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『青の姫君の森暮らし 〜化け物と恐れられた公爵令嬢は、今日も畑を耕します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第32話 青の姫君、二つ目の芽を待つ 終盤



 翌朝、ムラマルは土の上にいた。


 まだ小さい。


 アオジロウよりも少し遅れて、少し控えめに。


 けれど、確かに土の上へ顔を出していた。


 昨日は白い芽先が少し見えただけだった場所に、今朝は淡い緑を含んだ小さな芽が、土粒を押しのけるように曲がっている。


 私は畝の前にしゃがんだまま、しばらく何も言えなかった。


 朝露が畝の土を濡らしている。


 森の空気は冷たい。


 鳥が遠くで鳴いている。


 けれど、そのすべてが少し遠く感じるほど、私はムラマルの小さな芽に目を奪われていた。


「……出ましたね」


 ようやく声が出た。


 ムラマルは答えない。


 ただ、小さな芽を曲げたまま、朝の光を受けている。


 昨日、ニコが言った。


 待っててよかった。


 昨日、ルルが言った。


 急がなくていい。


 トトは、まだ全部同時を諦めていなかった。


 サムは兆しを記録した。


 リーナは土色と芽色を縫い始めた。


 エマはムラマル前祝い歌を作ろうとしていた。


 その全部を思い出した瞬間、胸の奥が熱くなった。


 ムラマルは、一人で出た芽ではない。


 もちろん、土を押し上げたのはムラマル自身だ。


 でも、この芽を待っていた時間には、村の声がたくさん混ざっている。


 私は記録板を取り出し、丁寧に書いた。


 青豆一号、虫食い後十五日目。


 アオジロウ、発芽五日目。芽、安定。


 ムラマル、発芽確認。淡緑の芽、土上へ出る。


 モリタン、発芽なし。


 土の湿り、良好。水やり不要。


 観察者、ニコに早く伝えたいが、走らない。


 書き終えてから、私は少し笑った。


 走らない。


 今日も、ちゃんと書いておく。


 嬉しい時ほど走りたくなる。


 でも、畑では走らない。


 森でも不用意に走らない。


 見られているかもしれない日常の中で、喜びも丁寧に運ばなければならない。


 結界にリオたちの気配が触れた。


 私は立ち上がった。


 胸が弾む。


 足も勝手に前へ出そうになる。


 でも止まる。


 深呼吸を一つ。


 花守り布に触れる。


「丁寧に」


 小さく呟く。


 森の道からリオとミナが現れた。


 今日はガルドさんも一緒だ。


 リオは私の顔を見るなり、すぐに察したらしい。


「……出た?」


 声を抑えている。


 でも目が輝いている。


 私は頷いた。


「ムラマルが、土の上に出ました」


 リオは両手を握りしめ、声を出さずに大きく口を開けた。


 ミナは口元に手を当て、目を細めた。


「本当に?」


「はい」


「見てもいいですか」


「もちろんです」


 三人で畝へ向かう。


 リオは今日も走らなかった。


 ミナも足元に気をつけながら、静かに歩いてくれる。


 ガルドさんは周囲を確認しつつも、畝へ目を向けた。


 ムラマルの小さな芽を見つけた瞬間、リオは小声で言った。


「……出てる」


「はい」


「昨日、白かったのに」


「今日は緑が見えます」


「ニコ、喜ぶな」


「はい」


 ミナもしゃがみ、静かに微笑んだ。


「ムラマルらしいですね。少し控えめだけど、ちゃんと出てきました」


「はい」


 その表現が、私にはとても合っているように思えた。


 アオジロウは、最初の芽らしく村中を驚かせた。


 ムラマルは、兆しを見せ、待たせて、少しずつ顔を出した。


 それぞれ違う。


 どちらが良い悪いではない。


 出方が違う。


 育ち方が違う。


 土の下での時間が違う。


 それもまた、畑が教えてくれることだった。


「今日は村へ早く知らせたいですね」


 ミナが言う。


「はい。でも、早く見えないように行きます」


 私が答えると、リオが頷いた。


「嬉しくても丁寧に」


「はい」


 ガルドさんが静かに言った。


「今日は、村へ入る前に少し薬草を採ります。昨日と同じく自然な動きで」


「分かりました」


「公爵家側の動きは、まだ西側です。ただ、村に出入りする者への監視は続いている可能性があります」


 胸が少し冷える。


 でも、今日はその冷たさだけではない。


 ムラマルが出た。


 その温かさが、胸の奥にある。


「怖いです」


 私は正直に言った。


「でも、ムラマルのことも伝えたいです」


 ミナが頷く。


「両方持って行きましょう」


「はい」


 朝食を終え、薬草籠を整える。


 今日は村へ持っていくための鎮静茶の材料を少し入れた。


 香りは強すぎない。


 籠の上には、昨日とは違う葉を置く。


 何度も同じ動きにならないように。


 見られているかもしれないからこそ、日常の揺らぎを大切にする。


 森の道では、リオがいつもより少しだけ話した。


「ニコ、泣くかな」


「嬉しくて?」


「うん」


「泣くかもしれません」


「エマは叫ぶ」


「小声で叫ぶと思います」


 ミナが小さく笑った。


「最近、エマも頑張っていますね」


「はい」


 エマの大声は、村の明るさそのものだった。


 でも今は、その明るさを抑える練習をしている。


 我慢している。


 それでも消えていない。


 小声でも、エマはエマだ。


 そのことが、少し嬉しい。


 薬草採り場に寄り、実際に薬草を少し採った。


 葉の状態を見る。


 香りを確かめる。


 根元を残す。


 必要な分だけ。


 リオが横で言った。


「薬草採りって、見られてても自然だな」


「はい」


「でも、本当に採るから自然なんだよな」


「そうです」


 嘘だけでは、体が固くなる。


 本当に必要なことをするから、動きが自然になる。


 それは、もしかしたら人の生き方にも似ている。


 隠すことばかり考えると不自然になる。


 でも、暮らしを続けるために必要なことをしていれば、そこには本当の重みがある。


 村へ着くと、見張りの若者が手で丸を作った。


 異常なし。


 私は頷き、共同畑へ向かった。


 子供たちは今日も待っていた。


 エマは両手を口に当てている。


 ニコはいつもより落ち着かない様子で、記録板を胸に抱いている。


 サムは隣で木板を二枚持っている。


 ルルとトトは顔を見合わせ、リーナは土色と芽色の糸を握っていた。


 私はゆっくり近づいた。


 心臓が高鳴っている。


 けれど、歩く速度は変えない。


「おはようございます」


「おはよう……!」


 エマが小声で返す。


 ニコは息を呑んで私を見る。


 私は彼の前にしゃがんだ。


「ニコ」


「はい」


「ムラマルが、土の上に出ました」


 ニコは動かなかった。


 聞こえていないのかと思うほど、じっとしていた。


 それから、目を大きく開いたまま、ぽつりと言った。


「……出た?」


「はい」


「白いのじゃなくて?」


「少し緑が見えています」


「土の上?」


「はい」


 ニコの唇が震えた。


 そして彼は、記録板を抱えたまま、静かに泣いた。


 大きな声ではない。


 ぽろ、と涙が落ちただけ。


 でも、その涙を見た瞬間、周囲の子供たちも大人たちも黙った。


 ニコは慌てて袖で拭こうとした。


 私はそっと言った。


「泣いても大丈夫です」


 ルルもすぐに言った。


「嬉しい時も泣いていいよ」


 ニコは頷いた。


「うん……」


 エマが両手で口を押さえたまま、足だけぱたぱたさせている。


「ムラマルおめでとうって言っていい?」


「小さな声なら」


 ミナが言う。


 エマは大きく息を吸い、小声で叫んだ。


「ムラマル、おめでとう!」


 その声に、村の空気がふわりと動いた。


 トトが腕を組み、少し悔しそうに言う。


「全部同時じゃなかった」


 ルルが言う。


「でもモリタンはこれから」


「そうだな」


 トトはすぐに頷いた。


 サムはすでに記録を書いている。


「ムラマル、発芽確認。ニコ、嬉し泣き。エマ、小声で祝う。ルル、嬉しい時も泣いていいと言う。トト、全部同時予想外れるがモリタン継続」


「そこまで書くの……」


 ニコが少し恥ずかしそうに言う。


 サムは真剣に頷いた。


「村記録だから」


 その答えに、みんなが笑った。


 笑い声は小さい。


 でも温かい。


 パン屋の女性が近づいてきて、ニコの頭を軽く撫でた。


「よかったねえ」


「うん」


「ムラマル前祝いじゃなくて、今度は本祝いだね」


 リオが反応しかけた。


 ミナが先に視線を向ける。


「リオ兄さん」


「まだ何も言ってない」


「顔が言っていました」


 パン屋の女性は笑った。


「今日は甘いパンはないけど、昼のスープは昨日よりもっと根菜を増やそう」


 子供たちが小さく歓声を上げる。


 村長さんも家の前から出てきた。


「ムラマルも出たか」


 ニコが涙を拭きながら、はっきり言った。


「はい。出ました」


「よく待った」


「掘りませんでした」


「偉い」


 ニコはまた少し泣きそうになった。


 私はその様子を見て、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 アオジロウの発芽は、村全体の驚きだった。


 ムラマルの発芽は、待つことを覚えた子供たちへの贈り物のようだった。


 特にニコにとって。


 今日の授業は、「二つ目の芽と待ち方の違い」になった。


 私は木板に、アオジロウとムラマルの絵を描く。


 アオジロウは、最初に見つけた時点で緑が見えた。


 ムラマルは、盛り上がり、土割れ、白い芽先、そして淡緑の芽という段階を見せてくれた。


「同じ発芽でも、見え方が違います」


 私は言った。


「アオジロウは、見つけた時に緑が見えました。ムラマルは、昨日は白い芽先だけでした。そして今日、緑が見えました」


 サムが頷く。


「段階が多かった」


「はい」


 ルルが言う。


「待つの長かった」


「はい」


 ニコが小さく言った。


「でも、その分、嬉しい」


 私は頷いた。


「そうですね」


 エマが手を上げる。


「じゃあモリタンはもっと待つかも?」


「その可能性もあります」


「もっと嬉しい?」


「きっと、そうかもしれません」


 リーナが糸を見ながら言う。


「モリタンは、静かな色かも」


「はい」


「出るまで、森の中で考えてる」


 その表現が、モリタンにとても合っている気がした。


 私は微笑んだ。


「そうかもしれません」


 その時、村の入口側で若者がガルドさんに何かを伝えた。


 私は反射的に体を固くした。


 鐘は鳴っていない。


 合図を見る。


 ガルドさんは村長さんへ短く伝えた後、こちらへ向かって手で丸を作った。


 今すぐの危険なし。


 私は息を吐く。


 リオが小声で言った。


「大丈夫」


「はい」


 ミナも頷く。


「合図、見られましたね」


「はい」


 子供たちも、そのやり取りを見ていた。


 サムが記録板に小さく書く。


 知らせあり。鐘なし。丸の合図。授業継続。


 それを見て、私は胸が詰まった。


 この子たちは本当に、今の日常を記録している。


 怖さも、喜びも、合図も、歌も。


 全部を。


 昼前、村長さんからの報告を受けた。


 公爵家の使いたちは、森の西側で待機を続けている。


 村へ直接来る動きはまだない。


 ただし、森に出入りする者を観察している可能性は高い。


 今日の帰りも、薬草採りを装うのではなく、実際に薬草を採りながら帰ること。


 無理に急がないこと。


 そして、森の家へ戻ったら外作業は控えること。


「分かりました」


 私は頷いた。


 村長さんは私をじっと見た。


「今日は嬉しい日だ。だが、嬉しい日ほど足元を見なさい」


「はい」


「喜びを消せと言っているのではない」


「分かっています」


 私は胸に手を当てた。


「喜びを持ったまま、丁寧に歩きます」


 村長さんは静かに頷いた。


「それでいい」


 午後、エマがムラマル本祝い歌を完成させようとした。


 アオジロウの発芽記念歌に続き、村記録には新しい歌が増えることになった。


 ムラマル出たよ


 ゆっくり出たよ


 土の布団を押し上げて


 こんにちは


 こんにちは


 トトが言った。


「土の布団って何」


 ルルは頷いた。


「でも、分かる」


 ニコは少し照れながら笑った。


「ムラマルっぽい」


 サムは「ムラマル本祝い歌、一番」と記録した。


 エマがまた驚く。


「また一番!?」


「増える可能性がある」


「じゃあ増やす!」


 村の大人たちが笑う。


 その笑いを聞きながら、私は思った。


 歌が増える。


 記録が増える。


 芽が増える。


 怖いことも近づいている。


 でも、怖さ以外も確実に増えている。


 夕方前、私は村を出た。


 籠には薬草。


 サムの記録の写し。


 リーナからもらったムラマル用の土色と芽色の小さな布片。


 ニコからの小さな手紙。


 手紙には、ただ一言だけ書いてあった。


 ムラマル、待ってたよ。


 その字は少し震えていた。


 私はそれを大切に籠の奥へしまった。


 帰り道は慎重だった。


 薬草採り場に寄り、必要な葉を採る。


 小川で足跡を切る。


 森の目印を確認する。


 背中に視線を感じるような瞬間はあった。


 でも、私は振り返らなかった。


 リオが少し話し、ミナが返す。


 ガルドさんが合図を出す。


 私は籠を抱え、足元を見ながら歩いた。


 喜びを持ったまま、丁寧に。


 森の家に着くと、すぐ第二の畝へ向かった。


 ムラマルは朝と大きく変わらない。


 でも、村で聞いた歌や言葉を伝えたくて、私はしゃがんだ。


「ただいま、ムラマル」


 風が少し吹く。


「ニコが、とても喜んでいました。泣いていました。でも嬉しい涙です。エマが歌を作りました。ルルはゆっくりでいいと言っていました。トトはまだモリタンも待っています。サムは全部記録しました。リーナはあなたの色を縫っています」


 リオが隣で言う。


「ムラマル、大人気だな」


「はい」


 ミナが微笑む。


「モリタンも、きっと出てくる時を待っています」


 私は静かなモリタンの札を見た。


「はい。待ちます」


 夜、日記帳を開く。


 今日、ムラマルが土の上に出た。


 ニコが嬉しくて泣いた。


 エマがムラマル本祝い歌を作った。


 サムが記録した。


 リーナがムラマルの色を縫った。


 モリタンはまだ土の中。


 公爵家の使いたちは、まだ森の西側で見ているかもしれない。


 嬉しい日だった。


 怖い日でもあった。


 でも、私は喜びを持ったまま、丁寧に歩けた。


 私はペンを止めた。


 今日の言葉を思い出す。


 喜びを消さない。


 足元を見る。


 それは、とても難しい。


 嬉しい時は走りたくなる。


 怖い時は固まりたくなる。


 でも、そのどちらでもなく、丁寧に歩く。


 私はまだ練習中だ。


 でも今日、少しだけできた。


 私は最後に書いた。


 ムラマルは、ゆっくり出てきた。


 ゆっくりでも、ちゃんと出てきた。


 私も、急がなくていいのかもしれない。


 怖さの中から、少しずつ顔を出せばいい。


 日記帳を閉じる。


 机の上には、ニコの手紙。


 ムラマルの色の布片。


 アオジロウの刺繍の下絵。


 花守り布。


 私は小さく、ムラマルの歌を口ずさんだ。


 ムラマル出たよ


 ゆっくり出たよ


 土の布団を押し上げて


 こんにちは


 こんにちは


 歌い終えると、窓の外へ向かって言った。


「また明日」


 アオジロウへ。


 ムラマルへ。


 まだ土の中にいるモリタンへ。


 そして、ゆっくりでいいと自分に言い聞かせている私へ。


 また明日。


 明日も、見ます。

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