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『青の姫君の森暮らし 〜化け物と恐れられた公爵令嬢は、今日も畑を耕します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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25/66

第25話 青の姫君、森の畑に第二の畝を作る 



 朝、森の空気は少しだけ柔らかかった。


 昨夜の冷え込みが嘘のように、木々の間から差し込む光は淡く温かい。


 葉の先に残った露が、小さな硝子粒のように揺れている。


 風が吹くたび、枝葉の隙間から落ちる光が畑の土の上をゆっくり移動した。


 私は花守り布を机の上に広げ、刺繍の花を指先で撫でた。


 青い花。


 白い花。


 リーナの少し不揃いな針目。


 その不揃いさが、今ではとても愛おしい。


 完璧ではないからこそ、そこに人の手がある。


 屋敷で見ていた刺繍は、いつも驚くほど整っていた。


 高価な糸。


 熟練した職人。


 均一な針目。


 美しい模様。


 けれど、この花守り布を見るたびに思う。


 私を本当に支えているのは、整いすぎた美しさではなく、誰かが私のために時間を使ってくれたという事実なのだと。


 私は髪をまとめ、花守り布をかぶった。


 鏡の中の私は、もう昨日ほど違和感がない。


 髪を隠している。


 でも、私が消えているわけではない。


 そう思える日が、少しずつ増えていた。


「今日も、見ます」


 鏡に向かってそう言い、私は外へ出た。


 青豆一号は、朝の光の中で小さく揺れていた。


 虫食いの葉。


 新しく開いた本葉。


 少し太くなった茎。


 全部が同じ一本の豆だ。


 私はしゃがみ込み、土に触れた。


 湿り具合は良い。


 結界の影響もない。


 葉の色も濃すぎず、薄すぎず、ちょうどいい。


「順調ですね」


 記録板に書く。


 青豆一号、虫食い後八日目。


 本葉、展開安定。


 追加被害なし。


 状態、良好。


 観察者、今日は第二の畝を作る予定。


 第二の畝。


 その文字を書いて、私は少しだけ胸が弾むのを感じた。


 森の畑に、新しい畝を作る。


 これまで私の畑は、私が生きるための畑だった。


 食べるため。


 薬草を育てるため。


 試験栽培のため。


 森で一人暮らしていくため。


 けれど、新しい畝は少し違う。


 村の子供たちと一緒に育てるための畝。


 共同畑で育てている豆とは別に、森の土と村の土の違いを見るための小さな試験畝。


 青豆一号の隣に、いくつかの豆を植える。


 村の子供たちには、まだ森へ来てもらえない。


 公爵家の使いが近くを探っている以上、子供たちを森へ招くのは危険だ。


 でも、森の畑の成長を村へ伝えることはできる。


 記録を持って行き、絵を描き、土の違いを見せる。


 いつかまた安全になった時、子供たちが森の家へ来られるように。


 その日のために、新しい畝を作る。


 そう考えると、胸の奥に小さな火が灯るようだった。


 怖さはある。


 公爵家の使いはまた来るかもしれない。


 森へ踏み込むかもしれない。


 それでも、私は畑を広げる。


 それは無謀ではない。


 日常を諦めないための、小さな抵抗だ。


 結界に、リオとミナの気配が触れた。


 今日はガルドさんの気配も少し後ろにある。


 村と森の間の安全確認を兼ねているのだろう。


 私は玄関へ向かった。


「おはよう、フローラ!」


 リオの声は明るかった。


 けれど、以前ほど無防備ではない。


 森の中では声を少し抑えている。


 たぶん本人なりに気をつけているのだ。


「おはようございます」


 ミナは私の花守り布を確認し、微笑んだ。


「今日はとても綺麗に巻けています」


「練習しました」


「もう一人で大丈夫そうですね」


「はい。でも、ミナに確認してもらえると安心します」


 そう言うと、ミナは少し嬉しそうに目を細めた。


「いつでも確認します」


 リオは畑を覗き込む。


「青豆一号は?」


「順調です」


「見てもいい?」


「はい。近づきすぎなければ」


「信用されてるから大丈夫」


 リオは胸を張った。


 昨日からその言葉が気に入ったらしい。


 私は少し笑い、二人を青豆一号の前へ案内した。


 リオは本当に近づきすぎなかった。


 見守り線がなくても、自分の足をきちんと止めている。


 彼なりの成長だ。


「本葉、開いてるな」


「はい」


「穴、まだあるけど」


「あります」


「でも、もうそれだけじゃない」


 リオはそう言って、少し得意げに私を見る。


 私は頷いた。


「はい。それだけではありません」


 ミナも青豆一号を見つめた。


「この子、本当に強いですね」


「強いです。でも、守られてもいます」


 私は畑の周りを見た。


 虫除け草。


 結界。


 土の調整。


 水の加減。


 毎朝の観察。


「強いことと、守られていることは、両方あっていいのだと思います」


 自分で言って、胸の奥が少し揺れた。


 私も、そうでありたい。


 強い。


 でも、守られていい。


 それはまだ完全には慣れない考え方だ。


 けれど、青豆一号を見るたびに少しずつ信じられる。


 リオが頷いた。


「うん。フローラもそうだろ」


 私は少し驚いてリオを見る。


「私も?」


「強いけど、守られていい」


 ミナが優しく微笑む。


「はい。私もそう思います」


 胸が温かくなった。


「……ありがとうございます」


 照れくさくて、それ以上は言えなかった。


 私は話題を変えるように、畑の端を指差した。


「今日は、第二の畝を作ろうと思います」


「第二の畝?」


 リオの目が輝いた。


「新しい豆か?」


「はい。森の土で育てる試験用の畝です。村の豆と成長を比べます」


「面白そう!」


 ミナも興味深そうに畑を見る。


「子供たちにも記録を見せられますね」


「はい。森へ来られない間も、森の畑の様子を伝えたいので」


 リオは少し表情を柔らかくした。


「みんな喜ぶな」


「そうだといいです」


「絶対喜ぶ」


 その断言が、少し嬉しかった。


 ガルドさんも近づいてきた。


「作業をするなら、周囲の警戒は私が」


「ありがとうございます」


「ただし、無理はしないように。昨日もかなり魔力を使っています」


「はい。今日は土仕事中心です」


 バルドさんがいないのが少し惜しい。


 畑の畝作りなら、彼の意見も聞きたかった。


 だが今日は村の畑を見ているらしい。


 後で記録を見せよう。


 私は鍬を手に取った。


 公爵令嬢が鍬を持つ。


 昔の屋敷の人たちが見たら、卒倒するかもしれない。


 けれど今の私には、この重みがしっくりくる。


 土を耕すための道具。


 生きるための道具。


 誰かと未来を共有するための道具。


 私は畑の端に立ち、ゆっくり土へ鍬を入れた。


 ざく、と湿った土が割れる。


 森の匂いが濃くなる。


 腐葉土。


 草の根。


 小さな虫。


 土の中にある、目に見えないたくさんの命。


 リオがすぐに言った。


「俺もやる!」


 私は少し考え、鍬を渡した。


「では、ここからここまでを。深くしすぎず、土を裏返しすぎず」


「分かった」


 リオは張り切って鍬を入れた。


 一振り目。


 深すぎた。


「リオ」


「え、だめ?」


「少し深いです」


「力加減難しいな」


「畑は力だけではありません」


 ミナが笑う。


「リオ兄さん向きの勉強だね」


「俺、学ぶ」


 リオは真剣に頷いた。


 次は少し浅めに。


 今度は浅すぎる。


 私は隣で手本を見せる。


「このくらいです」


「このくらい」


 リオは真似をする。


 何度か失敗しながら、少しずつ加減を覚えていく。


 その姿を見ていると、私は自然と笑っていた。


 リオは失敗してもあまり落ち込まない。


 すぐにもう一度やる。


 勢いがありすぎることも多いけれど、その前向きさには助けられる。


 ミナは土をほぐし、石を取り除く作業を手伝ってくれた。


 手つきが丁寧だ。


 指が汚れることを嫌がらない。


「ミナ、上手ですね」


「家の畑を少し手伝ったことがあります」


「そうなのですか」


「はい。リオ兄さんよりは丁寧です」


「おい」


 リオが顔を上げる。


「事実です」


「否定できないけど」


 ミナは小さく笑った。


 しばらく三人で土を耕した。


 ガルドさんは周囲を見回りながら、時々こちらを見る。


 森の中に、不審な気配はない。


 鳥の声。


 枝の揺れ。


 遠くの獣の足音。


 結界に触れるものもない。


 それでも私は、時々森の奥を見てしまう。


 公爵家の使いが現れるのではないか。


 青と銀の紋章が木々の間に見えるのではないか。


 そう思うたび、胸が少し冷える。


 でも、鍬を持つ手を止めなかった。


 土を見る。


 石を拾う。


 根を避ける。


 畝の形を整える。


 目の前の作業に戻る。


 怖さを消すのではなく、怖さ以外も見る。


 村長さんの言葉が、体に少しずつ馴染んでいく。


 やがて、新しい畝の形ができた。


 まだ粗い。


 けれど、青豆一号の隣に、細長い土の盛り上がりが生まれている。


 リオは汗を拭きながら満足そうに言った。


「できた!」


「まだ完成ではありません。土を整えて、種を選んで、間隔を決めます」


「まだあるのか」


「畑は準備が大事です」


 リオは少し疲れた顔をしたが、すぐに笑った。


「でも面白い」


「そうですか」


「うん。土って、ただ掘ればいいわけじゃないんだな」


「はい」


「なんか、人と似てるな」


 私は手を止めた。


「人と?」


「力任せにやると駄目で、深すぎても浅すぎても駄目で、石とか根とか見ながらやるんだろ」


 リオは自分で言いながら少し照れたように頭を掻いた。


「まあ、うまく言えないけど」


 ミナが優しく言った。


「うまく言えてると思うよ」


 私も頷いた。


「はい。とても」


 リオは照れくさそうに笑った。


 私は畝を見下ろした。


 土を耕す。


 深すぎず、浅すぎず。


 硬い石を取り除き、残す根を見極める。


 それは、人の心にも似ているのかもしれない。


 過去を全部掘り返せば、根が傷む。


 何も触れなければ、硬いまま水も空気も入らない。


 少しずつ。


 加減しながら。


 私は今、自分の心も耕しているのだろうか。


 そう思うと、鍬の重みがまた違って感じられた。


 昼前、第二の畝に豆を植えた。


 今回は三種類。


 青豆一号と同じ種。


 村の共同畑で使っている豆。


 そして、森の環境に合わせて私が少し改良した試験豆。


 それぞれ少しずつ区画を分ける。


 札も立てた。


 青豆二号。


 村豆一号。


 森試験豆一号。


 リオが札を見て笑った。


「名前が研究っぽい」


「分かりやすさ重視です」


「エマが聞いたら名前つけ直されるぞ」


「その可能性は高いです」


 ミナが楽しそうに言う。


「子供たち用の呼び名を別に作るのもいいかもしれません」


「別名」


「青豆二号は……青弟?」


 リオが言う。


「弟なのですか」


「青豆一号の次だから」


「なるほど」


 ミナが笑う。


「エマならもっと可愛い名前にしそうですね」


「村で相談しましょう」


 そう言うと、リオの顔が明るくなった。


「今日、村に行く?」


「はい。午後に少しだけ」


 作業後に休憩を取り、村へ記録を届ける予定だった。


 無理をしないために、長居はしない。


 でも、子供たちには第二の畝のことを伝えたい。


 きっと喜ぶ。


 その想像だけで、少し疲れが軽くなった。


 一方その頃。


 リーフェ村から北西へ半日ほど離れた街道沿いに、三頭の馬が止まっていた。


 青と銀の小さな紋章を胸につけた男たち。


 スプリング公爵家の使いである。


 先頭の男、レナードは、街道脇の宿の前で馬から降りた。


 年は三十代半ば。


 鍛えられた体つき。


 整えられた髪。


 表情は硬く、隙が少ない。


 彼は公爵家の護衛隊に長く仕え、命令を遂行することに慣れていた。


 その後ろにいる若い男、セイルはまだ二十代前半。


 緊張と焦りが顔に出やすい。


 三人目の男は、寡黙な斥候役のダン。


 彼は街道の泥や草の倒れ方を見ながら、黙って周囲を確認していた。


 レナードは宿の主人に、いつもの質問をした。


「青い髪の少女を見なかったか」


 宿の主人は肩をすくめる。


「青い髪? そんな目立つ子、いたら覚えてますよ」


「森に住む薬師の噂は」


「薬師なら、東の村に年寄りが一人いるくらいですかね」


「リーフェ村については」


 その名を出すと、宿の主人は少しだけ目を細めた。


「森の近くの小村ですね。薬草は採れるらしいですが、たいした村じゃありませんよ」


 レナードは黙って主人を見た。


 たいした村ではない。


 昨日も同じような印象を受けた。


 小さな村。


 畑。


 子供。


 パンの匂い。


 だが、何かが引っかかっている。


 村長の受け答えは老獪だった。


 バルドという農夫も、ただの老人ではない。


 薬草の話でこちらを追い返した。


 そして何より、村全体の空気。


 隠し事をしている村の空気だった。


 それが青い髪の少女かどうかは、まだ分からない。


 しかし、何かを守っている。


 レナードはそう感じていた。


 宿を出ると、セイルが低い声で言った。


「隊長、やはりリーフェ村が怪しいと思います」


「理由は」


「村長の反応です。森への道を聞いた時、明らかに拒みました」


「森が危険なら拒むのは当然だ」


「ですが、村の中を見ることも拒みました」


「領外の村だ。こちらに権限はない」


 レナードは淡々と答えた。


 セイルは少し苛立ったようだった。


「しかし、公爵閣下は令嬢を――」


「口を慎め」


 レナードの声が低くなる。


 セイルはすぐに黙った。


 街道を風が吹き抜ける。


 レナードは遠くの森を見た。


 フローラ・フォン・スプリング。


 青の姫君。


 かつて王都でも噂になった神童。


 そして、スプリング公爵家から姿を消した令嬢。


 表向きには療養。


 だが、屋敷内で彼女の存在はほとんど語られなくなった。


 今回、命令が下ったのは突然だった。


 青い髪の少女の噂を集めろ。


 森や辺境の薬草地を確認しろ。


 見つけた場合は、必ず報告せよ。


 連れ戻せとは、正式には言われていない。


 だが、暗にそういう意味を含んでいることは誰にでも分かった。


 レナードは任務に忠実だ。


 だが、昨日のリーフェ村で感じた空気は、少し奇妙だった。


 怯え。


 警戒。


 それと同時に、強い拒絶。


 もし本当に令嬢がいるなら、なぜ村がそこまで守るのか。


 貴族の娘を匿う危険を、あの村が理解していないとは思えない。


 それでも守る理由があるのか。


 レナードは考え込んだ。


 ダンが戻ってくる。


「森の東側に、古い獣道があります。リーフェ村から直接ではありませんが、迂回すれば森の浅い場所に入れます」


 セイルが顔を上げた。


「なら、そこから」


 レナードは片手を上げて制した。


「無断で森に入るな。まず周辺を確認するだけだ」


「しかし」


「命令は噂の確認だ。村と揉めるなとも言われている」


 正確には、そう明言されたわけではない。


 だが、公爵家が大きく動けば噂が広がる。


 それを避けたい意図は明らかだった。


 レナードは森を見つめる。


「リーフェ村は、また訪ねる」


 セイルは頷いた。


「いつにしますか」


「すぐではない。警戒している村に続けて入れば、かえって隠される」


「では」


「周囲の村を回る。森の外側も見る。情報を集める」


 レナードの目が細くなる。


「あの村が何を守っているのか、見極める」


 風が吹いた。


 遠くの森が、ざわりと揺れた。


 その森の奥に、花守り布をかぶった少女が新しい畝を作っていることを、彼らはまだ知らない。


 午後、私は村へ向かった。


 第二の畝の記録板を籠に入れ、リオとミナと一緒に森の道を歩く。


 午前中に土仕事をしたので、足が少し重い。


 でも、嫌な疲れではなかった。


 新しい畝を作った疲れ。


 未来のための疲れ。


 それは不思議と心地よい。


 村に着くと、子供たちは共同畑の前にいた。


 エマが真っ先に気づく。


「フローラ先生!」


「今日は知らせがあります」


 私がそう言うと、子供たちの目が一斉に輝いた。


「何!?」


「青豆一号!?」


「公爵家の人!?」


 ニコが最後に不安そうに言った。


 私はすぐに首を振った。


「違います。畑の話です」


 子供たちがほっとしたように息を吐く。


 その反応に、胸が少し痛んだ。


 子供たちにも不安は残っている。


 でも、今日は畑の話を持ってきた。


 怖さ以外の話を。


「森の畑に、第二の畝を作りました」


 一瞬の沈黙。


 それから、歓声が上がった。


「新しい畑!?」


「青豆一号の弟!?」


「見たい!」


「名前つける!」


 リオが笑う。


「ほら、やっぱり」


 私は記録板を広げた。


「青豆二号、村豆一号、森試験豆一号を植えました」


 エマが即座に言う。


「名前、長い!」


「分かりやすさ重視です」


「青豆二号は、アオジロウ!」


 リオが小声で言う。


「青弟じゃなかった」


 ミナが笑う。


 ニコが言う。


「村豆一号は?」


 ルルが考える。


「むらまめちゃん?」


 トトが言う。


「強そうじゃない」


 サムが真剣に記録板を見つめる。


「正式名称と愛称、両方記録すればいい」


 私は感心した。


「良い案です」


 エマが胸を張る。


「じゃあ、全部名前つけよう!」


 子供たちが集まり、名前会議が始まった。


 青豆二号は、最終的に「アオジロウ」。


 村豆一号は「ムラマル」。


 森試験豆一号は、なぜか「モリタン」になった。


 私はその名前を記録板の端に書いた。


 青豆二号、愛称アオジロウ。


 村豆一号、愛称ムラマル。


 森試験豆一号、愛称モリタン。


 研究記録としては、少し賑やかすぎる。


 でも、悪くない。


 むしろ、この方が今の私の畑らしい。


 子供たちが関わり、名前をつけ、成長を待つ畑。


 私は記録板を見ながら、小さく笑った。


 リーナが花守り布を見上げて言う。


「今度、アオジロウの花も縫う?」


「豆に花が咲いたら、ぜひお願いします」


 リーナは嬉しそうに頷いた。


 サムはすでに新しい表を作り始めている。


 森の畑と村の畑の比較表。


 日付。


 発芽日。


 葉の数。


 虫食い。


 土の違い。


 彼の目は真剣だった。


 バルドさんが後ろから覗き込み、満足そうに言った。


「いい記録だ」


 サムの背筋が伸びる。


「ありがとうございます」


「続けろ」


「はい」


 その一言で、サムはとても嬉しそうだった。


 私は村の共同畑を見た。


 小さな豆たち。


 新しい記録。


 子供たちの声。


 村の大人たちの見守り。


 そして、森の畑に作った第二の畝。


 公爵家の使いはまた来るかもしれない。


 森を探るかもしれない。


 それでも、ここには今日の畑がある。


 今日の名前会議がある。


 アオジロウ、ムラマル、モリタン。


 少しおかしくて、少し愛おしい名前。


 怖さ以外のものが、今日も確かにあった。


 私は花守り布に触れ、静かに息を吸った。


 そして子供たちに向かって言った。


「では、明日から森の第二の畝も記録に入れます。みんなで一緒に見守りましょう」


「はい!」


 声が重なる。


 少しずれて。


 でも、とても元気に。


 その声を聞きながら、私は心の中で思った。


 私は、守りたい。


 この声を。


 この畑を。


 この村を。


 そして、この森で育ち始めた小さな未来を。


★★★


 午後の村は、朝とは少し違う匂いがした。


 パンの焼ける香りは薄くなり、代わりに井戸水の冷たさと、畑の土の湿った匂いが広場へ流れていた。


 私は籠の中に、森の第二の畝の記録板を入れていた。


 青豆二号。


 村豆一号。


 森試験豆一号。


 今はまだ、それだけの名前だ。


 けれど、村の子供たちに見せれば、きっとそのままでは終わらない。


 エマが名前をつける。


 ニコが真面目に頷く。


 サムが正式名称と愛称を分けて記録する。


 ルルとトトが言い合い、リーナがその色を糸で考える。


 そんな光景が、村へ入る前から目に浮かんでいた。


 私の隣を歩くリオは、すでに少しそわそわしている。


「早く言いたいな」


「まだ村の入口です」


「分かってるけどさ。第二の畝だぞ」


 ミナが苦笑した。


「リオ兄さんが作った畝でもありますからね」


「そう。俺も耕した」


「深すぎたり浅すぎたりしていましたが」


「最後はできただろ」


「はい。最後はできていました」


 リオはそれで満足したように胸を張った。


 私はその横顔を見て、少し笑った。


 午前中、土に鍬を入れた時のリオの真剣な顔を思い出す。


 力任せではうまくいかない。


 深すぎても浅すぎてもいけない。


 人と似ている、と彼は言った。


 その言葉は、まだ私の胸に残っていた。


 森の畑に作った第二の畝は、ただの試験畝ではない。


 リオの手が入っている。


 ミナが石を拾ってくれた。


 ガルドさんが周囲を守ってくれた。


 バルドさんにはこれから記録を見せる。


 そして村の子供たちが名前をつけ、成長を待つ。


 そう思うと、畝は私一人のものではなくなっていた。


 森の畑なのに、村とつながっている。


 そのことが、少し不思議で、とても嬉しかった。


 村の入口に立つ見張りの若者が、私たちを見つけて手を上げた。


「おかえり。今日は問題なしだよ」


「ありがとうございます」


「籠、重そうだね。何か採れたの?」


 リオが答えたくて仕方なさそうに口を開きかける。


 ミナが袖を引いた。


「子供たちの前で言うんでしょう?」


「そうだった」


 若者は笑った。


「じゃあ楽しみにしておくよ」


 広場へ入ると、共同畑の前に子供たちが集まっていた。


 エマが真っ先に私を見つける。


「フローラ先生!」


 それだけで、他の子供たちも一斉に振り返った。


 ニコ、トト、ルル、サム、リーナ。


 少し遅れて、リオ豆を見ていたリオに気づいた子供たちが、彼にも手を振る。


 リオは嬉しそうに手を上げ返した。


「今日は知らせがあります」


 私が言うと、子供たちの目が輝いた。


「青豆一号?」


「違います」


「公爵家の人?」


 ニコが少し不安そうに聞いた。


 私はすぐに首を横に振った。


「違います。畑の話です」


 その瞬間、子供たちの顔がぱっと明るくなった。


 この頃、彼らは「怖い知らせ」と「畑の知らせ」を聞き分けるようになっている。


 それが少し胸に痛くもあり、同時に頼もしくもあった。


 怖いことを知らないふりはできない。


 でも、怖いことだけで日々を埋めない。


 それは、村全体が少しずつ覚えていることだった。


「森の畑に、新しい畝を作りました」


 一瞬の沈黙。


 それから、エマが叫んだ。


「新しい畑!?」


「畝です」


「畑の赤ちゃん!?」


「……近いような、違うような」


 リオが横で笑う。


「まあ、これから芽が出る場所だからな」


「じゃあ赤ちゃんだ!」


 エマの中では決定したらしい。


 サムがすぐに木板を持って前へ出た。


「記録ありますか」


「あります」


 私は籠から記録板を出した。


 森の第二の畝。


 区画一、青豆二号。


 区画二、村豆一号。


 区画三、森試験豆一号。


 土の状態。


 水分。


 植えた日。


 比較対象。


 サムは食い入るように見る。


 その横からエマが覗き込んだ。


「名前が長い!」


「正式名称です」


「可愛くない!」


 予想通りの反応だった。


 リオが小声で言う。


「来たな」


 ミナも笑いをこらえている。


 私は真面目に頷いた。


「では、愛称を決めますか」


「決める!」


 エマが勢いよく手を上げた。


 ニコも小さく手を上げる。


「僕も考えたい」


 トトとルルも同時に言う。


「俺も!」


「私も!」


 リーナは少し恥ずかしそうにしながらも、こくりと頷いた。


 サムはすでに記録板の端に「愛称欄」と書いている。


 私は思わず笑った。


「では、名前会議を始めましょう」


 広場の空気が一気に明るくなった。


 子供たちは共同畑の前に輪を作って座る。


 大人たちも何事かと集まり始めた。


 パン屋の女性が粉のついた手を布で拭きながらやって来る。


「何だい、また会議かい?」


「森の新しい畝の名前会議です」


 私が答えると、彼女は目を細めた。


「あらまあ。大事な会議だね」


 村長さんも家の前からこちらを見ていた。


 ガルドさんは見張りの位置を崩さず、けれど耳はこちらに向けている。


 バルドさんは共同畑の端で腕を組み、少し呆れたようで、それでも楽しそうに見守っていた。


 最初の議題は、青豆二号だった。


 エマが真っ先に言う。


「アオちゃん二号!」


 トトが首を振る。


「弱そう」


「弱くない!」


「もっと強い名前がいい。アオキング」


「王様なのですか」


 私が聞くと、トトは頷いた。


「青豆一号の次だから」


 リオが腕を組む。


「俺は青弟がいいと思う」


「アオオトウト?」


 エマが目を丸くする。


「言いにくい!」


 ルルが考え込む。


「アオジロウは?」


 その言葉に、少し空気が止まった。


「アオジロウ」


 リオが繰り返す。


「いいな」


 エマも頷く。


「かわいい! ちょっと強い!」


 ニコも小さく笑う。


「弟っぽい」


 サムが記録板に書く。


 青豆二号、愛称候補、アオジロウ。


 バルドさんがぼそりと言った。


「まあ、分かりやすいな」


 それで決まった。


 青豆二号は、アオジロウ。


 次は村豆一号。


 ニコが少し緊張した様子で手を上げた。


「ムラマメ」


 エマが首を傾げる。


「そのまま!」


「分かりやすいよ」


 サムが頷く。


「記録には向いてる」


 トトが言う。


「でも、もう少し丸い感じがいい」


「丸い?」


 ルルが考える。


「ムラマル」


 また、空気が止まった。


「ムラマル」


 ニコが繰り返す。


「いい」


 エマも頷く。


「丸い!」


 トトも満足そうだ。


「強すぎないけど、育ちそう」


 私は少し笑った。


「では、村豆一号はムラマルでよろしいですか」


 子供たちが一斉に頷いた。


 村豆一号、愛称ムラマル。


 サムが丁寧に書き込む。


 最後は、森試験豆一号だった。


 これは少し難航した。


「モリモリ!」


 エマが言う。


 トトがすぐに否定する。


「食べ物みたい」


「森だから!」


「モリイチ」


 サムが提案する。


「正式名に近い」


「かわいくない」


 エマが言う。


 リーナが小さく口を開いた。


「モリタン……」


 声が小さかったので、最初は私しか聞き取れなかった。


 私はリーナの方を向く。


「モリタン、ですか」


 リーナは少し赤くなりながら頷いた。


「森の子、みたいで……」


 エマがぱっと笑う。


「かわいい!」


 ニコも頷く。


「優しそう」


 ルルが言う。


「森っぽい」


 トトは少し考えた後、頷いた。


「まあ、いい」


 リーナの顔が少し明るくなった。


 サムが記録する。


 森試験豆一号、愛称モリタン。


 これで三つの名前が決まった。


 アオジロウ。


 ムラマル。


 モリタン。


 私は記録板に並んだその名前を見つめた。


 正式名称だけだった時より、ずっと近く感じる。


 まだ土の中にある豆たち。


 けれど名前がついた瞬間、村の子供たちにとって「待つ相手」になった。


 名前には、不思議な力がある。


 青豆一号の時もそうだった。


 ニコ鳥の時も。


 花守り布の時も。


 名前がつくと、物はただの物ではなくなる。


 心が結ばれる。


 私はそれを、村に来てから何度も知った。


「では、今日から森の第二の畝は、アオジロウ、ムラマル、モリタンの三つを記録していきます」


 私が言うと、子供たちは大きく頷いた。


「はい!」


 声が揃う。


 少しずれて。


 でも、とても元気に。


 バルドさんが近づいてきた。


「嬢ちゃん、記録見せろ」


「はい」


 私は木板を渡した。


 バルドさんは目を細め、土の配合や区画の間隔を見る。


「悪くねえ。森の土と村の土を比べるにはいい」


「森試験豆は少し魔力環境に合わせています」


「あまりやりすぎるなよ」


「はい。村で育てられないものにしては意味がありません」


 バルドさんは満足そうに頷いた。


「分かってるならいい」


 サムが横から聞く。


「バルドさん、これ、比較表にした方がいいですか」


「ああ。日付、天気、水、葉の数、虫食い。あと、土の様子だな」


「土の様子」


「硬い、柔らかい、湿ってる、乾いてる。分かる範囲でいい」


 サムは真剣に書く。


 私はそれを見て、胸が温かくなった。


 サムはもう、ただ私から教わるだけではない。


 バルドさんからも学び、自分で記録の形を考えている。


 村の知識と、私の知識が、子供の手の中で混ざっていく。


 それは、とても良いことだと思った。


 昼食前、子供たちはそれぞれ発芽予想をした。


 エマはアオジロウが一番早いと言った。


「青豆一号の弟だから!」


 リオも同じ意見だった。


「俺もアオジロウ」


「理由は?」


 サムが尋ねる。


「青豆一号の隣だから」


「正式な理由になってない」


「気持ちは大事だろ」


「気持ちの記録として残す」


 サムはそう言って書き込んだ。


 ニコはムラマルにした。


「村の豆だから、村に知らせたくて早く出るかも」


 ルルとリーナはモリタン。


「森の子だから」


「静かに早そう」


 トトは全部同時に出ると言った。


「そうなったら面白いから」


 サムはムラマルを選んだ。


「村豆一号と共同畑の豆の比較がしやすくなるから」


 とてもサムらしい理由だった。


 私は全員の予想を記録板にまとめた。


 予想も記録する。


 外れても大事。


 そう言うと、子供たちは真剣に頷いた。


 この小さな発芽予想が、村に楽しい待ち時間を増やしている。


 怖い待ち時間の中に、明るい色が混ざっていく。


 私はそれを感じていた。


 昼食では、パン屋の女性が少しだけ甘いパンを出してくれた。


「発芽前祝いだよ」


 エマが首を傾げる。


「まだ出てないのに?」


「待つのも祝いのうちだよ」


 パン屋の女性は笑った。


 リオが真剣な顔で頷く。


「いい考えだ」


 ミナが即座に言う。


「二つ目はありません」


「まだ言ってない」


「顔が言っていました」


 村の人たちが笑う。


 私は小さな甘いパンを両手で受け取った。


 蜂蜜の香りがする。


 一口食べると、優しい甘さが広がった。


 待つことを祝う。


 まだ結果が出ていなくても、待つ時間を大切にする。


 それも、私がこれまで知らなかった感覚だ。


 屋敷では、結果が大事だった。


 満点。


 勝利。


 完成。


 成功。


 けれど村では、種を植えた日も、芽を待つ日も、虫食いを見つけた日も、全部が記録になり、話題になり、時には小さなお祝いになる。


 過程を大切にする。


 それは、私の心にも必要なことかもしれない。


 私はまだ、過去との向き合い方の答えを出せていない。


 父様と母様をどう思えばいいのか。


 公爵家の使いにどう対応するのか。


 帰りたくない気持ちと、案じていると言われて痛む気持ちをどう扱うのか。


 答えは出ていない。


 でも、その途中も記録していいのだ。


 泣いた日。


 怖かった日。


 歌を教わった日。


 布をもらった日。


 第二の畝を作った日。


 全部、私が育っている途中の記録なのかもしれない。


 私はパンを食べながら、そう思った。


 その頃、森の西側では、レナードたちがまだ森の外縁を調べていた。


 斥候のダンは、獣道の前で膝をつき、落ち葉を指先で払う。


 セイルは苛立たしげに腕を組み、森の奥を見ていた。


「これ以上何を調べるのですか」


 彼の声には焦りがあった。


「道を消している者がいる。それで十分でしょう」


 レナードは答えない。


 彼はダンの手元を見ている。


 ダンは土の表面を指でなぞった。


「昨日より、草が立っている」


「自然に戻っただけでは?」


 セイルが言う。


 ダンは首を横に振った。


「戻り方が揃いすぎている」


 セイルは眉をひそめる。


「魔法か」


「可能性はある」


 レナードの目がわずかに細くなった。


 魔法で草を戻す。


 足跡を薄める。


 道をぼかす。


 それができる者。


 森を知り、魔力の扱いに長け、発見されたくない者。


 条件は少しずつ重なっていく。


「隊長」


 セイルが声を低くする。


「やはり、令嬢はこの森にいるのでは」


 レナードはすぐには答えなかった。


 彼の脳裏に、かつて遠目に見た青い髪の少女の姿が浮かぶ。


 公爵家の庭園。


 まだ幼いのに、周囲の大人たちを圧倒する魔力。


 空色の髪。


 深い青の瞳。


 あれから年月が経っている。


 もし生きているなら、今はもう少女というより、成長した令嬢になっているはずだ。


 だが、噂では青い髪の少女。


 年齢の認識は、人によって曖昧だ。


 辺境の村人から見れば、若い娘は皆少女と呼ばれることもある。


 レナードは静かに言った。


「可能性は高い」


 セイルの顔が変わった。


「では、すぐに森へ」


「入らない」


「なぜですか」


「相手は道を隠している。こちらの動きも見ている可能性がある」


 レナードは森の奥を見た。


「無理に踏み込めば逃げられる。あるいは、村と衝突する」


「村が匿っているなら、衝突もやむを得ないのでは」


「公爵家は、事を大きくするなと暗に命じている」


 セイルは口を閉じた。


 それは彼も分かっている。


 令嬢の存在は、公爵家にとって扱いにくいものになっている。


 探している。


 しかし、表立って探せない。


 案じている。


 しかし、なぜ行方不明になったかは語らない。


 その矛盾を、使いである彼らは抱えて動いている。


 レナードはダンに尋ねた。


「この道を追えば、どこへ行く」


「途中で三つに分かれる。二つはおそらく偽。だが、どれが本物かはまだ断定できない」


「罠は?」


「殺傷目的の罠は見当たらない。迷わせるためのものだ」


「ならば相手は、こちらを殺すつもりはない」


 レナードは低く言った。


「近づかせたくないだけだ」


 セイルが少し苛立つ。


「それは、やましいものがあるからでしょう」


「あるいは、怯えているからだ」


 その言葉に、セイルが黙った。


 レナードは自分でも、なぜその言葉を口にしたのか分からなかった。


 怯えている。


 もし本当にフローラ令嬢がこの森にいるなら。


 彼女は公爵家の使いを恐れているのか。


 なぜ。


 公爵家の人間なら、迎えに来た者を喜ぶはずだ。


 少なくとも、普通なら。


 だが、あの村の反応。


 森の道を隠す手。


 直接傷つける罠ではなく、遠ざける工夫。


 そこには敵意よりも、拒絶と恐怖があるように思えた。


 レナードは森を見つめ続けた。


「今日は引く」


「隊長」


「明日、リーフェ村へは行かない。まず周辺を固める」


「では」


「村に出入りする者を見る」


 セイルが目を細める。


「尾行ですか」


「必要なら」


 レナードの声は冷静だった。


「相手が守りたいものへ通うなら、道はそこに残る」


 ダンは無言で頷いた。


 森は静かだった。


 だが、少しずつ輪が狭まっている。


 リーフェ村では、昼食後も名前会議の熱が残っていた。


 エマはすでに発芽記念の歌を作ろうとしている。


「まだ出てないのに発芽記念?」


 トトが言う。


「出てから歌うの!」


「じゃあ今作るの早くない?」


「待つ時間も大事なんでしょ!」


 エマは堂々としていた。


 サムが真面目に記録する。


 発芽前歌、作成予定。


 私は少し笑った。


「歌も記録するのですか」


「村記録です」


 サムは即答した。


 畑記録と村記録。


 彼の中で、すでに分類ができている。


 私は感心した。


「素晴らしいです」


 サムは少し照れた。


 リーナは芽の色の糸を見せてくれた。


「アオジロウは、この色かな」


 淡い緑。


 少し黄色を含んだ、柔らかな色。


「まだ芽は出ていませんが、きっと近いと思います」


「出たら、ちゃんと見る」


「はい」


「でも森には行けないから、フローラ先生が見てきて」


「もちろんです」


 リーナはほっとしたように笑った。


 私はその笑顔を見て、改めて思った。


 森へ行けない子供たちの代わりに、私は見る。


 記録する。


 伝える。


 森と村をつなぐ。


 それが今の私の役目なのかもしれない。


 公爵家の使いが近づいている今、村と森の道は隠さなければならない。


 でも、完全に断ち切るわけではない。


 記録という道。


 言葉という道。


 歌という道。


 それらで、森と村はつながっている。


 私はそのことを大切にしたいと思った。


 夕方前、私は森へ帰る準備をした。


 今日も早めに帰る。


 村長さんの指示だ。


 子供たちは名残惜しそうだったが、今日は名前会議と発芽予想で満足しているようだった。


 エマが手を振る。


「明日、アオジロウ出たか見てきてね!」


「はい」


「ムラマルも!」


「はい」


「モリタンも!」


「もちろんです」


 ニコが小さな袋を渡してくれた。


「これ、母さんから。干し果物」


「ありがとうございます」


「待つ時に食べてって」


「はい。大切にいただきます」


 ルルが言う。


「掘っちゃだめだよ」


「掘りません」


 トトが続ける。


「でもよく見て」


「はい。よく見ます」


 サムは記録板の写しを渡してくれた。


「村側の予想記録です」


「ありがとうございます」


 リーナは小さな糸を一本、私の手に乗せた。


「これは、モリタンの色かも」


「モリタンの色」


「森っぽい緑」


 私はその糸を見つめた。


 少し深い緑。


 森の影を含んだ色。


「綺麗ですね」


「出たら、この色か確認して」


「はい」


 私は大切に籠へしまった。


 帰り道は、リオとミナ、ガルドさんが送ってくれた。


 小川沿いの道を進む。


 リオは今日、薬草の目印をほとんど間違えなかった。


「覚えていますね」


「大事な役目だからな」


「はい」


 ミナが少し嬉しそうに言う。


「リオ兄さん、本当に成長しました」


「豆と一緒にな」


 リオは照れ隠しのように言った。


 森の家に着くと、私はすぐ第二の畝を確認した。


 もちろん、まだ芽は出ていない。


 土は静かだ。


 でも、今日からその静けさには名前がある。


 アオジロウ。


 ムラマル。


 モリタン。


 私は畝の前にしゃがみ、小さく言った。


「みんな、名前が決まりましたよ」


 返事はない。


 でも、土の中で豆たちが聞いているような気がした。


 リオが隣で言う。


「アオジロウ、明日出るかな」


「まだ早いかもしれません」


「でも楽しみに待つのはいいだろ」


「はい」


 ミナも微笑む。


「怖い待ち時間に、楽しみな待ち時間を混ぜる」


「はい」


 私は畝を見つめた。


 公爵家の使いが森の道に気づき始めている。


 それは怖い。


 けれど、アオジロウたちが芽を出すかもしれない明日もある。


 怖さと楽しみが、同じ胸の中にある。


 どちらか一つだけにはできない。


 でも、楽しみを手放さなくていい。


 私はそれを、村の子供たちから教わった。


 夜、日記帳を開いた。


 今日、森の第二の畝の名前が決まった。


 青豆二号はアオジロウ。


 村豆一号はムラマル。


 森試験豆一号はモリタン。


 子供たちは発芽予想をした。


 サムが畑記録と村記録を分けることを考えた。


 パン屋さんが発芽前祝いの甘いパンをくれた。


 公爵家の使いたちは、森の道を誰かが消していることに気づき始めたかもしれない。


 怖い。


 でも、明日が少し楽しみでもある。


 私はペンを止めた。


 机の上に、リーナからもらった深い緑の糸を置く。


 芽の色。


 歌の色。


 モリタンの色。


 色が増えていく。


 怖さの色だけではない。


 私は最後に書いた。


 名前がつくと、待つ時間が少し温かくなる。


 アオジロウ、ムラマル、モリタン。


 私は明日、この名前を呼びながら畑を見る。


 怖いものも近づいている。


 でも、芽吹くものも土の中にある。


 日記帳を閉じる。


 暖炉の火が小さく揺れている。


 外の森は暗い。


 どこかで、誰かが道を探しているかもしれない。


 でも、私の畑には名前をもらった豆たちが眠っている。


 私は小さく子守歌を口ずさんだ。


 森の葉っぱが眠るころ。


 小さな灯りも目を閉じる。


 そして最後に、まだ見えない畝へ向けて言った。


「おやすみなさい、アオジロウ。ムラマル。モリタン」


 返事はない。


 けれど、その沈黙は少し温かかった。


★★★


 夜の森は、名前を覚えたばかりの静けさをしていた。


 アオジロウ。


 ムラマル。


 モリタン。


 昼間、村の子供たちが賑やかにつけてくれた名前を、私はもう一度心の中で繰り返した。


 畑の土は暗がりに沈んでいる。


 窓の外からは、第二の畝は見えない。


 けれど、そこにあると知っている。


 青豆一号の隣に、今日作った新しい畝がある。


 その土の中に、三種類の豆が眠っている。


 まだ芽は出ていない。


 まだ何も見えない。


 けれど、もうただの「試験豆」ではなかった。


 村の子供たちが名前をつけた。


 サムが記録を始めた。


 エマが発芽前の歌を作ろうとしていた。


 リーナが芽の色の糸を選んでくれた。


 ニコが干し果物を持たせてくれた。


 リオが「アオジロウは青豆一号の弟だ」と言った。


 ミナが笑ってくれた。


 それだけで、土の中の豆たちは、私の心の中で少しずつ輪郭を持ち始めていた。


 私は机の上に、今日もらったものを並べた。


 サムの予想記録。


 ニコの干し果物。


 リーナの深い緑の糸。


 花守り布。


 ニコ鳥。


 白い石。


 エマの緑の丸の絵。


 それらを見ていると、怖さばかりが胸を占めることはなかった。


 もちろん、怖い。


 公爵家の使いは近くにいる。


 森の道に違和感を持ち始めているかもしれない。


 いつか、私の家へ続く道に近づくかもしれない。


 その想像をすると、手足が冷える。


 でも、机の上には怖さ以外のものがある。


 小さな贈り物。


 記録。


 糸。


 絵。


 そして、名前。


 私は日記帳を開いた。


 今日のことは、もう書いた。


 けれど、もう少し書き足したくなった。


 第二の畝に名前がついた。


 アオジロウ、ムラマル、モリタン。


 まだ芽は出ていない。


 でも、名前がついただけで、待つ時間が少し温かくなった。


 名前は不思議だ。


 呼べるようになると、見えないものも少し近くなる。


 私はペンを止めた。


 見えないものが近くなる。


 それは、良いことばかりではない。


 公爵家の使いも、今はまだ直接見えていない。


 けれど、噂や報告によって少しずつ近くなっている。


 見えない怖さも、名前や情報を持つことで輪郭を持つ。


 スプリング公爵家の使い。


 レナード。


 セイル。


 ダン。


 私はまだ彼らの名前を知らない。


 けれど、向こうは私を探している。


 青い髪の少女。


 森に住む薬師。


 もしかしたら、フローラ・フォン・スプリング。


 そういう名前で。


 私はペンを握り直した。


 名前は、近づけるもの。


 だからこそ、私は今、自分が何と呼ばれたいのかを考える必要があるのかもしれない。


 青の姫君。


 化け物。


 公爵令嬢。


 森の薬師見習い。


 フローラ先生。


 リオとミナの友達。


 村の客人。


 どれも、私を表す言葉だ。


 でも、全部が同じ重さではない。


 私は今、フローラ先生と呼ばれる時が一番息をしやすい。


 それを認めてもいいのだろうか。


 公爵家の娘であることから逃げているだけではないのか。


 分からない。


 まだ分からない。


 だから、今は書いておく。


 今、私はフローラ先生と呼ばれることが嬉しい。


 そう書くと、胸が少し軽くなった。


 決めきれないことも、記録していい。


 サムが言うなら、きっとそう言うだろう。


 私は日記帳を閉じ、暖炉の火を少し小さくした。


 外の森は静かだった。


 結界にも異常はない。


 それでも、耳は自然と外へ向く。


 知らない足音はないか。


 枝の折れる音はないか。


 馬具の金具の音はないか。


 怖い待ち時間。


 でも今日は、その中に名前を呼ぶ楽しみがある。


「おやすみなさい、アオジロウ。ムラマル。モリタン」


 窓の外へ向けて小さく言った。


 返事はない。


 けれど、沈黙は昨日より少し温かかった。


 翌朝、私はまだ夜明け前に目を覚ました。


 外は薄暗い。


 森の輪郭が、窓の向こうで墨のように滲んでいる。


 私はしばらく寝台の上で耳を澄ませた。


 異常はない。


 鳥の声が一つ、遠くで鳴いた。


 私は起き上がり、花守り布をかぶる前に髪を梳いた。


 空色の髪が、朝の薄い光を受けて淡く光る。


 以前より、この髪を見るのが怖くなくなっている。


 隠す必要はある。


 でも、嫌いではない。


 私は髪をまとめ、花守り布をかぶった。


 リーナの刺繍が左側にくるように整える。


「今日も、畑を見ます」


 鏡の中の自分にそう言った。


 外へ出ると、朝の空気は冷たかった。


 草の先には露があり、土の匂いが濃い。


 私はまず青豆一号を見た。


 虫食いの葉は、少しずつ古びている。


 本葉は元気。


 茎も安定している。


 そして第二の畝。


 アオジロウ。


 ムラマル。


 モリタン。


 私は三つの札の前にしゃがんだ。


 土は静かだった。


 芽は、まだ出ていない。


「まだですね」


 少し残念。


 でも、それほど落ち込まない。


 昨日植えたばかりなのだから、当然だ。


 それでも、名前を呼びながら見ると、ただの土を見ているよりずっと胸がそわそわした。


 私は記録板に書いた。


 第二の畝、一日目。


 アオジロウ、発芽なし。


 ムラマル、発芽なし。


 モリタン、発芽なし。


 土の湿り、良好。


 観察者、少し期待しすぎ。


 書いてから、少し笑った。


 少し期待しすぎ。


 その通りだ。


 私は思った以上に、芽を

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