第19話 青の姫君、布に縫われた想いを知る
朝、私は畳んだ布を前に、少しだけ迷っていた。
昨日使った生成りの布。
髪を隠すための布。
机の上に置かれたそれは、何の変哲もない布だった。
村の女性たちが畑仕事や水汲みの時に使う、丈夫で素朴な布。
けれど私にとっては、ただの布ではない。
昨日、私はこれをかぶって村へ行った。
髪を隠した。
外の人が来た時の合図で、パン屋さんの裏へ避難した。
怖かった。
でも動けた。
この布は、その日の記憶を吸い込んでいるように見えた。
私は指先でそっと布の端を撫でる。
少し硬い。
洗えば柔らかくなるだろう。
ミナは結び方を教えてくれた。
リーナは、私用の布を作りたいと言ってくれた。
その時、胸が温かくなったのを覚えている。
髪を隠す布。
少し寂しかったもの。
けれど、誰かが私のために縫ってくれるなら、それは少し違うものになるのかもしれない。
隠すためだけではなく、守るため。
守られるためだけではなく、私がここにいたいと選ぶため。
私は鏡の前に立ち、今日も布をかぶった。
昨日よりは少しうまく巻けた。
髪を低くまとめ、布の内側に入れる。
耳元にかかる髪を押し込み、後ろで結ぶ。
首元に一房だけ出そうになる空色を、細い紐で留める。
鏡の中の私は、昨日より少し見慣れた姿になっていた。
「森の薬師見習い」
小さく呟く。
鏡の中の少女は、静かにこちらを見返している。
青の姫君ではない。
公爵令嬢でもない。
けれど、私は消えていない。
胸元には村の客人札がある。
机にはニコ鳥。
棚にはミナと作ったジャム。
窓の外には青豆一号。
私はここにいる。
そう確認してから、朝食を取った。
パンと薬草茶。
今日は村で、子供たちの豆の観察と、布の結び方の確認がある。
昨日、リーナが「布を作りたい」と言った。
ミナの話では、リーナだけでなく、村の女性たちも何か考えているらしい。
何をされるのか、少し分からない。
贈り物は嬉しい。
でも、私のために手間をかけてもらうことには、まだ慣れない。
嬉しさと申し訳なさが一緒に胸の中で揺れる。
私は食事を終え、畑へ向かった。
青豆一号は、今朝も元気だった。
虫食いの穴はそのまま。
新しい葉は昨日より少し開いている。
葉の色は良い。
茎も安定してきた。
私はしゃがみ込み、記録板に書く。
青豆一号、虫食い後三日目。
新葉、展開中。
虫の追加被害なし。
状態、良好。
書き終えると、少し安心した。
青豆一号は、私よりずっと迷わない。
傷を抱えたまま、ただ育っている。
その単純さが、今の私には眩しい。
「私も、今日を見ます」
私は青豆一号にそう告げた。
結界の外に、リオとミナの気配が触れた。
リオの足音は、以前より少し落ち着いている。
少なくとも森の中では走らないよう努力しているらしい。
その後ろで、ミナが何かを持っている気配がある。
籠。
軽い布の音。
私は玄関へ向かった。
「おはよう、フローラ!」
「おはようございます」
リオは私を見るなり、布の結び目を見た。
「昨日よりうまいな」
「分かりますか」
「なんとなく」
ミナが近づき、優しく確認してくれる。
「うん。今日はほとんど直さなくても大丈夫です。ここだけ少し緩めると、頭が痛くなりにくいですよ」
「ありがとうございます」
ミナの指が布を少し整える。
その手つきは慣れていて、柔らかい。
私はされるまま、じっとしていた。
「苦しくありませんか」
「昨日より楽です」
「よかった」
ミナは微笑んだ。
その籠の中には、布が数枚入っているようだった。
私が視線を向けると、ミナは少し楽しそうに言った。
「これは村で見せます」
「今ではないのですか」
「はい。リーナが自分で渡したいそうなので」
胸が少し跳ねた。
「そうですか」
リオがにやっと笑う。
「楽しみにしとけよ」
「リオは知っているのですか」
「ちょっとだけ」
「教えてくれますか」
「だめ。ミナに怒られる」
「怒ります」
ミナが即答した。
リオは肩をすくめた。
私は少し笑った。
こういう秘密なら、嫌ではない。
村へ向かう道中、リオ豆の話になった。
リオ豆は昨日より葉が開き、虫食いも広がっていないらしい。
リオは毎朝確認しているが、近づきすぎないよう、畑の前に自分用の立ち位置を決めたそうだ。
「ここから見るって線引いた」
「よい工夫です」
「だろ」
「でも、線の外から身を乗り出したら意味がありません」
ミナが言う。
リオは目を逸らした。
「少しだけだし」
「リオ兄さん」
「今日はしない」
私は少し笑った。
リオも豆と一緒に成長している。
自分では気づいていないかもしれないが。
村へ着くと、昨日より少し穏やかな空気だった。
鐘が鳴った経験の後で、皆が警戒に慣れ始めている。
もちろん緊張はある。
村の入口を見る大人もいる。
ガルドさんは朝から見回りをしている。
けれど、パンは焼かれているし、水は汲まれているし、子供たちは共同畑へ向かっている。
日常は続いていた。
そのことに、私は少し安心した。
共同畑では、子供たちがそれぞれの豆を見ていた。
エマはマメタに小声で何か話しかけている。
ニコは母親に昨日の記録を見せている。
トトとルルは二人でルルの豆を覗き込んでいた。
サムは記録板を持って、昨日と同じ時間に観察できたか確認している。
リーナは少し離れたところで、布の包みを大事そうに抱えていた。
私を見ると、リーナはびくりと肩を揺らし、それからミナの後ろへ半分隠れた。
「おはようございます」
私が言うと、子供たちが元気に挨拶を返す。
リーナも小さく口を動かした。
「おはよう……」
まずは豆の観察。
これは欠かせない。
マメタは順調。
ニコ豆も元気。
リオ豆は少し葉が広がった。
ルルの豆は、食べられた葉は傷んだままだが、新しい葉が少しずつ大きくなっている。
ルルはそれを見て、今日は泣かなかった。
ただ、じっと見て、静かに言った。
「伸びてる」
「はい」
「昨日より」
「はい」
「泣かなくても見られた」
その声は誇らしげだった。
私は頷いた。
「ルルは、昨日より強く見られましたね」
ルルは少し頬を赤くした。
「でも、また泣くかも」
「泣いても大丈夫です」
「うん。泣いても見る」
トトが横で頷く。
「俺も一緒に見る」
その言葉が自然に出るようになっていた。
子供たちは少しずつ、自分たちの言葉で学んでいる。
私はそれを見て、胸の奥が温かくなった。
観察が終わると、ミナがリーナの背中にそっと手を添えた。
「リーナ」
リーナはこくりと頷き、抱えていた布の包みを私に差し出した。
小さな手が少し震えている。
「フローラ先生……これ」
私は両手で受け取った。
「開けてもいいですか」
「うん……」
包みを解く。
中には、柔らかな生成りの布があった。
昨日使ったものより少し薄く、肌触りが良い。
端には淡い青い糸で、小さな花が刺繍されていた。
花壇の青い小花。
私が子供たちへ押し花の栞として渡した花と似ている。
その隣に、白い小花も一つ。
刺繍は少し曲がっている。
でも、一針一針がとても丁寧だった。
私は言葉を失った。
リーナが不安そうに見上げる。
「変……?」
「いいえ」
声が少し震えた。
「とても、綺麗です」
リーナの目が大きく開く。
「本当?」
「はい。本当に」
私は布をそっと撫でた。
「この花は、森の家の花壇の花ですか」
「うん。見たの、思い出して縫ったの。ミナ姉と、お母さんに教えてもらって……」
ミナが横で微笑んでいる。
「村の女性たちも、端の始末を手伝ってくれました」
私は周囲を見る。
パン屋の女性、水汲みの女性、ニコの母親、他にも何人かが少し離れてこちらを見ていた。
皆、少し照れくさそうに笑っている。
リーナが続けた。
「髪を隠すの、寂しいって言ってたから……少しでも、フローラ先生の好きなものがついてたら、寂しくないかなって」
胸の奥が、ぎゅっとなった。
髪を隠すのが寂しい。
私は昨日、そう言った。
それを、リーナは覚えていた。
そして、布に花を縫ってくれた。
髪を隠すための布に、私の森の花を。
隠しても、私が私でいられるように。
私は布を胸に抱いた。
「ありがとうございます」
声が震えた。
「とても、嬉しいです」
リーナの目に涙が浮かんだ。
でも、笑っていた。
「よかった……」
エマが横から覗き込む。
「フローラ先生、かぶって!」
「今ですか」
「見たい!」
子供たちが一斉に頷く。
大人たちも少し期待した顔をしている。
私は少し恥ずかしかったが、頷いた。
「では、ミナに手伝ってもらってもいいですか」
「もちろんです」
ミナが私の今の布をそっと外す。
空色の髪が肩に落ちた瞬間、周囲が少し静かになった。
子供たちは息を呑むように見ている。
リーナが小さく言う。
「やっぱり、綺麗」
胸が温かくなる。
ミナは新しい布を広げ、私の髪を丁寧にまとめた。
刺繍の花が左側にくるように、少し位置を調整する。
後ろで結び、首元を留める。
「できました」
ミナが言う。
私は少し緊張しながら子供たちを見る。
エマが真っ先に声を上げた。
「かわいい!」
ニコも頷く。
「花ある!」
トトとルルが同時に言う。
「先生っぽい!」
「森っぽい!」
サムが真面目に評価する。
「前より見つけやすいけど、髪は隠れてる」
リオが笑った。
「サム、そこなんだ」
サムは真剣だった。
「大事」
「まあ、大事だな」
リオは私を見て、少し照れたように言った。
「似合ってる」
「ありがとうございます」
ミナも微笑んだ。
「すごく似合っています」
私は布の端に触れた。
先ほどまでの生成りの布とは違う。
同じように髪を隠しているはずなのに、寂しさが薄い。
むしろ、誰かの手がそばにあるような温かさがあった。
リーナの刺繍。
村の女性たちの手。
ミナの結び方。
私の花壇の花。
その全部が、この布にある。
「この布なら」
私は小さく言った。
「隠しているだけではない気がします」
ミナが静かに頷いた。
「はい」
リーナが不安そうに聞く。
「使ってくれる?」
「もちろんです」
私はリーナの前にしゃがんだ。
「大切に使います。でも、大切すぎて使えないと意味がないので、ちゃんと使います」
リーナは少し笑った。
「うん」
パン屋の女性が声をかけてきた。
「洗い替えもそのうち作るよ。畑仕事したら汚れるからね」
「そんな、申し訳ありません」
「遠慮しないの。村の女の子に布を作るくらい、普通だよ」
村の女の子。
その言葉に、胸がまた熱くなる。
私は公爵令嬢だった。
青の姫君だった。
化け物と恐れられた。
森に捨てられた。
でも今、村の女性は私を「村の女の子」と言ってくれた。
それがどれだけ大きなことか、言葉にできなかった。
「ありがとうございます」
私は深く頭を下げた。
布の花が揺れた。
その後の授業は、少し和やかだった。
子供たちは新しい布を何度も見たがり、エマは「フローラ先生布にも名前つけよう」と言い出した。
「名前」
私は少し迷った。
布に名前。
けれど、もうニコ鳥もいる。
青豆一号もいる。
名前をつけることに抵抗が少なくなっている。
「では……花守り布」
私が言うと、エマは目を輝かせた。
「かっこいい!」
リオも頷く。
「強そう」
ミナが笑う。
「フローラらしい名前ですね」
リーナは嬉しそうに布を見ていた。
花守り布。
髪を隠す布ではなく、花が守ってくれる布。
そう思うと、少し心が軽くなった。
昼前、村長さんとガルドさんが広場へ来た。
村長さんは私の新しい布を見て、静かに頷いた。
「よく似合っている」
「ありがとうございます」
「村の者の手は早いな」
パン屋の女性が笑う。
「女の子に似合う布を作るのは大事ですからね」
村長さんは少し目を細めた。
「そうだな」
その後、村長さんは今日の警戒について簡単に説明した。
マルクは朝早く村を出た。
街道の様子を見るためだ。
公爵家の使いの足取りはまだ分からない。
ただ、王都方面の宿で聞いた話では、使いは南側の街道にも向かった可能性があるという。
つまり、リーフェ村へ来るかどうかはまだ不明。
警戒は続ける。
でも、日常も続ける。
村長さんはそう言った。
私は花守り布の端を握った。
怖さはある。
でも、昨日より少しだけ立っていられる。
この布のおかげだろうか。
いや、布そのものより、そこに込められた手のおかげだ。
リーナ。
ミナ。
村の女性たち。
皆が私を隠すためではなく、ここにいられるようにしてくれている。
午後、私はリーナと一緒に花壇の絵を描いた。
今度、リーナが次の布を作る時の参考にしたいと言ったからだ。
子供たちは豆の観察を終え、少し自由時間になっていた。
リーナは紙の上に小さな花を描く。
私は横で花の形を説明する。
「この花は、花びらが五枚です」
「五枚……」
「中央が少し黄色いです」
「うん」
「でも、多少違っても大丈夫です。リーナが見た花でいいと思います」
リーナは顔を上げた。
「同じじゃなくてもいい?」
「はい。押し花も、刺繍も、全部少しずつ違います」
「失敗じゃない?」
「違います」
私は青豆一号の葉の穴を思い出した。
「違いは、失敗ではありません」
リーナはしばらく考え、頷いた。
「じゃあ、私の花にする」
「はい」
それは、とても良いと思った。
夕方前、私は森へ帰ることになった。
今日は花守り布をかぶったまま帰る。
リオとミナが送ってくれる。
村の出口で、子供たちが手を振った。
「フローラ先生、また明日!」
「花守り布、似合ってる!」
「豆、見るね!」
「鐘が鳴ったら家に戻る!」
声が次々に飛ぶ。
私は手を振り返した。
「また明日」
その言葉が自然に出た。
また明日。
明日も来る。
明日も見る。
そう言えることが嬉しかった。
森の道を歩きながら、リオが言った。
「花守り布、いいな」
「はい。とても嬉しいです」
「フローラ、朝より元気そう」
「そう見えますか」
「うん」
ミナも頷いた。
「布をかぶるのが、少し楽になりましたか」
「はい」
私は布の刺繍に触れた。
「髪を隠しているのに、村の人たちの気持ちが見えるので」
ミナは優しく笑った。
「よかった」
リオが少し真面目な顔になる。
「使いが来たらさ」
「はい」
「その布、絶対守る」
私は少し驚いた。
「布を、ですか」
「フローラもだけど、その布も。リーナたちが作ったんだし」
胸が温かくなる。
「ありがとうございます」
「おう」
ミナが小さく笑った。
「リオ兄さん、守るものが増えましたね」
「増えた。大変だ」
「でも、嫌じゃないでしょう」
「嫌じゃない」
リオは即答した。
私はその横顔を見て、胸の奥が柔らかくなった。
守るものが増える。
それは大変で、怖い。
でも、嫌ではない。
私も同じだ。
森の家に着くと、青豆一号が夕方の光の中で揺れていた。
私はその前にしゃがみ、花守り布を少し整えた。
「ただいま」
青豆一号は何も言わない。
けれど、葉が風に揺れた。
リオが隣で言う。
「青豆一号も、似合ってるって言ってる」
「そうでしょうか」
「たぶん」
ミナが笑う。
「きっと」
私は少し笑った。
夜。
私は花守り布を机の上に広げ、日記帳を開いた。
今日、リーナが私のために布を作ってくれた。
青い花と白い花の刺繍がある。
村の女性たちも手伝ってくれた。
髪を隠す布だったはずなのに、かぶると少し寂しくなくなった。
名前は花守り布になった。
リーナは、私の花ではなく、自分の花を刺繍することにした。
違いは失敗ではないと話した。
マルクさんは街道へ出た。
公爵家の使いがどこにいるかはまだ分からない。
怖い。
でも、今日は花守り布があった。
私はペンを止めた。
机の上の布に触れる。
刺繍の糸が指先に少し引っかかる。
一針一針。
リーナの手。
ミナの手。
村の女性たちの手。
それが私を包んでくれる。
私は最後に書いた。
隠すための布が、守るための布になった。
私は今日、髪を隠しても、私を見てくれる人たちがいると知った。
日記帳を閉じる。
暖炉の火が揺れる。
花守り布を丁寧に畳み、机の横に置く。
明日も使う。
きっと怖い日はまだ続く。
公爵家の使いは、いつか本当に来るかもしれない。
でも、私はその時、この布をかぶって立つのだろう。
隠れるためだけではなく。
ここにいると選ぶために。
「おやすみなさい、花守り布」
そう呟いてから、少し笑った。
布に挨拶する日が来るとは思わなかった。
でも、この家にはもう、挨拶したいものがたくさんある。
青豆一号。
ニコ鳥。
白い石。
リーナの栞。
村の客人札。
そして花守り布。
大切なものが増えていく。
怖いけれど、嫌ではない。
私は暖炉の火を小さくし、夜の森へ目を向けた。
暗い森の向こうに、村がある。
村のどこかで、リーナも今日のことを思い出しているだろうか。
そう思うと、胸が温かくなった。
明日も、畑を見よう。
豆を見よう。
怖さも見よう。
そして、花守り布をかぶって、村へ行こう。
私は静かに目を閉じた。




