第26話 青の姫君、森と村をつなぐ記録を作る
アオジロウ、ムラマル、モリタン。
その三つの名前が村の子供たちの間に広がるのに、半日もかからなかった。
翌朝、私が村へ行くと、共同畑の前ではすでに子供たちが集まり、サムの持つ記録板を囲んでいた。
「アオジロウは森の青豆二号!」
「ムラマルは村の豆と比べるやつ!」
「モリタンは……森っぽいやつ!」
「森試験豆一号だよ」
サムが真面目に訂正する。
エマは頬を膨らませた。
「でもモリタンの方がかわいいよ?」
「愛称はモリタン。正式名は森試験豆一号」
「サム、細かい!」
「記録だから」
そのやり取りに、周囲の大人たちが笑っている。
私は花守り布の端に触れながら、少し離れた場所でその光景を眺めた。
森の畑に作った第二の畝。
まだ芽も出ていない。
土の中に豆が眠っているだけ。
それなのに、村ではもう名前が呼ばれ、記録が作られ、子供たちが成長を待っている。
見えないものを待つ。
それは、不安だけではないのだと改めて思った。
公爵家の使いがまた来るかもしれない。
その「まだ見えないもの」は怖い。
けれど、土の中で芽吹きを待つ豆も、まだ見えない。
それは楽しみになる。
同じ「見えない未来」なのに、こんなにも違う。
だからきっと、私は怖い未来だけを見てはいけないのだ。
豆が芽を出す未来。
子供たちが森へまた来る未来。
リーナがアオジロウの花を刺繍する未来。
リオが見守り線を守りながら得意げに立つ未来。
ミナと一緒に新しいジャムを作る未来。
そういうものも、同じ未来の中にある。
「フローラ先生!」
エマが私に気づき、手を振った。
「おはようございます」
「おはよう! アオジロウ、もう出た?」
「まだです」
「えー!」
「昨日植えたばかりです」
「でも、青豆一号は強いから早かったじゃん」
「青豆一号も、すぐには出ていません」
エマは少し考え、真剣な顔で頷いた。
「待つことも育てること」
「はい」
ニコが嬉しそうに言う。
「僕、それ覚えてる」
「私も!」
ルルも手を上げる。
「泣いても見る」
トトが隣で言う。
「怖くても見る」
サムが記録板に目を落としながら言った。
「同じ時間に見る」
リーナが小さく続ける。
「見た気持ちも、残す」
子供たちがそれぞれ覚えた言葉を口にする。
それは、授業というより、いつの間にか村の合言葉のようになっていた。
私は胸の奥が温かくなるのを感じた。
「みんな、よく覚えていますね」
そう言うと、子供たちは得意げに笑った。
リオが後ろからやってきて、胸を張る。
「俺も覚えてるぞ」
「リオ兄さんはまず見守り線を守ってね」
ミナがすぐに言う。
「守ってるだろ」
「昨日、少しつま先が出てた」
「あれは風で」
「足が風で出るの?」
子供たちが笑う。
リオは少し赤くなった。
私は笑いながら、共同畑へ向かった。
今日の観察も、いつも通り始まる。
マメタは葉がさらに大きくなっていた。
ニコ豆は少し曲がりながらも元気。
ルルの豆は、傷んだ葉の横で新しい葉がしっかり開いている。
リオ豆は少し背が伸び、リオはそれを見て嬉しさを隠しきれていない。
リーナの豆はゆっくりだが安定している。
サム豆は相変わらず整っていて、サム自身の性格が出ているようだった。
「今日も、みんな元気です」
私が言うと、子供たちはほっとした顔をした。
毎日見ているのに、毎日少し不安になる。
でも、その不安があるから、毎日見る。
畑とは、そういうものなのかもしれない。
観察の後、私は森の第二の畝の記録板を広げた。
青豆二号、愛称アオジロウ。
村豆一号、愛称ムラマル。
森試験豆一号、愛称モリタン。
植えた日。
土の状態。
水分。
結界の有無。
村の共同畑との比較項目。
サムは食い入るように見ている。
「森の土と村の土、色が違う?」
「はい。森の土は腐葉土が多く、少し柔らかいです。村の土は畑として長く使っているので、作物に合うように整っています」
「どっちがいいの?」
ニコが聞く。
「どちらにも良さがあります」
「勝ち負けじゃない?」
「はい。場所によって、向いている育て方が違います」
エマが首を傾げる。
「人と同じ?」
私は少し目を瞬いた。
「そうですね。人と同じかもしれません」
リオが頷く。
「俺は森の土だな」
ミナが即座に言う。
「どうして?」
「なんか、勢いで育ちそう」
「リオ兄さんは、どちらかというと踏み固められても伸びる雑草じゃない?」
「雑草!?」
子供たちが笑った。
バルドさんが遠くで低く笑っている。
私は笑いながらも、少し考えた。
人にはそれぞれ向いた場所がある。
王都の屋敷で息ができなかった私が、森と村の間で少しずつ息を覚えているように。
土が変われば育ち方も変わる。
なら、人も場所が変われば、違う葉を出せるのかもしれない。
「今日の授業は、比べることについて話します」
私は木板を出した。
「比べることは、勝ち負けを決めるためだけではありません。違いを知るためです」
子供たちは座る。
大人たちも自然と足を止めて聞いている。
「森の豆と村の豆を比べます。でも、どちらが偉いとか、どちらが正しいとかを決めるためではありません。森の土ではどう育つか。村の土ではどう育つか。それぞれを見るためです」
サムが真剣に頷く。
「違いの記録」
「はい」
ルルが自分の豆を見て言った。
「私の豆、トトの豆より虫食い多かった」
「はい」
「でも、駄目じゃない」
「駄目ではありません」
「違い」
「はい。違いです」
ルルは少し嬉しそうに頷いた。
傷を「失敗」ではなく「違い」と見る。
それは簡単ではない。
でも、ルルは少しずつ覚えている。
私も覚えたいと思った。
公爵家で完璧を求められた私。
強すぎて化け物と呼ばれた私。
村で花守り布をかぶる私。
それらを勝ち負けや正解不正解だけで見なくてもいいのかもしれない。
違い。
場所が違う。
土が違う。
育ち方が違う。
そう考えられたら、少し楽になる。
その日の昼食は、広場で賑やかに行われた。
子供たちはアオジロウたちの発芽予想で盛り上がっている。
「アオジロウが一番早い!」
「モリタンだよ、森の豆だもん!」
「ムラマルだって村代表だよ!」
エマ、トト、ニコが言い合い、サムが「予想も記録する」と言い出した。
リオは当然のようにアオジロウを推した。
「青豆一号の弟だからな」
「正式には弟ではありません」
私が言うと、リオは真剣な顔で言った。
「でも気持ちは弟だろ」
「気持ち」
「青豆一号の隣にいるし」
私は少し考えた。
植物に兄弟という概念を当てはめるのは正確ではない。
でも、エマたちの名前つけ文化の中では、それも悪くないのかもしれない。
「では、愛称上の弟です」
リオは満足そうに頷いた。
ミナは笑っている。
村長さんは少し離れた場所でその様子を見ていた。
以前よりも目元が柔らかい。
だが、村の入口へ時折視線を向けている。
警戒は続いている。
ガルドさんも見回りをしている。
公爵家の使いが戻る可能性は消えていない。
けれど、広場には笑い声があった。
私はそれを見て、胸の中で静かに思った。
怖さ以外もある。
今日も。
昼食後、村長さんに呼ばれた。
村長の家の横。
日陰になった場所。
リオとミナも一緒だ。
ガルドさん、バルドさんも来ている。
村長さんは低い声で言った。
「街道の見張りから知らせが来た」
私の胸が冷える。
リオがすぐに身構えた。
ミナの手が私の袖に触れる。
村長さんは続けた。
「公爵家の使いらしき三人が、北西の宿にいたらしい。その後、周辺の村を回っている」
「こちらへ戻ってきますか」
ガルドさんが尋ねる。
「まだ分からん。ただ、森の外縁を調べている可能性がある」
森の外縁。
昨日隠した道。
私の家へ続く森。
私は花守り布の刺繍に触れた。
指先が少し冷たい。
でも、昨日ほど息は止まらなかった。
準備をした。
森の道を隠した。
結界を整えた。
村の合図も確認している。
怖い。
でも、何もしていないわけではない。
「今日の帰りは、別の道を使う」
バルドさんが言った。
「昨日作った道ではなく、さらに小川沿いを少し回る。痕跡を増やさない」
「分かりました」
「森の家に戻ったら、今日は外の作業は控えろ」
「はい」
リオがすぐ言った。
「俺も送る」
「当然です」
ガルドさんが頷く。
「私も同行します」
村長さんは私を見た。
「フローラ。怖さはあるだろうが、今は決めた通りに動く。慌てない」
「はい」
「怖さだけで動くな」
「はい。怖さ以外も見ます」
そう答えると、村長さんは静かに頷いた。
午後の授業は、予定より短くなった。
子供たちには詳しいことを話さない。
ただ、今日はフローラ先生は早めに帰ると伝えた。
エマは不満そうだったが、すぐに真剣な顔になった。
「守る工夫?」
「はい。守る工夫です」
「じゃあ仕方ない」
ニコが私の籠に小さな布袋を入れてくれた。
「これ、干し果物。森で食べて」
「ありがとうございます」
ルルが言う。
「怖かったら、見るんだよ」
「はい」
私は少し笑った。
「でも、今日は一人で見ません。リオとミナ、ガルドさんと一緒に見ます」
「それならいい」
ルルは頷いた。
子供に許可をもらったようで、少し不思議だった。
でも、嬉しかった。
森へ戻る道は、いつもと違った。
バルドさんが先導し、ガルドさんが後方を見る。
リオとミナは私の近く。
小川沿いを進む。
水の音が足音を消してくれる。
森の空気は少し湿っていて、草の匂いが濃い。
私は何度も周囲を見た。
知らない気配はない。
結界にも反応はない。
それでも、心は落ち着かない。
ミナがそっと言う。
「手、繋ぎますか」
私は少し迷い、頷いた。
「お願いします」
ミナの手は温かかった。
リオが前を見ながら言う。
「俺もいるからな」
「はい」
「あと、ガルド叔父さんとバルドじいも」
「はい」
「青豆一号も待ってる」
私は思わず笑った。
「はい。青豆一号も」
その言葉で、少し呼吸が戻った。
森の家に着いた時、青豆一号は夕方の光の中で静かに立っていた。
第二の畝も、まだ何も変化はない。
土があるだけ。
でも、その土の中にはアオジロウ、ムラマル、モリタンが眠っている。
私は畑の前に立ち、深く息を吸った。
「ただいま」
リオが隣で言う。
「無事帰れたな」
「はい」
ミナが微笑む。
「今日は、ここまでで十分です」
バルドさんも頷く。
「外作業はするなよ」
「はい」
ガルドさんが結界を確認する。
「今のところ異常なし。夜は無理に見回らず、結界に任せて休んでください」
「分かりました」
皆が帰った後、私は家に入った。
花守り布を外し、机の上に畳む。
ニコからもらった干し果物を皿に出す。
甘酸っぱい香りがした。
私は一つ口に入れた。
噛むと、少し硬い。
けれど甘い。
村の味だった。
夜、日記帳を開く。
今日、森の第二の畝のことを村に伝えた。
アオジロウ、ムラマル、モリタンという名前になった。
子供たちは発芽予想で盛り上がっていた。
違いは失敗ではない、という話をした。
公爵家の使いらしき人たちが、森の外縁を調べているかもしれない。
怖かった。
でも、決めた通りに動いた。
帰りは別の道を使った。
無事に帰れた。
私はペンを止めた。
窓の外は暗い。
森は静かだ。
でも、どこかで誰かがこの森を探っているかもしれない。
それを思うと、胸が冷える。
けれど、畑には第二の畝がある。
土の中には、まだ見えない豆たちがある。
怖い未来だけでなく、芽吹く未来もある。
私は最後に書いた。
見えないものには、怖いものもある。
でも、楽しみに待てるものもある。
私はアオジロウたちの芽を待ちたい。
怖さに、待つ楽しみまで奪わせたくない。
日記帳を閉じる。
暖炉の火が揺れる。
机の上には花守り布。
ニコ鳥。
村の客人札。
そして皿の上の干し果物。
私はそれらを見て、静かに息を吐いた。
明日、アオジロウはまだ芽を出さないだろう。
でも、土の中で準備を始めている。
私も同じだ。
まだ怖い。
まだ震える。
でも、準備している。
守りたい未来へ向かって、少しずつ。




