
その小さなやり取りが、雨上がりの緊張を少しだけ和らげる。
私は籠を抱え、足跡を残さないよう石を選んで歩いた。
薬草採り場では、雨後の葉を確認する。
濡れた葉は香りが立ちやすい。
けれど傷みやすいものもある。
私は必要なものだけを採り、採り跡が不自然にならないよう整えた。
ガルドさんは周囲を見ている。
遠くに人の気配はない。
少なくとも、今見える範囲には。
村に着くと、入口の見張りが手で丸を作った。
異常なし。
ただし、彼の靴には泥がついている。
朝から何度も周囲を見回っていたのだろう。
「雨で道が悪いよ」
「はい。足元に気をつけます」
共同畑では、子供たちがバルドさんの指示で排水確認をしていた。
エマは泥だらけになりかけて、母親に止められている。
サムは水の流れる方向を記録している。
ニコとルルは小さな葉に泥が跳ねていないか見ている。
リーナは濡れないよう布を抱えながら、畑の端で心配そうに見守っていた。
私を見ると、エマが小声で叫ぶ。
「モリタンは!?」
「まだです」
「まだかあ……でも雨だったからね!」
「はい」
ルルが頷く。
「雨の日はゆっくり」
ニコが聞く。
「アオジロウとムラマルは大丈夫?」
「アオジロウは少し傾きましたが、折れていません。ムラマルも大丈夫です」
子供たちがほっとした顔をする。
サムがすぐ記録する。
アオジロウ、傾きあり。折れなし。
ムラマル、無事。
モリタン、発芽なし。
雨後、排水確認。
バルドさんが近づいてきた。
「嬢ちゃん、森の畑は流れてねえか」
「はい。排水溝に落ち葉が詰まっていたので、畝の周囲だけ整えました。直接は触っていません」
バルドさんは満足そうに頷いた。
「いい判断だ。真上をいじるより、周りを整えた方がいい時もある」
「はい」
「守り方を選べたな」
その言葉が嬉しかった。
私は小さく頭を下げた。
今日の授業は「雨上がりの守り方」になった。
畑の中に踏み込みすぎない。
水の逃げ道を見る。
泥跳ねを見る。
倒れた芽をすぐに起こそうとしない。
まず状態を見る。
必要なら支える。
必要なければ、自然に戻るのを待つ。
エマが手を上げる。
「倒れてたら、すぐ助けたくなる」
「はい。私もそうです」
「でも、すぐ触っちゃだめ?」
「状態によります。折れていないなら、しばらく様子を見ることもあります」
「難しい」
「とても難しいです」
私は木板に書いた。
すぐ助けたい時ほど、まず見る。
サムが真剣に写す。
リオが後ろから呟いた。
「人もそうだな」
私は振り返った。
「リオ?」
「いや、困ってる人いたらすぐ引っ張りたくなるけど、引っ張り方間違えたら痛いだろ」
ミナが少し驚いたように兄を見る。
「リオ兄さん、今日はとても良いことを言いました」
「今日はって何だよ」
子供たちが笑った。
でも、リオの言葉は本当に大事だった。
助けたい。
でも、どう助けるかを見なければならない。
公爵家は、私を助けようとしているのだろうか。
それとも、連れ戻そうとしているだけなのだろうか。
もし助けるつもりだとしても、私の痛い場所を見ずに引っ張れば、それは傷になる。
私はそのことを、いつか伝えられるだろうか。
昼前、村長さんが私たちを呼んだ。
雨上がりのせいで、見張りからの報告が少し増えているらしい。
村長の家の横には、ガルドさんとバルドさんもいた。
「公爵家側の斥候が、雨後の痕跡を見ている」
村長さんは低い声で言った。
「こちらの道まではまだ来ていない。だが、森の西側から南へ回ろうとしている可能性がある」
私は胸が冷えるのを感じた。
「南へ」
「村から森へ向かう薬草採り場の一部に近づくかもしれん」
ガルドさんが地面に線を描く。
「今日の帰りは、予定よりさらに短くします。村の北側の水場へ寄った後、直接小川へ。薬草採りはもう済ませたことにします」
「はい」
リオが言う。
「俺は?」
「いつも通りだ。ただし足元に気をつけろ。泥に変な跡を残すな」
「分かった」
バルドさんが私を見る。
「嬢ちゃん、怖いか」
「はい」
「なら、足元を見ろ」
「足元」
「怖い時は遠くばかり見る。だが今日みたいな日は足元だ。足跡一つが道になる」
私は深く頷いた。
「はい」
怖い時ほど、遠くの見えないものを見てしまう。
でも、今見るべきは足元。
今日の一歩。
どこを踏むか。
どう歩くか。
それが、守ることになる。
午後は短くなった。
子供たちは少し残念そうだったが、雨上がりの畑仕事で疲れてもいた。
エマは泥のついた手を見て笑っていた。
「モリタン、明日は出るかな」
「分かりません」
「でも、今日は雨の後だから休みかもね」
「はい。そうかもしれません」
リーナが花守り布の余白を見て言う。
「場所は濡れないようにしておく」
「ありがとうございます」
ニコがムラマルの歌を小さく歌う。
ムラマル出たよ
ゆっくり出たよ
土の布団を押し上げて
こんにちは
こんにちは
雨上がりの村で、その歌はとても柔らかく聞こえた。
村を出る時、私はいつもより足元を見た。
石。
濡れた落ち葉。
泥。
草。
踏んでいい場所。
避ける場所。
ガルドさんの合図。
リオの足音。
ミナの気配。
怖さはあった。
でも、足元を見ている間は、少しだけ怖さの形が小さくなる。
一歩ずつ。
それだけに集中できるからだ。
森の家へ戻ると、私はすぐ第二の畝を確認した。
アオジロウの傾きは、朝より少し戻っていた。
ムラマルも無事。
モリタンはまだ静か。
私はしゃがみ、土を見た。
「今日は、足元を見る日でした」
小さく言う。
「あなたの上も、触りませんでした。周りだけ整えました」
雨上がりの土は、静かに水を含んでいる。
私はその静けさを、今日は少しだけ信じられた。
夜、日記帳を開く。
今日もモリタンは出なかった。
雨上がりで、アオジロウは少し傾いていたが無事。
ムラマルも無事。
モリタンの周りは排水だけ整えた。
村では、雨上がりの守り方を学んだ。
すぐ助けたい時ほど、まず見る。
リオが、人も同じだと言った。
公爵家側の斥候は、雨後の痕跡を見ているらしい。
怖かった。
でも、今日は足元を見て歩いた。
私はペンを止めた。
足元を見る。
それは、当たり前のようで難しい。
怖い時、私は遠くの影ばかり見てしまう。
まだ来ていない使い。
まだ決められない過去。
まだ出ていない答え。
でも、今日踏む場所を見なければ、転ぶ。
今日守る畝を見なければ、流れる。
私は最後に書いた。
遠くの怖さを見ることも必要。
でも、足元を見ることも必要。
今日の一歩を間違えないことが、明日の畑を守る。
日記帳を閉じる。
雨はもう止んでいる。
屋根から落ちる水滴の音だけが、ぽたり、ぽたりと続いていた。
私は窓の外へ向かって子守歌を歌った。
森の葉っぱが眠るころ
小さな灯りも目を閉じる
風よ静かに通りゃんせ
夢の小道を通りゃんせ
歌い終えた後、いつものように言う。
「また明日」
アオジロウへ。
ムラマルへ。
まだ静かなモリタンへ。
そして、足元を見ながら歩こうとしている私へ。
また明日。
明日も、見ます。




