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『青の姫君の森暮らし 〜化け物と恐れられた公爵令嬢は、今日も畑を耕します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第36話 青の姫君、静かな土に耳を澄ます



 翌朝、森は雨の匂いを含んでいた。


 まだ降ってはいない。


 けれど、空は薄い灰色の雲に覆われ、木々の葉はいつもより重たげに垂れている。


 風は弱く、湿った空気が森全体にゆっくり沈んでいた。


 私は玄関の前で一度空を見上げた。


 雨が来る。


 畑には悪くない。


 ただ、強く降れば土が流れる。


 第二の畝はまだ小さい芽ばかりだ。


 アオジロウもムラマルも、雨粒に打たれれば倒れるかもしれない。


 モリタンはまだ土の中。


 出ていないから安全とも言えるし、土が固まれば出にくくなるとも言える。


 私は花守り布の端に触れた。


 青い花。


 白い花。


 小さなアオジロウの仮縫い。


 ムラマルのために用意された色。


 そして、モリタンの余白。


 今日もそこは空いたままだ。


 でも、空いていることに昨日ほど胸がざわつかなかった。


 場所はある。


 それだけで、少し待てる。


 私は畑へ向かった。


 青豆一号は、雨前の湿気を受けて葉を少し重そうにしている。


 虫食いの古い葉は、もう自然に落ちてもおかしくないほど乾いていた。


 アオジロウは小さな葉を広げかけている。


 ムラマルは、昨日より少しだけ姿勢が安定していた。


 そしてモリタン。


 まだ、出ていない。


 土の表面に変化はない。


 けれど、今日は土の色が昨日より濃い。


 湿り気が増しているからだ。


 私は指を伸ばしかけ、途中で止めた。


 触らなくても分かる。


 湿りは多い。


 水やりは不要。


 むしろ、雨が降るなら排水を確認するべきだ。


「おはようございます、モリタン」


 私は静かな土へ声をかけた。


「今日は雨が来そうです。無理に出なくていいですよ」


 言ってから、少し笑った。


 芽に天気の都合を説明している。


 でも、それが変だとはもう思わなかった。


 村の子供たちなら、きっと同じように話しかける。


 私は記録板を取り出した。


 青豆一号、虫食い後十九日目。


 アオジロウ、葉、展開途中。


 ムラマル、芽、安定。


 モリタン、発芽なし。土表面、変化なし。


 天候、雨前の湿気あり。


 水やり不要。排水確認必要。


 観察者、心配しているが、今日は土を触らず耳を澄ます。


 耳を澄ます。


 土に耳があるわけではない。


 でも、見えないものを待つ時、目だけでは足りない気がした。


 土の匂い。


 湿り。


 風。


 空。


 葉の重さ。


 そういうもの全部に耳を澄ます。


 焦って掘る代わりに、静かに受け取る。


 それが今日の私にできることだった。


 しばらくすると、結界にリオたちの気配が触れた。


 今日はリオ、ミナ、ガルドさん。


 バルドさんは村側で畑と道の確認をしているらしい。


 リオは森の道から現れるなり、空を見上げた。


「降りそうだな」


「はい」


「モリタンは?」


「まだです」


「そっか」


 リオは少し残念そうにしたが、もう前ほど焦らない。


 畝の前にしゃがみ、ちゃんと距離を守る。


「雨の日は出ない方がいいのか?」


「一概には言えません。水分が発芽を促すこともあります。ただ、強く降ると土が固まったり流れたりするので、注意が必要です」


「じゃあ、今日は守る日?」


「はい。守る日です」


 ミナが花守り布の余白を見て微笑んだ。


「モリタンの場所、今日もありますね」


「はい」


「出ない日が続いても、場所は消えません」


 その言葉に、胸が温かくなる。


「はい」


 ガルドさんが周囲を確認しながら言った。


「今日は雨前で足跡が残りやすい。村へ行くなら、帰りは雨の具合を見て早めに」


「分かりました」


「公爵家側は昨日の位置から大きく動いていないようですが、斥候は森の外縁を見ています。湿った土は痕跡が読みやすい」


 胸が冷える。


 雨は畑には恵みだが、痕跡を残すものでもある。


 同じものが、味方にも不安にもなる。


 私は頷いた。


「今日は、歩く場所に特に気をつけます」


 村へ向かう道は、いつも以上に慎重だった。


 湿った土を避け、石場を選ぶ。


 小川沿いを長く歩く。


 薬草採り場は村に近い場所にする。


 リオは珍しく足元をじっと見ていた。


「ここ踏むと跡残る?」


「残ります」


「じゃあ、こっち」


「はい」


 ミナが小さく笑う。


「リオ兄さん、足元を見るのが上手になりましたね」


「見ないと怒られるからな」


「怒るというより、守るためです」


「分かってるって」


 そのやり取りはいつも通りで、少しだけ心が軽くなる。


 村の入口では、見張りの若者が手で丸を作った。


 異常なし。


 ただ、彼の視線も空へ向いている。


「今日は降りそうだね」


「はい。畑の排水を見た方がいいです」


「バルドさんが朝から見てるよ」


「そうですか」


 村へ入ると、共同畑の前ではすでに子供たちが集まっていた。


 エマは私を見るなり、口を開きかけて、声を小さくする。


「モリタンは?」


「まだです」


「まだかあ」


 エマは肩を落とした。


 けれど、すぐに花守り布の余白を見る。


「でも場所あるもんね」


「はい」


 ルルが頷く。


「忘れてない」


「はい」


 ニコが空を見る。


「雨、大丈夫?」


「今日は排水を確認します」


 サムがすぐに記録板を構えた。


「排水確認」


 トトが畑の端を覗く。


「水が溜まったらだめ?」


「多すぎると根が苦しくなります」


「根も苦しいのか」


「はい。土の中にも空気が必要です」


 リーナが小さく言った。


「見えないところにも、息がいる」


 私はその言葉に少し驚き、そして頷いた。


「はい。とても大事なことです」


 今日の授業は、雨前の畑仕事になった。


 共同畑の畝の間に水が流れる道を確認する。


 低くなっている場所に土を足す。


 支柱が緩んでいないか見る。


 小さな芽の近くに泥が跳ねすぎないよう、藁を少し敷く。


 子供たちは真剣だった。


 エマは何度か勢いよく土を寄せようとして、バルドさんに止められた。


「やりすぎるな」


「守ろうと思って!」


「守りすぎると埋まる」


「むずかしい!」


 リオが横で深く頷いた。


「分かる」


 ミナが笑う。


「リオ兄さんも畝作りで同じことを言われていましたね」


「守りすぎると埋まる、覚えとく」


 私はその言葉を木板に書いた。


 守りすぎると埋まる。


 子供たちがそれを見て笑った。


 けれど、私は真剣だった。


 守りたいから、手を出しすぎる。


 心配だから、覆いすぎる。


 怖いから、閉じ込めすぎる。


 それでは芽が出られなくなる。


 私自身も、そうだったのかもしれない。


 公爵家は私を守ろうとしたのだろうか。


 それとも恐れて閉じ込めたのだろうか。


 分からない。


 でも、守るという言葉は、時に相手を埋めてしまうことがある。


 その怖さを、私は忘れたくなかった。


 昼前、雨がぽつりと落ちた。


 最初の一滴が木板に小さな跡を作る。


 子供たちが空を見上げる。


 バルドさんが言った。


「道具を片付けろ。強くなる前に」


 村の大人たちが動く。


 子供たちも、慌てずに決められた場所へ道具を運ぶ。


 以前ならエマが走り出したかもしれない。


 でも今日は、小走りになりかけて止まり、歩いた。


「走らない!」


 自分で言っている。


 周囲が少し笑う。


 村長さんが私のところへ来た。


「今日は早めに帰った方がいい」


「はい」


「雨で痕跡は流れるが、濡れた土は足跡も深くなる。ガルドが先に道を確認する」


「分かりました」


 村長さんは少し間を置いた。


「モリタンはまだか」


「はい」


「そうか」


 彼は静かに頷いた。


「出ない日が続くと、皆の待ち方が試されるな」


「はい」


「焦らず待てるか。心配をどう扱うか。それは村にも必要なことだ」


 私は胸に手を当てた。


「私にもです」


「そうだな」


 村長さんは優しくも厳しい目で言った。


「公爵家の件も、いずれ動く。だが、こちらから焦って掘り返す必要はない」


「はい」


「見て、備えて、待つ」


「はい」


 雨は少しずつ強くなってきた。


 子供たちは屋根のある場所へ移動する。


 エマが私へ手を振った。


「モリタンに、雨だからゆっくりでいいって言って!」


「はい。伝えます」


 ルルも言う。


「埋まらないようにね」


「はい」


 サムが記録板を抱えながら言った。


「今日の合言葉、守りすぎると埋まる」


「はい」


 リーナは花守り布の余白を見て、小さく頷いた。


「場所は空けたまま」


「はい」


 私は皆に手を振り、村を出た。


 帰り道は、雨の音が森を包んでいた。


 葉を叩く雨粒。


 土に落ちる水音。


 小川の流れが少し強くなる音。


 その中を、私たちは慎重に歩いた。


 足跡を残さないよう石を選ぶ。


 水の流れを使う。


 リオは滑らないよう、いつもより静かだった。


 ミナは私の隣で、何度も足元を示してくれる。


 ガルドさんは前後を確認しながら進む。


 雨は視界を少しぼかした。


 その分、見られている感覚は薄れる。


 けれど油断はできない。


 雨の中でも、見る者は見る。


 そう思うと、背筋が伸びた。


 森の家に着く頃には、裾が濡れていた。


 私はすぐ第二の畝へ向かった。


 雨はまだ強くはない。


 畝の形は保たれている。


 アオジロウとムラマルの周りに泥跳ねは少ない。


 モリタンの札の前も、土は流れていない。


 私はほっと息を吐いた。


「大丈夫そうです」


 リオも覗き込む。


「埋まってない?」


「はい」


 ミナが微笑む。


「守りすぎず、でも守れましたね」


「はい」


 私は雨の中、モリタンへ声をかけた。


「今日は雨です。ゆっくりでいいそうです。場所は空けたままです」


 雨粒が土に落ちる。


 答えはない。


 でも、今日はその沈黙が雨に包まれていて、少し穏やかに感じた。


 夜、雨は本降りになった。


 屋根を叩く音が家中に響いている。


 暖炉の火は湿気に少し負けそうになりながらも、赤く燃えている。


 私は濡れた花守り布を乾かし、日記帳を開いた。


 今日もモリタンは出なかった。


 雨が来た。


 村で排水を確認した。


 守りすぎると埋まる、という言葉が出た。


 心配だからといって、土をかけすぎてもいけない。


 守りたいからといって、閉じ込めすぎてもいけない。


 公爵家のことも、きっと同じだ。


 私はペンを止めた。


 屋敷のことを思い出す。


 幼い頃、私は確かに守られていた。


 溺愛され、甘やかされ、何もかも与えられた。


 でも、私の力が見え始めると、その守りは恐怖に変わった。


 近づけない。


 見ない。


 隠す。


 遠ざける。


 それは、守りだったのか。


 それとも、埋めることだったのか。


 分からない。


 けれど、今の私は少なくとも、誰かを守る時に埋めたくはない。


 アオジロウも、ムラマルも、モリタンも。


 村の子供たちも。


 そして自分自身も。


 私は最後に書いた。


 守りすぎると埋まる。


 でも、守らなければ流されることもある。


 大事なのは、加減。


 見て、聞いて、待つこと。


 私はまだ下手だけれど、畑と村に教わっている。


 日記帳を閉じる。


 雨音は強い。


 外の森は暗く、畑は見えない。


 でも、あそこに芽がある。


 出ていない芽の場所もある。


 私は窓の外へ向かって小さく歌った。


 森の葉っぱが眠るころ


 小さな灯りも目を閉じる


 風よ静かに通りゃんせ


 夢の小道を通りゃんせ


 雨音に混ざり、歌はすぐに消えていく。


 それでも、私は最後に言った。


「また明日」


 アオジロウへ。


 ムラマルへ。


 まだ雨の土の中にいるモリタンへ。


 そして、守りすぎず、でも守りたいと願う私へ。


 また明日。


 明日も、見ます。

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