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『青の姫君の森暮らし 〜化け物と恐れられた公爵令嬢は、今日も畑を耕します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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30/80

第30話 青の姫君、最初の芽を見つける 



 その朝、私は歌で目を覚ました。


 誰かが歌っていたわけではない。


 家の中には私一人しかいない。


 暖炉の火は昨夜のうちに小さくなり、灰の下でわずかに赤を残しているだけだった。


 窓の外では、森がまだ薄い灰色の眠りの中にある。


 鳥たちも、まだ本格的には鳴いていない。


 けれど、私の頭の奥で、昨日エマに教わった子守歌が静かに流れていた。


 森の葉っぱが眠るころ。


 小さな灯りも目を閉じる。


 風よ静かに通りゃんせ。


 夢の小道を通りゃんせ。


 私は寝台の上で目を開けたまま、その歌の続きを心の中でなぞった。


 上手ではない。


 音もまだ曖昧だ。


 けれど、昨日より少し覚えている。


 それが嬉しかった。


 怖い待ち時間に、歌を混ぜる。


 そう決めたからか、目覚めた瞬間に胸へ落ちてくる冷たい不安が、今朝は少し遅れてやって来た。


 公爵家の使い。


 森の西側。


 獣道を探る斥候。


 昨夜、村の男たちは森の外縁を見に行ったはずだ。


 無事だっただろうか。


 何か見つかっただろうか。


 考え始めると、胸の奥に冷たい石が沈む。


 でも、その上に歌が一枚、薄い布のようにかかっていた。


 怖さは消えていない。


 けれど、歌がある。


 私はゆっくり起き上がった。


「……おはようございます」


 誰に向けたわけでもなく言う。


 自分へ。


 森へ。


 この家へ。


 そして、まだ土の中にいるアオジロウたちへ。


 身支度を整え、花守り布を手に取る。


 昨日、リーナにもらった薄い黄色の糸を、机の上に置いたままにしていた。


 芽の色の糸の隣。


 エマの絵の横。


 緑と黄色が並んでいるだけで、机の上が少し明るく見える。


 私はその糸に触れてから、花守り布をかぶった。


 髪をまとめる手つきは、もうずいぶん慣れてきた。


 最初は隠されるようで苦しかった布が、今は朝の支度の一部になっている。


 もちろん、青い髪を隠す寂しさが完全になくなったわけではない。


 でも、布に縫われた花がある。


 リーナの手がある。


 村の女性たちの手がある。


 それを思うと、ただ隠されているのではなく、包まれているように感じられる日が増えてきた。


 私は鏡の中の自分を見た。


 少し眠たそうな目。


 花守り布。


 村の客人札。


 森の薬師見習いフローラ。


「今日も、見ます」


 そう言って、私は外へ出た。


 朝の空気は冷たかった。


 けれど、刺すような寒さではない。


 夜の湿気を含んだ、柔らかな冷たさだ。


 土の匂いが濃い。


 昨日、水を少し与えた第二の畝は、朝露と混ざって黒く落ち着いているはずだった。


 私はまず青豆一号へ向かった。


 虫食いの葉は、昨日より少し色が薄くなっている。


 新しい葉はしっかりしてきた。


 茎も、最初に比べればずっと頼もしい。


「おはようございます、青豆一号」


 葉が風に揺れる。


 私は少し微笑み、記録板を取り出そうとした。


 その時だった。


 視界の端で、何かが違って見えた。


 第二の畝。


 アオジロウ、ムラマル、モリタンを植えた場所。


 土の表面に、小さな割れ目があった。


 私は動きを止めた。


 息を吸うことも忘れて、畝を見つめる。


 割れ目。


 ただの乾燥によるものかもしれない。


 土が落ち着く過程でできた小さなひびかもしれない。


 けれど、昨日まではなかった。


 私はゆっくり近づいた。


 近づきすぎない。


 踏まない。


 自分に言い聞かせながら、畝の端にしゃがむ。


 アオジロウの札のすぐ近く。


 土の表面が、ほんの少しだけ持ち上がっている。


 そして、その割れ目の奥に。


 淡い緑が見えた。


「……」


 声が出なかった。


 小さい。


 本当に小さい。


 土の粒の間から、まだ折りたたまれたような芽が、わずかに顔を出している。


 完全に出たわけではない。


 まだ土を押し上げている途中。


 けれど、確かに緑だった。


 命の色だった。


「出た……」


 ようやく声が出る。


 それは、自分でも驚くほど小さな声だった。


「出ました……」


 胸の奥が、ふわりと熱くなる。


 昨日まで何も見えなかった土の中で、ちゃんと準備していた。


 待つ時間は、無駄ではなかった。


 見えない場所で、変化は進んでいた。


 私は両手を胸の前で握った。


 触ってはいけない。


 土をどかしてはいけない。


 早く見たいからと手を出してはいけない。


 分かっている。


 でも、手が震えた。


 嬉しくて。


 信じられなくて。


 私はその場にしゃがんだまま、しばらく動けなかった。


 森は静かだった。


 まだ誰もいない。


 リオもミナも来ていない。


 村の子供たちも知らない。


 この瞬間、この小さな芽を見ているのは私だけだった。


 それが少しもったいなくて、同時にとても大切に感じた。


「アオジロウ……でしょうか」


 札の位置からすると、青豆二号。


 愛称アオジロウ。


 エマが真っ先に名前を叫び、リオが「青豆一号の弟」と言った豆。


 そのアオジロウが、最初に芽を出した。


 私は笑った。


 笑ったのに、目の奥が熱くなる。


「リオが喜びますね」


 そう言った瞬間、リオの顔が浮かんだ。


 大きく目を開いて。


 きっと「ほらな!」と言う。


 エマは飛び跳ねるだろう。


 ニコは「待てたね」と言うかもしれない。


 サムは発芽日を記録する。


 ルルは「掘らなくてよかった」と頷く。


 リーナは芽の色の糸を握る。


 ミナは優しく笑ってくれる。


 村の皆が、この小さな芽を喜ぶ。


 そう思った瞬間、胸がいっぱいになった。


 小さな芽。


 でも、それは私一人の喜びではなくなっていた。


 私は記録板を取り出し、手が震えないようにゆっくり書いた。


 第二の畝、発芽確認。


 青豆二号、愛称アオジロウ。


 発芽開始。


 土割れ、小。


 芽色、淡緑。


 触らない。


 水やり、まだ不要。


 観察者、非常に嬉しい。


 最後の一文を書いて、私は少し笑った。


 非常に嬉しい。


 記録としては妙かもしれない。


 けれど、これ以上正確な言葉が見つからなかった。


 非常に嬉しい。


 本当に。


 とても。


 私は記録板を胸に抱いた。


 村へ知らせたい。


 すぐに。


 今すぐ。


 けれど、一人で森を出てはいけない。


 約束がある。


 伝言鳥を飛ばすか。


 そう考えた時、結界に気配が触れた。


 リオとミナだ。


 今日はいつもより少し早い。


 私は立ち上がった。


 思わず走りそうになり、慌てて止まる。


 畑で走ってはいけない。


 自分で決めたことだ。


 でも、気持ちは完全に走っていた。


 森の道からリオの声が聞こえる。


「フローラ、おはよ――」


 私は玄関の前まで出る前に、畑から声を上げてしまった。


「リオ! ミナ!」


 二人が驚いたように足を止める。


 リオが一瞬で顔を強張らせた。


「何かあったのか!?」


 ミナも駆け出しかける。


 私は慌てて両手を振った。


「違います! 危険ではありません!」


 リオの顔に、混乱が浮かぶ。


「じゃあ何だ!?」


 私は胸の前で記録板を抱きしめたまま、息を吸った。


「アオジロウが、芽を出しました」


 沈黙。


 森の中に、ほんの一瞬、音が消えた。


 リオは目を丸くした。


 ミナは口元に手を当てた。


 そして次の瞬間。


「出たのか!?」


 リオの声が森に響いた。


「声!」


 ミナがすぐに注意する。


「あ、ごめん! でも出たのか!?」


「はい。まだ少しだけですが」


 リオは走り出しかけ、途中で踏みとどまった。


 本当に踏みとどまった。


 足をぐっと止め、両手を握りしめる。


「走らない。畑で走らない。近づきすぎない」


 自分に言い聞かせている。


 私はその姿を見て、嬉しさとは別の温かさを感じた。


「リオ、偉いです」


「今は褒められるより見たい!」


「見ましょう」


 ミナは目を潤ませながら笑っていた。


「本当に、出たんですね」


「はい」


 三人で第二の畝へ向かう。


 リオは慎重に、慎重すぎるくらい慎重に歩いた。


 畝の前で足を止め、しゃがむ。


「どこ?」


「ここです。アオジロウの札の近く」


 リオは息を止めるように見つめた。


 そして、小さな緑を見つけた瞬間、顔がぱっと明るくなった。


「……出てる」


「はい」


「本当に出てる……!」


 リオは声を抑えようとしているのに、喜びがにじみ出ている。


 ミナも隣にしゃがみ、目を細めた。


「可愛いですね」


「はい」


「小さい」


「はい」


「でも、ちゃんと出ています」


「はい」


 同じ返事しかできない。


 それくらい、胸がいっぱいだった。


 リオはしばらく無言で芽を見ていた。


 珍しく、何も言わない。


 ただ、じっと見ている。


 やがて、ぽつりと言った。


「待ってよかったな」


 その一言に、私は胸を押さえた。


「はい」


「掘らなくてよかった」


「はい」


「見えなくても、中でちゃんとやってたんだな」


「はい」


 リオは小さく笑った。


「すごいな、豆」


「すごいです」


 ミナが静かに言う。


「フローラも、待てましたね」


 私はミナを見た。


 その言葉が、芽よりも深いところへ届いた気がした。


「……はい」


 待てた。


 怖い時間の中で。


 公爵家の使いが近くにいるかもしれない中で。


 私はアオジロウの芽を待った。


 そして、今日、見つけた。


 それは小さな出来事なのに、私の中では大きな支えになった。


「村に知らせましょう」


 リオが言った。


 もう顔が完全に喜びでいっぱいだ。


「エマ、絶対叫ぶぞ」


「叫びますね」


 ミナも笑う。


「サムは記録板を持って走りそう」


「走ってはいけません」


「止めましょう」


「ニコは泣くかな」


「嬉し泣きでしょうか」


「ルルは、掘らなくてよかったって言う」


 リオが次々に子供たちの反応を想像する。


 それがあまりに正確で、私は笑ってしまった。


 朝の森に、笑い声がこぼれる。


 昨日の夜、西側で公爵家の使いたちが道を探っているかもしれないという不安を抱えて眠った。


 今朝も怖かった。


 でも、アオジロウが芽を出した。


 その事実が、朝の色を変えていく。


 怖さが消えたわけではない。


 けれど、喜びが確かに混ざった。


 私は記録板を籠に入れ、村へ向かう準備をした。


 その前に、もう一度アオジロウを見た。


 小さな緑。


 土を押し上げる途中の芽。


 こんなに小さいのに、どうしてこんなに強く見えるのだろう。


「行ってきます」


 私は小さく声をかけた。


「みんなに知らせてきますね」


 村へ向かう道中、リオはずっとそわそわしていた。


 走りたいのを我慢しているのが分かる。


 薬草の目印を確認する時も、早く進みたそうに体が前へ出ていた。


 ミナに何度も袖を引かれる。


「リオ兄さん、足が速い」


「だって早く知らせたいだろ」


「森の道では慎重に」


「分かってる。分かってるけど」


 リオは深呼吸した。


「アオジロウが出たんだぞ」


 それだけでまた笑顔になる。


 私はその様子を見て、胸が温かくなった。


 誰かが自分の畑の芽を、こんなに喜んでくれる。


 それは、森で一人暮らしていた頃には想像もできなかったことだ。


 あの頃、何かが芽を出しても、私は記録して終わりだった。


 嬉しくなかったわけではない。


 でも、喜びを渡す相手がいなかった。


 今は違う。


 村に行けば、皆が待っている。


 アオジロウの発芽を、自分のことのように喜んでくれる人たちがいる。


 小川を渡る時、私は水面に映る自分を見た。


 花守り布をかぶった少女。


 村の客人札。


 少し笑っている顔。


 私は今、笑っている。


 そのことに気づいて、少し驚いた。


 公爵家の使いが近くにいる。


 まだ危険はある。


 でも、笑っている。


 怖さ以外もある。


 ちゃんと。


 村に近づくと、見張りの若者がこちらに気づいた。


 彼はいつものように手で丸を作ろうとして、私たちの表情を見るなり首を傾げた。


「何かあった?」


 リオがこらえきれずに言った。


「出た!」


 若者は一瞬身構えた。


「何が!?」


「アオジロウ!」


「……豆か!」


 若者は大きく息を吐き、それから笑った。


「驚かすなよ!」


「大事だろ!」


「大事だけど!」


 そのやり取りに、村の入口付近にいた人たちが顔を向ける。


 パン屋の女性が遠くから声を上げた。


「何? また何かあったのかい?」


 リオが大きく息を吸う。


 ミナが慌てて止める。


「リオ兄さん、声の大きさ」


 リオは少し抑えた。


 けれど、抑えきれなかった。


「アオジロウが芽を出した!」


 一瞬、広場が静かになった。


 次の瞬間。


「出たの!?」


 エマの声が共同畑の方から飛んできた。


 まるで矢のように。


 そして本人も飛んできた。


 ただし、途中で母親に腕を掴まれる。


「走らない!」


「アオジロウ出たのに!?」


「出ても走らない!」


 村人たちが笑い出す。


 ニコ、ルル、トト、サム、リーナも集まってくる。


 子供たちの顔は一瞬で明るくなった。


 昨日までの緊張が、完全に消えたわけではない。


 でも、その上に喜びが大きく広がっていく。


「本当!?」


「どのくらい!?」


「緑!?」


「アオジロウだけ?」


「ムラマルは!?」


「モリタンは!?」


 質問が一気に飛んでくる。


 私は少し圧倒されながらも、記録板を取り出した。


「順番に説明します」


 サムがすぐに前へ出る。


「記録板!」


「はい」


 私は記録板を見せた。


 サムは真剣に読み上げる。


「第二の畝、発芽確認。青豆二号、愛称アオジロウ。発芽開始。土割れ、小。芽色、淡緑。触らない。水やり、まだ不要。観察者、非常に嬉しい」


 最後の一文で、子供たちが一斉に私を見た。


 エマがにこっと笑う。


「フローラ先生、非常に嬉しいんだ!」


「はい。非常に嬉しいです」


 そう答えると、広場に笑いが広がった。


 パン屋の女性が手を叩く。


「そりゃめでたいねえ!」


 ニコの母親も笑顔で言う。


「待った甲斐があったわね」


 バルドさんが共同畑の向こうから歩いてくる。


 彼は記録板を見て、ふっと口元を緩めた。


「最初はアオジロウか」


「はい」


「青豆一号の隣でか」


「はい」


「なら、よく見とけ。最初の芽は、後で大事な比較になる」


 サムがすぐ記録板を握り直す。


「はい」


 エマが手を上げる。


「先生! お祝いしよう!」


「お祝い?」


「芽が出たお祝い!」


 リオが即座に頷く。


「いいな!」


 ミナが少し笑いながら言う。


「お祝いと言っても、今日は警戒中だから大きなことはできませんよ」


「小さいお祝いでいい!」


 エマは諦めない。


「歌う!」


 その言葉に、私は胸が温かくなった。


 子守歌。


 怖い待ち時間に混ぜる歌。


 でも今日は、芽吹きの喜びにも混ぜる。


 ミナが私を見る。


 リオも。


 子供たちも。


 私は少し照れながら頷いた。


「では、短く歌いましょう。畑のそばで」


 エマは満面の笑みを浮かべた。


 共同畑の前に、子供たちと大人たちが集まった。


 まだ朝の仕事の途中の人も多い。


 手に桶を持ったままの女性。


 粉のついた手を布で拭きながら来たパン屋の女性。


 道具を肩に担いだ若者。


 村長さんも家の前から出てきた。


 ガルドさんは見張りをしながら、少し離れて耳を傾けている。


 村全体が、小さな発芽の知らせに足を止めていた。


 エマが私の隣に立つ。


「小さい声でね」


「はい」


 私は頷いた。


 エマが歌い始める。


 森の葉っぱが眠るころ


 小さな灯りも目を閉じる


 風よ静かに通りゃんせ


 夢の小道を通りゃんせ


 昨日より、私も少し歌えた。


 声はまだ不安定。


 でも、エマが隣で支えてくれる。


 ミナの声が重なる。


 リオの低い声も、少しだけ。


 子供たちの声。


 村の大人たちの小さな声。


 子守歌なのに、今日は眠るためではなく、芽吹きを祝うために響いていた。


 歌い終えた後、しばらく沈黙が落ちた。


 誰もすぐに話さなかった。


 風が共同畑の葉を揺らす。


 遠くで鳥が鳴く。


 その沈黙は、怖い沈黙ではなかった。


 皆が同じ小さな喜びを抱えている沈黙だった。


 村長さんが静かに言った。


「よい朝だ」


 その一言で、広場の空気がふっとほどけた。


 パン屋の女性が目元を拭う。


「豆の芽で泣くとは思わなかったよ」


 ニコの母親も笑いながら言う。


「でも、嬉しいわね」


 バルドさんは腕を組んだまま、少しだけ目を細めていた。


「待ったものが出るってのは、そういうもんだ」


 私はその言葉を胸に入れた。


 待ったものが出る。


 土の中にあったものが、見える形になる。


 怖い待ち時間ではない。


 楽しみに待った時間の答え。


 アオジロウの芽は、まだ森の家の畑に小さく顔を出しているだけだ。


 ここからは見えない。


 それでも、村の皆がそれを喜んでいる。


 見えない芽が、村の広場を温めている。


 私は花守り布に触れた。


 怖い未来だけではない。


 芽吹く未来も、確かに来る。


 一方、森の西側。


 リーフェ村から少し離れた斜面の下で、男が一人、膝をついて土を見ていた。


 斥候役のダンである。


 彼は無口な男だった。


 必要以上に話さず、必要以上に表情を動かさない。


 だが、目はよく動く。


 土。


 草。


 枝。


 落ち葉。


 獣の足跡。


 人の足跡。


 森の小さな違和感を拾うことに長けていた。


 ダンは湿った土の上に残った微かな跡を指でなぞった。


 人ではない。


 獣。


 だが、その獣道の近くに、不自然に折れていない枝があった。


 普通、人が通れば折れるはずの枝。


 獣が通れば押し倒されるはずの草。


 それらが妙に整っている。


 自然に戻ったのではない。


 戻されたように見える。


 ダンは立ち上がり、周囲を見た。


 森は静かだ。


 鳥の声もある。


 風もある。


 だが、この一帯には、人の手が入った痕跡が薄く残っている。


 消そうとした痕跡。


 完全に消えたわけではない。


 それが逆に目立つ。


 少なくとも、彼の目には。


 後ろからセイルが近づいてくる。


「どうだ」


 ダンは短く答えた。


「誰かが道を消している」


 セイルの顔が変わる。


「リーフェ村か」


「断定はできない」


「だが、森に何かある」


 ダンは黙った。


 彼は確信していた。


 この森には、誰かが意図的に人の道を隠している。


 それはただの猟師の手入れではない。


 もっと丁寧で、もっと慎重だ。


 そして、自然をよく知る者の手だ。


 セイルはすぐにレナードの元へ戻った。


 レナードは街道脇で馬を休ませていた。


 報告を聞くと、彼は表情を変えずに森を見た。


「道を消している、か」


「はい。やはりリーフェ村が怪しいです」


 セイルの声には興奮が混じっている。


「昨日、村は森への案内を拒みました。今、森で道を消す者がいる。偶然とは思えません」


 レナードは答えなかった。


 森を見つめる。


 葉が揺れる。


 その奥に何があるのか、まだ見えない。


「不用意に踏み込むな」


 レナードは言った。


「ですが」


「誰かが道を消しているなら、罠もあると考えろ」


 セイルは黙った。


 ダンが頷く。


「殺す罠ではない。迷わせる罠だと思われる」


「なら、なおさらだ」


 レナードは低く言う。


「相手は人を傷つけたいのではない。近づかせたくないだけだ」


 セイルが眉をひそめる。


「それなら、やはり何かを隠している」


「そうだ」


 レナードは森から目を離さなかった。


「何を隠しているのか、見極める」


 風が吹く。


 遠くの森の奥で、小さな芽が土を押し上げたことを、彼らは知らない。


 その芽の知らせで、リーフェ村の広場に歌が響いていることも。


 けれど、道を隠す手があることには気づき始めていた。


 物語の外側で、ゆっくりと距離が縮まっていた。


 村では、歌の後もアオジロウの話題が尽きなかった。


 サムは記録板に「アオジロウ発芽日」を大きく書いた。


 エマは「発芽記念日」と言い出し、リオは「毎年祝うか」と乗った。


 ミナが「まず今年の収穫まで見守りましょう」と現実的に止めた。


 ニコはアオジロウへ手紙を書くと言った。


 ルルは「ムラマルとモリタンも寂しくないように応援する」と言った。


 リーナは芽の色の糸を使って、小さな刺繍の下絵を描き始めた。


 私はその様子を見ながら、胸が温かくなるのを感じていた。


 怖い知らせが来るかもしれない。


 また鐘が鳴るかもしれない。


 公爵家の使いが森の道に気づくかもしれない。


 それでも、今日の村にはアオジロウの芽があった。


 歌があった。


 皆で待ったものが、確かに形になった朝だった。


 私は記録板の端に、もう一つだけ書き加えた。


 待つことは、信じることに少し似ている。


 その文字を、サムが横から覗き込んだ。


「それも記録?」


「はい」


「気持ちの記録?」


「はい」


 サムは真剣に頷いた。


「大事」


 私は微笑んだ。


「はい。とても大事です」


 その日の第30話前半は、アオジロウの芽吹きと、それを喜ぶ村の声で満ちていた。


 けれど、森の外側では、消したはずの道を見つめる目があった。


 芽吹きと追跡。


 喜びと緊張。


 二つの時間が、同じ森を挟んで、静かに動き始めていた。

★★★


 アオジロウ発芽の知らせは、思っていたよりずっと大きく村に広がった。


 それは、ただ豆の芽が出たというだけの話ではなかった。


 森の畑。


 フローラ先生の畑。


 青豆一号の隣に作った第二の畝。


 みんなで名前をつけた、アオジロウ、ムラマル、モリタン。


 そのうちの一つが、ついに土を押し上げた。


 見えなかったものが、見えるようになった。


 待っていたものが、形になった。


 それが、村の人たちの胸を思った以上に温めたのだと思う。


 共同畑の前には、いつの間にか小さな人だかりができていた。


 子供たちはもちろん、畑仕事の手を止めた大人たちも、井戸へ水を汲みに来た女性たちも、パン屋の女性も、少しずつ集まってくる。


 誰も森の畑に直接行けるわけではない。


 今は警戒中で、子供たちを森へ連れていくことはできない。


 けれど、記録板がある。


 私の言葉がある。


 サムの読み上げがある。


 それだけでも、アオジロウの小さな芽は、村の広場に確かに届いていた。


「どのくらい小さいの?」


 エマが何度目かの質問をする。


 私は指先で大きさを示した。


「このくらいです。まだ土の間から少し顔を出しただけです」


「小さい!」


「はい。とても小さいです」


「でも出た!」


「はい。出ました」


 エマはそれだけでまた嬉しそうに笑う。


 ニコは両手を胸の前で握っていた。


「アオジロウ、頑張ったね」


「まだこれからです」


 私が言うと、ニコは真剣に頷いた。


「これからも見る」


「はい」


 ルルは共同畑の自分の豆を見てから、私の記録板を見た。


「ムラマルとモリタンは、まだ土の中?」


「はい」


「寂しくない?」


「近くにアオジロウがいますし、土の中で準備していると思います」


「そっか。じゃあ待つ」


 ルルは少し安心したように頷いた。


 トトは腕を組んで言う。


「でも、全部同時には出なかったな」


「予想が外れましたね」


「まだ分からない。今日中に出るかも」


「可能性はあります」


 トトは満足そうだった。


 サムは記録板の端に、子供たちの予想と結果を書き始めている。


 アオジロウ推し、エマ、リオ。


 発芽一番、アオジロウ。


 的中。


 サムは少しだけ悔しそうだった。


「ムラマルだと思ったのに」


「まだムラマルも出ます」


「うん。でも一番は外れた」


 その真面目な悔しがり方が、少し可愛かった。


 私は微笑む。


「予想が外れるのも、大切な記録です」


「なぜ?」


「次の予想を考える材料になります」


 サムはすぐに顔を上げた。


「なるほど」


「森の土では青豆二号が早かった。でも、次もそうとは限りません。何度も記録を取ることで、傾向が見えてきます」


「傾向」


「はい」


 サムの目が輝いた。


「続ける」


「お願いします」


 バルドさんが後ろで頷いていた。


「いい記録係になってきたな」


 サムの背筋がぴんと伸びる。


「はい!」


 その声に、周囲の大人たちが笑う。


 村の広場に、柔らかな空気が戻っていた。


 警戒はある。


 見張りは立っている。


 村長さんも、ガルドさんも、時々村の入口へ視線を向ける。


 それでも、アオジロウの発芽は、村に小さな灯りをともした。


 私はその灯りの中に立ちながら、胸の奥でそっと息を吐いた。


 怖い待ち時間に、楽しみを混ぜる。


 今日、その意味が少し分かった気がした。


 怖さは消えていない。


 公爵家の使いの存在は、村の外に確かにある。


 でも、今この瞬間、皆はアオジロウの芽を喜んでいる。


 その喜びは、怖さに負けていない。


 小さいけれど、確かにそこにある。


 パン屋の女性が、手をぱんと叩いた。


「じゃあ、せっかくだから小さいお祝いにしようかね」


 エマが跳ねる。


「お祝い!」


「走らない」


 エマの母親がすぐに言う。


 エマはその場で足踏みだけした。


「走ってない!」


「跳ねてる」


「嬉しいから!」


 周囲がまた笑う。


 パン屋の女性は私に向かって言った。


「フローラちゃん、今日は少し甘いパンを焼いてあるんだよ。昨日エマちゃんが言ってたでしょう? 怖い時には甘いものもいいって」


「はい」


「なら、芽が出た時にもいい」


「……はい」


 私は思わず笑った。


「とてもいいと思います」


 リオがすぐに反応した。


「甘いパン!」


 ミナが横から釘を刺す。


「一人一つです」


「まだ何も言ってない」


「顔が言ってました」


 リオは少し口を尖らせた。


 パン屋の女性が笑いながら、籠を持ってきた。


 小ぶりの丸パン。


 表面に薄く蜂蜜が塗られていて、少しだけつやつやしている。


 大きな祭りではない。


 机も飾りもない。


 ただ、広場の端で小さなパンを分けるだけ。


 けれど、村の人たちはそれを本当に嬉しそうに受け取った。


 エマは両手でパンを持ち、アオジロウの方角を向いた。


「アオジロウ、おめでとう!」


「ここからは見えませんが」


 私が言うと、エマは真剣に答えた。


「気持ちは届く」


 その言葉に、胸が温かくなった。


「そうですね」


 ニコもパンを持ち上げる。


「ムラマルとモリタンも、待ってるよ」


 ルルが頷く。


「ゆっくりでいいよ」


 トトは少し考えてから言った。


「でもできれば早めに」


「トト」


 ルルが睨む。


「だって見たいだろ」


「見たいけど、急かさない」


 双子のやり取りに、また笑いが起きた。


 私は蜂蜜の香りのするパンを受け取った。


 温かい。


 手のひらにじんわりと熱が広がる。


 私は一口食べた。


 甘い。


 優しい甘さだった。


 蜂蜜の香りと、小麦の香ばしさ。


 噛むたびに、少しずつ体の中に温かさが入っていく。


「美味しいです」


 私が言うと、パン屋の女性は満足そうに頷いた。


「そりゃよかった」


 ミナが隣で微笑んだ。


「フローラ、今日はよく笑っています」


「そうでしょうか」


「はい」


 私は少し照れた。


 けれど、否定はしなかった。


 確かに、今日は笑っている。


 アオジロウの芽が出たから。


 皆が喜んでくれたから。


 歌があったから。


 パンが甘かったから。


 怖さが消えたわけではないのに、笑っている。


 それは不思議で、少しありがたかった。


 リオがパンを食べながら言う。


「待つことは信じることに似てるって、さっき書いてたよな」


 私は驚いた。


「見ていたのですか」


「サムが読んでた」


 サムが少し得意そうに頷く。


「気持ちの記録」


 私は頬が少し熱くなるのを感じた。


「はい。そう書きました」


 リオはパンを飲み込み、少し真面目な顔になった。


「俺、待つの苦手だけどさ」


「はい」


「でも、アオジロウ出たの見たら、待つのも悪くないって思った」


「そうですか」


「うん。見えない時に掘らなかったから出たんだろ」


「はい」


「信じて待ったから、見られた」


 リオの言葉は、いつもまっすぐだ。


 少し雑で、少し不器用。


 でも、時々とても深いところに届く。


 私は小さく頷いた。


「はい。そうだと思います」


 ミナが静かに言った。


「人も、そうかもしれませんね」


「人も?」


 リオが首を傾げる。


 ミナは私を見る。


「すぐに答えが出なくても、見守って待つことで、少しずつ変わることがあります」


 私は胸に手を当てた。


 父様と母様のこと。


 公爵家のこと。


 帰りたくない気持ち。


 それでも案じていると言われて痛んだ心。


 その全部に、すぐ答えを出せない。


 でも、今決めなくていいとミナは言ってくれた。


 待つこと。


 掘り返さないこと。


 見守ること。


 それは畑だけでなく、私の心にも必要なのかもしれない。


「……はい」


 私は静かに答えた。


「すぐに掘り返さないことも、大事ですね」


 ミナは優しく頷いた。


 その時、広場の入口でガルドさんが村長さんに近づいた。


 短い報告。


 村長さんの表情は大きく変わらない。


 けれど、わずかに目が細くなった。


 私はその変化に気づいた。


 胸の奥が冷える。


 でも、すぐに立ち上がることはしなかった。


 鐘は鳴っていない。


 合図を見る。


 怖さだけで動かない。


 私は花守り布の刺繍に触れ、村長さんの方を見た。


 村長さんは私と目が合うと、小さく手で丸を作った。


 今は問題なし。


 私は息を吐いた。


 リオもそれを見ていたらしく、小声で言う。


「大丈夫」


「はい」


 ミナも頷く。


「合図を見られましたね」


「はい」


 少しずつ、本当に少しずつだが、私は怖さに飲まれすぎずにいられる時間が増えていた。


 もちろん、完全ではない。


 また公爵家の使いが目の前に現れたら、震えるだろう。


 声が出なくなるかもしれない。


 でも今は、合図を見られた。


 それだけでも、今日の私には十分だった。


 村長さんはしばらくしてから、私たちのところへ来た。


 子供たちには聞こえないよう、少し離れた木陰へ促される。


 リオ、ミナ、ガルドさん、バルドさんも一緒だ。


 甘いパンの温かさがまだ手に残っているのに、空気が少しだけ引き締まった。


「先ほどの報告だが」


 村長さんは低い声で言った。


「森の西側で、公爵家の使いの一人が獣道の痕跡を調べていたらしい」


 私は頷いた。


 昨日聞いた話の続きだ。


「道に気づかれたのですか」


「完全ではない。だが、何者かが道を消していることには気づいた可能性がある」


 胸が冷えた。


 リオが拳を握る。


 ミナが私の袖にそっと触れる。


 ガルドさんは続けた。


「昨夜、こちらで消した痕跡は村側と南側が中心でした。西側はフローラ殿の家からは遠いですが、森全体を探られると、いずれ近づく可能性があります」


「結界を広げますか」


 私はすぐに言った。


 だが、バルドさんが首を横に振った。


「広げすぎるな。目立つ」


「でも」


「今の段階で森全体を変えたら、逆に何かあるって知らせるようなもんだ」


 分かっている。


 強すぎる守りは目立つ。


 それは自分でも何度も言ってきた。


 けれど、危険が近づくと、どうしても強く守りたくなる。


 私は唇を引き結んだ。


「……はい」


 村長さんが静かに言う。


「焦るな」


「はい」


「今日、アオジロウが芽を出した。それは喜んでいい。だが、こちらの対策も次の段階へ進める」


「次の段階」


「森の家から一時的に離れる経路を、具体的に決める」


 胸がどきりとした。


 森の家から離れる。


 その言葉は、思った以上に重かった。


 私は森の家にいたい。


 あそこは、もうただの別邸ではない。


 私が暮らしを作った場所。


 青豆一号がある場所。


 アオジロウが芽を出した場所。


 ニコ鳥が机にいる場所。


 花守り布を畳む場所。


 そこから離れる。


 一時的にだと分かっていても、胸が痛む。


 ミナがすぐに私の表情に気づいた。


「フローラ」


「……離れるのは、嫌です」


 私は小さく言った。


 村長さんは頷いた。


「分かっている」


「でも、必要なら」


「必要になった時のために決めるだけだ。今すぐ離れるわけではない」


 今すぐではない。


 その言葉を胸に入れる。


 リオが言った。


「離れる時も、青豆一号たちはどうするんだ」


 それは私が聞きたかったことだった。


 バルドさんが答える。


「短い間なら畑は持つ。水と結界を調整すればいい」


「アオジロウは出たばっかだぞ」


「だからこそ、踏み荒らされるより隠す方がいい」


 リオは黙った。


 私も胸が詰まった。


 アオジロウが出た日に、離れる話をする。


 喜びと怖さが、本当に同じ日に混ざっている。


 私は両手を握った。


「もし離れる場合でも、畑を守る準備をします」


「そのための話だ」


 村長さんは地面に簡単な地図を描いた。


 森の家。


 村。


 小川。


 偽の道。


 地下倉庫。


 そして、森の奥にある一時避難場所。


 それは私が十歳の頃、一度だけ使った洞穴だった。


 雨宿りに使った場所。


 今は簡単な結界で隠しているが、生活の場としては使っていない。


 そこを一時的な避難場所に整える案が出た。


「洞穴なら、外から見つかりにくい」


 ガルドさんが言う。


「ただ、長くいるには向きません」


「一晩か二晩が限界だな」


 バルドさんが付け加える。


「村の地下倉庫は?」


 リオが聞く。


 村長さんは少し考える。


「村に使いが来ている時は難しい。だが、森側から危険が来るなら地下倉庫も選択肢だ」


 選択肢。


 森の洞穴。


 村の地下倉庫。


 森の家に留まる。


 どれも完璧ではない。


 けれど、選べる道があることは、少しだけ呼吸を助けてくれる。


 私は地図を見つめた。


「準備します」


「何を」


「洞穴の結界と、最低限の水と食料。森の家を離れても、数日は持つように」


 ミナが心配そうに言う。


「今日すぐにはしませんよね」


「はい。今日はしません」


 私は彼女を見て、ちゃんと答えた。


「今日はアオジロウの発芽記録を村に残して、早めに帰って休みます」


 ミナは少し安心したように微笑んだ。


「よかった」


 リオが言う。


「明日なら俺も手伝う」


「リオ兄さんはまず村長さんの許可を」


「分かってる」


 村長さんは短く頷いた。


「明日、状況を見て決める。今日は予定通り、フローラを早めに森へ戻す」


「はい」


 話し合いは短かった。


 けれど、その重みは残った。


 広場へ戻ると、子供たちはまだアオジロウの話をしていた。


 エマが「発芽記念日の歌」を作ろうとして、サムが「子守歌とは別に記録する」と言っている。


 リーナは芽の色の糸で小さな丸を縫う練習をしていた。


 ニコはムラマルに手紙を書く準備をしている。


 ルルはモリタンが寂しくないようにと、共同畑の自分の豆の前で何か小声で話していた。


 その光景を見た瞬間、胸の重さが少しだけ和らいだ。


 離れる準備をするかもしれない。


 森の家を一時的に出るかもしれない。


 その不安は大きい。


 けれど、村にはこの声がある。


 私が戻ってくる場所がある。


 森の家だけが、私の居場所ではなくなっている。


 そのことは、寂しさではなく、支えだった。


 エマが私に気づいた。


「フローラ先生! 発芽記念日の歌、いる?」


「今作るのですか」


「うん!」


 リオが横で笑う。


「エマなら作りそう」


 ミナも苦笑する。


「今日は短めにね」


 エマは胸を張った。


「じゃあ短いの!」


 彼女はその場で考え、歌うというより、リズムに乗せて言った。


 アオジロウ出たよ


 ちいさく出たよ


 土からこんにちは


 また明日


 子供たちが一瞬沈黙した。


 それから、トトが言った。


「短い」


 ルルが頷く。


「でも分かりやすい」


 サムが真面目に記録板に書き始める。


「発芽記念歌、一番」


「一番って何!?」


 エマが驚く。


「増える可能性がある」


「増やす!」


 広場に笑いが広がった。


 私は笑いながら、胸の奥で思った。


 また明日。


 その言葉が、とても大事だ。


 アオジロウ出たよ。


 土からこんにちは。


 また明日。


 どれだけ怖いことがあっても、また明日と言えるなら。


 その明日へ向かって、少し歩ける気がした。


 昼食は早めに済ませた。


 今日も甘いパンの残りが少し出た。


 リオは二つ目を狙ったが、ミナだけでなくパン屋の女性にも止められた。


「発芽祝いでも一人一つだよ」


「発芽祝いなのに」


「発芽祝いだから、みんなで分けるんだよ」


 リオは納得したような、していないような顔で頷いた。


 その様子に、また皆が笑った。


 食後、私はサムと一緒にアオジロウの発芽記録を整理した。


 発芽日。


 天候。


 朝の土の湿り。


 前日の水やり。


 発芽した豆の種類。


 観察者の気持ち。


 子供たちの反応。


 歌。


 パン。


 サムは最後の二つで少し迷った。


「歌とパンも記録?」


「迷いますね」


「畑の成長には関係ないかもしれない」


「でも、村の記録には関係あります」


 サムはしばらく考えた。


「じゃあ、畑記録と村記録に分ける」


「素晴らしいです」


 サムは嬉しそうに頷いた。


 畑記録。


 村記録。


 その発想は、とても大切だと思った。


 作物だけを見るのではない。


 それを見守る人たちも記録する。


 アオジロウの芽は小さい。


 でも、それが村に歌とパンと笑いを生んだ。


 それもまた、発芽の影響なのだ。


 私はサムと一緒に記録板を整えながら、胸の中が静かに満ちていくのを感じていた。


 森の西側。


 レナードたちは、まだ森の外にいた。


 ダンは獣道の痕跡を何度も確認していた。


 セイルは苛立ちを隠せず、木の幹に手を置いて森の奥を睨む。


「ここまで来て、入らないのですか」


 レナードは答えない。


 彼はダンの報告を待っていた。


 しばらくして、ダンが戻ってくる。


「道は三つに分かれているように見える」


「どれが本物だ」


「どれも不自然だ」


 セイルが眉をひそめた。


「どういう意味だ」


 ダンは淡々と言う。


「本物を隠すために、偽物を作っている可能性がある」


 セイルの目が鋭くなる。


「やはり」


 レナードは森を見つめた。


 偽の道。


 痕跡を消す手。


 森を知る者の仕業。


 ただの村人か。


 それとも、探している少女本人か。


 青い髪の少女。


 上級魔法を幼くして扱った神童。


 もし彼女が本当に森で生き延びているのなら。


 道を隠すことくらい、できても不思議ではない。


 レナードの胸に、ひとつの確信が生まれ始めていた。


 リーフェ村には、何かがある。


 森には、誰かがいる。


 そして、その誰かは見つかりたくない。


 セイルが低く言う。


「隊長。村へ戻り、強く問いただすべきです」


「まだだ」


「なぜです」


「確証がない」


「道を隠している時点で十分では」


「何を隠しているかが分からない。焦れば、相手はさらに奥へ逃げる」


 セイルは黙った。


 レナードは森の奥を見つめ続ける。


「今夜はここを離れる。明日、別の角度から見る」


「村へは」


「まだ入らない」


「では」


「相手が守りたいものを見つける」


 レナードの声は静かだった。


「人は、守りたいものの周りに痕跡を残す」


 風が吹いた。


 森の葉がざわめく。


 その奥に、アオジロウの芽を祝う歌があったことを、彼らは知らない。


 だが、守られている何かがあることには、確実に近づいていた。


 村では、夕方前に私が森へ戻る準備を始めた。


 今日は長居しない。


 村長さんとの約束だ。


 子供たちは少し寂しそうだったが、アオジロウ発芽の喜びがあるためか、昨日より受け入れてくれた。


 エマは発芽記念歌をもう一度歌ってくれた。


 アオジロウ出たよ


 ちいさく出たよ


 土からこんにちは


 また明日


「また明日、見てきてね!」


「はい」


「ムラマルとモリタンも!」


「はい」


 ニコが干し果物をまた一つ籠に入れる。


「アオジロウによろしく」


「伝えます」


 ルルは真剣な顔で言う。


「掘らないでね」


「もちろんです」


 サムは記録板の写しを私に渡してくれた。


「村記録、持って帰ってください」


「ありがとうございます」


 そこには、アオジロウ発芽日、歌、甘いパン、みんなの反応が丁寧に書かれていた。


 私はそれを大切に籠へ入れた。


 リーナは小さな緑の丸を刺繍した布片をくれた。


「まだ下絵だけど」


「とても綺麗です」


「アオジロウの芽」


「大切にします」


 リーナは嬉しそうに笑った。


 私は子供たち一人一人に手を振り、村を出た。


 帰り道は、いつも以上に慎重だった。


 リオ、ミナ、ガルドさん。


 そして今日はバルドさんも途中まで同行した。


 森の道を歩きながら、私は何度か振り返った。


 村の姿は木々に隠れて見えなくなる。


 でも、耳の奥にはまだ歌が残っていた。


 アオジロウ出たよ。


 土からこんにちは。


 また明日。


 また明日。


 その言葉が、今日の私を支えていた。


 森の家に着くと、私はすぐ第二の畝へ向かった。


 アオジロウは朝よりほんの少しだけ、土の上に出ていた。


 本当にわずかだ。


 けれど、確かに変化している。


 私はしゃがみ込み、村の記録板を見せるように畝の前に置いた。


「みんな、喜んでいました」


 小さな芽は答えない。


 でも、風が吹いて、土の表面がかすかに動いた。


「歌もできました」


 私は小さく笑い、エマの発芽記念歌を口ずさんだ。


 アオジロウ出たよ。


 ちいさく出たよ。


 土からこんにちは。


 また明日。


 歌い終えると、胸が少し熱くなった。


 また明日。


 私は明日も、この芽を見たい。


 ムラマルとモリタンの芽も見たい。


 村へ報告したい。


 それは未来への願いだった。


 公爵家の使いが近づいている。


 森の道に気づき始めている。


 それでも、私には明日見たいものがある。


 そのことが、こんなにも心を支えるのだと知った。


 夜。


 私は日記帳を開いた。


 今日、アオジロウの芽が出た。


 とても小さな芽だった。


 リオとミナが一緒に見てくれた。


 村へ知らせると、みんなとても喜んだ。


 エマが発芽記念歌を作った。


 パン屋さんが甘いパンを分けてくれた。


 サムが畑記録と村記録を分けることを思いついた。


 村長さんから、公爵家の使いたちが森の道を隠していることに気づき始めたかもしれないと聞いた。


 怖い。


 でも、今日は嬉しいことがたくさんあった。


 待つことは、信じることに少し似ている。


 私はペンを止めた。


 外は暗い。


 森の奥で何が動いているか分からない。


 でも、畑にはアオジロウの芽がある。


 机の上には、リーナの刺繍した緑の丸。


 サムの村記録。


 エマの絵。


 花守り布。


 怖さ以外のものが、今日も増えた。


 私は最後に書いた。


 アオジロウは、とても小さい。


 けれど、今日の村を明るくした。


 小さいものでも、誰かを支えることができる。


 なら、私の小さな勇気も、いつか何かを支えられるだろうか。


 日記帳を閉じる。


 暖炉の火が揺れる。


 私は窓の外へ目を向けた。


 夜の畑は見えない。


 でも、そこに芽があると知っている。


 見えなくても、ある。


 待っていれば、また朝が来る。


 私は小さく、エマの歌を口ずさんだ。


 森の葉っぱが眠るころ。


 小さな灯りも目を閉じる。


 声はまだ少し震えていた。


 でも、昨日より覚えていた。


 そして最後に、発芽記念歌も小さく歌った。


 土からこんにちは。


 また明日。


 また明日。


 その言葉を胸に、私は花守り布を畳み、灯りを落とした。


★★★★★


 アオジロウの芽が出た日、村の時間は少しだけ柔らかくなった。


 もちろん、警戒が解けたわけではない。


 村の入口には見張りが立っている。


 ガルドさんはいつもより長く村の外を見ている。


 村長さんの目も、時折森の方角へ向く。


 公爵家の使いが森の道に気づき始めているかもしれないという知らせは、私たちの胸の奥に冷たい影を落としていた。


 けれど、それでも。


 今日の村には、アオジロウの芽があった。


 実物は森の畑にある。


 村からは見えない。


 それでも、サムの記録板に書かれた「発芽確認」の文字と、私の説明と、エマの歌と、リーナの刺繍の下絵だけで、村の人たちはその小さな緑を想像していた。


「畑記録と村記録、分けます」


 サムが真剣な顔で宣言した。


 共同畑の前に座った彼の膝には、二枚の木板が置かれている。


 一枚は畑記録。


 発芽日、天候、土の湿り、葉の数、虫食い、成長の様子。


 もう一枚は村記録。


 歌、パン、名前会議、みんなの反応、発芽予想。


 私はその二枚を見て、胸が温かくなった。


「とても良いと思います」


「畑だけだと、今日のことが全部残らないから」


「はい」


「アオジロウが出た時、みんなが喜んだのも大事」


「とても大事です」


 サムはこくりと頷き、丁寧な字で書き始めた。


 発芽記念日。


 アオジロウ、最初の芽。


 歌あり。


 甘いパンあり。


 フローラ先生、非常に嬉しい。


 私は最後の一文を見て、少し頬が熱くなった。


「そこも残すのですね」


「気持ちの記録です」


 サムは真面目だった。


 私は小さく笑った。


「はい。大切な記録です」


 エマはその横で、発芽記念歌を完成させようとしていた。


「アオジロウ出たよ

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