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『青の姫君の森暮らし 〜化け物と恐れられた公爵令嬢は、今日も畑を耕します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第23話 青の姫君、森の道を隠す

朝の森は、昨日より少し冷えていた。


 夜の間に雨は降らなかったが、地面には湿り気が残っている。


 木々の根元には薄い霧が漂い、低い草の先には小さな露が並んでいた。


 私は花守り布をかぶり、玄関の前に立っていた。


 今日は村へ行く前に、森の道を確認する。


 公爵家の使いが、森への道を尋ねたからだ。


 昨日の話し合いで、ガルドさんとバルドさんがまず村側の道を見直してくれた。


 でも、森の家の周辺は私が一番詳しい。


 だから今日は、無理のない範囲で一緒に確認することになった。


 怖くないと言えば嘘になる。


 昨日より息はしやすい。


 でも、公爵家の使いが森へ入るかもしれないと思うと、胸の奥が冷える。


 この森には、私の家がある。


 青豆一号がある。


 花壇がある。


 薬草園がある。


 ニコ鳥の置かれた机がある。


 ミナとジャムを作った台所がある。


 子供たちが「また来たい」と言ってくれた庭がある。


 捨てられた場所だったはずの森の家は、もう私にとって、ただの隠れ家ではない。


 私の暮らしだ。


 だから、守りたい。


「おはようございます」


 私は青豆一号に声をかけた。


 虫食いの穴はそのまま。


 新しい葉は、少しずつ広がっている。


 私は記録板に書く。


 青豆一号、虫食い後六日目。


 新葉、安定。


 追加被害なし。


 今日は森の道を確認する。


 最後の一文は、畑の記録ではない。


 でも、書きたかった。


 青豆一号にも、今日のことを知っていてほしかった。


 しばらくして、結界の外に四人の気配が触れた。


 リオ。


 ミナ。


 ガルドさん。


 バルドさん。


 いつもより足音が慎重だ。


 森の道から現れたリオは、私を見るとすぐに手を上げた。


「おはよう、フローラ」


「おはようございます」


 ミナが私の花守り布を確認してくれる。


「今日も綺麗に巻けています」


「ありがとうございます」


 ガルドさんは周囲を見回し、静かに頷いた。


「結界に乱れはありませんね」


「はい。昨日の夜に少し強めました。ただ、強めすぎると森の気配が不自然になるので、外側は薄くしています」


 バルドさんが腕を組む。


「その加減が俺には分からねえ」


「見えない柵のようなものです」


「見えない柵か」


「ただし、強すぎる柵は、ここに何かあると知らせてしまいます」


 ガルドさんが頷く。


「隠す結界と、防ぐ結界は違うということですね」


「はい」


 リオが少し難しい顔をする。


「強い方がいいってわけじゃないんだな」


「はい。強すぎると目立ちます」


「畑の薬と同じか」


 バルドさんがぼそりと言った。


「強い薬を撒けば虫は減るが、畑も痛む」


「そうです」


 私は頷いた。


「守るためには、加減が必要です」


 その言葉を口にして、自分でも少し胸に残った。


 守るための加減。


 結界も。


 畑も。


 人との距離も。


 隠れることも。


 全部、強ければいいわけではない。


 私はそれを、村で少しずつ学んでいる。


 まずは家の周囲から確認した。


 花壇。


 薬草園。


 井戸。


 畑。


 青豆一号。


 子供たちが森見学に来た時に使った道。


 足跡はほとんど消えているが、よく見れば踏み固められた場所がある。


 バルドさんがしゃがみ込み、土を指で撫でた。


「ここは分かる奴には分かる」


「やはり」


「子供が何人も歩いたからな。草の倒れ方が違う」


 私は唇を引き結んだ。


 子供たちの森見学。


 楽しかった記憶。


 それが今は、痕跡として不安の種になっている。


 胸が少し痛む。


 ミナが横で静かに言った。


「楽しかったことは、悪いことではありません」


 私は顔を上げる。


「でも、痕跡が」


「痕跡は消せます。でも、楽しかったことまで悪いことにしなくていいです」


 その言葉に、少し救われた。


「はい」


 バルドさんが頷く。


「ミナの言う通りだ。道は直せばいい」


 リオも言う。


「また来られるようにするために、今は隠すんだろ」


「はい」


 私は深く息を吸った。


 そうだ。


 子供たちが来たことを後悔するためではない。


 また安全に来られるようにするため。


 私は魔法で、踏み固められた土を少し柔らかくした。


 ただし、不自然に戻しすぎない。


 倒れた草には、水分と微弱な魔力を与え、ゆっくり立ち上がるよう促す。


 一瞬で元通りにすれば、逆に魔法の痕跡が残る。


 だから、半日ほどかけて自然に戻る程度にする。


 リオが感心したように見ていた。


「すげえ。草が少し起きた」


「起こしすぎると不自然なので、このくらいです」


「俺なら全部ぴんってしたくなる」


「リオ兄さんは絶対そうすると思った」


 ミナが笑う。


 リオは少し肩をすくめた。


 次に、森の家へ続く主な道を確認した。


 主な道と言っても、人が整備した道ではない。


 私が普段歩くうちに、自然と通りやすくなった道だ。


 村から来る場合、リオたちが使う道もほぼ同じ。


 そこにはわずかに足跡が残っている。


 ガルドさんが周囲を見ながら言った。


「もし使いが森に入るなら、村人の足跡を追う可能性があります」


「はい」


「足跡を完全に消すのは難しいですが、途中で分散させることはできますか」


「できます」


 私は森の地形を思い浮かべた。


 小川。


 倒木。


 岩場。


 獣道。


 薬草の群生地。


 魔物が出やすい湿地。


 迷いやすい斜面。


「村から来る道を一度、小川で切ります。水の中を少し歩けば足跡が消えます。その後、二つの偽の道を作ります」


「偽の道?」


 リオが聞く。


「はい。人が通ったように見えるけれど、少し進むと行き止まりになる道です」


 バルドさんがにやりと笑った。


「獣道を使うか」


「はい。人の足跡と獣の足跡を混ぜます」


「悪くねえ」


 ガルドさんも頷いた。


「ただし、村人が迷わないよう印が必要です」


「印は、薬草の配置で作ります」


「薬草?」


「村の人には見慣れた薬草を目印にします。外の人にはただの草に見えます」


 ミナが少し目を輝かせた。


「フローラらしいです」


「分かりにくいでしょうか」


「いいえ。とても良いと思います」


 私たちは小川へ向かった。


 森の中を進む。


 葉の擦れる音。


 湿った土を踏む音。


 鳥の声。


 遠くで小さな獣が走る気配。


 公爵家の使いがこの森へ入ってくるかもしれない。


 そう思うと、いつも親しい森が少し緊張して見えた。


 でも同時に、この森は私を知っている。


 私が十歳から生きてきた場所。


 泣き方も知らず、ただ生きるために畑を作り、結界を張り、川で魚を捕った場所。


 ここは私を捨てた場所であり、私が暮らしを作った場所でもある。


 私は、その森の道を自分の足で歩いた。


 小川に着くと、バルドさんが周囲を見た。


「ここで足跡を切るのはいいな」


「水は浅いですが、石が滑ります」


「子供は連れてこない方がいい」


「はい。当面は大人だけです」


 リオが川を覗き込む。


「俺、渡れる」


「滑らないでください」


「大丈夫だって」


 言った直後、リオの足が少し滑った。


 ミナが即座に言う。


「ほら」


「まだ転んでない!」


「転びかけました」


 リオは黙った。


 私は少し笑った。


 こういう小さなやり取りがあるだけで、森の空気が少し軽くなる。


 小川の中の石をいくつか動かし、足を置く場所を作る。


 水の流れで足跡が消えやすいよう、岸の土も少し整える。


 向こう岸には、村人だけが分かる薬草を二株植えた。


 片方は安全な薬草。


 もう片方は、触ると少しかぶれる草に似ているが無害なもの。


 外の人は避けるか、気にしない。


 村人は「あそこが本当の道」と分かる。


 偽の道は、リオとバルドさんが協力して作った。


 リオは足跡をつける役を喜んで引き受けた。


 ただし、やりすぎると不自然なので、バルドさんに何度も止められる。


「踏みすぎだ」


「人が通った感じに」


「人が踊った感じになってる」


「踊ってない!」


 ミナが笑いをこらえている。


 私は思わず口元を緩めた。


 偽の道の先は、棘の多い低木に囲まれた行き止まりにした。


 危険すぎない。


 けれど、進みたくはなくなる場所。


 もう一つの偽の道は、少し湿った地面へ誘導する。


 足を取られるが、深くはない。


 戻るしかなくなる。


 人を傷つける罠ではない。


 ただ、進ませないための道。


 ガルドさんが確認しながら頷いた。


「これなら、時間を稼げます」


「はい。時間があれば、結界を強めたり、村へ知らせたりできます」


 リオが真剣な顔で言う。


「公爵家の使いが来たら、ここで迷わせる」


「迷わせるだけです。攻撃はしません」


「分かってる」


 リオは頷いた。


 その表情は、以前より少し落ち着いていた。


 ただ怒るだけではない。


 守るために、我慢する。


 リオも学んでいる。


 そう思うと、少し胸が温かかった。


 昼前までかけて、森の道を整えた。


 途中で何度も休憩を挟んだ。


 ミナがそれを提案してくれた。


「フローラ、今日は無理しない約束です」


「はい」


 私は素直に座った。


 以前なら、まだできるからと続けていただろう。


 でも今日は、止まれた。


 倒木に腰掛け、ミナが持ってきてくれたパンを食べる。


 リオは二つ目に手を伸ばし、ミナに「これは全員分」と止められる。


 バルドさんは黙って水を飲み、ガルドさんは周囲を見ている。


 私は花守り布の刺繍に触れながら、森を見回した。


「ここを隠すことになるとは、思いませんでした」


 私が呟くと、ミナが隣で聞いた。


「嫌ですか」


「少し」


 正直に言う。


「この森の家は、もともと隠されていた場所です。私を捨てるために。でも今は、私がここで暮らしたいから隠しています。同じ隠すでも、違うはずなのに……時々、胸が痛くなります」


 ミナは静かに聞いてくれた。


 リオもパンを持ったまま黙っている。


 ガルドさんとバルドさんも、何も言わない。


 私は続けた。


「隠されるのは嫌です。でも、見つかるのも怖いです。だから自分で隠すことを選んでいます。でも、それでも少し、苦しいです」


 沈黙。


 森の葉が揺れる。


 小川の音が遠くで響く。


 ミナがそっと言った。


「苦しいままでも、選んでいいと思います」


「苦しいままでも」


「はい。選んだからといって、全部平気になるわけではないと思います」


 リオが頷いた。


「俺も、使いに怒鳴らないって決めたけど、怒鳴りたくなくなったわけじゃないし」


 バルドさんが短く笑った。


「それはそうだな」


 ガルドさんも言う。


「選ぶことと、感情が消えることは別です」


 私はその言葉をゆっくり受け取った。


 選ぶことと、感情が消えることは別。


 帰りたくないと選んだ。


 でも家族の言葉に揺れる。


 隠すと選んだ。


 でも苦しい。


 それでも、選びは嘘ではない。


「勉強になります」


 私が言うと、リオが少し笑った。


「また勉強になった」


「はい」


 ミナも笑った。


 その笑い声が、森の中で小さく広がった。


 午後は、森の家の結界を確認した。


 私は結界の層を三つに分けて説明した。


 一つ目は、森の気配に紛れる薄い膜。


 二つ目は、家や畑の存在をぼかす認識阻害。


 三つ目は、危険な魔物や敵意ある者を防ぐ防御。


 リオは途中で目を回しそうになっていた。


「三つあるのは分かった」


「十分です」


「全部分かるのは無理だ」


「それも大事な判断です」


 ミナは少し理解しているようだった。


「外から見ると、ここがただの森に見えるのですか」


「はい。強い意思を持って探さない限り、視線が逸れます」


「公爵家の使いが強い意思を持って探したら?」


 その問いに、私は少し黙った。


「結界の外側だけでは、完全には防げません」


 リオの顔が険しくなる。


「じゃあ」


「だから、道を迷わせます。近づかれた場合は、二つ目の認識阻害で家をぼかします。それでも突破されたら、三つ目で防ぎます」


 ガルドさんが低く言う。


「三段階ですね」


「はい」


 バルドさんが周囲を見ながら言った。


「畑は隠せるのか」


「ある程度は。ただ、畑は生命力が強いので、完全に隠すと不自然になります」


「青豆一号は?」


 リオがすぐ聞いた。


 私は青豆一号を見る。


「隠します。でも、潰しません」


「当たり前だ」


 リオは真剣だった。


 私は少し笑った。


「はい。当たり前です」


 青豆一号の周囲にも、薄い結界を張る。


 踏まれないように。


 見つかりにくいように。


 でも、日光と風は届くように。


 守るための加減。


 私は丁寧に魔力を調整した。


 作業を終える頃には、少し疲れていた。


 額に汗が滲む。


 ミナがすぐに気づく。


「休みましょう」


「あと少しだけ」


「休みましょう」


「……はい」


 ミナの声は優しいが、譲らない。


 私は素直に椅子へ座った。


 リオが水を持ってくる。


「はい」


「ありがとうございます」


「フローラ、すぐ無理するからな」


「学習中です」


「今日は止まれたから、少し成長」


「はい」


 私は水を飲んだ。


 冷たい水が喉を通る。


 体の中の熱が少し落ち着く。


 バルドさんが青豆一号を見ながら言った。


「これで、すぐ見つかることはねえだろ」


「はい。ただ、相手に高位の魔法師がいれば、完全ではありません」


「公爵家ならいる可能性があるか」


「あります」


 空気が少し重くなる。


 私はそれを感じながら、続けた。


「でも、時間は稼げます。時間があれば、逃げることも、話し合う準備もできます」


 リオが拳を握る。


「逃げる場所も考えないとな」


 ガルドさんが頷く。


「村長とも相談します。森の奥へ一時的に移動する経路、村の地下倉庫、どちらも選択肢として残しましょう」


 また選択肢。


 私はそれを聞いて、少し安心した。


 追い詰められて一つしか道がないのは怖い。


 選べる道があるだけで、呼吸が少し楽になる。


 夕方近く、作業は終わった。


 リオたちは一度村へ戻る。


 私は森の家に残る。


 明日は村へ行くかどうか、朝の様子で決めることになった。


 帰り際、リオが青豆一号の前で手を合わせた。


「青豆一号、フローラを頼む」


「豆に頼むのですか」


「大事だろ」


 私は少し笑った。


「はい。大事です」


 ミナも青豆一号を見て微笑んだ。


「フローラも、青豆一号も、今日はよく頑張りました」


「ありがとうございます」


 ガルドさんは結界の境目をもう一度確認し、頷いた。


「異常があれば、すぐ知らせてください」


「はい」


 バルドさんは短く言った。


「休め」


「はい」


「本当に休め」


「……はい」


 皆に同じことを言われている気がする。


 でも、それだけ心配されているのだろう。


 私は四人を見送った。


 森の道へ消えていく背中。


 今朝、隠すために整えた道。


 でも、彼らの背中は迷わず村へ戻っていく。


 村へ続く道は、私にとってまだ確かにある。


 そのことが嬉しかった。


 夜。


 私は早めに夕食を済ませた。


 疲れていたので、簡単な野菜スープとパン。


 村でもらった薬草茶も淹れた。


 台所に温かい香りが広がる。


 花守り布を外し、丁寧に畳む。


 髪が肩へ落ちる。


 今日は一日中布をかぶっていたので、髪に少し癖がついていた。


 鏡で見ると、少し乱れている。


 でも、それも今日の跡だ。


 私は日記帳を開いた。


 今日、森の道を隠した。


 小川で足跡を切る道を作った。


 偽の道も作った。


 薬草を目印にした。


 森の家の結界を三層に調整した。


 青豆一号にも薄い結界を張った。


 隠すことは少し苦しかった。


 でも、これはまた村の子供たちが森へ来られるようにするためでもある。


 ミナが、苦しいままでも選んでいいと言った。


 ガルドさんが、選ぶことと感情が消えることは別だと言った。


 私はペンを止めた。


 外はもう暗い。


 結界が静かに森を包んでいる。


 以前の結界は、私だけを守るためのものだった。


 今の結界は、私の暮らしを守るためのものだ。


 畑。


 家。


 村へ続く道。


 友達が来る場所。


 子供たちがまた来たいと言った庭。


 その全部を守るため。


 私は最後に書いた。


 捨てられた森の道を、今日は自分の意思で隠した。


 同じ森でも、あの日とは違う。


 私はここに置き去りにされた子供ではなく、ここで暮らすことを選んだフローラだ。


 日記帳を閉じる。


 暖炉の火が小さく鳴る。


 机の上のニコ鳥が、薄い影を落としている。


 花守り布。


 村の客人札。


 リーナの栞。


 白い石。


 全部、ここにある。


「守ります」


 私は小さく呟いた。


 それは、強い魔法を撃つ時の宣言ではない。


 畑を毎朝見るような。


 薬草を一枚ずつ選ぶような。


 小さく、でも続いていく決意だった。


 外の森は静かだ。


 でも、その静けさの奥には、私が選んだ道が隠れている。


 村へ続く道。


 友達が来る道。


 私が逃げるかもしれない道。


 そして、いつか隠さず歩けるようになるかもしれない道。


 私は暖炉の火を見つめながら、ゆっくり目を閉じた。


 明日も、青豆一号を見る。


 結界を見る。


 自分の怖さも見る。


 怖くても。


 苦しくても。


 私はもう、目を逸らすだけの子供ではない。

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