第25話 青の姫君、森の畑に第二の畝を作る
朝、森の空気は少しだけ柔らかかった。
昨夜の冷え込みが嘘のように、木々の間から差し込む光は淡く温かい。
葉の先に残った露が、小さな硝子粒のように揺れている。
風が吹くたび、枝葉の隙間から落ちる光が畑の土の上をゆっくり移動した。
私は花守り布を机の上に広げ、刺繍の花を指先で撫でた。
青い花。
白い花。
リーナの少し不揃いな針目。
その不揃いさが、今ではとても愛おしい。
完璧ではないからこそ、そこに人の手がある。
屋敷で見ていた刺繍は、いつも驚くほど整っていた。
高価な糸。
熟練した職人。
均一な針目。
美しい模様。
けれど、この花守り布を見るたびに思う。
私を本当に支えているのは、整いすぎた美しさではなく、誰かが私のために時間を使ってくれたという事実なのだと。
私は髪をまとめ、花守り布をかぶった。
鏡の中の私は、もう昨日ほど違和感がない。
髪を隠している。
でも、私が消えているわけではない。
そう思える日が、少しずつ増えていた。
「今日も、見ます」
鏡に向かってそう言い、私は外へ出た。
青豆一号は、朝の光の中で小さく揺れていた。
虫食いの葉。
新しく開いた本葉。
少し太くなった茎。
全部が同じ一本の豆だ。
私はしゃがみ込み、土に触れた。
湿り具合は良い。
結界の影響もない。
葉の色も濃すぎず、薄すぎず、ちょうどいい。
「順調ですね」
記録板に書く。
青豆一号、虫食い後八日目。
本葉、展開安定。
追加被害なし。
状態、良好。
観察者、今日は第二の畝を作る予定。
第二の畝。
その文字を書いて、私は少しだけ胸が弾むのを感じた。
森の畑に、新しい畝を作る。
これまで私の畑は、私が生きるための畑だった。
食べるため。
薬草を育てるため。
試験栽培のため。
森で一人暮らしていくため。
けれど、新しい畝は少し違う。
村の子供たちと一緒に育てるための畝。
共同畑で育てている豆とは別に、森の土と村の土の違いを見るための小さな試験畝。
青豆一号の隣に、いくつかの豆を植える。
村の子供たちには、まだ森へ来てもらえない。
公爵家の使いが近くを探っている以上、子供たちを森へ招くのは危険だ。
でも、森の畑の成長を村へ伝えることはできる。
記録を持って行き、絵を描き、土の違いを見せる。
いつかまた安全になった時、子供たちが森の家へ来られるように。
その日のために、新しい畝を作る。
そう考えると、胸の奥に小さな火が灯るようだった。
怖さはある。
公爵家の使いはまた来るかもしれない。
森へ踏み込むかもしれない。
それでも、私は畑を広げる。
それは無謀ではない。
日常を諦めないための、小さな抵抗だ。
結界に、リオとミナの気配が触れた。
今日はガルドさんの気配も少し後ろにある。
村と森の間の安全確認を兼ねているのだろう。
私は玄関へ向かった。
「おはよう、フローラ!」
リオの声は明るかった。
けれど、以前ほど無防備ではない。
森の中では声を少し抑えている。
たぶん本人なりに気をつけているのだ。
「おはようございます」
ミナは私の花守り布を確認し、微笑んだ。
「今日はとても綺麗に巻けています」
「練習しました」
「もう一人で大丈夫そうですね」
「はい。でも、ミナに確認してもらえると安心します」
そう言うと、ミナは少し嬉しそうに目を細めた。
「いつでも確認します」
リオは畑を覗き込む。
「青豆一号は?」
「順調です」
「見てもいい?」
「はい。近づきすぎなければ」
「信用されてるから大丈夫」
リオは胸を張った。
昨日からその言葉が気に入ったらしい。
私は少し笑い、二人を青豆一号の前へ案内した。
リオは本当に近づきすぎなかった。
見守り線がなくても、自分の足をきちんと止めている。
彼なりの成長だ。
「本葉、開いてるな」
「はい」
「穴、まだあるけど」
「あります」
「でも、もうそれだけじゃない」
リオはそう言って、少し得意げに私を見る。
私は頷いた。
「はい。それだけではありません」
ミナも青豆一号を見つめた。
「この子、本当に強いですね」
「強いです。でも、守られてもいます」
私は畑の周りを見た。
虫除け草。
結界。
土の調整。
水の加減。
毎朝の観察。
「強いことと、守られていることは、両方あっていいのだと思います」
自分で言って、胸の奥が少し揺れた。
私も、そうでありたい。
強い。
でも、守られていい。
それはまだ完全には慣れない考え方だ。
けれど、青豆一号を見るたびに少しずつ信じられる。
リオが頷いた。
「うん。フローラもそうだろ」
私は少し驚いてリオを見る。
「私も?」
「強いけど、守られていい」
ミナが優しく微笑む。
「はい。私もそう思います」
胸が温かくなった。
「……ありがとうございます」
照れくさくて、それ以上は言えなかった。
私は話題を変えるように、畑の端を指差した。
「今日は、第二の畝を作ろうと思います」
「第二の畝?」
リオの目が輝いた。
「新しい豆か?」
「はい。森の土で育てる試験用の畝です。村の豆と成長を比べます」
「面白そう!」
ミナも興味深そうに畑を見る。
「子供たちにも記録を見せられますね」
「はい。森へ来られない間も、森の畑の様子を伝えたいので」
リオは少し表情を柔らかくした。
「みんな喜ぶな」
「そうだといいです」
「絶対喜ぶ」
その断言が、少し嬉しかった。
ガルドさんも近づいてきた。
「作業をするなら、周囲の警戒は私が」
「ありがとうございます」
「ただし、無理はしないように。昨日もかなり魔力を使っています」
「はい。今日は土仕事中心です」
バルドさんがいないのが少し惜しい。
畑の畝作りなら、彼の意見も聞きたかった。
だが今日は村の畑を見ているらしい。
後で記録を見せよう。
私は鍬を手に取った。
公爵令嬢が鍬を持つ。
昔の屋敷の人たちが見たら、卒倒するかもしれない。
けれど今の私には、この重みがしっくりくる。
土を耕すための道具。
生きるための道具。
誰かと未来を共有するための道具。
私は畑の端に立ち、ゆっくり土へ鍬を入れた。
ざく、と湿った土が割れる。
森の匂いが濃くなる。
腐葉土。
草の根。
小さな虫。
土の中にある、目に見えないたくさんの命。
リオがすぐに言った。
「俺もやる!」
私は少し考え、鍬を渡した。
「では、ここからここまでを。深くしすぎず、土を裏返しすぎず」
「分かった」
リオは張り切って鍬を入れた。
一振り目。
深すぎた。
「リオ」
「え、だめ?」
「少し深いです」
「力加減難しいな」
「畑は力だけではありません」
ミナが笑う。
「リオ兄さん向きの勉強だね」
「俺、学ぶ」
リオは真剣に頷いた。
次は少し浅めに。
今度は浅すぎる。
私は隣で手本を見せる。
「このくらいです」
「このくらい」
リオは真似をする。
何度か失敗しながら、少しずつ加減を覚えていく。
その姿を見ていると、私は自然と笑っていた。
リオは失敗してもあまり落ち込まない。
すぐにもう一度やる。
勢いがありすぎることも多いけれど、その前向きさには助けられる。
ミナは土をほぐし、石を取り除く作業を手伝ってくれた。
手つきが丁寧だ。
指が汚れることを嫌がらない。
「ミナ、上手ですね」
「家の畑を少し手伝ったことがあります」
「そうなのですか」
「はい。リオ兄さんよりは丁寧です」
「おい」
リオが顔を上げる。
「事実です」
「否定できないけど」
ミナは小さく笑った。
しばらく三人で土を耕した。
ガルドさんは周囲を見回りながら、時々こちらを見る。
森の中に、不審な気配はない。
鳥の声。
枝の揺れ。
遠くの獣の足音。
結界に触れるものもない。
それでも私は、時々森の奥を見てしまう。
公爵家の使いが現れるのではないか。
青と銀の紋章が木々の間に見えるのではないか。
そう思うたび、胸が少し冷える。
でも、鍬を持つ手を止めなかった。
土を見る。
石を拾う。
根を避ける。
畝の形を整える。
目の前の作業に戻る。
怖さを消すのではなく、怖さ以外も見る。
村長さんの言葉が、体に少しずつ馴染んでいく。
やがて、新しい畝の形ができた。
まだ粗い。
けれど、青豆一号の隣に、細長い土の盛り上がりが生まれている。
リオは汗を拭きながら満足そうに言った。
「できた!」
「まだ完成ではありません。土を整えて、種を選んで、間隔を決めます」
「まだあるのか」
「畑は準備が大事です」
リオは少し疲れた顔をしたが、すぐに笑った。
「でも面白い」
「そうですか」
「うん。土って、ただ掘ればいいわけじゃないんだな」
「はい」
「なんか、人と似てるな」
私は手を止めた。
「人と?」
「力任せにやると駄目で、深すぎても浅すぎても駄目で、石とか根とか見ながらやるんだろ」
リオは自分で言いながら少し照れたように頭を掻いた。
「まあ、うまく言えないけど」
ミナが優しく言った。
「うまく言えてると思うよ」
私も頷いた。
「はい。とても」
リオは照れくさそうに笑った。
私は畝を見下ろした。
土を耕す。
深すぎず、浅すぎず。
硬い石を取り除き、残す根を見極める。
それは、人の心にも似ているのかもしれない。
過去を全部掘り返せば、根が傷む。
何も触れなければ、硬いまま水も空気も入らない。
少しずつ。
加減しながら。
私は今、自分の心も耕しているのだろうか。
そう思うと、鍬の重みがまた違って感じられた。
昼前、第二の畝に豆を植えた。
今回は三種類。
青豆一号と同じ種。
村の共同畑で使っている豆。
そして、森の環境に合わせて私が少し改良した試験豆。
それぞれ少しずつ区画を分ける。
札も立てた。
青豆二号。
村豆一号。
森試験豆一号。
リオが札を見て笑った。
「名前が研究っぽい」
「分かりやすさ重視です」
「エマが聞いたら名前つけ直されるぞ」
「その可能性は高いです」
ミナが楽しそうに言う。
「子供たち用の呼び名を別に作るのもいいかもしれません」
「別名」
「青豆二号は……青弟?」
リオが言う。
「弟なのですか」
「青豆一号の次だから」
「なるほど」
ミナが笑う。
「エマならもっと可愛い名前にしそうですね」
「村で相談しましょう」
そう言うと、リオの顔が明るくなった。
「今日、村に行く?」
「はい。午後に少しだけ」
作業後に休憩を取り、村へ記録を届ける予定だった。
無理をしないために、長居はしない。
でも、子供たちには第二の畝のことを伝えたい。
きっと喜ぶ。
その想像だけで、少し疲れが軽くなった。
一方その頃。
リーフェ村から北西へ半日ほど離れた街道沿いに、三頭の馬が止まっていた。
青と銀の小さな紋章を胸につけた男たち。
スプリング公爵家の使いである。
先頭の男、レナードは、街道脇の宿の前で馬から降りた。
年は三十代半ば。
鍛えられた体つき。
整えられた髪。
表情は硬く、隙が少ない。
彼は公爵家の護衛隊に長く仕え、命令を遂行することに慣れていた。
その後ろにいる若い男、セイルはまだ二十代前半。
緊張と焦りが顔に出やすい。
三人目の男は、寡黙な斥候役のダン。
彼は街道の泥や草の倒れ方を見ながら、黙って周囲を確認していた。
レナードは宿の主人に、いつもの質問をした。
「青い髪の少女を見なかったか」
宿の主人は肩をすくめる。
「青い髪? そんな目立つ子、いたら覚えてますよ」
「森に住む薬師の噂は」
「薬師なら、東の村に年寄りが一人いるくらいですかね」
「リーフェ村については」
その名を出すと、宿の主人は少しだけ目を細めた。
「森の近くの小村ですね。薬草は採れるらしいですが、たいした村じゃありませんよ」
レナードは黙って主人を見た。
たいした村ではない。
昨日も同じような印象を受けた。
小さな村。
畑。
子供。
パンの匂い。
だが、何かが引っかかっている。
村長の受け答えは老獪だった。
バルドという農夫も、ただの老人ではない。
薬草の話でこちらを追い返した。
そして何より、村全体の空気。
隠し事をしている村の空気だった。
それが青い髪の少女かどうかは、まだ分からない。
しかし、何かを守っている。
レナードはそう感じていた。
宿を出ると、セイルが低い声で言った。
「隊長、やはりリーフェ村が怪しいと思います」
「理由は」
「村長の反応です。森への道を聞いた時、明らかに拒みました」
「森が危険なら拒むのは当然だ」
「ですが、村の中を見ることも拒みました」
「領外の村だ。こちらに権限はない」
レナードは淡々と答えた。
セイルは少し苛立ったようだった。
「しかし、公爵閣下は令嬢を――」
「口を慎め」
レナードの声が低くなる。
セイルはすぐに黙った。
街道を風が吹き抜ける。
レナードは遠くの森を見た。
フローラ・フォン・スプリング。
青の姫君。
かつて王都でも噂になった神童。
そして、スプリング公爵家から姿を消した令嬢。
表向きには療養。
だが、屋敷内で彼女の存在はほとんど語られなくなった。
今回、命令が下ったのは突然だった。
青い髪の少女の噂を集めろ。
森や辺境の薬草地を確認しろ。
見つけた場合は、必ず報告せよ。
連れ戻せとは、正式には言われていない。
だが、暗にそういう意味を含んでいることは誰にでも分かった。
レナードは任務に忠実だ。
だが、昨日のリーフェ村で感じた空気は、少し奇妙だった。
怯え。
警戒。
それと同時に、強い拒絶。
もし本当に令嬢がいるなら、なぜ村がそこまで守るのか。
貴族の娘を匿う危険を、あの村が理解していないとは思えない。
それでも守る理由があるのか。
レナードは考え込んだ。
ダンが戻ってくる。
「森の東側に、古い獣道があります。リーフェ村から直接ではありませんが、迂回すれば森の浅い場所に入れます」
セイルが顔を上げた。
「なら、そこから」
レナードは片手を上げて制した。
「無断で森に入るな。まず周辺を確認するだけだ」
「しかし」
「命令は噂の確認だ。村と揉めるなとも言われている」
正確には、そう明言されたわけではない。
だが、公爵家が大きく動けば噂が広がる。
それを避けたい意図は明らかだった。
レナードは森を見つめる。
「リーフェ村は、また訪ねる」
セイルは頷いた。
「いつにしますか」
「すぐではない。警戒している村に続けて入れば、かえって隠される」
「では」
「周囲の村を回る。森の外側も見る。情報を集める」
レナードの目が細くなる。
「あの村が何を守っているのか、見極める」
風が吹いた。
遠くの森が、ざわりと揺れた。
その森の奥に、花守り布をかぶった少女が新しい畝を作っていることを、彼らはまだ知らない。
午後、私は村へ向かった。
第二の畝の記録板を籠に入れ、リオとミナと一緒に森の道を歩く。
午前中に土仕事をしたので、足が少し重い。
でも、嫌な疲れではなかった。
新しい畝を作った疲れ。
未来のための疲れ。
それは不思議と心地よい。
村に着くと、子供たちは共同畑の前にいた。
エマが真っ先に気づく。
「フローラ先生!」
「今日は知らせがあります」
私がそう言うと、子供たちの目が一斉に輝いた。
「何!?」
「青豆一号!?」
「公爵家の人!?」
ニコが最後に不安そうに言った。
私はすぐに首を振った。
「違います。畑の話です」
子供たちがほっとしたように息を吐く。
その反応に、胸が少し痛んだ。
子供たちにも不安は残っている。
でも、今日は畑の話を持ってきた。
怖さ以外の話を。
「森の畑に、第二の畝を作りました」
一瞬の沈黙。
それから、歓声が上がった。
「新しい畑!?」
「青豆一号の弟!?」
「見たい!」
「名前つける!」
リオが笑う。
「ほら、やっぱり」
私は記録板を広げた。
「青豆二号、村豆一号、森試験豆一号を植えました」
エマが即座に言う。
「名前、長い!」
「分かりやすさ重視です」
「青豆二号は、アオジロウ!」
リオが小声で言う。
「青弟じゃなかった」
ミナが笑う。
ニコが言う。
「村豆一号は?」
ルルが考える。
「むらまめちゃん?」
トトが言う。
「強そうじゃない」
サムが真剣に記録板を見つめる。
「正式名称と愛称、両方記録すればいい」
私は感心した。
「良い案です」
エマが胸を張る。
「じゃあ、全部名前つけよう!」
子供たちが集まり、名前会議が始まった。
青豆二号は、最終的に「アオジロウ」。
村豆一号は「ムラマル」。
森試験豆一号は、なぜか「モリタン」になった。
私はその名前を記録板の端に書いた。
青豆二号、愛称アオジロウ。
村豆一号、愛称ムラマル。
森試験豆一号、愛称モリタン。
研究記録としては、少し賑やかすぎる。
でも、悪くない。
むしろ、この方が今の私の畑らしい。
子供たちが関わり、名前をつけ、成長を待つ畑。
私は記録板を見ながら、小さく笑った。
リーナが花守り布を見上げて言う。
「今度、アオジロウの花も縫う?」
「豆に花が咲いたら、ぜひお願いします」
リーナは嬉しそうに頷いた。
サムはすでに新しい表を作り始めている。
森の畑と村の畑の比較表。
日付。
発芽日。
葉の数。
虫食い。
土の違い。
彼の目は真剣だった。
バルドさんが後ろから覗き込み、満足そうに言った。
「いい記録だ」
サムの背筋が伸びる。
「ありがとうございます」
「続けろ」
「はい」
その一言で、サムはとても嬉しそうだった。
私は村の共同畑を見た。
小さな豆たち。
新しい記録。
子供たちの声。
村の大人たちの見守り。
そして、森の畑に作った第二の畝。
公爵家の使いはまた来るかもしれない。
森を探るかもしれない。
それでも、ここには今日の畑がある。
今日の名前会議がある。
アオジロウ、ムラマル、モリタン。
少しおかしくて、少し愛おしい名前。
怖さ以外のものが、今日も確かにあった。
私は花守り布に触れ、静かに息を吸った。
そして子供たちに向かって言った。
「では、明日から森の第二の畝も記録に入れます。みんなで一緒に見守りましょう」
「はい!」
声が重なる。
少しずれて。
でも、とても元気に。
その声を聞きながら、私は心の中で思った。
私は、守りたい。
この声を。
この畑を。
この村を。
そして、この森で育ち始めた小さな未来を。
★★★
午後の村は、朝とは少し違う匂いがした。
パンの焼ける香りは薄くなり、代わりに井戸水の冷たさと、畑の土の湿った匂いが広場へ流れていた。
私は籠の中に、森の第二の畝の記録板を入れていた。
青豆二号。
村豆一号。
森試験豆一号。
今はまだ、それだけの名前だ。
けれど、村の子供たちに見せれば、きっとそのままでは終わらない。
エマが名前をつける。
ニコが真面目に頷く。
サムが正式名称と愛称を分けて記録する。
ルルとトトが言い合い、リーナがその色を糸で考える。
そんな光景が、村へ入る前から目に浮かんでいた。
私の隣を歩くリオは、すでに少しそわそわしている。
「早く言いたいな」
「まだ村の入口です」
「分かってるけどさ。第二の畝だぞ」
ミナが苦笑した。
「リオ兄さんが作った畝でもありますからね」
「そう。俺も耕した」
「深すぎたり浅すぎたりしていましたが」
「最後はできただろ」
「はい。最後はできていました」
リオはそれで満足したように胸を張った。
私はその横顔を見て、少し笑った。
午前中、土に鍬を入れた時のリオの真剣な顔を思い出す。
力任せではうまくいかない。
深すぎても浅すぎてもいけない。
人と似ている、と彼は言った。
その言葉は、まだ私の胸に残っていた。
森の畑に作った第二の畝は、ただの試験畝ではない。
リオの手が入っている。
ミナが石を拾ってくれた。
ガルドさんが周囲を守ってくれた。
バルドさんにはこれから記録を見せる。
そして村の子供たちが名前をつけ、成長を待つ。
そう思うと、畝は私一人のものではなくなっていた。
森の畑なのに、村とつながっている。
そのことが、少し不思議で、とても嬉しかった。
村の入口に立つ見張りの若者が、私たちを見つけて手を上げた。
「おかえり。今日は問題なしだよ」
「ありがとうございます」
「籠、重そうだね。何か採れたの?」
リオが答えたくて仕方なさそうに口を開きかける。
ミナが袖を引いた。
「子供たちの前で言うんでしょう?」
「そうだった」
若者は笑った。
「じゃあ楽しみにしておくよ」
広場へ入ると、共同畑の前に子供たちが集まっていた。
エマが真っ先に私を見つける。
「フローラ先生!」
それだけで、他の子供たちも一斉に振り返った。
ニコ、トト、ルル、サム、リーナ。
少し遅れて、リオ豆を見ていたリオに気づいた子供たちが、彼にも手を振る。
リオは嬉しそうに手を上げ返した。
「今日は知らせがあります」
私が言うと、子供たちの目が輝いた。
「青豆一号?」
「違います」
「公爵家の人?」
ニコが少し不安そうに聞いた。
私はすぐに首を横に振った。
「違います。畑の話です」
その瞬間、子供たちの顔がぱっと明るくなった。
この頃、彼らは「怖い知らせ」と「畑の知らせ」を聞き分けるようになっている。
それが少し胸に痛くもあり、同時に頼もしくもあった。
怖いことを知らないふりはできない。
でも、怖いことだけで日々を埋めない。
それは、村全体が少しずつ覚えていることだった。
「森の畑に、新しい畝を作りました」
一瞬の沈黙。
それから、エマが叫んだ。
「新しい畑!?」
「畝です」
「畑の赤ちゃん!?」
「……近いような、違うような」
リオが横で笑う。
「まあ、これから芽が出る場所だからな」
「じゃあ赤ちゃんだ!」
エマの中では決定したらしい。
サムがすぐに木板を持って前へ出た。
「記録ありますか」
「あります」
私は籠から記録板を出した。
森の第二の畝。
区画一、青豆二号。
区画二、村豆一号。
区画三、森試験豆一号。
土の状態。
水分。
植えた日。
比較対象。
サムは食い入るように見る。
その横からエマが覗き込んだ。
「名前が長い!」
「正式名称です」
「可愛くない!」
予想通りの反応だった。
リオが小声で言う。
「来たな」
ミナも笑いをこらえている。
私は真面目に頷いた。
「では、愛称を決めますか」
「決める!」
エマが勢いよく手を上げた。
ニコも小さく手を上げる。
「僕も考えたい」
トトとルルも同時に言う。
「俺も!」
「私も!」
リーナは少し恥ずかしそうにしながらも、こくりと頷いた。
サムはすでに記録板の端に「愛称欄」と書いている。
私は思わず笑った。
「では、名前会議を始めましょう」
広場の空気が一気に明るくなった。
子供たちは共同畑の前に輪を作って座る。
大人たちも何事かと集まり始めた。
パン屋の女性が粉のついた手を布で拭きながらやって来る。
「何だい、また会議かい?」
「森の新しい畝の名前会議です」
私が答えると、彼女は目を細めた。
「あらまあ。大事な会議だね」
村長さんも家の前からこちらを見ていた。
ガルドさんは見張りの位置を崩さず、けれど耳はこちらに向けている。
バルドさんは共同畑の端で腕を組み、少し呆れたようで、それでも楽しそうに見守っていた。
最初の議題は、青豆二号だった。
エマが真っ先に言う。
「アオちゃん二号!」
トトが首を振る。
「弱そう」
「弱くない!」
「もっと強い名前がいい。アオキング」
「王様なのですか」
私が聞くと、トトは頷いた。
「青豆一号の次だから」
リオが腕を組む。
「俺は青弟がいいと思う」
「アオオトウト?」
エマが目を丸くする。
「言いにくい!」
ルルが考え込む。
「アオジロウは?」
その言葉に、少し空気が止まった。
「アオジロウ」
リオが繰り返す。
「いいな」
エマも頷く。
「かわいい! ちょっと強い!」
ニコも小さく笑う。
「弟っぽい」
サムが記録板に書く。
青豆二号、愛称候補、アオジロウ。
バルドさんがぼそりと言った。
「まあ、分かりやすいな」
それで決まった。
青豆二号は、アオジロウ。
次は村豆一号。
ニコが少し緊張した様子で手を上げた。
「ムラマメ」
エマが首を傾げる。
「そのまま!」
「分かりやすいよ」
サムが頷く。
「記録には向いてる」
トトが言う。
「でも、もう少し丸い感じがいい」
「丸い?」
ルルが考える。
「ムラマル」
また、空気が止まった。
「ムラマル」
ニコが繰り返す。
「いい」
エマも頷く。
「丸い!」
トトも満足そうだ。
「強すぎないけど、育ちそう」
私は少し笑った。
「では、村豆一号はムラマルでよろしいですか」
子供たちが一斉に頷いた。
村豆一号、愛称ムラマル。
サムが丁寧に書き込む。
最後は、森試験豆一号だった。
これは少し難航した。
「モリモリ!」
エマが言う。
トトがすぐに否定する。
「食べ物みたい」
「森だから!」
「モリイチ」
サムが提案する。
「正式名に近い」
「かわいくない」
エマが言う。
リーナが小さく口を開いた。
「モリタン……」
声が小さかったので、最初は私しか聞き取れなかった。
私はリーナの方を向く。
「モリタン、ですか」
リーナは少し赤くなりながら頷いた。
「森の子、みたいで……」
エマがぱっと笑う。
「かわいい!」
ニコも頷く。
「優しそう」
ルルが言う。
「森っぽい」
トトは少し考えた後、頷いた。
「まあ、いい」
リーナの顔が少し明るくなった。
サムが記録する。
森試験豆一号、愛称モリタン。
これで三つの名前が決まった。
アオジロウ。
ムラマル。
モリタン。
私は記録板に並んだその名前を見つめた。
正式名称だけだった時より、ずっと近く感じる。
まだ土の中にある豆たち。
けれど名前がついた瞬間、村の子供たちにとって「待つ相手」になった。
名前には、不思議な力がある。
青豆一号の時もそうだった。
ニコ鳥の時も。
花守り布の時も。
名前がつくと、物はただの物ではなくなる。
心が結ばれる。
私はそれを、村に来てから何度も知った。
「では、今日から森の第二の畝は、アオジロウ、ムラマル、モリタンの三つを記録していきます」
私が言うと、子供たちは大きく頷いた。
「はい!」
声が揃う。
少しずれて。
でも、とても元気に。
バルドさんが近づいてきた。
「嬢ちゃん、記録見せろ」
「はい」
私は木板を渡した。
バルドさんは目を細め、土の配合や区画の間隔を見る。
「悪くねえ。森の土と村の土を比べるにはいい」
「森試験豆は少し魔力環境に合わせています」
「あまりやりすぎるなよ」
「はい。村で育てられないものにしては意味がありません」
バルドさんは満足そうに頷いた。
「分かってるならいい」
サムが横から聞く。
「バルドさん、これ、比較表にした方がいいですか」
「ああ。日付、天気、水、葉の数、虫食い。あと、土の様子だな」
「土の様子」
「硬い、柔らかい、湿ってる、乾いてる。分かる範囲でいい」
サムは真剣に書く。
私はそれを見て、胸が温かくなった。
サムはもう、ただ私から教わるだけではない。
バルドさんからも学び、自分で記録の形を考えている。
村の知識と、私の知識が、子供の手の中で混ざっていく。
それは、とても良いことだと思った。
昼食前、子供たちはそれぞれ発芽予想をした。
エマはアオジロウが一番早いと言った。
「青豆一号の弟だから!」
リオも同じ意見だった。
「俺もアオジロウ」
「理由は?」
サムが尋ねる。
「青豆一号の隣だから」
「正式な理由になってない」
「気持ちは大事だろ」
「気持ちの記録として残す」
サムはそう言って書き込んだ。
ニコはムラマルにした。
「村の豆だから、村に知らせたくて早く出るかも」
ルルとリーナはモリタン。
「森の子だから」
「静かに早そう」
トトは全部同時に出ると言った。
「そうなったら面白いから」
サムはムラマルを選んだ。
「村豆一号と共同畑の豆の比較がしやすくなるから」
とてもサムらしい理由だった。
私は全員の予想を記録板にまとめた。
予想も記録する。
外れても大事。
そう言うと、子供たちは真剣に頷いた。
この小さな発芽予想が、村に楽しい待ち時間を増やしている。
怖い待ち時間の中に、明るい色が混ざっていく。
私はそれを感じていた。
昼食では、パン屋の女性が少しだけ甘いパンを出してくれた。
「発芽前祝いだよ」
エマが首を傾げる。
「まだ出てないのに?」
「待つのも祝いのうちだよ」
パン屋の女性は笑った。
リオが真剣な顔で頷く。
「いい考えだ」
ミナが即座に言う。
「二つ目はありません」
「まだ言ってない」
「顔が言っていました」
村の人たちが笑う。
私は小さな甘いパンを両手で受け取った。
蜂蜜の香りがする。
一口食べると、優しい甘さが広がった。
待つことを祝う。
まだ結果が出ていなくても、待つ時間を大切にする。
それも、私がこれまで知らなかった感覚だ。
屋敷では、結果が大事だった。
満点。
勝利。
完成。
成功。
けれど村では、種を植えた日も、芽を待つ日も、虫食いを見つけた日も、全部が記録になり、話題になり、時には小さなお祝いになる。
過程を大切にする。
それは、私の心にも必要なことかもしれない。
私はまだ、過去との向き合い方の答えを出せていない。
父様と母様をどう思えばいいのか。
公爵家の使いにどう対応するのか。
帰りたくない気持ちと、案じていると言われて痛む気持ちをどう扱うのか。
答えは出ていない。
でも、その途中も記録していいのだ。
泣いた日。
怖かった日。
歌を教わった日。
布をもらった日。
第二の畝を作った日。
全部、私が育っている途中の記録なのかもしれない。
私はパンを食べながら、そう思った。
その頃、森の西側では、レナードたちがまだ森の外縁を調べていた。
斥候のダンは、獣道の前で膝をつき、落ち葉を指先で払う。
セイルは苛立たしげに腕を組み、森の奥を見ていた。
「これ以上何を調べるのですか」
彼の声には焦りがあった。
「道を消している者がいる。それで十分でしょう」
レナードは答えない。
彼はダンの手元を見ている。
ダンは土の表面を指でなぞった。
「昨日より、草が立っている」
「自然に戻っただけでは?」
セイルが言う。
ダンは首を横に振った。
「戻り方が揃いすぎている」
セイルは眉をひそめる。
「魔法か」
「可能性はある」
レナードの目がわずかに細くなった。
魔法で草を戻す。
足跡を薄める。
道をぼかす。
それができる者。
森を知り、魔力の扱いに長け、発見されたくない者。
条件は少しずつ重なっていく。
「隊長」
セイルが声を低くする。
「やはり、令嬢はこの森にいるのでは」
レナードはすぐには答えなかった。
彼の脳裏に、かつて遠目に見た青い髪の少女の姿が浮かぶ。
公爵家の庭園。
まだ幼いのに、周囲の大人たちを圧倒する魔力。
空色の髪。
深い青の瞳。
あれから年月が経っている。
もし生きているなら、今はもう少女というより、成長した令嬢になっているはずだ。
だが、噂では青い髪の少女。
年齢の認識は、人によって曖昧だ。
辺境の村人から見れば、若い娘は皆少女と呼ばれることもある。
レナードは静かに言った。
「可能性は高い」
セイルの顔が変わった。
「では、すぐに森へ」
「入らない」
「なぜですか」
「相手は道を隠している。こちらの動きも見ている可能性がある」
レナードは森の奥を見た。
「無理に踏み込めば逃げられる。あるいは、村と衝突する」
「村が匿っているなら、衝突もやむを得ないのでは」
「公爵家は、事を大きくするなと暗に命じている」
セイルは口を閉じた。
それは彼も分かっている。
令嬢の存在は、公爵家にとって扱いにくいものになっている。
探している。
しかし、表立って探せない。
案じている。
しかし、なぜ行方不明になったかは語らない。
その矛盾を、使いである彼らは抱えて動いている。
レナードはダンに尋ねた。
「この道を追えば、どこへ行く」
「途中で三つに分かれる。二つはおそらく偽。だが、どれが本物かはまだ断定できない」
「罠は?」
「殺傷目的の罠は見当たらない。迷わせるためのものだ」
「ならば相手は、こちらを殺すつもりはない」
レナードは低く言った。
「近づかせたくないだけだ」
セイルが少し苛立つ。
「それは、やましいものがあるからでしょう」
「あるいは、怯えているからだ」
その言葉に、セイルが黙った。
レナードは自分でも、なぜその言葉を口にしたのか分からなかった。
怯えている。
もし本当にフローラ令嬢がこの森にいるなら。
彼女は公爵家の使いを恐れているのか。
なぜ。
公爵家の人間なら、迎えに来た者を喜ぶはずだ。
少なくとも、普通なら。
だが、あの村の反応。
森の道を隠す手。
直接傷つける罠ではなく、遠ざける工夫。
そこには敵意よりも、拒絶と恐怖があるように思えた。
レナードは森を見つめ続けた。
「今日は引く」
「隊長」
「明日、リーフェ村へは行かない。まず周辺を固める」
「では」
「村に出入りする者を見る」
セイルが目を細める。
「尾行ですか」
「必要なら」
レナードの声は冷静だった。
「相手が守りたいものへ通うなら、道はそこに残る」
ダンは無言で頷いた。
森は静かだった。
だが、少しずつ輪が狭まっている。
リーフェ村では、昼食後も名前会議の熱が残っていた。
エマはすでに発芽記念の歌を作ろうとしている。
「まだ出てないのに発芽記念?」
トトが言う。
「出てから歌うの!」
「じゃあ今作るの早くない?」
「待つ時間も大事なんでしょ!」
エマは堂々としていた。
サムが真面目に記録する。
発芽前歌、作成予定。
私は少し笑った。
「歌も記録するのですか」
「村記録です」
サムは即答した。
畑記録と村記録。
彼の中で、すでに分類ができている。
私は感心した。
「素晴らしいです」
サムは少し照れた。
リーナは芽の色の糸を見せてくれた。
「アオジロウは、この色かな」
淡い緑。
少し黄色を含んだ、柔らかな色。
「まだ芽は出ていませんが、きっと近いと思います」
「出たら、ちゃんと見る」
「はい」
「でも森には行けないから、フローラ先生が見てきて」
「もちろんです」
リーナはほっとしたように笑った。
私はその笑顔を見て、改めて思った。
森へ行けない子供たちの代わりに、私は見る。
記録する。
伝える。
森と村をつなぐ。
それが今の私の役目なのかもしれない。
公爵家の使いが近づいている今、村と森の道は隠さなければならない。
でも、完全に断ち切るわけではない。
記録という道。
言葉という道。
歌という道。
それらで、森と村はつながっている。
私はそのことを大切にしたいと思った。
夕方前、私は森へ帰る準備をした。
今日も早めに帰る。
村長さんの指示だ。
子供たちは名残惜しそうだったが、今日は名前会議と発芽予想で満足しているようだった。
エマが手を振る。
「明日、アオジロウ出たか見てきてね!」
「はい」
「ムラマルも!」
「はい」
「モリタンも!」
「もちろんです」
ニコが小さな袋を渡してくれた。
「これ、母さんから。干し果物」
「ありがとうございます」
「待つ時に食べてって」
「はい。大切にいただきます」
ルルが言う。
「掘っちゃだめだよ」
「掘りません」
トトが続ける。
「でもよく見て」
「はい。よく見ます」
サムは記録板の写しを渡してくれた。
「村側の予想記録です」
「ありがとうございます」
リーナは小さな糸を一本、私の手に乗せた。
「これは、モリタンの色かも」
「モリタンの色」
「森っぽい緑」
私はその糸を見つめた。
少し深い緑。
森の影を含んだ色。
「綺麗ですね」
「出たら、この色か確認して」
「はい」
私は大切に籠へしまった。
帰り道は、リオとミナ、ガルドさんが送ってくれた。
小川沿いの道を進む。
リオは今日、薬草の目印をほとんど間違えなかった。
「覚えていますね」
「大事な役目だからな」
「はい」
ミナが少し嬉しそうに言う。
「リオ兄さん、本当に成長しました」
「豆と一緒にな」
リオは照れ隠しのように言った。
森の家に着くと、私はすぐ第二の畝を確認した。
もちろん、まだ芽は出ていない。
土は静かだ。
でも、今日からその静けさには名前がある。
アオジロウ。
ムラマル。
モリタン。
私は畝の前にしゃがみ、小さく言った。
「みんな、名前が決まりましたよ」
返事はない。
でも、土の中で豆たちが聞いているような気がした。
リオが隣で言う。
「アオジロウ、明日出るかな」
「まだ早いかもしれません」
「でも楽しみに待つのはいいだろ」
「はい」
ミナも微笑む。
「怖い待ち時間に、楽しみな待ち時間を混ぜる」
「はい」
私は畝を見つめた。
公爵家の使いが森の道に気づき始めている。
それは怖い。
けれど、アオジロウたちが芽を出すかもしれない明日もある。
怖さと楽しみが、同じ胸の中にある。
どちらか一つだけにはできない。
でも、楽しみを手放さなくていい。
私はそれを、村の子供たちから教わった。
夜、日記帳を開いた。
今日、森の第二の畝の名前が決まった。
青豆二号はアオジロウ。
村豆一号はムラマル。
森試験豆一号はモリタン。
子供たちは発芽予想をした。
サムが畑記録と村記録を分けることを考えた。
パン屋さんが発芽前祝いの甘いパンをくれた。
公爵家の使いたちは、森の道を誰かが消していることに気づき始めたかもしれない。
怖い。
でも、明日が少し楽しみでもある。
私はペンを止めた。
机の上に、リーナからもらった深い緑の糸を置く。
芽の色。
歌の色。
モリタンの色。
色が増えていく。
怖さの色だけではない。
私は最後に書いた。
名前がつくと、待つ時間が少し温かくなる。
アオジロウ、ムラマル、モリタン。
私は明日、この名前を呼びながら畑を見る。
怖いものも近づいている。
でも、芽吹くものも土の中にある。
日記帳を閉じる。
暖炉の火が小さく揺れている。
外の森は暗い。
どこかで、誰かが道を探しているかもしれない。
でも、私の畑には名前をもらった豆たちが眠っている。
私は小さく子守歌を口ずさんだ。
森の葉っぱが眠るころ。
小さな灯りも目を閉じる。
そして最後に、まだ見えない畝へ向けて言った。
「おやすみなさい、アオジロウ。ムラマル。モリタン」
返事はない。
けれど、その沈黙は少し温かかった。
★★★
夜の森は、名前を覚えたばかりの静けさをしていた。
アオジロウ。
ムラマル。
モリタン。
昼間、村の子供たちが賑やかにつけてくれた名前を、私はもう一度心の中で繰り返した。
畑の土は暗がりに沈んでいる。
窓の外からは、第二の畝は見えない。
けれど、そこにあると知っている。
青豆一号の隣に、今日作った新しい畝がある。
その土の中に、三種類の豆が眠っている。
まだ芽は出ていない。
まだ何も見えない。
けれど、もうただの「試験豆」ではなかった。
村の子供たちが名前をつけた。
サムが記録を始めた。
エマが発芽前の歌を作ろうとしていた。
リーナが芽の色の糸を選んでくれた。
ニコが干し果物を持たせてくれた。
リオが「アオジロウは青豆一号の弟だ」と言った。
ミナが笑ってくれた。
それだけで、土の中の豆たちは、私の心の中で少しずつ輪郭を持ち始めていた。
私は机の上に、今日もらったものを並べた。
サムの予想記録。
ニコの干し果物。
リーナの深い緑の糸。
花守り布。
ニコ鳥。
白い石。
エマの緑の丸の絵。
それらを見ていると、怖さばかりが胸を占めることはなかった。
もちろん、怖い。
公爵家の使いは近くにいる。
森の道に違和感を持ち始めているかもしれない。
いつか、私の家へ続く道に近づくかもしれない。
その想像をすると、手足が冷える。
でも、机の上には怖さ以外のものがある。
小さな贈り物。
記録。
糸。
絵。
そして、名前。
私は日記帳を開いた。
今日のことは、もう書いた。
けれど、もう少し書き足したくなった。
第二の畝に名前がついた。
アオジロウ、ムラマル、モリタン。
まだ芽は出ていない。
でも、名前がついただけで、待つ時間が少し温かくなった。
名前は不思議だ。
呼べるようになると、見えないものも少し近くなる。
私はペンを止めた。
見えないものが近くなる。
それは、良いことばかりではない。
公爵家の使いも、今はまだ直接見えていない。
けれど、噂や報告によって少しずつ近くなっている。
見えない怖さも、名前や情報を持つことで輪郭を持つ。
スプリング公爵家の使い。
レナード。
セイル。
ダン。
私はまだ彼らの名前を知らない。
けれど、向こうは私を探している。
青い髪の少女。
森に住む薬師。
もしかしたら、フローラ・フォン・スプリング。
そういう名前で。
私はペンを握り直した。
名前は、近づけるもの。
だからこそ、私は今、自分が何と呼ばれたいのかを考える必要があるのかもしれない。
青の姫君。
化け物。
公爵令嬢。
森の薬師見習い。
フローラ先生。
リオとミナの友達。
村の客人。
どれも、私を表す言葉だ。
でも、全部が同じ重さではない。
私は今、フローラ先生と呼ばれる時が一番息をしやすい。
それを認めてもいいのだろうか。
公爵家の娘であることから逃げているだけではないのか。
分からない。
まだ分からない。
だから、今は書いておく。
今、私はフローラ先生と呼ばれることが嬉しい。
そう書くと、胸が少し軽くなった。
決めきれないことも、記録していい。
サムが言うなら、きっとそう言うだろう。
私は日記帳を閉じ、暖炉の火を少し小さくした。
外の森は静かだった。
結界にも異常はない。
それでも、耳は自然と外へ向く。
知らない足音はないか。
枝の折れる音はないか。
馬具の金具の音はないか。
怖い待ち時間。
でも今日は、その中に名前を呼ぶ楽しみがある。
「おやすみなさい、アオジロウ。ムラマル。モリタン」
窓の外へ向けて小さく言った。
返事はない。
けれど、沈黙は昨日より少し温かかった。
翌朝、私はまだ夜明け前に目を覚ました。
外は薄暗い。
森の輪郭が、窓の向こうで墨のように滲んでいる。
私はしばらく寝台の上で耳を澄ませた。
異常はない。
鳥の声が一つ、遠くで鳴いた。
私は起き上がり、花守り布をかぶる前に髪を梳いた。
空色の髪が、朝の薄い光を受けて淡く光る。
以前より、この髪を見るのが怖くなくなっている。
隠す必要はある。
でも、嫌いではない。
私は髪をまとめ、花守り布をかぶった。
リーナの刺繍が左側にくるように整える。
「今日も、畑を見ます」
鏡の中の自分にそう言った。
外へ出ると、朝の空気は冷たかった。
草の先には露があり、土の匂いが濃い。
私はまず青豆一号を見た。
虫食いの葉は、少しずつ古びている。
本葉は元気。
茎も安定している。
そして第二の畝。
アオジロウ。
ムラマル。
モリタン。
私は三つの札の前にしゃがんだ。
土は静かだった。
芽は、まだ出ていない。
「まだですね」
少し残念。
でも、それほど落ち込まない。
昨日植えたばかりなのだから、当然だ。
それでも、名前を呼びながら見ると、ただの土を見ているよりずっと胸がそわそわした。
私は記録板に書いた。
第二の畝、一日目。
アオジロウ、発芽なし。
ムラマル、発芽なし。
モリタン、発芽なし。
土の湿り、良好。
観察者、少し期待しすぎ。
書いてから、少し笑った。
少し期待しすぎ。
その通りだ。
私は思った以上に、芽を




