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『青の姫君の森暮らし 〜化け物と恐れられた公爵令嬢は、今日も畑を耕します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第34話 青の姫君、出ない芽の前で立ち止まる



 翌朝も、モリタンは出ていなかった。


 アオジロウは小さな葉を広げ、朝露を受けてきらりと光っている。


 ムラマルも昨日より少しだけ体を起こし、土の上で頼りなさそうに、それでも確かに立っていた。


 けれど、モリタンの札の前だけは静かだった。


 土の表面は変わらない。


 盛り上がりもない。


 割れ目もない。


 緑もない。


 何もないように見える。


 私はしゃがみ込んだまま、長くその土を見つめていた。


 何もない。


 でも、そこには種がある。


 見えないだけ。


 そう分かっていても、胸の奥に小さな不安が生まれる。


 失敗したのだろうか。


 土が合わなかったのだろうか。


 魔力環境の調整が足りなかったのだろうか。


 水が多かったのか。


 少なかったのか。


 夜の冷えが強かったのか。


 それとも、ただ遅いだけなのか。


 考えれば考えるほど、手を伸ばしたくなる。


 少し土を払えば分かるかもしれない。


 でも、払わない。


 私は膝の上で手を握った。


「……待ちます」


 小さく言った。


 モリタンに向かって。


 そして、自分に向かって。


 待つ。


 焦らない。


 決めつけない。


 出ない日も記録する。


 私は記録板を取り出した。


 青豆一号、虫食い後十七日目。


 アオジロウ、発芽七日目。葉、やや展開。


 ムラマル、発芽三日目。芽、安定し始める。


 モリタン、発芽なし。土表面、変化なし。


 土の湿り、良好。


 観察者、心配している。だが掘らない。


 書き終えると、少しだけ息ができた。


 心配している。


 そう書いていい。


 心配していないふりをしなくていい。


 でも、掘らない。


 心配と行動を分ける。


 これも、今の私に必要な練習なのだと思った。


 朝食を終える頃、リオとミナが来た。


 今日はガルドさんが少し離れて、さらに村側の若者が一人、森の外側で待機している気配があった。


 見張りの形が少しずつ変わっている。


 それだけ、公爵家側の監視が近づいているということだ。


「おはよう、フローラ」


「おはようございます」


 リオはすぐに畑を見た。


「モリタンは?」


「まだです」


 リオは少し残念そうにした。


 けれど、すぐに頷いた。


「そっか。まだ森の中で考えてるんだな」


「はい」


 ミナが優しく言った。


「出ない日が続くと、心配になりますね」


「はい」


「でも、心配してもいいです。掘らなければ」


「記録にもそう書きました」


 私は記録板を見せた。


 リオが読む。


「観察者、心配している。だが掘らない」


 彼は少し笑った。


「いい記録だな」


「そうでしょうか」


「分かりやすい」


 ミナも頷いた。


「とても大切です。気持ちがあることと、それにすぐ従うことは別ですから」


 その言葉は、胸に深く入った。


 気持ちがあることと、それにすぐ従うことは別。


 怖いから逃げたい。


 嬉しいから走りたい。


 心配だから掘りたい。


 怒っているから怒鳴りたい。


 でも、感じることと動くことの間には、少しだけ隙間を作れる。


 その隙間が、今の私たちを守っているのかもしれない。


 村へ向かう道では、今日も薬草採りを挟んだ。


 昨日とは違う場所。


 足跡を残しにくい石場。


 小川を少し長めに歩く。


 リオは自然に会話をしようとしていたが、時々少しわざとらしくなり、ミナに小声で「自然に」と注意されていた。


「自然って難しいな」


「意識しすぎると不自然になります」


「じゃあどうすればいいんだよ」


「いつものリオ兄さんで、声だけ少し控えめに」


「注文多いな」


 私はそのやり取りに小さく笑った。


 見られているかもしれない道なのに、笑える。


 そのことに、また少し救われる。


 村へ着くと、子供たちは共同畑の前で待っていた。


 エマはもう大声を出さない。


 でも、全身から期待がこぼれている。


「モリタンは?」


「まだです」


 私が答えると、エマは肩を落とした。


「まだかあ……」


 けれど、すぐに顔を上げる。


「じゃあ、今日も待つ日!」


「はい」


 ルルが頷いた。


「出ない日も、モリタンの時間」


「はい」


 ニコも言う。


「ムラマルも待ったから出た」


「そうですね」


 トトは腕を組む。


「最後に出るやつが一番すごいかもしれない」


 サムは記録板に書く。


 モリタン、発芽なし。


 子供たち、待つ姿勢継続。


 エマ、一度落ち込むが復帰。


「そこまで書くの!?」


 エマが小声で叫ぶ。


「村記録だから」


 サムはいつも通り真面目だった。


 村の大人たちも、それを聞いて笑った。


 今日の観察では、アオジロウとムラマルの成長記録を村へ伝えた。


 アオジロウは葉を広げ始めた。


 ムラマルは安定し始めた。


 モリタンはまだ。


 この三つの違いが、子供たちの話題になった。


「アオジロウは早起き」


 エマが言う。


「ムラマルはゆっくり起きた」


 ニコが続ける。


「モリタンは寝坊?」


 トトが言うと、リーナが首を振った。


「森の中で考えてるの」


「まだ考えてるのか」


「うん」


 リーナは深い緑の糸を握る。


「モリタンは、急がない子」


 私はその言葉を聞いて、胸が温かくなった。


 急がない子。


 それは、モリタンを責めない言葉だった。


 出ないことを失敗にしない言葉だった。


「はい。急がない子ですね」


 そう言うと、リーナは少し嬉しそうに頷いた。


 今日の授業は、「急がないもの」についてになった。


 木板に私は三つの丸を描いた。


 早く出る芽。


 ゆっくり出る芽。


 まだ出ない芽。


「どれも、同じように大切です」


 私は言った。


「早いから偉いわけではありません。遅いから駄目なわけでもありません。まだ見えないから失敗と決まったわけでもありません」


 サムが記録する。


 早い、偉いではない。


 遅い、駄目ではない。


 まだ見えない、失敗ではない。


 エマが首を傾げた。


「でも、早いと嬉しいよ?」


「はい。嬉しいです」


「遅いと心配」


「はい。心配です」


「じゃあ、どうするの?」


「心配しながら待ちます」


 私が答えると、子供たちは少し静かになった。


 ルルが小さく言う。


「心配してもいい?」


「はい」


「でも掘らない?」


「はい」


 リオが後ろから言った。


「心配してる。だが掘らない」


 子供たちが笑う。


 私も少し頬が熱くなった。


「はい。それです」


 ミナが微笑む。


「今日の合言葉ですね」


 エマがすぐに言った。


「心配してる! だが掘らない!」


 少し声が大きくなり、母親に「声」と注意される。


 エマは慌てて小声で言い直した。


「心配してる、だが掘らない」


 その場にいた大人たちが笑いをこらえていた。


 でも、その言葉は確かに村に残った。


 心配してもいい。


 でも、すぐ手を出さない。


 それは畑だけでなく、今の村全体にも必要な言葉だった。


 昼前、村長さんから知らせがあった。


 公爵家の使いの一行は、まだ森の西側にいる。


 斥候らしき者は、昨日より村に近い外縁へ移動した可能性がある。


 直接の接触はまだない。


 ただし、こちらの移動経路を読もうとしているかもしれない。


「今日から、帰り道を二段階にする」


 村長さんは地面に線を描いた。


「まず薬草採り。次に水場確認。その後、森へ入る。ただし小川で足跡を切る位置を変える」


「分かりました」


 私は頷いた。


 怖い。


 だが動く。


 心配している。


 だが慌てない。


 リオが言った。


「俺、今日も送る」


「頼む」


 村長さんは短く頷く。


 ミナも静かに言う。


「私も行きます」


「頼む」


 ガルドさんはすでに道を確認する準備をしていた。


 バルドさんは私へ向かって言った。


「嬢ちゃん」


「はい」


「モリタンのことも、公爵家のことも、どっちも掘りすぎるなよ」


 私は少し目を瞬いた。


「掘りすぎる」


「考えすぎて、まだ出てねえものを無理やり引っ張り出すなってことだ」


 胸に重く、でも優しく響いた。


「はい」


 私は頷いた。


「掘りすぎません」


 午後、リーナが花守り布にアオジロウの芽を仮縫いした部分を見せてくれた。


 小さな緑の芽。


 青い花と白い花の下に、そっと顔を出している。


 まだ完成ではない。


 でも、布の中に物語が増えたようだった。


「綺麗です」


「次はムラマル」


「はい」


「モリタンは、まだ場所だけ決める?」


 リーナが遠慮がちに聞いた。


 私は少し考え、頷いた。


「はい。場所だけ決めましょう」


 まだ出ていない芽の場所。


 そこを空けておく。


 それは、待つための場所だ。


 花守り布の端に、小さな余白ができた。


 モリタンのための余白。


 私はその余白を見て、胸が温かくなった。


 出ていないものにも、場所を用意する。


 待つとは、そういうことなのかもしれない。


 夕方前、私は村を出た。


 今日の道は少し長い。


 薬草採り場へ寄る。


 水場へ寄る。


 小川へ入る場所を変える。


 その間、リオはいつも通りに近い調子で話し、ミナがそれを整え、ガルドさんが遠くを見ていた。


 私は足元を見ながら歩いた。


 心配している。


 だが掘らない。


 心配している。


 だが走らない。


 心配している。


 だが振り返らない。


 その言葉を、歩くたびに心の中で繰り返した。


 森の家に着く頃には、少し疲れていた。


 けれど、倒れ込むような疲れではない。


 ちゃんと歩き切った疲れだった。


 第二の畝の前へ向かう。


 アオジロウ、安定。


 ムラマル、少し上向き。


 モリタン、変化なし。


 私はしゃがみ、村でのことを伝えた。


「モリタン、今日はあなたの場所を花守り布に用意しました。まだ出ていなくても、場所があります。リーナが決めてくれました」


 風が畑を撫でる。


 土は静かだ。


 私はその静けさに、今日は少しだけ安心した。


 夜。


 日記帳を開く。


 今日もモリタンは出なかった。


 でも、花守り布にモリタンのための場所を用意した。


 出ていない芽にも場所がある。


 それが、とても嬉しかった。


 村では「心配している。だが掘らない」が合言葉になった。


 公爵家の使いたちは、少しずつ近づいているかもしれない。


 怖い。


 心配している。


 でも、掘りすぎない。


 私はペンを止めた。


 まだ出ないものに場所を用意する。


 まだ答えの出ない気持ちにも、場所を用意する。


 私は父様と母様のことを、まだ決められない。


 公爵家のことも。


 でも、その答えが出ていない部分を、心の中から追い出さなくてもいいのかもしれない。


 まだ出ていない芽として、場所を置いておく。


 私は最後に書いた。


 モリタンはまだ出ない。


 でも、モリタンの場所はある。


 私の中のまだ答えの出ない気持ちにも、場所を作っていいのかもしれない。


 日記帳を閉じる。


 外の森は暗い。


 どこかで誰かが見ているかもしれない。


 でも、私の畑には、まだ出ない芽のための場所がある。


 私は花守り布をそっと撫で、子守歌を口ずさんだ。


 森の葉っぱが眠るころ


 小さな灯りも目を閉じる


 風よ静かに通りゃんせ


 夢の小道を通りゃんせ


 歌い終えると、窓の外へ小さく言った。


「また明日」


 アオジロウへ。


 ムラマルへ。


 まだ出ないモリタンへ。


 そして、まだ答えの出ない私へ。


 また明日。


 明日も、見ます。

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