第24話 青の姫君、隠した道の先で笑う
翌朝、森は静かだった。
静かすぎるほどだった。
鳥の声はある。
風も吹いている。
葉擦れの音も、井戸の水音も、いつも通りそこにある。
けれど、私の耳は別の音を探していた。
知らない足音。
馬具の金具。
公爵家の使いの声。
森の奥へ踏み込んでくる誰かの気配。
私は玄関の前に立ち、しばらく森の方を見ていた。
昨日、森の道を隠した。
小川で足跡を切り、偽の道を作り、薬草を目印にし、結界を整えた。
それは確かに守るための準備だった。
けれど、準備をしたからといって怖さが消えるわけではない。
むしろ、準備をしたからこそ、私は「本当に来るかもしれない」と何度も考えてしまう。
隠した道。
守った家。
ぼかした畑。
それらは全部、危険が近づいている証のようにも感じられた。
私は花守り布の端に触れた。
リーナの刺繍した青い花と白い花。
少し指先に凹凸が当たる。
その感触で、呼吸が少し落ち着いた。
「大丈夫」
声に出す。
大丈夫かどうかは分からない。
でも、言葉にしないと朝が始まらない気がした。
私は畑へ向かった。
青豆一号は、今日もそこにいた。
虫食いの穴は、もう私の目にも見慣れてきた。
初めて見つけた時は胸がざわついたのに、今はその穴も青豆一号の一部に見える。
新しい葉は、昨日よりさらに広がっていた。
双葉の上に、小さな本葉が開き始めている。
私はしゃがみ込み、葉の色を確かめた。
良い緑。
茎も少し強くなっている。
結界の影響も問題ない。
日光はきちんと届いているし、風も通っている。
私は記録板に書いた。
青豆一号、虫食い後七日目。
本葉、展開開始。
結界影響なし。
状態、良好。
観察者、少し不安。だが村へ行く予定。
書き終えてから、少し笑った。
最近、私の記録板は畑の記録なのか、私の記録なのか分からなくなっている。
でも、それでいいのかもしれない。
畑を見ることは、私を見ることにもつながっている。
青豆一号が傷を抱えながら育つなら、私も怖さを抱えたまま村へ行けるかもしれない。
「今日は村へ行きます」
私は青豆一号に言った。
「リオ豆やルルの豆も見てきますね」
葉が揺れた。
風だ。
でも、今朝はそれを返事として受け取ることにした。
朝食を取っていると、結界に二人の気配が触れた。
リオとミナ。
今日はガルドさんの気配も少し離れた場所にある。
村の見回りを兼ねているのだろう。
私は花守り布を確認し、玄関を開けた。
「おはよう!」
リオの声は、昨日より少し明るかった。
無理をしているのかもしれない。
でも、その明るさに救われる。
「おはようございます」
ミナが私の顔を見る。
「昨日より眠れましたか?」
「はい。少し」
「少しでも眠れたならよかったです」
リオが青豆一号の方を見た。
「見ていい?」
「はい」
三人で畑へ行く。
リオは、昨日引いた見守り線がないことに少し不満そうだった。
「ここにも線引くか?」
「必要ありません。リオはもう近づきすぎないと分かっています」
私が言うと、リオは少し目を丸くした。
「信用されてる?」
「はい」
リオは照れたように笑った。
「そっか。じゃあ近づきすぎない」
ミナが小さく笑う。
「信用されるとちゃんとするんですね」
「いつもちゃんとしてる」
「そういうことにしておきます」
リオは少し言い返そうとしてやめ、青豆一号を見た。
「おお。本葉出てる」
「はい」
「穴、もうあんまり気にならないな」
「私もです」
そう答えて、自分でも少し驚いた。
本当にそうだった。
穴が消えたわけではない。
けれど、新しい葉が出たことで、目がそこだけに止まらなくなった。
ミナが静かに言った。
「人も同じかもしれませんね」
「はい」
私は頷いた。
「傷が消えなくても、新しい日が来ると、見る場所が少し変わるのかもしれません」
リオは少し難しそうな顔で聞いていたが、やがて頷いた。
「じゃあ今日も新しい日だな」
「はい」
その言葉は単純だった。
でも、今の私には必要だった。
今日も新しい日。
昨日、森の道を隠した。
一昨日、公爵家の使いが来た。
その事実は消えない。
でも今日には、今日の畑がある。
今日の村がある。
私は花守り布を整え、籠を持った。
「行きましょう」
三人で森の道を歩く。
昨日整えた道は、すでに少し自然に馴染み始めていた。
小川の手前で、リオが足を止める。
「ここ、昨日より普通の森っぽい」
「それが狙いです」
「俺、目印ないと迷うかも」
「薬草の目印があります」
私は道端の草を指差した。
ミナが頷く。
「あの葉ですね」
「はい。村の人には分かるよう、少し特徴的な配置にしました」
リオは目を細める。
「……ただの草に見える」
「それでいいのです」
「俺、村の人なのに」
リオが少し悔しそうに言う。
私は考えた。
「では、後でリオにも目印を覚えてもらいます」
「おう!」
ミナがすかさず言う。
「勝手に森へ入るためではありませんよ」
「分かってる!」
「念のためです」
こういうやり取りをしながら歩けることが、ありがたかった。
森の道は隠された。
でも、村へ向かう足取りまで消えたわけではない。
私にはまだ、誰かと歩く道がある。
村へ着くと、見張りの若者がこちらに気づいて手を上げた。
「おはよう。今日は今のところ何もないよ」
「ありがとうございます」
何もない。
その言葉が、今はとても大きい。
何もない朝。
村の煙突から煙が上がり、子供たちが共同畑へ走りかけて大人に止められ、パン屋の女性が焼き上がったパンを並べている。
その全部が、昨日までより少し尊く見えた。
共同畑では、子供たちが待っていた。
私を見つけると、エマが手を振る。
「フローラ先生!」
「おはようございます」
「今日も来た!」
「はい。来ました」
それだけで、子供たちは少し安心したようだった。
ニコが近づいてくる。
「昨日、森の道直したの?」
「直したというより、少し隠しました」
「隠した?」
「外の人が迷わないように……いえ、迷うように」
言い直すと、リオが笑った。
「本音出た」
子供たちも少し笑う。
私は咳払いをした。
「危ない森に、外の人が勝手に入らないようにしました」
サムが頷く。
「守る工夫」
「はい。守る工夫です」
その言葉は、子供たちにも馴染んできている。
守る工夫。
虫除け草。
見守り線。
鐘の合図。
花守り布。
そして森の隠し道。
すべてが同じ線でつながっている。
豆の観察を始める。
マメタは元気。
エマが話しかけすぎているが、豆は今のところ問題ない。
ニコ豆は葉が少し広がった。
ニコは毎日見ることに慣れてきたようで、記録板を自分で見ながら変化を話せるようになっていた。
ルルの豆は、傷んだ葉を残したまま、新しい葉がしっかり開いている。
ルルはその葉を見て言った。
「もう、こっちもルルの豆」
「傷んだ葉も、新しい葉もですか」
「うん。どっちも」
私は微笑んだ。
「はい。どちらもルルの豆です」
リオ豆は、昨日より少し背が伸びた。
リオは嬉しそうにしていたが、見守り線の外で踏みとどまっている。
「近づきませんね」
「信用されてるからな」
彼は得意げだった。
ミナが小さく笑う。
「単純だけど、いいことですね」
「褒めてる?」
「褒めています」
リオは満足そうだった。
今日の授業は、森の道を隠したことを子供たちにも分かる範囲で話すものになった。
私は木板に、畑と森の絵を描いた。
畑には見守り線。
森には薬草の目印。
「守るためには、分かる人だけが分かる印を使うことがあります」
子供たちは真剣に聞いている。
「例えば、畑ではこの線より中に入らないと決めました。村の人は分かっています。でも、知らない人にはただの線に見えるかもしれません」
サムが手を上げる。
「記録係だけが分かる印も作れる?」
「作れます。ただし、大人にも分かるようにしてください」
「うん」
エマが言う。
「秘密基地みたい!」
「秘密基地に近いかもしれません。でも、遊びではなく安全のためです」
「安全の秘密基地」
エマは目を輝かせた。
少し不安だったが、ミナがすぐ補足してくれた。
「勝手に秘密を増やすのではなく、大人と決めた秘密だよ」
「はーい」
ニコが小さく言う。
「フローラ先生の森も、守る秘密?」
その言葉に、少し胸が詰まった。
でも、私は頷いた。
「はい。守る秘密です」
ニコは真剣に頷いた。
「言わない」
「ありがとうございます」
子供たちは一人ずつ頷いた。
リーナは花守り布を見て、小さく言った。
「布も、守る秘密」
「はい」
私は刺繍に触れた。
「とても大事な秘密です」
授業の途中、村の入口で少し人の動きがあった。
私は反射的に体を固くした。
鐘は鳴っていない。
リオがすぐに入口の方を見た。
ガルドさんが手で合図する。
問題なし。
ただの村人の出入り。
私は息を吐いた。
子供たちもその様子を見ていた。
エマが小さく言う。
「怖かった?」
「少し」
私は正直に答えた。
「でも、鐘は鳴っていません。ガルドさんも大丈夫の合図をしました」
「合図、見た」
サムが言う。
「見てから動く」
「はい」
怖いからすぐ逃げるのではなく、合図を見る。
状況を確認する。
それも守る工夫だ。
子供たちと一緒に、私も学んでいる。
昼食の時間、村の広場は少しだけ明るかった。
昨日より、皆の表情に余裕がある。
使いたちがいつ戻るか分からない不安は残っている。
でも、森の道を隠したことが、村人たちにも少し安心を与えたようだった。
パン屋の女性が、私に焼きたての小さなパンを渡してくれた。
「今日はいつものやつだよ。柔らかいのばっかりじゃ、顎が弱るからね」
「ありがとうございます」
リオが横で言う。
「俺も」
「リオはさっき食べたでしょう」
「一個だけ」
「一個食べたなら十分」
パン屋の女性は笑いながらも、リオにも一つ渡した。
「今日は見守り係、頑張ってるみたいだからね」
リオの顔が明るくなる。
「ありがとう!」
ミナが小さく笑う。
「よかったね」
こういう小さなやり取りが、村の空気を支えている。
私はパンを両手で持ち、ゆっくり食べた。
少し硬い。
でも香ばしい。
噛むほど甘みが出る。
昨日の柔らかいパンとは違う美味しさだった。
「美味しいです」
「そうだろう」
パン屋の女性は満足そうに頷いた。
昼食後、村長さんと短い打ち合わせをした。
森の道の整備について報告する。
小川で足跡を切ること。
偽の道を二つ作ったこと。
薬草の目印を使うこと。
結界を三層に調整したこと。
村長さんは静かに聞き、地図に印をつけていく。
「村の者に共有するのは、必要最低限にしよう」
「はい。知る人が多すぎると、外へ漏れる危険があります」
「リオは目印を覚えたか」
リオは少し気まずそうに目を逸らした。
「今から覚える」
村長さんは溜息をついた。
「必要なことだ。覚えなさい」
「はい」
ミナが横で言う。
「私も一緒に確認します」
「頼む」
村長さんは私を見る。
「フローラ。今日は昨日より顔色がいい」
「はい。村に来て、少し落ち着きました」
「それはよかった」
村長さんは少し間を置いた。
「だが、使いが戻る可能性はある。気を抜きすぎるな」
「はい」
「同時に、怖さだけで動くな」
私は顔を上げた。
村長さんは静かに続ける。
「怖さは必要だ。警戒になる。だが、怖さだけで動くと、大切なものを見落とす」
大切なもの。
私は共同畑を見た。
豆。
子供たち。
リオとミナ。
村の人たち。
森の家。
青豆一号。
「はい」
私は頷いた。
「怖さ以外も見ます」
村長さんは満足そうに頷いた。
午後は、リオとミナに森の薬草目印を教えることになった。
ただし、村の中で模型を使って。
森へ戻ってから実地確認するのは、明日に回す。
今日は私の負担を増やしすぎないためだ。
サムも記録係として参加したがったが、今回は大人向けの内容なので、村長さんに止められた。
サムは少し残念そうだったが、「子供用の目印表を作る時は頼む」と言われると、真剣に頷いていた。
私は木板に薬草の絵を描く。
葉の形。
並べ方。
本物の道と偽の道の違い。
リオは最初こそ難しそうにしていたが、「青豆一号へ行く道」と言うと急に覚えが良くなった。
「最初からそう言ってくれればいいのに」
「リオ兄さんは目的があると覚えるんですね」
ミナが言う。
「目的ないと覚えにくいだろ」
「普通は必要だから覚えるの」
「青豆一号は必要」
「それはそうだけど」
私は少し笑った。
リオの覚え方も、一つの工夫かもしれない。
その人に合った目印。
その人に合った理由。
教える時には、それを探すことが大事なのだろう。
夕方前、私は森へ帰ることになった。
今日は村で過ごす時間を少し短めにした。
無理をしない約束だからだ。
子供たちが見送りに来る。
エマが言う。
「明日も来る?」
「体調と村の様子を見て決めます」
「来てほしい」
「私も来たいです」
そう言うと、エマは満足そうに頷いた。
ニコが小さな袋を渡してくれた。
「これ、母さんから。パンの残り」
「ありがとうございます」
「フローラ先生、ちゃんと食べてって」
「はい。伝えてください。ちゃんと食べます」
ルルが私の布を見上げる。
「花守り布、今日も守った?」
「はい。守ってくれました」
リーナが嬉しそうに笑った。
私は胸が温かくなった。
森へ帰る道は、リオとミナが送ってくれた。
途中で、薬草の目印をもう一度確認する。
リオは何度か間違えたが、最後には本当の道を選べるようになった。
「覚えた!」
「明日も覚えているか確認します」
「え、明日も?」
「記憶は確認が大事です」
ミナが頷く。
「サムみたい」
「サムの記録係精神を見習いました」
リオは少し笑った。
森の家に着くと、青豆一号が夕暮れの光の中で揺れていた。
私はニコからもらったパンの袋を台所へ置き、畑へ向かった。
「ただいま」
声をかける。
リオも隣にしゃがむ。
「今日も守ったな」
「はい」
ミナが続ける。
「怖さ以外も見られましたね」
「はい」
私は青豆一号の新しい葉を見た。
朝より、ほんの少し開いている気がする。
小さな変化。
でも確かな変化。
「今日も新しい日でした」
私が言うと、リオが笑った。
「だろ」
夜。
一人になった家で、私はニコの母親が持たせてくれたパンを温めた。
少し硬くなっていたが、スープに浸すと美味しかった。
村の薬草茶も淹れる。
今日は昨日ほど泣かなかった。
怖くなかったわけではない。
でも、怖さだけではなかった。
私は日記帳を開いた。
今日、村へ行った。
森の道を隠した翌日だった。
少し怖かったが、村は動いていた。
子供たちの豆は元気だった。
ルルは、傷んだ葉も新しい葉もどちらも自分の豆だと言った。
リオは見守り線を守った。
サムは目印表を作りたがった。
ニコのお母さんがパンを持たせてくれた。
村長さんに、怖さだけで動くなと言われた。
怖さ以外も見る。
私はペンを止めた。
怖さ以外。
今日見たもの。
エマの笑顔。
ニコのパン。
ルルの言葉。
リーナの花守り布。
リオの見守り線。
ミナの手。
村の煙突。
パンの匂い。
青豆一号の本葉。
たくさんある。
怖さは大きい。
でも、それだけで今日を塗りつぶさなくていい。
私は最後に書いた。
公爵家の使いはまた来るかもしれない。
でも、今日の村にはパンが焼ける匂いがあった。
豆の葉が伸びていた。
私は笑った。
怖さ以外も、確かにあった。
日記帳を閉じる。
暖炉の火が静かに揺れている。
花守り布を畳み、ニコ鳥の隣に置く。
窓の外は暗い。
でも、森の道は隠れている。
村へ続く本当の道は、私たちだけが知っている。
そのことが、少し心強かった。
「明日も、見ます」
私は小さく呟いた。
怖さも。
畑も。
新しい葉も。
そして、怖さ以外のものも。
全部、見落とさないように。




