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『青の姫君の森暮らし 〜化け物と恐れられた公爵令嬢は、今日も畑を耕します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第21話 青の姫君、扉の向こうの声を聞く


 パン屋の裏は、温かい匂いがした。


 焼きたてのパン。


 粉袋。


 乾いた木箱。


 少し焦げた皮の香ばしさ。


 いつもなら、その匂いは私の心を落ち着かせてくれる。


 村に来てから覚えた、安心する匂いの一つだった。


 けれど今は、その温かさが遠かった。


 扉の向こうから、馬の鼻息が聞こえる。


 革具のきしむ音。


 金具が触れ合う硬い音。


 男たちの低い声。


 村の入口で、スプリング公爵家の使いが村長さんと話している。


 私は木箱の陰に立ち、花守り布の端を握っていた。


 指先が冷たい。


 布に縫われた小さな青い花が、震える手の下で少し歪む。


 リーナが縫ってくれた花。


 ミナが結んでくれた布。


 村の女性たちが仕立ててくれた、私を守るための布。


 隠すためではなく、ここにいることを選ぶための布。


 そう分かっているのに、怖いものは怖かった。


 扉の向こうにいるのは、私を知る世界の人間だ。


 私が捨てられる前にいた場所。


 公爵家。


 父様の命令。


 屋敷の紋章。


 青と銀。


 それが、村の入口まで来ている。


 もう、遠い噂ではない。


 目の前にいる。


 ミナは私の手を握ってくれていた。


 手のひらは少し汗ばんでいる。


 ミナも怖いのだ。


 それでも、彼女は逃げずに隣にいてくれる。


 リオは扉の近くに立ち、外の様子を聞いている。


 いつもの勢いはない。


 けれど、その背中はまっすぐだった。


 私の前に立つように。


 外の声が、少しはっきり聞こえた。


「スプリング公爵家の命により、薬草と療養地について尋ねたい」


 使いの声。


 丁寧だが、どこか固い。


 命令に慣れた声だった。


 村長さんが答える。


「薬草の話なら聞こう。だが、この村は小さい。期待に添えるかは分からん」


「構わない。森に近い村を順に確認している」


「森なら広い。薬草も場所による」


「では、村に薬草に詳しい者はいるか」


 心臓が跳ねた。


 薬草に詳しい者。


 それは、私だ。


 森の薬師見習いフローラ。


 村の子供たちに薬草を教えた先生。


 村人たちの薬草茶を配合した者。


 この問いは、私に近づいている。


 ミナの手が少し強くなる。


 リオが小さく息を吸った。


 村長さんは、少しも慌てなかった。


「いるにはいる。村には昔から薬草を扱う者が何人かいる。だが、王都の貴族様が求めるような珍しい薬はない」


「名を聞いても?」


「村の女衆だ。冬の咳止めや虫刺されに使う程度の知識だ」


「森に住む薬師がいると聞いたが」


 空気が固まった。


 森に住む薬師。


 誰から聞いたのか。


 マルクか。


 カイルか。


 それとも、別のどこかで噂が形を変えたのか。


 私は息を止めた。


 リオが扉の前で拳を握る。


 外では、村人たちも息を潜めている気配がした。


 村長さんは、変わらず静かな声で返した。


「森に住む者はいない。森の浅いところへ薬草を採りに行く者ならいる」


「青い髪の少女が森にいる、という話もある」


 青い髪。


 少女。


 私のこと。


 使いは、もうかなり近い情報を持っている。


 目の前が少し暗くなった。


 私は膝から力が抜けそうになり、ミナの手に支えられた。


「フローラ」


 ミナがほとんど息だけで呼ぶ。


 私は返事をしたかった。


 けれど声が出ない。


 ミナは私の手を両手で包んだ。


 リオは振り返らず、小さく言った。


「大丈夫。まだ出るな」


 出ない。


 出てはいけない。


 今、扉を開ければすべて終わる。


 青い髪を見られれば、花守り布の意味も消える。


 だから、ここにいる。


 隠れる。


 消えるためではなく、選ぶために。


 外では村長さんの声がした。


「青い髪の少女? そんな子がこの村にいれば、村中が騒いでいるだろうな」


 少しだけ笑いを含んだ声。


 自然だった。


 嘘をつくというより、相手の言葉を村の現実に落として返す声。


「この辺りで青い髪は珍しい。見れば忘れん」


 使いが黙った。


 少しの沈黙。


 その間に、村のあちこちで生活音がわざとらしく戻った。


 パン屋の女性が表で声を上げる。


「焼き上がったよ! 欲しい人は今のうちだよ!」


 水汲みの女性が桶を置く音。


 誰かが鶏を追う声。


 子供の泣き声を、母親がなだめる声。


 日常の音。


 それらが、村をただの村に見せている。


 私のために。


 胸が熱くなる。


 怖いのに、温かい。


 使いの声がまた聞こえた。


「では、森に出入りする者を呼んでほしい」


「何のために」


「森の薬草について尋ねたい」


「薬草のことなら私でも少しは分かる。あるいは村の年寄りを呼ぶ」


「若い薬師がいると聞いた」


 村長さんの声がわずかに低くなる。


「誰から聞いた」


「街道で噂を耳にした」


「噂は風よりあてにならん」


「だが、調べるのが我々の役目だ」


 役目。


 その言葉は、私の胸に冷たく刺さった。


 彼らは私を探すために来ている。


 命令で。


 役目として。


 私がどんな顔で暮らしているかも、何を怖がっているかも知らないまま。


 青い髪の少女という目印だけを追って。


 村長さんは少し黙った。


 そして言った。


「森へ行く者なら、バルドがいる。畑と薬草に詳しい」


 リオが小さく息を吐いた。


 バルドさん。


 確かに、村で薬草や畑の話をできる大人。


 私に近い話をぼかすには、最適な人だ。


 足音がする。


 重く、ゆっくり。


 バルドさんの声が聞こえた。


「呼んだか」


「こちらの方が森の薬草について聞きたいそうだ」


「薬草?」


 バルドさんの声は不機嫌そうだった。


 普段通りだ。


 いつも通りのバルドさん。


 それだけで、少しだけ呼吸が戻る。


 使いが尋ねる。


「あなたが森へ薬草を採りに?」


「たまにな。畑に使う草も見る」


「森に薬師の少女はいないか」


「知らねえな」


 即答だった。


 あまりにも即答だった。


 リオが小さく笑いそうになり、慌てて口を押さえた気配がした。


 ミナも少しだけ肩を揺らしている。


 私は笑えなかった。


 でも、胸の奥の固まりが少しだけ緩んだ。


 バルドさんは続ける。


「薬師ってのは、王都の偉いやつが免状出すようなもんだろ。そんな立派なもんはこの村にはいねえ」


「では、薬草を教えている若い娘は」


「村の娘なら何人かいる。虫刺されの草くらい、子供でも知ってる」


「青い髪ではないか」


「青い髪なら俺でも覚えてる」


 バルドさんの声には、苛立ちが混じっていた。


「そんな珍しい子がいたら、畑仕事で目立って仕方ねえだろ。あんたら、何を探してる」


 使いは少し黙った。


 バルドさんの問いは鋭い。


 探しているのは薬草か。


 青い髪か。


 公爵家の令嬢か。


 そこを突いている。


 使いは答えた。


「我々は、公爵令嬢の療養に役立つ薬草を探している」


「なら青い髪は関係ねえな」


 バルドさんが低く言う。


「薬草の話をしろ。髪の色で薬草は育たねえ」


 その言葉は、以前私がカイルに言った言葉を少し思い出させた。


 髪の色は薬の効き目に関係ない。


 あの時は、私は自分でも半分混乱して言った。


 今、バルドさんは同じように、使いの視線を押し返してくれている。


 私は花守り布を握りしめた。


 外で使いが小さく咳払いをした。


「では、熱を下げる薬草について聞きたい」


「熱にも色々ある。冷えから来る熱か、傷から来る熱か、腹から来る熱か」


 バルドさんの声が少し変わる。


 畑や薬草の話になると、彼は本当に強い。


 使いは少し戸惑ったようだった。


「……長く続く熱だ」


「汗は出るのか」


「それは」


「食えるのか。眠れるのか。咳は。喉は。腹は。肌に赤みは。薬草だけ欲しいって言われても、何の熱か分からなきゃ毒にもなる」


 沈黙。


 私は思わず、少しだけ顔を上げた。


 バルドさんは、私を守るためだけでなく、本当に薬草の話として相手を詰めている。


 使いは、療養の薬草を探していると言いながら、病状を知らない。


 つまり、それは口実なのだ。


 村長さんが静かに言う。


「公爵家ほどの家なら、王都の医師や薬師がついているだろう。こんな辺境の村で曖昧な薬草を探すより、そちらに任せた方がいい」


 使いは答えに詰まったようだった。


 もう一人の使いが低く言う。


「辺境には古い薬草の知識が残ることもある」


「なら、症状を書いた書状を持ってくることだ」


 バルドさんが言う。


「口で曖昧に聞かれても答えようがねえ」


 強い。


 村長さんも、バルドさんも。


 彼らは公爵家の使いを前に、引いていない。


 ただし、真正面から喧嘩をしているわけでもない。


 相手の口実に合わせて、薬草の話で返している。


 私は、こんなふうに言葉で守る方法を知らなかった。


 力で倒すことならできる。


 結界で閉め出すこともできる。


 でも、彼らは村を守るために、私を守るために、言葉を使っている。


 使いの声が少し硬くなった。


「村の中を見せてもらいたい」


 リオの体が強張った。


 ミナが私の手を握り直す。


 村の中。


 もし家々を見て回られたら。


 パン屋の裏も。


 ここも。


 私は息を止めた。


 村長さんはすぐに答えた。


「理由は」


「薬草を扱う家を確認したい」


「この村は公爵領ではない。公爵家の使いとはいえ、理由なく家探しを許すわけにはいかん」


 村長さんの声は、今までよりも硬かった。


「薬草が必要なら、広場で話を聞く。村人の家に勝手に入ることは認めない」


「我々は公爵家の――」


「ここは王国の村だ」


 村長さんの声が低く響いた。


「公爵家の私兵が、領外の村で家探しをする権限はない」


 沈黙。


 長い沈黙だった。


 私の心臓が、耳の奥で鳴っている。


 ミナの手が震えている。


 リオは扉を睨んでいる。


 外の村人たちも、息を潜めている。


 もし使いが強硬に出たら。


 もし剣を抜いたら。


 私は出るべきなのか。


 いや、出てはいけない。


 でも、村の人が傷つくなら。


 頭の中で考えが渦を巻く。


 その時、パン屋の女性が裏へそっと入ってきた。


 私を見ると、指を口元に当てる。


 そして小さな声で言った。


「奥へ」


 私は一瞬迷った。


 ミナが頷く。


 リオも小さく手で促す。


 パン屋の奥には、粉袋を積んだ小さな物置がある。


 さらにその奥に、床下収納があると聞いていた。


 昨日の合図確認で、最終避難場所の一つとして教わった場所だ。


 私は花守り布を押さえ、ミナに手を引かれて奥へ移動した。


 足音を立てないように。


 息を殺して。


 リオは後ろに続く。


 パン屋の女性が物置の扉を開ける。


 中は狭い。


 粉の匂いが濃い。


 床板を少し持ち上げると、低い空間があった。


「念のためだよ」


 彼女が囁く。


「まだ大丈夫。でも、もし村を歩かれたら、ここに入って」


 私は喉を鳴らした。


 床下。


 狭い場所。


 暗い場所。


 一瞬、馬車の中を思い出した。


 森へ連れて行かれた日の、揺れる暗い馬車。


 息が詰まる。


 ミナがすぐに気づいた。


「フローラ、無理なら言ってください」


 無理。


 言っていい。


 でも、必要かもしれない。


 私は床下を見た。


 暗い。


 狭い。


 怖い。


 けれど、これは捨てられる場所ではない。


 ここにはミナがいる。


 リオがいる。


 パン屋の女性がいる。


 私を閉じ込めるためではなく、守るために開けられた場所。


 私は震える息を吸った。


「……必要なら、入れます」


 声は震えた。


 ミナが私の手を握る。


「一人では入れません。私も一緒です」


 リオが即座に言う。


「俺も」


 パン屋の女性が小さく笑った。


「二人入るので精一杯だよ」


「じゃあ俺は外で守る」


 リオは真剣だった。


 私はリオを見た。


 その顔を見て、少しだけ呼吸が戻った。


「ありがとうございます」


 外では、村長さんと使いの会話がまだ続いている。


「ならば、村の者を一人ずつ確認したい」


「何を確認する」


「青い髪の少女がいないか」


「さっきから薬草の話ではなかったのか」


 村長さんの声に、周囲の空気が張る。


 使いは言葉を詰まらせた。


 そして、低く言った。


「公爵家では、行方の分からぬ令嬢を案じている」


 心臓が止まったようだった。


 行方の分からぬ令嬢。


 案じている。


 父様が?


 母様が?


 それとも、家の体面が?


 私は床下の暗がりを見つめたまま、動けなくなった。


 案じている。


 その言葉が、胸の古い傷を指でなぞる。


 もし本当に案じているなら。


 もし母様が私を探しているなら。


 もし父様が後悔しているなら。


 一瞬、心が揺れた。


 帰りたくない。


 そう言った。


 それは本当だ。


 でも、案じていると言われると、胸のどこかが痛む。


 まだ私は、家族を完全には捨てられない。


 捨てられたのは私なのに。


 それでも、優しかった頃の記憶は残っている。


 ミナが私の顔を見て、静かに言った。


「フローラ」


 私は目を向ける。


「今、決めなくていいです」


 その言葉に、涙が出そうになった。


 今、決めなくていい。


 揺れてもいい。


 痛んでもいい。


 でも、今ここで飛び出さなくていい。


 リオも低く言う。


「案じてるなら、森に十歳の子を一人で置くなよ」


 声には怒りがあった。


 けれど、抑えてくれている。


 私のために。


 外で村長さんが答える。


「行方不明の令嬢を探しているなら、王都の役所へ正式な届けを出すべきだ。村々を回って、青い髪の少女の噂を探すのは筋が違う」


「事情がある」


「こちらにも村を守る事情がある」


 村長さんの声は強かった。


「この村に、その令嬢はいない」


 はっきりと。


 言い切った。


 私は胸を押さえた。


 この村に、その令嬢はいない。


 ここにいるのは、森の薬師見習いフローラ。


 村の先生。


 リオとミナの友達。


 花守り布をかぶった、私。


 使いが黙る。


 しばらくして、別の声が聞こえた。


 こちらは少し若い。


「では、森への道を教えていただきたい」


 森。


 私の家。


 青豆一号。


 結界。


 大切なものがある場所。


 村長さんは答えた。


「森は危険だ。道などない」


「薬草採りは入るのだろう」


「村の者でも浅い場所だけだ。外の者を案内する義務はない」


「案内役を雇う」


「断る」


「金は払う」


「命を金で買う気はない」


 村長さんの声は静かだったが、揺らがない。


 バルドさんも続ける。


「あんたら、森を甘く見るな。道を知らねえやつが入れば迷う。魔物もいる。薬草が欲しいなら、必要な草の名を言え。採れるものならこちらで採る」


 使いはまた黙った。


 彼らは森に入りたい。


 つまり、かなり疑っている。


 私は花守り布を握りしめた。


 森の家は結界で守れる。


 でも、足跡や畑の痕跡を見られたら。


 青豆一号を見られたら。


 子供たちの見学路を見られたら。


 そこに人が暮らしていると分かる。


 私の息が浅くなる。


 ミナが囁く。


「大丈夫。森の家の結界は?」


「あります」


「道は?」


「分かりにくくしています」


「なら、今は村長さんたちを信じましょう」


 信じる。


 半分信じて、半分警戒する。


 リオの言葉を思い出す。


 私は小さく頷いた。


 外では、使いたちが何か相談しているようだった。


 声が低く、聞き取れない。


 やがて、最初の使いが言った。


「本日は引き上げる」


 その言葉に、体から力が抜けそうになった。


 でも、まだ終わっていない。


 使いは続けた。


「だが、近隣の村を回った後、必要があれば再訪する」


 再訪。


 また来る。


 恐怖が完全には消えない。


 むしろ、先延ばしになっただけ。


 村長さんは静かに答えた。


「薬草の名と症状を書いた書状を持ってくるなら対応しよう」


「……承知した」


 馬具の音。


 足音。


 使いたちが馬に乗る気配。


 村の入口から、蹄の音が遠ざかっていく。


 すぐには誰も動かなかった。


 村全体が、息を止めたまま音が遠ざかるのを聞いているようだった。


 やがて、ガルドさんの声が響いた。


「まだ家を出るな。完全に離れるまで待て」


 村人たちは従った。


 私たちも、物置の奥でじっとしていた。


 床下には入らずに済んだ。


 それだけで、私は少しだけ救われた。


 でも足は震えていた。


 ミナが私を支えてくれる。


 リオは外へ飛び出したそうにしていたが、じっと耐えていた。


 しばらくして、ガルドさんがパン屋の裏へ来た。


「もう大丈夫です」


 その言葉を聞いた瞬間、私は膝から崩れそうになった。


 リオが慌てて支える。


「フローラ!」


「すみません……」


「謝るな」


 ミナが私の背中をそっと撫でる。


「怖かったですね」


「……はい」


 声が震える。


「とても、怖かったです」


 パン屋の女性が温かい布を持ってきてくれた。


「座ろう。まず座ろう」


 私は木箱に腰掛けた。


 手が震えている。


 花守り布の刺繍に、涙が一粒落ちた。


 自分でも驚いた。


 涙。


 泣いている。


 私は慌てて拭こうとしたが、ミナが止めた。


「拭かなくていいです」


「でも」


「泣いてもいいんです」


 その言葉を、私は子供たちに何度も言った。


 痛い時は泣いていい。


 悲しい時は泣いていい。


 怖い時も、きっと。


 私は唇を噛んだ。


 涙がもう一粒落ちた。


 リオは黙って横にいた。


 いつもなら何か言う彼が、何も言わずにいてくれる。


 それがありがたかった。


 ガルドさんも静かに立っていた。


 パン屋の女性は温かい薬草茶を持ってきてくれた。


「飲める?」


 私は小さく頷いた。


 カップを持つ手が震える。


 ミナが支えてくれた。


 一口飲む。


 温かい。


 香草の香り。


 村の味。


 私はようやく息を吐いた。


 しばらくして、村長さんが来た。


 バルドさんも一緒だった。


 村長さんは私の顔を見ると、まず何も言わずに待ってくれた。


 私が少し落ち着いてから、静かに口を開く。


「よく耐えた」


 その一言で、また涙が出そうになった。


「私は、何もしていません」


「何もしないで耐えるのは難しい」


 村長さんは言った。


「飛び出さなかった。声を出さなかった。約束を守った。それは十分だ」


 私は花守り布を握った。


「……怖かったです」


「そうだろう」


「案じている、と言われました」


 声が震える。


「公爵家が、私を案じていると」


 リオが拳を握る。


 ミナは私の肩に手を置く。


 村長さんは静かに聞いていた。


「それを聞いたら、少し……痛くなりました」


「帰りたいと思ったか」


 村長さんは責める口調ではなかった。


 ただ確認するように。


 私はゆっくり首を振った。


「帰りたい、ではありません。でも……本当に案じているなら、と考えてしまいました」


「当然だ」


 村長さんは言った。


「家族なのだからな。傷つけられても、すぐに心が切れるわけではない」


 その言葉に、胸が詰まった。


 切れない。


 そうだ。


 私はまだ、父様と母様を完全には嫌いになれない。


 だから苦しい。


 帰りたくないのに、案じていると言われると痛む。


 怖いのに、優しかった記憶が消えない。


 私はその矛盾をどう扱えばいいのか分からなかった。


 バルドさんが低く言った。


「案じてるって言葉だけで動くな。畑でも同じだ。葉がしおれてる原因を見ずに水だけやると、根を腐らせる」


 私は涙の残る目でバルドさんを見た。


「原因を見る」


「ああ。本当に案じてるのか。家の体面を案じてるのか。令嬢の安全を案じてるのか。力を隠したいのか。そこを見なきゃ分からねえ」


 村長さんも頷く。


「今はまだ判断材料が少ない。使いの言葉だけで結論を出す必要はない」


 ミナが優しく言う。


「今、決めなくていいんです」


 今、決めなくていい。


 またその言葉に救われた。


 私は小さく頷いた。


「はい」


 リオが言った。


「でも、帰りたくないって言ったのは変わってないだろ?」


 私はリオを見た。


 彼の目は真剣だった。


 少し不安そうでもあった。


 私は胸に手を当てる。


 帰りたくない。


 ここにいたい。


 その気持ちは、まだある。


 揺れたけれど、消えていない。


「変わっていません」


 私は答えた。


「私は、ここにいたいです」


 リオは大きく息を吐いた。


「よかった」


 ミナも少しだけ笑った。


 村長さんは頷いた。


「なら、そのまま進む」


 話し合いは短く行われた。


 使いたちは一旦引いた。


 だが再訪の可能性がある。


 森への道を探る可能性もある。


 今後、村の入口の見張りを増やす。


 森側の痕跡をバルドさんとガルドさんが確認する。


 私の森の家にも、念のため結界を調整する。


 村へ来る頻度は少し減らすが、完全には止めない。


 子供たちへの授業は、村外の人が来ていない時だけ続ける。


 村長さんは最後に言った。


「今日はもう森へ帰りなさい。休むことも必要だ」


 私は頷いた。


「はい」


 子供たちに会わずに帰ることになる。


 少し寂しかった。


 けれど、今日は泣いてしまった。


 体も心も疲れている。


 無理をしない。


 それも、学んだことだ。


 帰りは、リオ、ミナ、ガルドさんが送ってくれた。


 村の出口で、エマたちが遠くから手を振っていた。


 大人たちに止められているのか、近づいては来ない。


 でも、エマが両手で大きく丸を作って見せた。


 大丈夫?


 そう聞いているようだった。


 私は少し迷い、手を振り返した。


 それから、胸の前で小さく丸を作った。


 大丈夫。


 完全ではない。


 でも、生きている。


 ここにいる。


 子供たちが少し安心したように見えた。


 森の道は夕方の色を帯びていた。


 私は花守り布をかぶったまま歩いた。


 リオはいつもより静かだった。


 ミナはずっと私の横にいた。


 ガルドさんは後ろを警戒している。


 途中、リオがぽつりと言った。


「俺、何もできなかった」


 私は顔を上げた。


「リオ」


「外で怒鳴りたかった。でも怒鳴ったら駄目だって分かってた。だから黙ってた。でも、何もできなかった」


 彼の声には悔しさがあった。


 私は少し考えた。


 そして言った。


「リオは、私の前に立ってくれました」


「でも」


「扉の近くで、ずっといてくれました。私が怖いと言わなくても、分かってくれました。出るなと言ってくれました」


 リオは黙る。


「それは、何もしていないことではありません」


 私がそう言うと、リオは少し俯いた。


 ミナが静かに続ける。


「怒鳴らずに我慢したのも、守ることだよ」


 リオは大きく息を吐いた。


「……そっか」


 ガルドさんも言った。


「よく耐えた」


 リオは照れくさそうに頭を掻いた。


「フローラに言われると、なんか効くな」


「効く」


「薬草みたいに」


 私は少し笑った。


「では、言葉の薬草でしょうか」


 ミナがくすっと笑う。


「いいですね」


 リオも少しだけ笑った。


 その笑いで、森の道が少しだけ軽くなった。


 家に着くと、私はまず青豆一号の前にしゃがんだ。


 夕方の光の中、葉の穴と新しい葉が見える。


 私は花守り布の端を握り、青豆一号に向かって言った。


「来ました」


 何が、と言わなくても分かる気がした。


 過去が。


 公爵家が。


 でも、青豆一号はいつも通り立っていた。


 穴のある葉を持ち、新しい葉を伸ばしながら。


 私は涙がまた滲みそうになった。


「私は、ここにいたいです」


 小さく言う。


 リオが後ろで静かに頷いた。


 ミナが隣にしゃがむ。


「ここにいます」


 その言葉に、私は深く息を吐いた。


 夜。


 一人になった家で、私は花守り布を外した。


 髪が肩に落ちる。


 鏡を見ると、目が少し赤かった。


 泣いたからだ。


 私は自分の顔をしばらく見つめた。


 弱そうに見える。


 疲れている。


 けれど、逃げなかった顔でもある。


 私は机に向かい、日記帳を開いた。


 今日、公爵家の使いが村に来た。


 薬草と療養地を探していると言っていた。


 でも、本当は青い髪の少女を探していた。


 村長さん、バルドさん、村の皆が私を守ってくれた。


 使いは村の中を見ようとした。


 森への道も聞いた。


 でも村長さんたちは断ってくれた。


 使いはまた来るかもしれない。


 公爵家が私を案じている、と言われた。


 胸が痛かった。


 私はまだ、父様と母様を完全には嫌いになれない。


 でも、帰りたくない気持ちは変わっていない。


 私はここにいたい。


 私はペンを止めた。


 涙が紙に落ちないよう、少し上を向く。


 泣いてもいい。


 そう教えた。


 そう言われた。


 だから、泣いてもいい。


 でも、日記は書きたい。


 今日を見たい。


 泣いても見る。


 私は最後に書いた。


 今日は怖かった。


 とても怖かった。


 でも、私は扉の向こうの声を聞いても、ここにいたいと思った。


 それが、今の私の答えだと思う。


 日記帳を閉じる。


 暖炉の火が揺れる。


 花守り布を丁寧に畳み、ニコ鳥の隣に置いた。


 刺繍の花には、涙の跡が少し残っているかもしれない。


 でも、それも今日の記録だ。


 私は窓の外を見た。


 夜の森。


 暗い道。


 村へ続く道。


 そこには、恐怖もある。


 でも、友達もいる。


 私は小さく呟いた。


「明日も、見ます」


 青豆一号も。


 村も。


 自分の怖さも。


 そして、いつか向き合わなければならない過去も。


 泣いても。


 震えても。


 私は、見続ける。

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