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『青の姫君の森暮らし 〜化け物と恐れられた公爵令嬢は、今日も畑を耕します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第35話 青の姫君、待つ場所を守る



 翌朝、私は畑へ出る前に、花守り布を広げた。


 青い花。


 白い花。


 その下に、リーナが仮縫いしてくれたアオジロウの小さな芽。


 そして、その少し横に空けられた小さな余白。


 モリタンの場所。


 まだ何も縫われていない。


 けれど、そこには確かに「待つ場所」があった。


 私はその余白を指先でそっと撫でた。


「まだ出ていないものにも、場所がある」


 昨夜、日記にそう書いた。


 書いた時は、自分でも少し不思議な言葉だと思った。


 けれど朝になって、こうして花守り布を見ると、その意味が少しだけ分かる気がした。


 モリタンはまだ出ていない。


 でも、出てきた時に迎える場所がある。


 それは、とても優しいことだった。


 私は髪をまとめ、花守り布をかぶる。


 空けられた余白が、布の端で静かに揺れる。


 隠すための布。


 守るための布。


 そして今は、待つための布にもなっていた。


「今日も、見ます」


 鏡の中の自分へ言ってから、私は外へ出た。


 森の朝は少し霞んでいた。


 空は白く、木々の上には薄い霧がかかっている。


 昨日より風が弱く、葉の揺れる音も少ない。


 静かすぎる朝。


 私は自然と耳を澄ませた。


 知らない足音はない。


 結界にも大きな乱れはない。


 けれど、遠い森の外側に誰かの視線があるかもしれないという感覚は、もう完全には消えなかった。


 見られているかもしれない。


 それでも、畑を見る。


 私は足元を確かめながら、第二の畝へ向かった。


 青豆一号は、今朝も変わらずそこにいた。


 虫食いの古い葉はさらに乾き、そろそろ自然に落ちるだろう。


 新しい葉は強く、朝露を乗せている。


 アオジロウは、小さな葉を少し開き始めていた。


 ムラマルも、昨日よりわずかに上を向いている。


 そしてモリタン。


 まだ、出ていない。


 土は静かだった。


 盛り上がりもない。


 割れ目もない。


 私はしゃがみ込み、じっと見た。


 昨日よりも、心は少し落ち着いていた。


 心配はある。


 でも、花守り布の余白を思い出すと、焦りが少し和らぐ。


 出ていないからといって、居場所がないわけではない。


 見えないからといって、待たれていないわけではない。


「おはようございます、モリタン」


 私は小さく声をかけた。


「今日も、待ちます」


 記録板を開く。


 青豆一号、虫食い後十八日目。


 アオジロウ、葉の展開始まる。


 ムラマル、芽、やや上向き。


 モリタン、発芽なし。土表面、変化なし。


 土の湿り、良好。


 観察者、心配している。だが、待つ場所を用意した。


 書いた文字を見て、私は静かに頷いた。


 待つ場所を用意した。


 それは、今日の私を支える言葉になりそうだった。


 朝食を終える頃、リオとミナが来た。


 ガルドさんは少し離れた位置にいる。


 さらに遠く、村側の若者の気配もあった。


 公爵家側の監視が疑われるようになってから、送迎の形は少しずつ複雑になっている。


 でも、村人たちはそれを大げさにしない。


 日常の中に、守る工夫を混ぜている。


「おはよう、フローラ」


「おはようございます」


 リオはすぐに聞いた。


「モリタンは?」


「まだです」


「そっか」


 彼は少し残念そうにしたが、すぐに花守り布を見た。


「そこ、空いてるところ?」


「はい。モリタンの場所です」


 ミナが近づいて、布の端をそっと見た。


「本当に、待っている場所みたいですね」


「はい」


「素敵です」


 リオも頷く。


「モリタン、出たらここに縫われるんだな」


「はい」


「じゃあ急がなくても、場所はあるな」


 その言葉に、胸が温かくなった。


「はい。場所はあります」


 三人で畑を見た。


 リオはアオジロウとムラマルを見て喜び、モリタンの前では少し静かになった。


「モリタン、みんな待ってるぞ。でも焦らなくていいぞ」


 昨日と同じようで、少し違う声だった。


 ただ励ますだけではない。


 ちゃんと待つ覚悟が入っている。


 ミナも言った。


「出ない日も、あなたの時間です」


 私はその言葉を記録に加えたくなった。


 村へ向かう道では、今日も薬草採りと水場確認を挟む予定だった。


 ただし、同じ経路は使わない。


 見られているかもしれないからだ。


 リオは道中、いつものように少しだけ軽口を言った。


「俺、最近薬草の匂いで種類分かる気がしてきた」


「本当ですか」


「これは、虫除けっぽいやつ」


「違います。これは鎮静茶に使う葉です」


「惜しい」


「かなり違います」


 ミナが笑う。


「リオ兄さん、まだまだですね」


「でも前より分かるだろ」


「前は全部草でしたからね」


「成長してるじゃん」


 私は思わず笑った。


 森の中で笑う。


 それはまだ少し緊張する。


 でも、リオのこういう声は、見られているかもしれない日常に必要な自然さをくれる。


 薬草採り場では、本当に薬草を採った。


 今日は葉ではなく、香りのある茎を少し。


 私は茎の節を確認し、必要な分だけ切る。


 リオが覗き込む。


「全部取らないのか」


「はい。根元を残せば、また伸びます」


「取りすぎない」


「大事です」


 リオは頷いた。


「モリタンも、掘りすぎない」


「はい」


 彼の中で、薬草も畑も同じ線で繋がり始めている。


 それが嬉しかった。


 村に入ると、子供たちは共同畑の前で待っていた。


 エマはもう、期待を隠す気がない顔をしている。


 でも声は小さい。


「モリタンは?」


「まだです」


 私が答えると、エマは一瞬だけ目を伏せた。


 けれど、すぐに顔を上げる。


「場所はある?」


「はい」


 私は花守り布の余白を見せた。


「ここが、モリタンの場所です」


 子供たちが集まってくる。


 リーナが少し照れた顔で言う。


「まだ縫ってないけど」


「でも場所がある」


 ニコが言った。


「モリタン、安心するね」


 ルルも頷く。


「出てなくても、忘れてない」


 トトが腕を組む。


「最後に出るやつは場所も用意されるのか。いいな」


 サムはすぐ記録板へ書く。


 花守り布にモリタンの場所あり。


 発芽なし。


 待つ場所、確認。


 私はその文字を見て、胸が熱くなった。


 待つ場所、確認。


 それはモリタンだけでなく、私にも必要な記録だった。


 今日の共同畑では、青豆一号の古い葉の話を村にも共有した。


 ルルの豆で役目を終えた葉を土に返したこともあり、子供たちは「終わる葉」に関心を持っている。


 私は青豆一号の古い葉も、そろそろ自然に落ちるかもしれないと伝えた。


 エマが少し不安そうに聞く。


「青豆一号、痛くない?」


「自然に離れる時は、大きな痛みはありません」


「無理に取ったら?」


「傷つくことがあります」


「じゃあ、無理に取らない」


「はい」


 ルルが静かに言った。


「頑張ったねって言う」


「はい」


 私は頷いた。


「青豆一号にも、そう言います」


 授業では、「待つ場所」と「手を出さない優しさ」について話した。


 木板に、私は三つの絵を描いた。


 一つ目は、土の中の豆。


 二つ目は、まだ空いている布の余白。


 三つ目は、自然に落ちる葉。


「今日は、待つ場所について話します」


 子供たちは真剣に座っている。


 大人たちも少し離れて聞いていた。


「何かがまだ出ていない時、私たちは心配になります。見たい、確かめたい、早く安心したいと思います」


 エマが頷く。


「思う」


「はい。私も思います」


「フローラ先生も?」


「はい。とても」


 子供たちが少し安心した顔をする。


「でも、急いで掘ると、芽を傷つけることがあります。無理に葉を取ると、茎を傷つけることがあります。だから、手を出さない優しさもあります」


 サムが記録する。


 手を出さない優しさ。


 ルルが小さく言う。


「見てるだけ?」


「見て、記録して、必要な準備をします」


「準備?」


「はい。モリタンの場所を花守り布に用意したように。出てきた時に迎えられるように」


 リーナが布を見て、少し嬉しそうにした。


 ニコが言う。


「待つ場所があると、出てなくても仲間?」


「はい」


 私は胸に手を当てた。


「とても大切なことだと思います」


 その言葉を言いながら、自分自身の中にある答えの出ない気持ちを思い出していた。


 父様のこと。


 母様のこと。


 公爵家のこと。


 案じていると言われて痛んだこと。


 帰りたくないという気持ち。


 それらは、まだ発芽していない種のように私の中にある。


 掘り返せば傷つく。


 でも、なかったことにはできない。


 だから、場所を用意する。


 今すぐ答えを出さなくても、心の中に置いておく場所を。


 村長さんが授業の後に近づいてきた。


「よい話だった」


「ありがとうございます」


「待つ場所か」


 彼は静かに繰り返した。


「村にも必要な考えだな」


 私は村長さんを見る。


 村長さんは森の方角へ視線を向けた。


「公爵家の使いのことも、すぐに答えが出るわけではない。だが、いずれ向き合う場所は必要になる」


 胸が冷える。


 けれど、その言葉には無理やり急かす響きはなかった。


「はい」


 私は頷いた。


「今すぐではなくても」


「そうだ。今すぐではない。だが、場所は作っておく」


 場所を作っておく。


 モリタンのために。


 公爵家と向き合う日のために。


 私自身のために。


 昼前、村長さんから今日の警戒についての話があった。


 公爵家側は、森の西側で待機している。


 昨日より動きは少ない。


 だが、村から森へ向かう複数の道を探っている可能性がある。


「今日は帰りをさらに短くする」


 村長さんは言った。


「薬草採りは村の近くで済ませる。森へ戻る道は、ガルドが先に確認する」


「はい」


「フローラは疲れていないか」


「大丈夫です」


 そう答えた後、ミナに見られた。


 私は少し考え、言い直す。


「少し疲れています。でも動けます」


 ミナはほっとしたように頷いた。


 村長さんも静かに言う。


「正直でいい」


「はい」


 リオが小声で言った。


「無理するなよ」


「はい」


 以前なら、大丈夫です、と言い切っていただろう。


 疲れていても、動けるなら問題ないと思っていた。


 でも今は、少し疲れていると言える。


 それもまた、手を出さない優しさと似ているのかもしれない。


 自分を無理に引っ張らない。


 午後は、短い記録の時間だけにした。


 子供たちは少し残念そうだったが、モリタンの場所を花守り布に用意したことで満足しているようでもあった。


 エマが言う。


「モリタン、明日出るかな」


「分かりません」


「でも場所あるしね!」


「はい」


 ニコが言う。


「場所があると、待てる」


「はい」


 ルルも頷く。


「忘れてないって分かる」


 サムがその言葉を記録した。


 待つ場所があると、忘れていないと分かる。


 私はそれを見て、少し泣きそうになった。


 忘れていない。


 見えなくても。


 出ていなくても。


 答えが出ていなくても。


 忘れていない。


 そのことが、こんなに大切だとは知らなかった。


 村を出る前、リーナが花守り布の余白をもう一度確認してくれた。


「ここ、ちゃんと空けておくね」


「はい」


「出たら、縫う」


「お願いします」


「出なくても、場所はある」


 私は頷いた。


「はい。場所はあります」


 帰り道は短かったが、緊張は強かった。


 ガルドさんが先に確認した道を通る。


 薬草採りは村に近い場所で済ませる。


 小川で足跡を切る。


 今日はリオも少し口数が少なかった。


 ミナが私の横を歩き、時々視線で大丈夫か確認してくれる。


 私は頷き返した。


 怖い。


 疲れている。


 でも、歩ける。


 見られているかもしれない道を抜け、森の家へ戻った時、私は深く息を吐いた。


 第二の畝へ行く。


 アオジロウ、ムラマル、そして静かなモリタン。


「ただいま」


 私はしゃがんだ。


「今日、あなたの場所をみんなで確認しました。出ていなくても、場所があります。忘れていません」


 土は静かだった。


 でも、私はその静けさに少し安心した。


 夜、日記帳を開いた。


 今日もモリタンは出なかった。


 でも、花守り布の余白をみんなで確認した。


 待つ場所があると、忘れていないと分かる。


 ルルがそう言った。


 私はその言葉で泣きそうになった。


 公爵家の使いたちは、まだ森の西側にいる。


 村から森へ向かう道を探っているかもしれない。


 怖い。


 少し疲れている。


 でも、今日は疲れていると言えた。


 私はペンを止めた。


 疲れていると言えること。


 心配していると言えること。


 怖いと言えること。


 それらは、以前の私にはなかった。


 私は天才だった。


 何でもできた。


 だから、疲れていると言う必要がなかった。


 怖いと言う場所もなかった。


 でも今は違う。


 村には、私の怖さを置ける場所がある。


 花守り布には、まだ出ない芽の場所がある。


 私は最後に書いた。


 待つ場所を守ることは、待っている相手を忘れないこと。


 私も、私の中のまだ答えの出ない気持ちを忘れずに置いておきたい。


 無理に掘らずに。


 でも、なかったことにせずに。


 日記帳を閉じる。


 机の上には、花守り布。


 空けられたモリタンの場所。


 アオジロウの小さな芽。


 ムラマルの色の布片。


 サムの記録。


 ニコ鳥。


 私はそれらを見つめ、子守歌を小さく歌った。


 森の葉っぱが眠るころ


 小さな灯りも目を閉じる


 風よ静かに通りゃんせ


 夢の小道を通りゃんせ


 歌い終えた後、窓の外へ向かって言った。


「また明日」


 アオジロウへ。


 ムラマルへ。


 まだ出ないモリタンへ。


 そして、待つ場所を少しずつ作っている私へ。


 また明日。


 明日も、見ます。

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