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『青の姫君の森暮らし 〜化け物と恐れられた公爵令嬢は、今日も畑を耕します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第31話 青の姫君、見られているかもしれない朝を歩く



 翌朝、私はいつもより慎重に扉を開けた。


 森は静かだった。


 朝露をまとった草が、淡い光の中で薄く輝いている。


 木々の上では鳥が何羽か鳴き始めていたが、その声もまだ小さい。


 風は弱く、葉擦れの音も控えめだった。


 いつもの朝。


 そう思いたかった。


 けれど、胸の奥には昨夜の話が残っていた。


 公爵家の使いたちは、森の道に気づき始めているかもしれない。


 力ずくで踏み込んではこない。


 けれど、見ている。


 待っている。


 誰が森へ通うのか。


 どこに痕跡が残るのか。


 何を守っているのか。


 そう考えると、足元の土まで急に見られているような気がした。


 私は花守り布の端に触れた。


 リーナの青い花。


 白い花。


 まだ縫い足されていない、アオジロウの芽の場所。


 布の感触を確かめてから、私は畑へ向かった。


 まず青豆一号。


 虫食いの葉は、もう最初の頃の痛々しさを失っていた。


 少し古びて、少し役目を終えようとしている。


 その隣で、本葉はしっかり開いている。


 次に、第二の畝。


 アオジロウ。


 小さな芽は、昨日よりほんの少しだけ立ち上がっていた。


 まだ頼りない。


 土の粒を背に乗せたまま、世界を覗き込むように曲がっている。


 それでも、確かに昨日より上を向いている。


「おはようございます、アオジロウ」


 小さく声をかける。


 ムラマルとモリタンは、まだ土の中だ。


「ムラマル、モリタンも、おはようございます。ゆっくりでいいですよ」


 そう言ってから、私は少し笑った。


 ルルと同じことを言っている。


 急がせない。


 掘らない。


 待つ。


 私は記録板を出した。


 青豆一号、虫食い後十二日目。


 アオジロウ、発芽二日目。芽、わずかに立ち上がる。


 ムラマル、発芽なし。


 モリタン、発芽なし。


 土の湿り、良好。


 観察者、見られているかもしれない朝でも、畑を見る。


 最後の一文を書いた後、私は少し手を止めた。


 見られているかもしれない朝でも、畑を見る。


 それは、自分に言い聞かせるための言葉だった。


 怖いからといって、畑を見ないわけにはいかない。


 むしろ、怖い時こそ見る。


 青豆一号が教えてくれた。


 ルルが教えてくれた。


 村が教えてくれた。


 私は記録板を胸に抱き、深く息を吸った。


 森の匂い。


 土の匂い。


 まだ朝の冷たさを残した空気。


 その中に、知らない人の匂いはない。


 少なくとも、今この結界の内側には。


 しばらくして、結界に気配が触れた。


 リオ、ミナ、ガルドさん。


 そして今日は、少し遅れてバルドさんの気配もあった。


 私は玄関へ向かう。


「おはよう、フローラ」


 リオの声は少し抑えられていた。


 以前なら、森の中でも大きな声で呼んでいた。


 今は違う。


 彼も、見られているかもしれない日常を歩いている。


「おはようございます」


 ミナは私の顔を見て、すぐに言った。


「眠れましたか」


「はい。少し浅かったですが、眠れました」


「アオジロウの歌、歌いました?」


「はい」


 リオが笑った。


「俺も帰ってからちょっと歌った」


 ミナが驚いたように兄を見る。


「リオ兄さんが?」


「小さい声でな」


「珍しい」


「悪いかよ」


「悪くないです。すごくいいと思います」


 リオは照れたようにそっぽを向いた。


 私は胸が温かくなった。


 あの短い発芽記念歌が、リオの家にも届いていた。


 村の歌が、森と村をつないでいる。


「アオジロウは?」


 リオが聞く。


「昨日より少し立ち上がっています」


 その瞬間、リオの目が明るくなった。


「見たい」


「はい」


 皆で第二の畝へ向かう。


 リオは自然に距離を取る。


 ミナはしゃがみ込む前にスカートの裾を整える。


 ガルドさんは周囲を見回し、バルドさんは土を見る。


 それぞれの癖。


 それぞれの見方。


 私はそれを見ながら、少し安心した。


 一人ではない。


 アオジロウを見る目が、こんなにある。


「おお……昨日より出てる」


 リオが小さく言った。


「はい」


「すげえな。夜の間に伸びたんだな」


「見えない間に、少しずつ」


 ミナが静かに言う。


「待っている間にも、変わっているんですね」


 バルドさんが頷いた。


「畑はそういうもんだ。見てねえ時にも育つ」


 私はその言葉を胸に入れた。


 見ていない時にも育つ。


 村で笑っている間にも。


 夜に怖がっている間にも。


 眠っている間にも。


 土の中では、何かが進んでいる。


 人の心も、そうなのだろうか。


 私自身も、見えないところで少しずつ変わっているのだろうか。


 リオがムラマルの札を見た。


「ムラマルはまだか」


「はい」


「モリタンも?」


「はい」


「でも待つ」


 リオは当然のように言った。


 私は頷いた。


「はい。待ちます」


 ガルドさんが森の方へ視線を向けた。


「村へ向かう前に確認します。今日はいつも以上に、道中の痕跡を残さないように」


「はい」


「村へ行く時間も短めにしましょう」


「分かりました」


 バルドさんが低く言った。


「向こうが見てるなら、こっちは見られ方も考える」


「見られ方」


「ああ。慌てて動けば怪しまれる。逆に急に動かなくなっても怪しまれる。だから、いつも通りに見せながら、少し変える」


 私は頷いた。


 難しい。


 でも大切だ。


 日常を止めない。


 けれど、何も考えず続けるわけでもない。


 見られているかもしれない日常を、静かに整える。


 村へ向かう道は、小川沿いだった。


 足跡を水で切り、薬草の目印を確認し、偽の道には近づかない。


 リオは今日はほとんど喋らなかった。


 その分、周囲をよく見ている。


 ミナは私の隣を歩き、時々足元を指差してくれた。


 ガルドさんは後ろ。


 バルドさんは途中まで先導し、土の状態を見ている。


 誰も大きな声を出さない。


 でも、沈黙は怖いだけではなかった。


 皆が同じ目的で動いている沈黙。


 守るための沈黙だった。


 村に着くと、見張りの若者が小さく丸を作った。


 異常なし。


 私は頷く。


 村の広場には、いつもの朝の音があった。


 ただし、少しだけ静かだ。


 昨日のアオジロウ発芽の喜びは残っているが、今日はそれに警戒が混ざっている。


 子供たちは共同畑の前で待っていた。


 エマは私を見るなり、口を開きかけたが、大声を出すのを思い出したのか、両手で口を押さえた。


 そして小走りで近づき、途中で母親に「走らない」と言われ、歩きに変えた。


「フローラ先生、アオジロウは?」


「昨日より少し立ち上がりました」


 エマの目が輝いた。


「立ったの!?」


「少しだけです」


「すごい!」


 ニコも近づく。


「ムラマルは?」


「まだです」


 ルルが聞く。


「モリタンは?」


「まだです」


 ルルは頷いた。


「ゆっくりでいい」


「はい」


 サムはすでに記録板を構えていた。


「発芽二日目の記録をお願いします」


「はい」


 私は記録板を見せる。


 サムは丁寧に写し始めた。


 エマは発芽記念歌を小さく歌っている。


 昨日より声が小さい。


 見張りや大人たちの空気を、子供なりに感じているのだろう。


 アオジロウ出たよ


 ちいさく出たよ


 土からこんにちは


 また明日


 また明日


 歌が小さい分、胸に近く届く気がした。


 私はその歌を聞きながら、共同畑を見て回った。


 マメタは順調。


 ニコ豆も元気。


 ルルの傷んだ葉は、さらに黄色くなっている。


 ルルはそれを見て、そっと言った。


「そろそろ、ばいばい?」


「もう少し様子を見ましょう。自然に取れそうになったら、一緒に取ります」


「一緒に?」


「はい」


 ルルは安心したように頷いた。


「一人で取らない」


「はい」


 傷んだ葉を見送ることも、一人ではなく一緒に。


 その小さな約束が、ルルの顔を少し穏やかにした。


 サム豆は相変わらず整っている。


 サムは自分の豆より記録板に夢中だった。


 バルドさんが横から言う。


「自分の豆も見ろ」


「あ」


 サムは慌ててしゃがむ。


 周囲に笑いが起きた。


 その笑いは小さい。


 でも、確かにあった。


 今日の授業は「見られているかもしれない時の畑仕事」になった。


 子供たちには難しい話かもしれない。


 けれど、今の状況をまったく隠すのも違う。


 私は木板を出し、畑の絵を描いた。


「今日は、いつも通りに見えることも大事、という話をします」


 エマが首を傾げる。


「いつも通り?」


「はい。怖いことがあると、急に全部やめたくなったり、逆に慌てて動きたくなったりします。でも、急に変わると、周りの人も驚きます」


 サムが頷く。


「変化の記録」


「はい。大きすぎる変化は、目立ちます」


 ニコが小さく聞く。


「じゃあ、怖くても普通にするの?」


「普通にする、というより、落ち着いて決めた通りに動く、です」


 ルルが言う。


「泣いても見るみたい?」


「近いです」


 私は頷いた。


「怖くても、決めたことを見る。合図を見る。大人と一緒に動く。畑も見る」


 トトが腕を組む。


「走らない?」


「はい。走らない」


 エマが少し気まずそうに目を逸らした。


「私、走りそうになる」


「私も、急ぎたくなることがあります」


 私は正直に言った。


「アオジロウの芽を見つけた時、すぐ村へ走りたくなりました」


 エマが驚いた顔をする。


「先生も?」


「はい。でも、畑で走ってはいけないので止まりました」


 リオが横で頷く。


「俺も走りたかった」


 ミナがすぐ言う。


「走りかけました」


「止まっただろ」


「止まったのは偉いです」


 リオは少し照れた。


 子供たちが笑う。


 その笑いで、授業の空気が少し和らいだ。


「見られているかもしれない時ほど、丁寧に動きます」


 私は木板に書いた。


 丁寧に見る。


 丁寧に歩く。


 丁寧に話す。


 丁寧に待つ。


 サムが真剣に写す。


 リーナが小さく言う。


「丁寧に縫う」


「はい。それも大切です」


 リーナは花守り布を見て、少し嬉しそうにした。


 昼前、村長さんが私を呼んだ。


 村長の家の横には、ガルドさんとバルドさんがいた。


 リオとミナも一緒に来る。


 村長さんの表情は落ち着いているが、目は真剣だった。


「昨夜から、街道側に人を置いている。公爵家の使いはまだ森の西側にいるらしい」


「こちらへは?」


「まだ来ていない」


 私は息を吐いた。


「だが、村に出入りする者を見ている可能性はある」


 胸が冷えた。


 見られているかもしれない。


 朝から感じていた不安が、言葉になる。


 リオが低く言った。


「じゃあ、俺たちがフローラを送ってるのも」


「見られる可能性はある」


 ガルドさんが答えた。


 ミナの手が私の袖に触れる。


 私は花守り布を握った。


「送迎をやめますか」


 そう聞くと、村長さんは首を横に振った。


「急にやめる方が不自然だ。だが、道と時間を変える」


「はい」


「今日は帰りを少し早める。村を出る時は、薬草採りに向かうように見せる」


「薬草採り」


 バルドさんが頷く。


「籠に薬草を入れて帰る。途中で足跡を切る。いつも通りに見せながら、道は変える」


 見られ方を考える。


 朝、バルドさんが言ったことだ。


「分かりました」


 私は頷いた。


 怖い。


 けれど、やることが決まると、少しだけ呼吸が楽になる。


 リオは真剣な顔で言った。


「俺は?」


「お前はいつも通り、少しうるさくしろ」


 バルドさんが言った。


 リオは目を丸くする。


「うるさく?」


「急に黙るな。不自然だ」


「俺、今日は静かにしようとしてたんだけど」


「森では静かにしろ。村ではいつも通りでいい」


 ミナが少し笑った。


「難しい役目ですね」


「俺、うるさくして怒られないの初めてかも」


 リオのその言葉に、少し空気が緩んだ。


 私も小さく笑う。


 村長さんも少しだけ目元を和らげた。


「ただし、叫ぶな」


「はい」


 午後の時間は短かった。


 私は子供たちと一緒に薬草を少し選んだ。


 表向きには、森へ持ち帰る薬草の確認。


 実際には、帰り道で自然に見えるための準備でもある。


 エマは張り切って薬草を選ぼうとしたが、危ない草と似ているものを選びかけ、ニコに止められた。


「分からない時は大人に聞く」


「覚えてるもん!」


「じゃあ聞いて」


「フローラ先生、これ!」


「似ていますが、違います。こちらは使いません」


 エマは真剣に頷いた。


 いつもの薬草授業。


 でも、その裏に警戒がある。


 私はそれを意識しながら、できるだけ落ち着いた声で説明した。


「これは香りが強いので、籠の上に置きます」


「どうして?」


 ニコが聞く。


「薬草採りに見えやすいからです」


 子供たちは少し静かになった。


 エマが小声で聞く。


「見られてるかもしれないから?」


「はい」


 私は正直に答えた。


「でも、怖がらせるためではありません。守る工夫です」


 ルルが頷く。


「丁寧に動く」


「はい」


 サムが記録する。


 見られているかもしれない時、薬草籠を自然にする。


 リオが覗き込む。


「それも記録か」


「村記録です」


 サムは真剣だった。


 夕方より少し早い時間、私は村を出た。


 籠には薬草が入っている。


 見た目は普通の薬草採り帰り。


 リオは少しだけいつも通りの調子で話した。


「この薬草、匂い強いな」


「虫除けにも使えます」


「リオ兄さん、顔を近づけすぎないで」


「分かってる」


 ミナは自然に笑う。


 ガルドさんは少し離れて歩く。


 見張りすぎないように。


 けれど、守れる距離で。


 私は歩きながら、背中に視線を感じるような気がしていた。


 本当に見られているのかは分からない。


 でも、可能性がある。


 足を速めたくなる。


 振り返りたくなる。


 結界を広げたくなる。


 でも、しない。


 丁寧に歩く。


 丁寧に息をする。


 丁寧に待つ。


 小川へ着くと、いつものように水の中を少し歩いた。


 足跡を切る。


 薬草の目印を確認する。


 リオは今日は自然に目印を見た。


 口には出さない。


 成長している。


 森の家に着くと、私はようやく深く息を吐いた。


「……帰れました」


 ミナが隣で頷いた。


「はい。落ち着いて歩けました」


 リオも言う。


「俺も自然だっただろ」


「少しだけ不自然でした」


 ミナが言う。


「え」


「でも、頑張っていました」


「ならいいか」


 私は笑った。


 怖さで固まっていた胸が、少し解ける。


 第二の畝へ向かうと、アオジロウは朝とほとんど変わらないように見えた。


 でも、それでいい。


 今日はもう十分だ。


 ムラマルとモリタンはまだ土の中。


 私は薬草籠を置き、畝の前にしゃがんだ。


「ただいま」


 小さく言う。


「今日は、見られているかもしれない道を歩きました。でも、帰ってこられました」


 リオが隣で小さく歌う。


 アオジロウ出たよ


 ちいさく出たよ


 土からこんにちは


 また明日


 最後だけ、私も合わせた。


「また明日」


 ミナも微笑んで言った。


「また明日」


 夜。


 私は日記帳を開いた。


 今日、アオジロウは少し立ち上がった。


 ムラマルとモリタンはまだ土の中。


 村で「見られているかもしれない時の畑仕事」を話した。


 丁寧に見る。


 丁寧に歩く。


 丁寧に話す。


 丁寧に待つ。


 公爵家の使いたちは、村に出入りする者を見ているかもしれない。


 怖かった。


 でも、薬草籠を持って、決めた道を歩いて帰れた。


 私はペンを止めた。


 今日は、昨日のような大きな喜びの日ではない。


 でも、とても大事な日だった。


 見られているかもしれない。


 それでも、日常を完全には止めなかった。


 畑を見た。


 薬草を選んだ。


 歌った。


 帰ってこられた。


 私は最後に書いた。


 見られているかもしれない日常でも、私は私の畑を見る。


 怖いからこそ、丁寧に。


 焦らずに。


 明日もまた、芽を見るために。


 日記帳を閉じる。


 机の上には花守り布。


 サムの記録。


 エマの絵。


 リーナの刺繍。


 怖さ以外のものが、今日も私の周りにある。


 私は灯りを小さくし、寝台へ向かう前に、窓の外へ言った。


「また明日」


 アオジロウへ。


 ムラマルへ。


 モリタンへ。


 村へ。


 そして、怖くても明日を待とうとしている自分へ。


 夜の森は答えなかった。


 けれど、その沈黙は、昨日より少しだけ信じられるものになっていた。

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