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『青の姫君の森暮らし 〜化け物と恐れられた公爵令嬢は、今日も畑を耕します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第29話 青の姫君、子守歌を覚える


 朝、第二の畝に変化はなかった。


 アオジロウも、ムラマルも、モリタンも、まだ土の下にいる。


 畝の表面はしっとりと濡れ、朝の光を受けて静かに沈黙していた。


 私はしゃがみ込み、その静けさをしばらく見つめた。


「まだですね」


 声に出す。


 残念ではある。


 けれど、昨日ほど焦れた感じはしなかった。


 待つ時間にも少し慣れてきたのかもしれない。


 いや、慣れたというより、待つ時間の中に混ぜるものを覚え始めたのだと思う。


 エマの絵。


 リーナの芽の色の糸。


 ニコの干し果物。


 リオとミナの送迎。


 村の子供たちの発芽予想。


 そして今日、エマが教えてくれると言っていた村の子守歌。


 怖い待ち時間に、楽しみを混ぜる。


 それは、私にとって新しい魔法のようだった。


 攻撃魔法でも、防御魔法でも、結界でもない。


 心を完全に守ることはできないけれど、冷え切らないように火を足すような、小さな魔法。


 私は青豆一号も確認した。


 虫食いの葉は少し古びてきた。


 新しい葉は、もう青豆一号の中心になりつつある。


 最初はあんなに気になった穴が、今では成長の一部に見える。


 私は記録板に書いた。


 青豆一号、虫食い後十一日目。


 本葉、成長中。


 第二の畝、発芽なし。


 土の湿り、良好。


 観察者、今日は子守歌を習う予定。


 書きながら、少し口元が緩んだ。


 畑の記録に子守歌。


 昔の私なら、きっと変だと思っただろう。


 でも今は、変だとは思わない。


 畑と子守歌は、どちらも待つ時間に関係している。


 芽が出るのを待つ。


 夜が過ぎるのを待つ。


 怖さが少し薄れるのを待つ。


 誰かが眠れるように、そばで歌う。


 それは、畑を見ることと少し似ているのかもしれない。


 朝食を済ませ、花守り布を整えた頃、リオとミナが迎えに来た。


 今日はガルドさんも少し離れて同行している。


 村の外側の警戒は続いている。


 公爵家の使いたちは森の西側の宿に移動したという。


 すぐに村へ戻るわけではない。


 けれど、まだ近くにいる。


 その事実は、私の胸の奥に冷たい石のように残っていた。


「おはよう、フローラ」


「おはようございます」


 リオは私の顔を見て、少し首を傾げた。


「今日は、昨日より顔がまし」


「まし」


 ミナがすぐに眉を寄せる。


「リオ兄さん、言い方」


「え、悪い意味じゃないぞ。昨日より眠れた顔ってこと」


「それなら最初からそう言って」


 私は小さく笑った。


「大丈夫です。意味は伝わりました」


 リオはほっとした顔をする。


「アオジロウは?」


「まだです」


「そっか。今日も待つ時間だな」


「はい」


 ミナが微笑む。


「今日は歌の時間もありますね」


「はい。少し楽しみです」


 そう言うと、ミナは嬉しそうに頷いた。


 森の道を歩く。


 小川沿いの道。


 薬草の目印。


 偽の道。


 昨日より、私は少し周囲を見られるようになっていた。


 怖さが消えたわけではない。


 けれど、ただ怯えて俯いて歩くのではなく、木の色や草の形も目に入る。


 小川の水音。


 リオの足音。


 ミナの布が擦れる音。


 ガルドさんが少し後ろで枝を踏まないよう歩く気配。


 それらを聞き分けながら、私は思った。


 私は今、森の音を覚えている。


 もし知らない足音が混ざれば、きっと気づける。


 それは怖いことでもあるけれど、守るための力でもある。


 村に着くと、今日も入口には見張りがいた。


 若者が私たちを見るなり、手で丸を作る。


 異常なし。


 私は同じように小さく頷いた。


 広場には、いつもの朝の匂いがあった。


 パン。


 湿った土。


 井戸の水。


 子供たちの声。


 共同畑の前では、エマがそわそわしながら待っていた。


 私を見ると、ぱっと顔を明るくする。


「フローラ先生! 歌、教えるね!」


 畑より先にその話だった。


 私は少し笑う。


「まず豆を見てからでもいいですか」


「あ、そうだった!」


 エマは慌てて共同畑へ戻る。


 ニコが小さく笑った。


「エマ、ずっと歌の練習してた」


「そうなのですか」


「うん。朝から」


 リーナも頷く。


「小さい声で歌う練習」


「大きい声だと子守歌じゃないって、お母さんに言われてた」


 トトが言うと、エマが振り返って頬を膨らませる。


「ちゃんと小さく歌えるもん!」


 そのやり取りに、周囲の大人たちも笑っている。


 私は胸の奥が温かくなった。


 公爵家の使いが近くにいる。


 それでも、エマは子守歌を教える練習をしてくれていた。


 怖い待ち時間に混ぜるための歌を。


 観察はいつも通り行った。


 マメタは元気。


 ニコ豆も順調。


 リオ豆は少し背が伸び、リオは見守り線の外から満足そうに見ている。


 ルルの豆は、傷んだ葉が少し黄色くなり始めた。


 ルルはそれをじっと見た。


「これ、取る?」


「まだ自然に取れるまでは待ちましょう」


「枯れたら?」


「その時は、茎を傷つけないように取ります」


「分かった」


 ルルは少し寂しそうだったが、泣かなかった。


「傷の葉、頑張ったねって言う」


「はい。とても良いと思います」


 ルルは葉に向かって小さく言った。


「頑張ったね」


 その声は、誰かを見送る時のように優しかった。


 私は胸が少し詰まった。


 傷んだものを無理に消さず、役目を終えるまで見守る。


 それもまた、畑が教えてくれることだった。


 観察が終わると、エマが待ちきれない様子で私の前に立った。


「歌、いい?」


「はい。お願いします」


 子供たちも集まる。


 大人たちも、少し離れて耳を傾ける。


 エマの母親が広場の端で微笑んでいた。


 エマは少し緊張したように胸の前で手を握り、深呼吸をした。


 いつもの元気な声ではなく、少し抑えた柔らかい声で歌い始める。


 森の葉っぱが眠るころ


 小さな灯りも目を閉じる


 風よ静かに通りゃんせ


 夢の小道を通りゃんせ


 短い歌だった。


 旋律は単純で、ゆっくりしている。


 けれど、胸の奥にすっと入ってくるような優しさがあった。


 私は何も言えずに聞いていた。


 森の葉っぱが眠るころ。


 小さな灯りも目を閉じる。


 風よ静かに通りゃんせ。


 夢の小道を通りゃんせ。


 その歌は、王都で習った音楽とはまったく違った。


 技巧はない。


 華やかでもない。


 けれど、誰かを眠らせるためにある歌だった。


 誰かの夜を少し怖くなくするための歌。


 エマは歌い終えると、不安そうに私を見た。


「どう?」


 私はすぐに答えられなかった。


 喉の奥が詰まっていた。


「……とても、優しい歌です」


 ようやく言うと、エマの顔がぱっと明るくなる。


「ほんと?」


「はい」


「覚えられそう?」


「少しずつ」


「じゃあ一緒に!」


 エマはもう一度歌い始めた。


 今度は、子供たちも小さく加わる。


 ミナも。


 リオは最初は照れていたが、途中から低い声で少しだけ混ざった。


 村の広場に、小さな子守歌が流れる。


 パンの匂い。


 土の匂い。


 風の音。


 遠くで鶏が鳴く声。


 それらの中に、歌がゆっくり溶けていく。


 私は一節ずつ、音をなぞった。


 森の葉っぱが眠るころ。


 小さな灯りも目を閉じる。


 声は少し震えた。


 でも、歌えた。


 エマが嬉しそうに頷く。


「できてる!」


「まだ下手です」


「大丈夫! 子守歌は上手じゃなくてもいいって、お母さんが言ってた」


 その言葉に、私は驚いた。


「上手でなくてもいいのですか」


「うん。そばにいるよって歌だから」


 そばにいるよって歌。


 胸が熱くなった。


 私は歌を、上手に歌うものだと思っていた。


 音を外さず、発声を整え、聞く人に美しいと思わせるもの。


 でも、この子守歌は違う。


 そばにいると伝えるための歌。


 怖い夜に、一人ではないと知らせるための歌。


 私は花守り布の端に触れた。


 また一つ、守る工夫を教わった。


「では、私も覚えたいです」


「教える!」


 エマは嬉しそうに胸を張った。


 その日の授業は、自然と「歌と待つ時間」の話になった。


 私は木板に書く。


 怖い待ち時間に混ぜるもの。


 歌。


 手を繋ぐ。


 温かいお茶。


 誰かと話す。


 豆を見る。


 記録を書く。


 パンを食べる。


 リオが満足そうに頷く。


「パン、大事」


「はい。大事です」


 ミナが笑う。


「リオ兄さんはずっとそこですね」


「でも、食べると落ち着くぞ」


 ニコが頷く。


「僕も」


 ルルも言う。


「甘いのだと、もっと落ち着く」


 パン屋の女性が遠くから笑う。


「じゃあ今度、少し甘いパンを焼こうかね」


 子供たちが歓声を上げる。


 その声の中で、私は思った。


 守るとは、剣を持つことだけではない。


 結界を張ることだけでもない。


 歌うこと。


 食べること。


 手を繋ぐこと。


 記録すること。


 笑うこと。


 そうやって心が冷え切らないようにすることも、守ることなのだ。


 昼前、村長さんが広場へ来た。


 表情は落ち着いているが、目は真剣だった。


 私はすぐに気づいた。


 何か知らせがある。


 リオも体を固くした。


 ミナが私の横に寄る。


 村長さんは子供たちには聞こえない距離で、私たちに声をかけた。


「フローラ、少し」


「はい」


 村長の家の横へ移動する。


 ガルドさんもいた。


 バルドさんも腕を組んで立っている。


 村長さんは低い声で言った。


「森の西側で、使いたちらしき者が獣道を調べていたという報告があった」


 胸が冷える。


 私は花守り布を握った。


「森に入ったのですか」


「深くはない。外縁だけだ。地元の猟師に道を尋ねていたらしい」


 ガルドさんが続ける。


「今のところ、こちらの隠し道には近づいていません」


 少しだけ息が戻る。


 だが、近づいている。


 確実に。


 バルドさんが言う。


「森を甘く見てるうちはいい。だが、斥候役がいるならそのうち気づく道もある」


「対策は?」


 リオが低く聞いた。


「今夜、森の西側に追加の目印消しをする」


 ガルドさんが答える。


「フローラ殿は来なくていい」


 私は顔を上げた。


「でも、森の結界は」


「西側はあなたの家から遠い。結界範囲外です。危険が高い」


「ですが」


 言いかけた私を、ミナがそっと止めた。


「フローラ」


 その声だけで、私は口を閉じた。


 無理をしない。


 自分を道具にしない。


 何度も言われていることだ。


 村長さんも静かに言った。


「君が動くべき時はある。だが今日は違う」


「……はい」


 悔しさが少しあった。


 自分ならできることがあるのに、動けない。


 でも、今動けば目立つ。


 疲れる。


 危険が増す。


 それも分かっている。


 私は拳を握り、ゆっくり開いた。


「分かりました。私は森の家の結界を確認します。外には出ません」


「それでいい」


 村長さんは頷いた。


 リオが言う。


「俺は?」


「お前はフローラを送る」


「……分かった」


 リオは少し不満そうだったが、昨日より納得が早い。


 ミナが小さく言う。


「大事な役目」


「分かってる」


 リオは頷いた。


 広場へ戻ると、エマがすぐに駆け寄ってきた。


「フローラ先生、歌の続きやる?」


 私は一瞬、胸の冷たさを隠せなかったかもしれない。


 エマが心配そうに顔を覗き込む。


「怖い知らせ?」


 子供は鋭い。


 私は少ししゃがみ、エマと目を合わせた。


「少し怖い知らせです。でも、今すぐ村に来るという話ではありません」


「歌う?」


 エマは真剣だった。


 私は少し驚き、それから頷いた。


「はい。少し、歌いたいです」


 エマは大きく頷き、私の手を取った。


 広場の端。


 共同畑の近く。


 子供たちが集まり、エマが小さく歌い始める。


 森の葉っぱが眠るころ


 小さな灯りも目を閉じる


 風よ静かに通りゃんせ


 夢の小道を通りゃんせ


 私も続いた。


 声はまだ震えている。


 音も少し外れた。


 でも、誰も笑わなかった。


 ミナが隣で歌い、リオが少し後ろで低く合わせる。


 子供たちの声が重なる。


 村の広場に、小さな歌がまた流れた。


 怖い知らせは消えない。


 使いたちは森の西側を調べている。


 でも、その怖さに歌が混ざる。


 温かい声が混ざる。


 私は歌いながら、少しだけ息がしやすくなるのを感じた。


 昼食後、私は早めに森へ帰ることになった。


 エマは「歌、忘れないでね」と言い、ニコは干し果物をまた一つくれた。


 ルルは「怖かったら歌う」と言った。


 リーナは芽の色の糸をもう一本くれた。


「これは、歌の色」


「歌の色?」


「うん。薄い黄色」


 私はその糸を受け取った。


「ありがとうございます。とても温かい色です」


 リーナは嬉しそうに笑った。


 森へ帰る道中、私は小さく子守歌を口ずさんだ。


 まだ覚えきれていない。


 途中で歌詞が曖昧になる。


 するとミナが小さく続きを歌ってくれる。


 リオも、照れながら少しだけ合わせる。


 ガルドさんは歌わないが、足取りを私たちに合わせてくれた。


 森の道に、歌が落ちる。


 怖い森ではなく、帰り道の森になる。


 家に着くと、私は第二の畝を見た。


 まだ発芽なし。


 でも、今日はその沈黙が少しだけ優しく感じた。


 私は畝の前で、エマに教わった歌をもう一度小さく歌った。


 森の葉っぱが眠るころ


 小さな灯りも目を閉じる


 風よ静かに通りゃんせ


 夢の小道を通りゃんせ


 歌い終えると、風が畑を撫でた。


 土の表面がほんの少しだけ乾き始めている。


 私は水を少しだけ与えた。


 やりすぎない。


 待つ。


 守る。


 歌う。


 夜、日記帳を開く。


 今日、エマに村の子守歌を教わった。


 子守歌は、上手に歌うものではなく、そばにいるよと伝える歌らしい。


 私は少し歌えた。


 怖い知らせもあった。


 公爵家の使いたちは、森の西側の獣道を調べているらしい。


 私は動きたかったが、今日は動かない方がいいと言われた。


 自分を道具にしない練習は、まだ難しい。


 でも、歌ったら少し息ができた。


 リーナが歌の色の糸をくれた。


 薄い黄色。


 私はペンを止めた。


 机の上に、薄い黄色の糸を置く。


 芽の色の糸の隣に。


 緑と黄色。


 怖い待ち時間に混ぜる色が増えた。


 私は最後に書いた。


 今日は、怖さに歌を混ぜた。


 怖さは消えなかった。


 でも、歌があると、怖さだけではなくなった。


 日記帳を閉じる。


 外の森は暗い。


 西側のどこかで、公爵家の使いたちが道を探っているかもしれない。


 村の男たちが今夜、森の外縁を見に行く。


 私は家に残る。


 何もできないわけではない。


 結界を確認し、畑を見る。


 そして、歌を覚える。


 私は暖炉の前で、もう一度小さく歌った。


 森の葉っぱが眠るころ。


 小さな灯りも目を閉じる。


 声はまだ不安定だった。


 でも、私の家の中に、確かに歌が生まれた。


 捨てられた森の家に。


 一人で眠っていた夜の多かったこの家に。


 誰かがそばにいると伝えるための歌が。


 私はそれを聞きながら、花守り布を畳み、ニコ鳥の隣に置いた。


「おやすみなさい」


 今日は、青豆一号だけでなく。


 アオジロウたちにも。


 村にも。


 森にも。


 そして、まだ震えている自分にも。


 そう言った。

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