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『青の姫君の森暮らし 〜化け物と恐れられた公爵令嬢は、今日も畑を耕します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第27話 青の姫君、待つ時間の色を知る



 朝、私はいつもより早く畑へ出た。


 まだ空は白み始めたばかりで、森の奥には夜の色が残っている。


 木々の幹は黒く、葉の輪郭は薄い霧に溶けていた。


 鳥たちもまだ本格的には鳴いていない。


 世界全体が、息を潜めているような朝だった。


 私は花守り布をかぶり、籠を持たずに畑へ向かった。


 まず青豆一号。


 それから第二の畝。


 アオジロウ、ムラマル、モリタン。


 まだ芽が出るには早い。


 分かっている。


 昨日植えたばかりではないにしても、発芽にはもう少し時間が必要だ。


 分かっているのに、私は土の表面を見ずにはいられなかった。


 土は静かだった。


 小さな盛り上がりもない。


 割れ目もない。


 ただ、柔らかく整えられた畝が、朝露をまとっている。


 私はしゃがみ込む。


「まだですね」


 当たり前のことを言う。


 返事はない。


 土は黙っている。


 けれど、その下ではきっと何かが始まっている。


 豆が水を吸い、膨らみ、皮の内側で小さな変化を起こしている。


 見えないところで。


 静かに。


 誰にも分からない速さで。


 私はその土を見つめながら、昨日の日記に書いた言葉を思い出した。


 見えないものには、怖いものもある。


 楽しみに待てるものもある。


 今、私の前には二つの見えないものがあった。


 一つは、土の中の豆。


 アオジロウたちが芽を出す未来。


 もう一つは、森の外縁を探っているかもしれない公爵家の使い。


 彼らが再び村へ来る未来。


 同じ「まだ見えないもの」なのに、胸に落ちる色が違う。


 豆を待つ時間は、少しそわそわして、少し温かい。


 公爵家の使いを待つ時間は、冷たくて、息が浅くなる。


 どちらも、待つ時間。


 けれど、まったく違う。


「待つ時間にも、色があるのですね」


 私は小さく呟いた。


 青豆一号の葉が、近くで揺れた。


 虫食いの穴がある葉。


 新しく開いた葉。


 朝露が葉脈に沿って光っている。


 青豆一号は、もう「待つだけ」の段階を越え、毎日少しずつ見える変化をくれる。


 その姿が、今朝も私を落ち着かせてくれた。


 私は記録板を取り出した。


 青豆一号、虫食い後九日目。


 本葉、安定。


 茎、やや強化。


 第二の畝、発芽なし。


 土中変化を待つ。


 観察者、待つ時間の違いを考える。


 書き終えてから、少し首を傾げた。


 ますます畑の記録ではなくなっている。


 でも、これでいい。


 あとでサムに見せたら、彼はどう反応するだろう。


 「観察者の気持ちも記録に含めるべきです」と言うかもしれない。


 それとも「畑の項目と気持ちの項目は分けた方がいい」と言うかもしれない。


 想像すると、少し笑えた。


 朝食を済ませる頃、結界の外に気配が触れた。


 今日はリオとミナだけではない。


 ガルドさんと、バルドさんもいる。


 足音は慎重だ。


 昨日、森の外縁を使いたちが探っているかもしれないという話があったせいだろう。


 私は玄関を開けた。


「おはようございます」


「おはよう、フローラ」


 リオは声を抑えている。


 ミナも私の顔を見ると、まず目元を確認した。


「眠れましたか?」


「はい。昨日よりは」


「よかったです」


 ガルドさんは森の奥へ視線を向けた。


「結界に異常は?」


「ありません。夜の間も、大きな接触はありませんでした」


「外縁に人の気配は?」


「私の結界範囲には入っていません」


 バルドさんが頷く。


「なら、今朝のところは大丈夫だ」


 リオが第二の畝へ視線を向ける。


「アオジロウは?」


「まだです」


「まだか」


「早すぎます」


「分かってるけどさ」


 リオは少し残念そうに畑へ近づき、きちんと距離を保ってしゃがんだ。


 見守り線はない。


 それでも、彼は自分で止まれている。


 私はそれを見て、少し誇らしい気持ちになった。


「リオ、距離が上手になりましたね」


「信用されてるからな」


 リオはすぐに言った。


 ミナが小さく笑う。


「その言葉、本当に気に入ったんですね」


「大事だろ」


「大事です」


 私が頷くと、リオは嬉しそうに笑った。


 バルドさんは第二の畝の土を見て、低く言った。


「悪くねえ。土も落ち着いてる」


「ありがとうございます」


「水はまだやりすぎるな」


「はい」


「待つ時間だ」


 バルドさんの言葉に、私は少し目を瞬いた。


「待つ時間」


「ああ。掘り返したくなるだろうが、掘るなよ」


「掘りません」


 即答した。


 さすがに私は掘り返さない。


 ただ、見つめすぎている自覚はある。


 ミナが優しく言った。


「待つのも疲れますね」


「はい」


「楽しみな待ち時間でも?」


「はい。楽しみでも、そわそわします」


 リオが頷く。


「分かる。リオ豆の時そうだった」


「リオ兄さんはそわそわしすぎて三回見に行ったでしょう」


「今は二回にしてる」


「まだ多いです」


 そのやり取りに、ガルドさんも少しだけ口元を緩めた。


 今日、私は村へ行く予定だった。


 ただし、いつもより短めに。


 森の外縁の警戒があるため、村と森の移動は慎重に行う。


 ガルドさんが先導し、バルドさんが道の痕跡を見て、リオとミナが私のそばにつく。


 村へ向かう前に、ガルドさんが言った。


「フローラ殿。今日は外の変化があれば、すぐ村長へ報告します。無理に授業を続ける必要はありません」


「分かりました」


「子供たちにも、今日は短い観察だけと伝えています」


「はい」


 胸が少し寂しくなる。


 でも、必要なことだ。


 日常を止めない。


 けれど、無理にいつも通りを演じすぎない。


 その加減も、守る工夫なのだと思う。


 森の道を進む。


 昨日とは違い、今日は薬草の目印をリオに確認しながら進んだ。


 リオは時々間違えそうになったが、以前よりよく見ている。


「これが本当の道の印」


「はい」


「こっちは偽物?」


「はい。そちらは行き止まりに向かいます」


「見た目ほとんど同じだな」


「同じに見えるようにしています」


「すげえな」


 バルドさんが土を見ながら言った。


「昨日の痕跡はだいぶ消えてる。悪くねえ」


 私は少し安心した。


 小川を渡る時、ミナが手を差し出してくれた。


「滑ります」


「ありがとうございます」


 私はその手を取った。


 リオも渡ろうとして、ガルドさんに肩を押さえられる。


「慎重に」


「分かってるって」


「昨日滑りかけたと聞いた」


「誰が言ったんだ」


 ミナが静かに視線を逸らした。


「ミナ!」


「安全共有です」


 私は少し笑った。


 リオは不満そうだったが、今日は本当に慎重に渡った。


 村へ着くと、広場の空気は少し緊張していた。


 見張りの若者が二人に増えている。


 村の入口近くでは、ガルドさんの仲間の若者たちが荷物を運ぶふりをしながら周囲を見ていた。


 パン屋の女性はいつも通りパンを並べているが、視線は時々道へ向く。


 子供たちは共同畑の前にいたが、大人たちがいつもより近くについていた。


 それでも、エマは私を見ると元気よく手を振った。


「フローラ先生!」


「おはようございます」


「アオジロウ出た?」


「まだです」


「まだかあ!」


 昨日と同じ反応。


 でも、その声が広場に響くと、少しだけ空気が和らいだ。


 ニコが言う。


「待つ時間だね」


「はい」


 ルルが頷く。


「掘っちゃだめ」


「はい。絶対に掘ってはいけません」


 トトが自分の豆を見ながら言う。


「でも見たい」


「見たいですね」


 私は素直に認めた。


「でも、見たいからこそ待ちます」


 サムが記録板を持って近づいてきた。


「森の畝の記録、今日の分もありますか」


「あります」


 私は記録板を渡した。


 サムは真剣に読む。


「第二の畝、発芽なし。土中変化を待つ。観察者、待つ時間の違いを考える」


 周囲の子供たちが首を傾げる。


 エマが言う。


「待つ時間の違い?」


 私は少し考え、子供たちの前にしゃがんだ。


「同じ待つでも、楽しみな待ち時間と、怖い待ち時間があります」


 子供たちは静かになった。


 大人たちも、少し離れたところで耳を傾けている。


「アオジロウたちが芽を出すのを待つ時間は、そわそわします。でも楽しみです」


「うん」


 ニコが頷く。


「でも、知らない人がまた来るかもしれないと待つ時間は、怖いです」


 子供たちの顔が少し強張る。


 けれど、目を逸らさない。


 私は続けた。


「どちらも、まだ見えないものを待っています。でも、心の感じ方は違います」


 サムが小さく言った。


「気持ちの記録」


「はい」


 リーナが花守り布を見ながら言う。


「怖い待つ時間は、暗い色」


「そうかもしれません」


「楽しみな待つ時間は、芽の色」


 その言葉に、胸が温かくなった。


「とても良い表現です」


 リーナは少し照れた。


 エマが手を上げる。


「じゃあ、怖い待つ時間に、楽しみな待つ時間を混ぜたら?」


 私は目を丸くした。


「混ぜる?」


「うん。怖いのだけ待つと嫌だから、アオジロウも待つ」


 その言葉は、とても単純だった。


 でも、深かった。


 怖い未来を待つだけでは苦しい。


 だから、芽吹く未来も一緒に待つ。


 私はしばらく言葉が出なかった。


 ミナがそっと微笑む。


 リオが小さく「エマ、すげえな」と呟く。


 私はエマに向かって頷いた。


「はい。とても大事なことだと思います」


 エマは得意げに笑った。


「じゃあ、アオジロウ早く出るといいね!」


「はい」


 私は微笑んだ。


「楽しみな待ち時間を、大事にしましょう」


 その日の観察は短めだったが、内容は濃かった。


 豆の成長。


 待つ時間の気持ち。


 怖い時に楽しみも一緒に待つこと。


 子供たちは、それぞれの豆の前で「今日の待つ気持ち」を言った。


 ニコは「ニコ豆がもっと大きくなるのを待つ。ちょっと楽しみ」。


 ルルは「虫がまた来ないかは怖い。でも新しい葉が伸びるのは楽しみ」。


 サムは「記録が増えるのを待つ」。


 リオは「リオ豆が一番強くなるのを待つ」。


 ミナに「一番にこだわりすぎ」と言われていた。


 私は自分の番で、少し迷った。


 けれど、子供たちが待っているので、正直に言った。


「私は、公爵家の使いがまた来るかもしれない時間を怖く待っています。でも、アオジロウたちが芽を出す時間を楽しみに待っています」


 沈黙が落ちた。


 でも、それは嫌な沈黙ではなかった。


 子供たちが、私の言葉を受け取ってくれている沈黙だった。


 ルルが小さく言った。


「一緒に待つ?」


 私は頷いた。


「はい。一緒に待ってくれますか」


「うん」


 エマが大きく頷く。


「待つ!」


 ニコも。


 サムも。


 リーナも。


 トトも。


 リオも、ミナも。


 その場にいた大人たちも、何も言わずに頷いてくれた。


 私は胸が詰まった。


 怖い待ち時間を、一人で抱えなくていい。


 楽しみな待ち時間を、皆と分け合える。


 それだけで、時間の色が少し変わるようだった。


 昼前、村長さんが広場へ出てきた。


 彼は子供たちの様子を見てから、私へ近づいた。


「今日は良い授業だったようだな」


「授業というより、私が教わりました」


「そうか」


 村長さんは少し笑った。


 その後、声を低くする。


「街道の見張りから追加の知らせが来た」


 私は花守り布の端を握った。


「はい」


「使いたちは、森の外側を直接調べたわけではないようだ。だが、森に入る道を宿や周辺の者に尋ねている」


「……そうですか」


「まだ距離はある。今日中にこの村へ戻る可能性は低い」


 少しだけ息が戻る。


 今日中ではない。


 でも、近づいている。


 ガルドさんが言う。


「今夜から、森側の見張りを増やします」


 私はすぐに顔を上げた。


「危険では」


「無理はしません。森へ深くは入りません。村側の外縁を見るだけです」


 バルドさんも言う。


「俺も見る。あの連中が森を甘く見てるなら、先にこっちが気づく」


 リオが当然のように言った。


「俺も」


「リオ兄さんは駄目」


 ミナが即答した。


「なんでだよ」


「顔に出るから」


「またそれか」


 村長さんも頷く。


「リオはフローラの送迎だ。それも大事な役目だ」


 リオは少し不満そうだったが、「大事な役目」と言われると黙った。


「……なら、やる」


 私はリオを見る。


「ありがとうございます」


「おう」


 彼は少し照れたように顔を逸らした。


 午後は早めに帰ることになった。


 子供たちは残念がったが、今日はちゃんと納得してくれた。


 エマは私に小さな紙を渡した。


 紙には、緑色の丸が三つ描かれていた。


「何でしょう」


「アオジロウとムラマルとモリタン」


「まだ芽は出ていませんが」


「出たらこんな感じかなって」


 私はその絵を見つめた。


 三つの緑色の丸。


 とても単純。


 でも、楽しみな待ち時間の色だった。


「ありがとうございます。机に飾ります」


 エマは嬉しそうに笑った。


 リーナも小さな糸をくれた。


「芽の色。今度使う」


「綺麗な色ですね」


「怖い色じゃない」


「はい」


 私はその糸を受け取った。


 芽の色。


 怖い待ち時間に混ぜる、楽しみな色。


 森へ帰る道中、私はエマの絵とリーナの糸を籠の中で大切にしまった。


 リオとミナが両側にいる。


 ガルドさんが後ろ。


 バルドさんが少し先を歩く。


 森は静かだった。


 けれど、今日はその静けさが少し違って聞こえた。


 ただ怖いだけではない。


 土の中で、まだ見えない芽が準備している静けさもある。


 私は小川を渡りながら、深く息を吸った。


 森の家に着くと、まず第二の畝を見た。


 当然、芽はまだ出ていない。


 土は静か。


 でも、私はそこにエマの描いた緑色の丸を重ねて見た。


「待っています」


 私は小さく言った。


 リオが隣で頷く。


「みんなでな」


「はい」


 ミナも言う。


「怖い待ち時間に、楽しみな待ち時間を混ぜましょう」


「はい」


 その夜。


 私は日記帳を開いた。


 今日、待つ時間の違いについて話した。


 怖い待ち時間。


 楽しみな待ち時間。


 エマが、怖い待ち時間に楽しみな待ち時間を混ぜたらいいと言った。


 私はとても驚いた。


 そして、とても救われた。


 公爵家の使いは、森に入る道を探しているらしい。


 怖い。


 でも、アオジロウ、ムラマル、モリタンが芽を出すのを待っている。


 エマが芽の絵をくれた。


 リーナが芽の色の糸をくれた。


 私はペンを止めた。


 机の上に、エマの絵を置く。


 三つの緑色の丸。


 その横に、リーナの糸。


 花守り布。


 ニコ鳥。


 村の客人札。


 白い石。


 私の机の上には、怖さ以外のものが増えていく。


 私は最後に書いた。


 私は今、二つのものを待っている。


 一つは怖いもの。


 一つは楽しみなもの。


 怖いものだけを見つめると息ができなくなる。


 だから私は、芽が出るのも待つ。


 みんなと一緒に。


 日記帳を閉じる。


 暖炉の火が揺れている。


 外の森は暗い。


 どこかで公爵家の使いが森への道を探しているかもしれない。


 でも、畑の土の中では、アオジロウたちも静かに準備している。


 見えないところで。


 少しずつ。


 私は窓の外へ目を向けた。


「明日も、待ちます」


 怖いものを。


 楽しみなものを。


 そして、私自身が少しずつ強くなる時間を。


 全部、見落とさないように。

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