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『青の姫君の森暮らし 〜化け物と恐れられた公爵令嬢は、今日も畑を耕します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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20/27

第20話 青の姫君、知らせの鐘を聞く



 花守り布をかぶる朝は、昨日より少しだけ楽だった。


 髪を低くまとめ、布の内側に入れる。


 ミナに教わった通り、耳の後ろで軽く押さえ、首元を締めすぎないように結ぶ。


 左側に青い花と白い花の刺繍がくるよう、鏡の前で位置を調整する。


 リーナの縫ってくれた花は、朝の光を受けて控えめに浮かんでいた。


 派手ではない。


 王都の令嬢がつける絹飾りのような華やかさもない。


 けれど、その一針一針に、誰かの時間がある。


 そのことが、何より心強かった。


「おはようございます」


 私は鏡の中の自分に言った。


 青の姫君ではない。


 森の薬師見習いフローラ。


 畑の先生。


 リオとミナの友達。


 リーナが布を縫ってくれた子。


 そう思うと、髪を隠していても、自分が薄くなる感じはしなかった。


 朝食を終え、畑へ出る。


 青豆一号は今日も元気だった。


 虫食いの穴はそのままだけれど、新しい葉はしっかり開き始めている。


 私はしゃがみ込み、記録板に書いた。


 青豆一号、虫食い後四日目。


 新葉、展開良好。


 追加被害なし。


 状態、安定。


 書き終えた後、私は葉の穴を見つめた。


 穴は、もう痛々しいだけのものではなくなっていた。


 そこにある。


 でも、すべてではない。


 傷がある葉も、伸びている新しい葉も、同じ青豆一号だ。


 私はそれを毎朝確認するたびに、自分にも同じことを言われている気がした。


 森へ捨てられたこと。


 怖がられたこと。


 帰りたくないと震えながら言ったこと。


 それらは消えない。


 でも、私のすべてではない。


 花守り布の刺繍に触れ、私は立ち上がった。


 今日は村で、豆の観察と、子供たちへの小さな授業。


 内容は「守るための工夫」。


 畑の支柱、虫除け草、見学の線。


 そして村の合図。


 守るという言葉が、最近よく私の周りにある。


 守られる。


 守りたい。


 守るために隠す。


 守るために見る。


 守るために相談する。


 以前の私は、守るとは力で敵を倒すことだと思っていた。


 武術。


 魔法。


 結界。


 攻撃。


 けれど村で学んだ守りは、もっと細かく、もっと日常に近い。


 子供が井戸に近づきすぎないよう柵を作る。


 虫を早めに見つける。


 知らない人に何でも話さない。


 怖い時に誰かと一緒に見る。


 髪を隠す布に花を縫う。


 それも、守ることなのだ。


 結界に、リオとミナの気配が触れた。


 私は玄関へ向かう。


 森の道から現れたリオは、私を見るなり親指を立てた。


「花守り布、今日もいいな」


「ありがとうございます」


 ミナも嬉しそうに頷く。


「昨日より自然に巻けています」


「練習しました」


「えらいです」


 えらい。


 子供に向けるような言葉なのに、嫌ではなかった。


 むしろ少し照れた。


「ありがとうございます」


 リオが青豆一号を見たいと言い、三人で畑へ行く。


 リオは距離を守りながら覗き込んだ。


「新しい葉、でかくなったな」


「はい」


「穴は戻らないけど、もうそこばっかり見なくなった」


 私はリオを見た。


「そうですね」


 ミナが静かに言う。


「新しい葉が見えるようになったからですね」


 リオは頷いた。


「うん。傷があるのは分かるけど、それだけじゃないっていうか」


 その言葉に、私は少し胸を押さえた。


 リオは時々、何気ない顔で大事なことを言う。


「はい」


 私は青豆一号を見た。


「それだけではありません」


 村へ向かう道は穏やかだった。


 ただ、完全に以前と同じではない。


 ガルドさんが遠くから森の入口を確認している。


 村へ近づくと、見張り役の若者が道の脇に立っていた。


 彼は私たちを見ると、軽く手を上げる。


 リオが返す。


 警戒は続いている。


 でも、それは村の呼吸の中に少しずつ溶け込み始めていた。


 村に入ると、子供たちは共同畑の前にいた。


 リーナは私の布を見るなり、ぱっと顔を明るくした。


「使ってくれてる……」


「はい。とても使いやすいです」


 本当のことだった。


 昨日より柔らかく、頭も痛くなりにくい。


 リーナは嬉しそうに俯いた。


 エマが横から言う。


「花守り布、今日もかわいい!」


「ありがとうございます」


 ニコも頷く。


「フローラ先生って分かる」


「髪が見えなくてもですか」


「うん。先生だから」


 胸が温かくなる。


 髪が見えなくても、分かる。


 その一言だけで、花守り布の下の私は少し救われた。


 豆の観察は順調だった。


 マメタは葉が増え始めている。


 ニコ豆も安定。


 リオ豆は少し茎が太くなった。


 ルルの豆は、食われた葉の痛みが残る一方で、新しい葉がはっきり形になってきた。


 ルルはそれを見て、静かに笑った。


「もう、穴ばっかり見ない」


「新しい葉も見えますね」


「うん。でも穴もある」


「はい」


「どっちも見る」


 私は頷いた。


「とても大事なことです」


 サムが記録板に書き込む。


 虫食い葉、残る。


 新葉、成長。


 追加被害なし。


 サムの文字は日に日に丁寧になっている。


 記録係として、彼は確実に育っていた。


 私は今日の木板を出した。


「今日は、守るための工夫について話します」


 子供たちは座る。


 大人たちも周囲に集まる。


「畑を守る方法には、色々あります。虫除け草を植える。支柱を立てる。踏まないように線を引く。毎日見る。強すぎる薬をすぐ使わない。どれも、畑を守るためです」


 エマが手を上げる。


「虫を全部やっつけないの?」


「全部やっつけると、畑のバランスが崩れることがあります」


「ばらんす」


「虫を食べる鳥もいます。土を良くする小さな生き物もいます。何でも全部なくせばいいわけではありません」


 トトが顔をしかめる。


「でも豆食べる虫は嫌だ」


「嫌ですね」


 私は頷いた。


「だから、増えすぎないようにします。全部消すのではなく、豆が育てるように調整します」


 バルドさんが後ろで満足そうに頷いた。


 リオが小声で「調整か」と呟く。


 ミナが隣で微笑む。


 私は続けた。


「人も同じかもしれません。怖いものを全部なくすことは難しいです。でも、怖い時の約束を作ることはできます。誰かと一緒に見ることもできます。危ない時は合図を決めて動くこともできます」


 子供たちの表情が少し真剣になる。


 鐘のことを思い出しているのだろう。


「守るとは、怖いものを全部消すことだけではありません。怖くても暮らしを続けるために、工夫することでもあります」


 言いながら、これは自分に向けた言葉でもあると思った。


 公爵家の使いを消すことはできない。


 噂を全部止めることもできない。


 でも、村は工夫している。


 花守り布も、その一つだ。


 エマが言った。


「じゃあ、花守り布も守る工夫?」


「はい」


 私は布の刺繍に触れた。


「とても大切な工夫です」


 リーナが顔を赤くした。


 周囲の大人たちが優しく笑う。


 授業の後、子供たちは自分たちで「守る工夫」を考え始めた。


 サムは観察時間を決める表を作った。


 エマは「豆に話しかける係」を作ろうとした。


 バルドさんが「それはまあ、好きにしろ」と苦笑した。


 トトとルルは、虫を見つけた時にどちらが大人を呼ぶかを決めていた。


 ニコは自分の豆の周りに小さな目印を立てると言い、リオはリオ豆から少し離れた場所に新しい見守り線を引いた。


「前の線より遠いですね」


 私が言うと、リオは少し得意そうに胸を張る。


「近づきすぎない工夫」


「素晴らしいです」


「だろ」


 ミナが笑う。


「リオ兄さん、成長しましたね」


「豆と一緒にな」


 リオは照れ隠しのように言ったが、本当にそうだと思った。


 昼食の頃、村はいつも通りの賑わいを取り戻していた。


 警戒はある。


 でも、皆がそれだけに飲まれていない。


 パンを焼く人がいて、子供を叱る人がいて、豆の話をする人がいて、リオがパンの三枚目を狙ってミナに止められている。


 私はそれを見ながらスープを飲んだ。


 今日のスープには、少し香草が入っていた。


 私が以前教えたものだ。


 香りは控えめだが、野菜の甘さが引き立っている。


「美味しいです」


 私が言うと、作った女性が嬉しそうに笑った。


「フローラちゃんの教えてくれた香草、使ってみたんだよ」


「とても合っています」


「よかった。入れすぎると苦くなるって聞いたから、少しだけにしたの」


「ちょうどいいです」


 女性はほっとしたように頷いた。


 知識が、村の料理にも少しずつ入っている。


 それが嬉しかった。


 ミナが小声で言う。


「フローラの教えたもの、どんどん増えていますね」


「私も、村から教わることが増えています」


「例えば?」


「布の巻き方。ジャム作り。人と一緒に怖がる方法。贈り物の受け取り方」


 ミナは少し目を細めた。


「大事なことばかりですね」


「はい」


 リオが横から入ってくる。


「俺からは?」


「リオからは、半分信じて半分警戒することと、待つことの難しさと、勢いの良さを」


「最後、教えたのか?」


「見て学びました」


 ミナが笑う。


 リオは少し納得いかない顔をしたが、最後には笑った。


 その時、村の入口にいた若者が走ってきた。


 広場の空気が、すっと変わる。


 鐘は鳴っていない。


 けれど、若者の顔は真剣だった。


 ガルドさんがすぐに立ち上がる。


 村長さんも家から出てきた。


 私は花守り布の端を握った。


 若者は息を切らしながら、村長さんに何かを耳打ちする。


 村長さんの表情が険しくなった。


 リオが立ち上がりかける。


 ミナが私の手を握る。


 少し遅れて、遠くから馬の足音が聞こえた。


 ひとつではない。


 複数。


 村の入口へ向かう道の方。


 乾いた土を踏む音。


 金具の鳴る音。


 私の心臓が強く跳ねた。


 村長さんが短く言った。


「鐘を」


 次の瞬間、村の鐘が一度、ゆっくり鳴った。


 ごん。


 低い音が、村全体に広がる。


 昨日と同じ音。


 けれど、今日は空気が違った。


 ただの山羊探しではない。


 誰もがそう感じていた。


 子供たちは一瞬固まり、それから昨日の約束通り、大人の方へ移動し始めた。


 エマが私を見る。


 私は頷く。


 大丈夫。


 そう伝える。


 でも、自分の手は冷たかった。


 リオが私の前に立つ。


「フローラ、パン屋の裏」


 ミナが手を引く。


「行きましょう」


「はい」


 足が震えた。


 でも動く。


 昨日と同じ。


 怖くても動く。


 パン屋の裏へ向かう途中、私は一瞬だけ村の入口を見た。


 土煙。


 馬影。


 二人。


 いや、三人。


 旅人の服ではない。


 整った外套。


 腰に剣。


 そして、胸元に小さな紋章。


 遠くてはっきり見えない。


 でも、私の体はそれを知っていた。


 スプリング公爵家の色。


 青と銀。


 息が止まりそうになる。


 ミナが私の手を強く握る。


「見すぎないで」


 私は視線を外した。


 パン屋の裏へ入る。


 木箱の陰。


 粉袋の匂い。


 焼けたパンの温かさ。


 昨日と同じ場所。


 でも今日は、胸の中の音が違う。


 外で馬が止まる音がした。


 男の声。


 低く、整った、訓練された声。


「失礼。こちらがリーフェ村で間違いないか」


 村長さんの声が応じる。


「そうだ。何用か」


 少しの沈黙。


 そして、男が言った。


「スプリング公爵家の命により、薬草と療養地について尋ねたい」


 世界が、静かになった。


 来た。


 ついに。


 公爵家の使いが。


 リオが拳を握る音がした。


 ミナの手は震えている。


 でも離れない。


 私は花守り布の刺繍に触れた。


 リーナの花。


 村の手。


 私を守る布。


 怖い。


 とても怖い。


 けれど、私はここにいる。


 森の薬師見習いフローラとして。


 畑の先生として。


 この村で暮らしたいと選んだ私として。


 外で村長さんの声が響いた。


「薬草の話なら聞こう。だが、この村は小さい。期待に添えるかは分からん」


 公爵家の使いが何か答える。


 私は目を閉じた。


 泣いても見る。


 怖くても見る。


 でも今は、約束通り隠れる。


 隠れることは、消えることではない。


 選ぶために、隠れる。


 私はミナの手を握り返した。


「……私は、ここにいます」


 小さく呟く。


 リオが低く答えた。


「いる。ちゃんといる」


 ミナも言った。


「私たちもいます」


 外では、公爵家の使いと村長さんの会話が続いている。


 私の過去が、村の入口まで来ている。


 でも、私は一人ではなかった。


 花守り布の下で、私は震える息を吸った。


 そして、逃げ出さずに、その場に立ち続けた。

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