第28話 青の姫君、芽吹きの前夜に耳を澄ます
翌朝、アオジロウはまだ芽を出していなかった。
ムラマルも、モリタンも同じだった。
第二の畝は静かだった。
土の表面は朝露で少し濡れ、やわらかな森の光を受けて黒く艶めいている。
私はしゃがみ込み、しばらくその静かな畝を見つめた。
見えない。
まだ何も見えない。
けれど、そこには確かに豆がある。
土の下で水を吸い、少しずつ膨らみ、芽吹きの準備をしているはずだ。
私はエマの描いた三つの緑色の丸を思い出した。
アオジロウ。
ムラマル。
モリタン。
あの単純な丸は、まだ見えない未来の形だった。
怖い待ち時間に、楽しみな待ち時間を混ぜる。
エマが言った言葉。
子供の言葉なのに、私の胸の奥に深く残っている。
私は花守り布の刺繍に触れ、小さく息を吸った。
「おはようございます」
青豆一号にも、第二の畝にも声をかける。
青豆一号は本葉を少し広げ、虫食いの葉と一緒に朝の風を受けていた。
第二の畝は沈黙している。
でも、その沈黙は何もない沈黙ではない。
準備している沈黙。
そう思うことにした。
記録板に書く。
青豆一号、虫食い後十日目。
本葉、安定。
第二の畝、発芽なし。
土の湿り、良好。
観察者、怖い待ち時間に楽しみを混ぜる練習中。
書いた後、少しだけ苦笑した。
練習中。
本当にそうだ。
私はまだ上手ではない。
公爵家の使いが森に入る道を探しているかもしれない。
そう思うだけで、胸の奥は冷たくなる。
夜に物音がすると、体が強張る。
風で枝が揺れただけでも、結界に意識を伸ばしてしまう。
けれど、そのたびに机の上のエマの絵を見る。
リーナの芽の色の糸を見る。
ニコ鳥を見る。
花守り布を見る。
そして第二の畝を思い出す。
怖いものだけを待たない。
芽吹きも待つ。
それは簡単ではないけれど、少しだけ息を助けてくれた。
朝食を終える頃、結界に気配が触れた。
リオ、ミナ、ガルドさん。
今日はバルドさんはいない。
村側の外縁を見ているのだろう。
私は玄関を開けた。
「おはよう、フローラ」
リオの声はいつもより少し低かった。
元気がないわけではない。
けれど、警戒が混ざっている。
ミナも私の顔を見て、すぐに目元を確認した。
「眠れましたか?」
「少し浅かったですが、眠れました」
「それならよかったです」
ガルドさんは森の奥を確認してから言った。
「夜間、村側では異常なしです。ただ、街道側の見張りからは、使いたちらしい一行がまだ周辺にいるとのことでした」
私は頷いた。
胸が冷える。
でも、足は動いた。
「分かりました」
リオがすぐに言う。
「今日は村、行けそうか?」
「はい。行きたいです」
「無理は?」
「少し怖いですが、行きたいです」
ミナが頷いた。
「なら、短めにしましょう」
「はい」
リオは第二の畝を覗き込んだ。
「アオジロウは?」
「まだです」
「まだかあ」
リオはエマと同じように言って、少し笑った。
「みんな、がっかりするな」
「待つ時間です」
「だな」
彼は少ししゃがみ、畝をじっと見た。
以前なら近づきすぎていたはずだが、今は自然に距離を取っている。
私はその横顔を見て、少し嬉しくなった。
「リオは、本当に距離を覚えましたね」
「信用されてるからな」
「はい」
ミナが小さく笑う。
「それ、今日も言うんですね」
「大事だから」
リオは真剣だった。
村へ向かう道は、今日も小川沿いを使った。
足跡を残さないため。
森の中には、昨日より少しだけ緊張があった。
実際に何かがいるわけではない。
でも、私たち全員が耳を澄ませている。
枝が折れる音。
鳥が急に飛び立つ音。
遠くの獣の気配。
それらを一つ一つ確かめながら進む。
リオは何度か薬草の目印を確認した。
「これが本当の道」
「はい」
「で、あっちは偽の道」
「はい」
「覚えてる」
「素晴らしいです」
リオは少し誇らしそうだった。
ガルドさんも頷く。
「リオ、今日はよく見ていますね」
「大事な役目だからな」
その言葉に、私は胸が温かくなった。
村長さんに言われた「フローラの送迎」という役目を、彼は本当に大事にしてくれている。
村に着くと、広場にはいつもの生活音があった。
ただ、見張りは増えている。
村の入口だけでなく、森側の小道にも一人立っている。
大人たちは表情を明るく保っているが、目は周囲を見ている。
それでも、パンの匂いはする。
水桶の音もする。
子供たちの声もある。
共同畑の前で、エマが私を見つけた。
「フローラ先生! アオジロウ出た!?」
「まだです」
「まだかあ!」
昨日と同じ声。
けれど、その声に周囲の大人たちが少し笑った。
怖い待ち時間に、楽しみな待ち時間を混ぜる。
エマは自分で言ったことを、自然に実践しているのかもしれない。
ニコが言う。
「ムラマルも?」
「まだです」
「モリタンも?」
「まだです」
「みんな待つ時間」
「はい」
ルルが腕を組む。
「掘っちゃだめ」
「はい。絶対に」
トトが小声で言う。
「ちょっと見たいけど」
「見たい気持ちは分かります」
私は頷いた。
「でも、見たいからこそ、壊さないように待ちます」
子供たちは真剣に頷いた。
今日の共同畑の観察も、落ち着いて進んだ。
マメタは葉がまた少し増えていた。
エマはそれを見て「マメタ、兄さんになった」と言った。
何の兄なのかは分からない。
ニコ豆は少し曲がっているが元気。
サムは角度まで測ろうとして、バルドさんがいないのに「やりすぎるな」と自分で呟いていた。
ルルの豆は新しい葉がさらに広がり、傷んだ葉との違いがはっきりしてきた。
ルルはその二つを見比べて言った。
「傷の葉も、まだついてる」
「はい」
「落とさないの?」
「今はまだ残しておきます。自然に枯れたら取ることもありますが、無理に取ると茎を傷つけることがあります」
「じゃあ、無理に取らない」
「はい」
ルルは頷いた。
「傷があるままでもいいんだね」
私は少し胸を押さえた。
「はい。傷があるままでも、育ちます」
ルルは自分の豆を見て、静かに笑った。
その横で、リーナが小さく言う。
「傷の葉の色も、刺繍できるかな」
「できますか」
「うん。少し茶色と緑を混ぜる」
リーナは最近、気持ちや変化を刺繍の色で考えるようになっている。
怖い色。
芽の色。
傷の葉の色。
彼女の中で、畑の出来事が糸になっていく。
私はそれがとても素敵だと思った。
授業では、昨日に続いて「待つ時間」を扱った。
今日は少しだけ、具体的に記録することにした。
木板を三つに分ける。
一つ目、楽しみな待ち時間。
二つ目、怖い待ち時間。
三つ目、どちらでもない待ち時間。
「どちらでもない待ち時間って何?」
エマが聞く。
「たとえば、お湯が沸くのを待つ時間や、パンが焼けるのを待つ時間です。楽しみな場合もありますが、毎日のことなので落ち着いて待てることもあります」
パン屋の女性が遠くから笑う。
「パンが焼けるのは楽しみな待ち時間だろう?」
リオがすぐ言った。
「俺は楽しみ」
「リオは食べ物なら何でも楽しみでしょう」
ミナの言葉に子供たちが笑う。
私は木板に書いた。
リオにとって、パンが焼ける時間は楽しみな待ち時間。
リオが満足そうに頷く。
ニコは「母さんが帰ってくるまでの時間」を少し怖い待ち時間に入れた。
ルルは「虫がまた来ないか見る時間」を怖いけど大事な待ち時間と言った。
サムは「記録がたまるのを待つ時間」は楽しみな待ち時間。
リーナは「刺繍の糸を選ぶ時間」は静かな待ち時間。
エマは「アオジロウが出るのを待つ時間」はすごく楽しみな待ち時間。
そして私の番が来た。
子供たちがこちらを見る。
私は花守り布の刺繍に触れた。
「私は、公爵家の使いがまた来るかもしれない時間を、怖い待ち時間として感じています」
広場が少し静かになる。
でも、誰も目を逸らさない。
「アオジロウたちが芽を出す時間を、楽しみな待ち時間として感じています」
エマが真剣に頷く。
「混ぜるやつ」
「はい。混ぜるやつです」
子供たちが少し笑った。
その笑いが、重くなりかけた空気を軽くする。
私は続けた。
「そして、村のみんなとこうして畑を見る時間は、落ち着く待ち時間です」
ミナが優しく微笑んだ。
リオは少し照れたように顔を逸らす。
村の大人たちも、静かに聞いてくれていた。
「待つことは、何もしないことではありません」
私は木板に書く。
待つ間に見る。
待つ間に記録する。
待つ間に準備する。
待つ間に誰かと話す。
待つ間にパンを食べる。
リオが嬉しそうに言う。
「最後大事」
「大事です」
私は真面目に頷いた。
子供たちが笑った。
その時、村の入口側でガルドさんが誰かと話しているのが見えた。
私の体が少し強張る。
鐘は鳴っていない。
見張りの若者も慌てていない。
それでも、胸が冷たくなる。
リオがすぐに気づいた。
「大丈夫。鐘は鳴ってない」
「はい」
ミナも小声で言う。
「合図を見ましょう」
「はい」
私はガルドさんの動きを見た。
彼は村長さんに短く伝言し、こちらへ視線を向けた。
そして、手で小さく丸を作った。
問題なし。
私は息を吐いた。
子供たちもそれを見ていた。
サムが言う。
「合図を見てから動く」
「はい」
私は頷いた。
「今、できました」
ニコがほっとした顔で言う。
「怖い待ち時間、少し短かった?」
「はい。合図があったので」
待つ時間は、情報で変わる。
合図があれば、怖さは少し小さくなる。
それも、今日の記録に入れていいかもしれない。
昼食前、村長さんから短い知らせがあった。
先ほどの伝言は、街道の見張りからのものだった。
公爵家の使いと思われる三人は、森の西側の宿に移動したらしい。
リーフェ村へ向かっているわけではない。
ただ、森を回り込むように動いている。
村長さんは静かに言った。
「焦る必要はない。だが警戒は続ける」
私は頷いた。
「はい」
「今日の帰りも、昨日と同じく小川沿いだ」
「分かりました」
リオが当然のように言う。
「俺が送る」
ミナも頷く。
「私も」
村長さんは二人を見て、少しだけ表情を和らげた。
「頼む」
昼食は広場で取った。
いつもより少し早めに。
今日のスープは根菜が多く、体が温まった。
パン屋の女性が焼いたパンは、外側が少し硬く、中は柔らかい。
リオはまた二つ目を狙い、ミナに止められた。
いつものやり取り。
でも、そのいつものやり取りがあることで、私の胸は少し落ち着いた。
食事の途中、エマが私の隣に座った。
「フローラ先生」
「はい」
「怖い待ち時間の時、歌ったらどう?」
「歌、ですか」
「うん。私、夜怖い時、お母さんが歌ってくれると少し平気」
私は少し考えた。
歌。
屋敷では音楽教育も受けた。
歌も習った。
けれど、誰かに安心してもらうために歌うという感覚は、あまりなかった。
音程。
発声。
貴族らしい優雅さ。
そういうものばかりだった。
「私は、あまり歌ったことがありません」
「そうなの?」
「習ったことはあります。でも、怖い時に歌う歌は知りません」
エマは驚いた顔をした。
「じゃあ、教える!」
「エマが?」
「うん。村の子守歌」
ミナが横で微笑む。
「いいですね」
リオも言う。
「エマの歌、声でかいけどな」
「子守歌だから小さく歌うもん!」
エマは頬を膨らませた。
私は少し笑った。
「では、今度教えてください」
「うん!」
怖い待ち時間に歌を混ぜる。
それも、ひとつの守る工夫かもしれない。
午後は短く、森の第二の畝の発芽予想を記録した。
アオジロウはエマとリオが一番推し。
ムラマルはニコとサムが推した。
モリタンはリーナとルルが推した。
トトは全部同時に出ると言った。
その予想を記録板に書くと、子供たちは大いに盛り上がった。
怖さが完全に消えたわけではない。
でも、発芽予想の話をしている間、広場には確かに楽しみがあった。
夕方になる前に、私は森へ帰ることになった。
今日は無理をしない。
子供たちは不満そうだったが、昨日よりは納得していた。
エマが小さく歌を口ずさみながら手を振る。
歌詞はまだ聞き取れない。
でも、柔らかな旋律だった。
「今度、教えるね!」
「はい。楽しみにしています」
ニコが干し果物を一つくれた。
ルルは「怖かったら歌うんだよ」と言った。
私は頷いた。
「はい」
帰り道、私はミナに聞いた。
「村の子守歌は、みんな知っているのですか」
「だいたいは。私も母に歌ってもらいました」
「リオも?」
リオは少し恥ずかしそうにした。
「昔はな」
「今は?」
「今は歌われないだろ」
ミナがくすっと笑う。
「リオ兄さん、昔はすぐ寝てたよ」
「覚えてない」
「私は覚えてる」
兄妹の会話を聞きながら、私は少し羨ましくなった。
母様も、昔は歌ってくれただろうか。
思い出そうとする。
薄い記憶の中に、母様の声がある気がした。
寝台の横。
空色の髪を撫でる手。
遠くで聞こえるような歌。
けれど、はっきりとは思い出せない。
胸が少し痛んだ。
ミナが気づく。
「フローラ?」
「少し、母様のことを思い出そうとしました」
「つらいですか」
「少し。でも、嫌ではありません」
リオが静かに言う。
「今、決めなくていいやつだな」
私はリオを見た。
彼は少し照れたように目を逸らした。
「ミナがよく言うだろ」
ミナは優しく笑った。
「そうですね。今、決めなくていいです」
「はい」
私は頷いた。
思い出せない母様の歌。
それも、今すぐ答えを出さなくていい。
怖い記憶の中にも、温かい記憶が混ざっている。
それをどう扱うか、まだ分からない。
でも、エマが村の子守歌を教えてくれると言った。
新しい歌を覚えたら、古い歌の痛みも少し変わるだろうか。
森の家に着くと、私は第二の畝を見た。
まだ発芽なし。
土は静か。
でも、今日はその静けさに少しだけ歌の気配を感じた。
エマの声。
村の子守歌。
怖い待ち時間に混ぜる、また一つの楽しみ。
「明日も待ちます」
私は畝に向かって言った。
リオが隣で頷く。
「明日こそ出るかもな」
「まだ早いと思います」
「でも、楽しみに待つのはいいだろ」
「はい」
ミナが微笑む。
「楽しみな待ち時間ですね」
「はい」
夜。
私は日記帳を開いた。
今日もアオジロウたちは芽を出さなかった。
子供たちと待つ時間の種類を記録した。
怖い待ち時間。
楽しみな待ち時間。
落ち着く待ち時間。
合図があると、怖い待ち時間は少し短く感じる。
エマが、怖い時は歌うといいと言った。
村の子守歌を教えてくれるらしい。
公爵家の使いは森の西側の宿に移動した。
まだ近くにいる。
怖い。
でも、歌を待つ楽しみも増えた。
私はペンを止めた。
机の上には、エマの緑の丸の絵。
リーナの芽の色の糸。
ニコ鳥。
花守り布。
今日はそこに、ニコからもらった干し果物も一つ置いた。
小さなものばかりだ。
でも、怖い待ち時間を少しずつ薄めてくれる。
私は最後に書いた。
怖いものを待つ時間に、豆と歌を混ぜる。
それは子供っぽい方法かもしれない。
でも、今の私にはとても必要だ。
日記帳を閉じる。
外の森は暗い。
公爵家の使いは、どこかで森への道を探しているかもしれない。
でも、土の中ではアオジロウたちが準備をしている。
村ではエマが子守歌を覚えている。
リーナは芽の色の糸を選んでいるかもしれない。
私は暖炉の火を見つめながら、小さく息を吐いた。
「明日も、待ちます」
怖くても。
楽しみを混ぜながら。
誰かと一緒に。
そして、いつか芽が出るその時を、見落とさないように。




