第33話 青の姫君、まだ出ない芽を待つ
翌朝、モリタンはまだ土の中だった。
アオジロウは小さな葉を少し広げようとしている。
ムラマルは、昨日よりほんの少しだけ背を起こしていた。
けれど、モリタンの札の前だけは静かだった。
土は湿りすぎず、乾きすぎず、状態は悪くない。
表面に割れ目もない。
盛り上がりもない。
ただ、静かに朝露をまとっている。
私は畝の前にしゃがみ、しばらく黙っていた。
「……まだですね」
声に出す。
寂しさは少しあった。
けれど、不思議と焦りは昨日ほど強くない。
アオジロウが出た。
ムラマルも出た。
だからこそ、モリタンもいつか出るかもしれないと思える。
でも、それは「必ずすぐ出る」と決めつけることとは違う。
待つ。
掘らない。
急がせない。
土の中の時間を信じる。
私は記録板に書いた。
青豆一号、虫食い後十六日目。
アオジロウ、発芽六日目。芽、安定。
ムラマル、発芽二日目。芽、やや上向き。
モリタン、発芽なし。土表面、変化なし。
土の湿り、良好。水やり不要。
観察者、モリタンを心配しすぎない練習中。
書いてから、私は小さく笑った。
心配しすぎない練習中。
それは今の私そのものだった。
モリタンだけではない。
公爵家の使いたちのことも、森の道のことも、村のことも、私は心配しすぎてしまう。
心配は悪いことではない。
けれど、心配しすぎると、まだ起きていないことに心を全部奪われる。
モリタンの土を見つめながら、私はそれを学んでいる。
「ゆっくりでいいですよ」
私はモリタンの札へ向かって言った。
「みんな、待っています。でも、急がなくていいです」
その言葉は、自分にも向けていた。
しばらくして、リオとミナが迎えに来た。
今日はガルドさんが少し離れてつき、バルドさんは村側で待機している。
リオは畑を見るなり、小声で聞いた。
「モリタンは?」
「まだです」
「そっか」
彼は残念そうにしたが、すぐに頷いた。
「まあ、モリタンは静かなやつっぽいしな」
「静かなやつ」
「リーナが言ってただろ。森の中で考えてるって」
私は少し笑った。
「はい。言っていましたね」
ミナがモリタンの札を見て、優しく言う。
「出ない日も記録ですね」
「はい」
「出ないから駄目、ではありません」
「はい」
リオがしゃがみ込み、距離を守ったまま畝を見る。
「モリタン、みんな待ってるぞ。でも急がなくていいぞ」
その言い方が、どこかルルに似ていて、私は胸が温かくなった。
村へ向かう道は、今日も慎重だった。
薬草籠を持ち、途中で本当に薬草を採る。
小川で足跡を切る。
合図を見る。
不自然にならないよう、けれど油断しないよう歩く。
最近の私たちは、こういう移動に少し慣れてきている。
それが良いことなのか、寂しいことなのかは分からない。
でも、生きるとは、きっとそういうことなのだろう。
怖い状況の中でも、歩き方を覚える。
息の仕方を覚える。
村へ着くと、子供たちは今日も待っていた。
エマが真っ先に聞く。
「モリタンは!?」
「まだです」
エマは一瞬だけ肩を落とした。
でもすぐに、両手を握った。
「じゃあ今日も待つ!」
「はい」
ルルが頷く。
「モリタン、急がなくていい」
リーナは深い緑の糸を握っていた。
「まだ、色を考えてるのかも」
ニコが言う。
「ムラマルも昨日出たばかりだし、順番でいいよ」
トトは腕を組んだ。
「全部同時は外れたけど、最後にすごいかもしれない」
サムは真面目に記録する。
モリタン、発芽なし。
子供たち、待つ姿勢。
私はそれを見て、静かに微笑んだ。
以前なら、「出なかった」という報告は残念なだけだったかもしれない。
けれど今の子供たちは、出ない日も待つ日として受け取っている。
それは、とても大きな成長だった。
今日の共同畑では、ルルの傷んだ葉が自然に取れかけていた。
ルルは私を呼び、小さな声で言った。
「フローラ先生、これ」
葉の根元が乾き、軽く触れれば取れそうになっている。
私はしゃがみ、ルルに説明した。
「もう、役目を終えたようですね」
「取る?」
「一緒に取りましょう」
ルルは真剣に頷いた。
私が茎を支え、ルルが指先でそっと葉に触れる。
力を入れなくても、葉は小さく外れた。
ルルの手のひらに、虫食いの跡が残る古い葉が乗る。
彼女はしばらくそれを見つめていた。
「頑張ったね」
小さく言った。
その声に、周囲の子供たちが黙る。
私も、胸が少し詰まった。
「はい。頑張りました」
ルルは葉を捨てず、畑の端に作った小さな土の場所へ置いた。
「土に帰る?」
「はい。細かくなって、また土の一部になります」
「じゃあ、終わりじゃないね」
「はい。終わりではありません」
ルルは少し笑った。
その光景を見て、私は思った。
傷ついた葉も、役目を終えれば土へ帰る。
消えるのではなく、次の命の一部になる。
私の痛みも、いつか何かの土になるのだろうか。
まだ分からない。
でも、そう思えたら少し救われる気がした。
授業では、「出ない日と、終わるもの」を話した。
木板に私は三つ書いた。
芽が出る日。
まだ出ない日。
役目を終える日。
「畑には、嬉しい変化だけではありません。まだ変わらない日もあります。役目を終える葉もあります。でも、それも全部、育つことの一部です」
サムが頷く。
「全部記録」
「はい」
エマが言う。
「モリタン、まだ出ない日」
「はい」
ニコが続ける。
「ルルの葉、役目を終える日」
「はい」
ルルは古い葉が置かれた土を見て、静かに頷いた。
リーナが糸を見ながら言う。
「終わる葉の色も、いるね」
「はい」
「茶色だけど、悲しいだけじゃない茶色」
その言葉に、私は深く頷いた。
「とても良い色だと思います」
昼前、村長さんから報告があった。
公爵家の使いたちは、まだ森の西側にいる。
ただ、村へ直接来る動きはない。
しかし、斥候らしき男が森の痕跡を見ていることはほぼ確実だという。
私は花守り布を握った。
「今日の帰りは?」
「少し遠回りする」
村長さんが言った。
「薬草採りだけではなく、水場の確認を兼ねる。森へ直接戻らない」
「分かりました」
リオが低く言う。
「俺も自然にする」
バルドさんが短く笑った。
「自然にしようと思いすぎると不自然だ」
「難しいな」
「だから普段通り少しうるさくしろ」
「またそれか」
そのやり取りに、少しだけ空気が緩む。
私は息を吐いた。
怖い話の中でも、リオがリオでいてくれる。
それがありがたかった。
午後、リーナが私の花守り布に、アオジロウの小さな芽を仮縫いしてくれた。
完全に縫い付けるのは後日だが、位置を見るために布の端に小さな緑の糸を当てる。
「ここ?」
「はい。とても綺麗です」
「ムラマルも後で縫う」
「お願いします」
「モリタンは、出てから」
「はい」
リーナは真剣に頷いた。
「出ない日も、糸は選ぶ」
その言葉が嬉しかった。
モリタンはまだ出ていない。
でも、リーナはもう糸を選んでいる。
まだ見えないものを、待ちながら準備している。
それもまた、信じることの一つなのだと思った。
夕方前、私は村を出た。
今日は水場を経由する。
籠には薬草。
サムの記録。
リーナの糸。
ニコからの「ムラマル、今日も見てね」という小さな紙。
ルルが役目を終えた葉を土に返した記録もある。
森へ向かう道中、私は何度か背中に視線を感じた。
実際に見られているかは分からない。
けれど、今日は振り返らなかった。
水場に寄り、水の状態を確認する。
薬草を少し洗う。
足跡を流す。
そして小川沿いに戻る。
リオは自然に話した。
「モリタン、明日かな」
「分かりません」
「明後日かもな」
「はい」
「でも出ない日も記録だろ」
「はい」
ミナが微笑む。
「リオ兄さん、本当に覚えましたね」
「俺だって学ぶ」
私は小さく笑った。
森の家に戻ると、まず畑へ向かった。
アオジロウは安定。
ムラマルも小さく立っている。
モリタンはまだ静か。
私はしゃがみ、村でのことを報告した。
「モリタン、みんな待っています。でも急がなくていいと言っていました。リーナは糸を選んでいます。トトは、最後にすごいかもしれないと言っています」
風が畑を撫でる。
土は答えない。
でも、今日の沈黙は嫌ではなかった。
夜。
私は日記帳を開いた。
今日はモリタンは出なかった。
でも、出ない日も記録した。
ルルの豆の傷んだ葉が役目を終え、土へ帰った。
終わりではなく、土の一部になると話した。
リーナが花守り布にアオジロウの芽を仮縫いしてくれた。
モリタンの糸も選んでいる。
公爵家の使いたちは、まだ森の西側にいる。
怖い。
でも、今日は「出ない日」も大切にできた。
私はペンを止めた。
何かが起きる日だけが大切なのではない。
何も出ない日。
変わらない日。
待つだけの日。
それも積み重なって、芽が出る日につながる。
私は最後に書いた。
モリタンはまだ出ない。
でも、まだ出ないことも、モリタンの時間だ。
私も、まだ答えの出ないことがたくさんある。
それでも、その時間も私の一部なのだと思いたい。
日記帳を閉じる。
外は暗い。
森のどこかで、公爵家の使いが待っているかもしれない。
でも、私の畑でもモリタンが待っている。
同じ待つでも、色が違う。
私は、モリタンの待つ色を忘れたくなかった。
「また明日」
窓の外へ小さく言う。
アオジロウへ。
ムラマルへ。
まだ出ないモリタンへ。
そして、まだ答えの出ない私へ。
また明日。
明日も、見ます。




