第18話 青の姫君、隠すためではなく選ぶために
翌朝、私は鏡の前で布を頭にかぶっていた。
薄い生成りの布。
ミナが昨日、村から持ってきてくれたものだ。
髪を覆うための布。
農作業をする村の女性たちがよく使う形で、後ろで結べば髪の大部分を隠せる。
ただ、私の髪は長い。
空色の髪は、編んでもまとめても、少しの隙間から色が見えてしまう。
私は鏡の中の自分を見つめた。
生成りの布をかぶった私。
公爵令嬢には見えない。
青の姫君にも、たぶん見えない。
森の薬師見習い。
畑仕事をする少女。
そう見えるかもしれない。
けれど、布の端からこぼれた一房の髪が、朝の光を受けて淡く光っていた。
私はそれを指で押し込む。
また別のところから少し出る。
押し込む。
布がずれる。
「……難しいです」
独り言がこぼれた。
髪を隠す。
それだけのことなのに、胸の中が少しざわついていた。
青い髪は、私を褒める言葉でもあった。
青の姫君。
美しい空色の髪。
母様譲りの髪。
屋敷の人たちは、幼い私の髪をよく褒めてくれた。
けれど今は、危険の目印になっている。
青い髪の少女。
公爵家の使いが探している噂。
だから隠す。
必要なことだ。
分かっている。
でも、少しだけ苦しかった。
髪を隠すことは、私自身を隠すことのように感じたから。
私は鏡の前で、布を握ったまま立ち尽くした。
帰りたくない。
昨日、私はそう言った。
ここにいたい、と。
それは本当だ。
でも、ここにいるために、髪を隠す。
名を隠す。
家を隠す。
力を隠す。
隠してばかりでは、いつか私自身がどこにいるのか分からなくなるのではないか。
そんな不安が、胸の奥で小さく芽を出していた。
窓の外で、青豆一号が風に揺れている。
虫食いの穴はまだある。
けれど新しい葉は昨日より少し伸びている。
私はその姿を見て、息を吐いた。
「傷があっても育つ」
小さく呟く。
髪を隠しても、私は消えるわけではない。
森の薬師見習いであることも。
畑の先生であることも。
リオとミナの友達であることも。
それは布では隠れない。
そう思いたい。
私はもう一度布を巻き直した。
今度は髪を二つに分け、低くまとめてから布の内側に入れる。
後ろで結ぶ。
首元に少しだけ空色が見える。
そこを細い紐で留める。
鏡を見る。
今度は、ほとんど隠れた。
私は胸元の村の客人札に触れた。
隠すためではなく、選ぶため。
ここにいるため。
そう言い聞かせる。
朝食は簡単に済ませた。
パンにベリージャム。
薬草茶。
それから昨日村でもらった小さな根菜を煮たもの。
食べながら、今日の予定を確認する。
村へ行く。
ルルの豆、ニコ豆、リオ豆、青豆一号の記録共有。
子供たちへの授業。
それから、村で決めた合図の確認。
外の者が来た時の動き。
私がどこへ移動するか。
誰が知らせるか。
どの家に入るか。
髪を隠す布の使い方。
日常を止めない。
村長さんはそう言った。
でも、日常の中に警戒を混ぜるのは、思ったより難しい。
私は籠に教材を入れた。
今日は少なめ。
一枚だけ。
題名は「畑を見続けること」。
虫食いの翌日、その次の日、そのまた次の日。
同じ場所を見る意味を、子供たちに話すつもりだった。
怖いことが起きた時こそ、見る。
泣いても見る。
それは畑だけでなく、今の私たちにも必要なことだから。
玄関を出ると、森の朝は澄んでいた。
冷たい空気が頬に触れる。
布で髪を覆っているせいか、いつもより少し視界が狭い。
首元がくすぐったい。
私は結界を確認し、畑へ向かった。
青豆一号は元気だった。
穴はそのまま。
新しい葉は少し開き始めている。
「おはようございます」
私は声をかける。
今朝は、リオとミナが迎えに来る予定だ。
少し待つと、結界に二人の気配が触れた。
今日は足音がいつもより慎重だった。
リオも走っていない。
昨日の話し合いの後だからだろう。
森の道から二人が現れる。
リオは私を見るなり、目を丸くした。
「おお……」
ミナも少し驚いた顔をした。
私は布の端に手をやる。
「変ですか」
「変じゃない!」
リオが慌てて言った。
「ただ、いつもと違うから」
「髪、ほとんど隠れていますか」
ミナが近づき、優しく確認してくれる。
「はい。少し首元に見えるくらいです。ここをもう少し留めるといいかも」
ミナは持ってきた小さなピンで布を留めてくれた。
指先が丁寧に布を整える。
私はじっと立っていた。
「苦しくないですか」
「少し慣れません。でも大丈夫です」
「似合っています」
ミナが言った。
私は少し驚く。
「似合っていますか」
「はい。森の薬師見習いらしいです」
その言葉に、胸の奥が少し柔らかくなった。
隠しているのに。
でも、消えているのではなく、今の私らしく見える。
「ありがとうございます」
リオも頷いた。
「うん。なんか、畑の先生って感じ」
「それは良いことでしょうか」
「いいことだろ」
リオは当然のように言った。
「でも、青い髪も好きだけどな」
不意に言われ、私は固まった。
ミナも一瞬リオを見る。
リオは自分が何を言ったのか少し遅れて気づいたようで、慌てて手を振った。
「いや、変な意味じゃなくて! フローラの髪、綺麗だし。でも隠しててもフローラはフローラっていうか……えっと」
言葉を探している。
私は胸の中が温かくなるのを感じた。
「ありがとうございます」
リオは少し赤くなった。
「おう」
ミナが小さく笑う。
「リオ兄さん、今日はちゃんと言えましたね」
「今日はって何だよ」
「いつもは勢いだけだから」
「そんなことないだろ」
二人のやり取りで、緊張が少しほどけた。
私は青豆一号の記録を見せ、三人で村へ向かった。
森の道を歩きながら、布の感触に少しずつ慣れていく。
枝に引っかからないよう注意する必要がある。
風が吹いても髪が揺れない。
少し寂しい。
けれど、リオとミナが隣にいる。
私は私だ。
そう思える。
村に着くと、広場にいた村人たちが私の姿に気づいた。
一瞬だけ視線が集まる。
いつもの青い髪が見えないからだろう。
けれどすぐに、パン屋の女性が明るく声をかけてくれた。
「あら、フローラちゃん。布、似合ってるねえ」
水汲みの女性も頷く。
「畑仕事するなら、その方が髪も汚れなくていいよ」
「結び方、少し後で教えてあげる」
その声は自然だった。
隠していることを大げさにしない。
ただ、村の女の子が布をかぶっているように扱ってくれる。
その自然さに、私は救われた。
「ありがとうございます」
私は礼をした。
共同畑には子供たちが集まっていた。
私を見たエマが、最初に叫ぶ。
「フローラ先生、髪ない!」
「あります」
私は即答した。
子供たちが笑う。
ニコが不思議そうに近づく。
「隠してるの?」
「はい。今日は布をかぶっています」
「どうして?」
素直な質問。
周囲の大人たちが少し緊張した。
私は少し考えた。
子供たちにどこまで話すか。
昨日の話し合いでは、子供には詳しく話さず「村の外の人が来た時に驚かせないため」「薬師見習いらしい格好」と説明することになっていた。
「外の人が来た時に、目立ちすぎないようにです」
私は答えた。
「それから、畑仕事にも便利です」
ニコは納得したように頷いた。
「そっか。髪、土つかないね」
「はい」
リーナが小さく言う。
「でも、青い髪も好き……」
私はリーナを見た。
彼女は少し恥ずかしそうに俯く。
「ありがとうございます。私も、自分の髪は嫌いではありません」
そう言ってから、自分で少し驚いた。
嫌いではない。
言えた。
危険の目印になっている髪。
でも、母様譲りの髪。
村の子供たちが空みたいと言ってくれた髪。
ミナが綺麗だと言ってくれた髪。
リオが好きだと言ってくれた髪。
私はそれを、嫌いではない。
リーナは嬉しそうに笑った。
「うん。綺麗」
私は胸が温かくなった。
授業は共同畑から始めた。
まず虫食い後の確認。
マメタは良好。
ニコ豆も新葉が開き始めている。
リオ豆は穴が広がっていない。
ルルの豆は、昨日見つけた小さな新葉が少し伸びていた。
ルルはそれを見て、涙を浮かべながらも笑った。
「伸びてる」
「はい」
「昨日より、見える」
「よく見ていましたね」
「うん。朝も見た」
トトが横で言う。
「俺も見た」
「二人で?」
「うん」
ルルは頷いた。
「泣いてない」
少し誇らしそうだった。
「泣いても見られますし、泣かずにも見られます」
私が言うと、ルルは真剣に頷いた。
「どっちでも見る」
「はい」
どっちでも見る。
それは、昨日より少し進んだ言葉だった。
私は今日の木板を出した。
「今日は、見続けることについて話します」
子供たちは座る。
大人たちも少し離れて聞いている。
バルドさんは腕を組み、村長さんは広場の端から見ていた。
私は木板に描いた豆の絵を示した。
「虫食いを見つけた日だけ見ても、分からないことがあります。次の日、穴が広がったか。新しい葉が出たか。土が湿りすぎていないか。何日か続けて見ることで、畑が元気かどうか分かります」
サムが手を上げる。
「毎日同じ時間に見た方がいい?」
「できれば、その方が比べやすいです」
サムはすぐ記録板に書き込んだ。
エマが言う。
「同じ時間に見ると、豆も安心する?」
「豆が安心するかは分かりませんが、見る人は変化に気づきやすくなります」
「じゃあ、豆もきっと安心する」
エマはそう結論づけた。
私は否定しなかった。
そう思って見るのも、悪くない。
ニコが手を上げる。
「怖くても見るの?」
「はい。でも、一人で怖い時は誰かと一緒に見ます」
「先生も?」
不意に聞かれた。
私は少しだけ言葉に詰まる。
子供たちが私を見ている。
リオとミナも。
私は正直に答えた。
「私も、怖い時があります」
広場が少し静かになった。
「その時は、リオやミナ、村長さんたちに一緒にいてもらいます」
ニコはこくりと頷いた。
「じゃあ、僕も怖い時、母さんと見る」
「はい。それがいいです」
ルルが小さく言う。
「私、トトと見る」
「俺も見る」
トトがすぐ答える。
リーナは少し迷ってから言った。
「私は、エマと見る」
「いいよ!」
エマが元気に頷く。
怖い時は誰かと見る。
その言葉が、子供たちの間に広がっていく。
私はそれを見て、少しだけ泣きそうになった。
今の私にも必要なことだった。
公爵家の使い。
青い髪の少女を探す噂。
怖い。
でも、一人で見なくていい。
皆で見る。
それが今日の授業で、今日の私の支えだった。
授業の後、村長さんが短く合図の確認を始めた。
子供たちには「外の人が来た時のお約束」として説明する。
鐘が一度ゆっくり鳴ったら、子供たちは広場から家へ戻る。
鐘が二度鳴ったら、大人の指示を聞く。
知らない人に、村の友達の話を勝手にしない。
薬草や森の家の話も、大人に確認する。
子供たちは少し緊張していたが、昨日の虫食いの授業とつながっているせいか、思ったより真剣に聞いていた。
エマが手を上げる。
「知らない人に、フローラ先生の話しちゃだめ?」
村長さんは私をちらりと見た。
私は小さく頷いた。
村長さんは穏やかに答える。
「フローラ先生に限らず、村の人のことを知らない人に何でも話してはいけない。相手が良い人かどうか、分からないからだ」
「薬草と同じ?」
ニコが言う。
私は驚いた。
以前も似たことを言っていた。
分からない草は勝手に触らない。
分からない人には勝手に話さない。
子供たちは、自分たちなりに理解しようとしている。
村長さんも頷いた。
「そうだ。薬草と同じだ。分からない時は大人に聞く」
子供たちは声をそろえた。
「分からない時は大人に聞く!」
少しずれた声。
でも力強かった。
私は布の下で、少しだけ目を伏せた。
守られている。
子供たちにまで。
それが申し訳なく、そして温かい。
昼食の時間になった。
今日の広場は、昨日より少し静かだった。
警戒の話をしたからだろう。
それでも、スープの匂いがあり、パンを分ける声があり、子供たちの小さな笑い声がある。
日常は完全には止まっていない。
私はミナの隣に座った。
リオは向かいでパンを食べている。
ただ、今日は外の道が見える位置に座っていた。
見守り係のつもりらしい。
「リオ」
「ん?」
「食事中も見張るのですか」
「まあ、一応」
「パンを落とします」
「落とさないって」
言った直後、パンの欠片が膝に落ちた。
ミナが静かに見た。
「落としたね」
「欠片だから」
「落としたことには変わりません」
私は思わず笑った。
リオも少し恥ずかしそうに笑った。
その小さな笑いが、重い空気を少し軽くする。
ミナが私の布を見て言った。
「頭、痛くないですか」
「少し締めすぎたかもしれません」
「後で直しますね」
「お願いします」
リオが言う。
「無理に隠さなくてもいいんだけどな」
私は彼を見た。
リオは少し真面目な顔をしていた。
「いや、必要なのは分かってる。でも、フローラが苦しいなら嫌だ」
「苦しいわけではありません」
私は布の端に触れた。
「少し寂しいだけです」
「寂しい?」
「髪を隠すと、自分の一部をしまっている気がするので」
リオは黙った。
ミナも静かに聞いている。
「でも、これは私がここにいるために必要なことです。誰かに無理に隠されているのではなく、自分で選んで隠している。そう思うことにしました」
ミナが微笑んだ。
「選んで、ですね」
「はい」
リオも頷いた。
「じゃあ、隠したい時は隠す。出したい時は出す。そういうことだな」
「そういうことです」
言葉にしてみると、少し心が軽くなった。
隠すことは消えることではない。
選ぶこと。
今は隠す。
でも、信頼できる場所では出せる。
森の家で。
リオとミナの前で。
青豆一号の前で。
私は自分の髪を完全に失ったわけではない。
昼食後、ミナが木陰で布を結び直してくれた。
リーナも少し離れたところから見ている。
「見てもいい?」
リーナが小さく聞いた。
私は頷いた。
「はい」
ミナは髪を丁寧にまとめ、布を柔らかく巻く方法を教えてくれた。
リーナは真剣に見ていた。
「私も、今度布作る」
「布を?」
「フローラ先生用に。青い糸で、少しだけ花を刺繍する」
私は驚いた。
「そんな、手間では」
「作りたい」
リーナの声は小さいが、はっきりしていた。
ミナが優しく笑う。
「きっと似合います」
胸が温かくなる。
髪を隠す布。
それは少し寂しいものだった。
でも、リーナが刺繍をしてくれるなら。
その布は、ただ隠すためのものではなくなる。
誰かの手で作られた、私のためのものになる。
「ありがとうございます。楽しみにしています」
リーナは嬉しそうに頷いた。
その時、広場の鐘が一度、ゆっくり鳴った。
ごん、と低い音。
空気が瞬時に変わる。
子供たちは顔を上げた。
大人たちも動きを止める。
私の心臓が跳ねた。
鐘一つ。
外の人が村の近くに来た合図。
練習ではない。
村長さんが家の前から静かに手を上げる。
ガルドさんが村の入口へ向かう。
リオがすぐ私のそばに来た。
ミナも。
「フローラ」
ミナの声は落ち着いていた。
「一度、パン屋さんの裏へ」
昨日決めた一時避難場所の一つ。
広場から近く、外から見えにくい場所。
私は頷いた。
「はい」
足が少し震える。
でも動ける。
子供たちは、朝の約束通り、大人に連れられて家の方へ移動し始めた。
エマが不安そうに私を見る。
私は小さく頷いた。
大丈夫。
そう伝えるつもりで。
エマは唇を結び、母親の手を握って歩いていった。
リオが私の横を歩く。
ミナが布の端を確認する。
パン屋の裏へ入ると、そこは焼きたてのパンの匂いがした。
積まれた木箱。
粉袋。
小さな裏口。
私は壁際に立った。
外の声は聞こえにくい。
でも、村の入口の方で何かやり取りが始まっている気配は分かった。
胸が苦しい。
公爵家の使いだろうか。
それとも隣村の人か。
旅人か。
商人か。
分からない。
分からないことは怖い。
私は手を握った。
ミナがすぐにその手を包む。
リオは入口の方を見ながら、小声で言った。
「息してるか」
「しています」
「ならよし」
少しだけ笑いそうになった。
緊張の中でも、リオの言葉は真っ直ぐだ。
外で低い声がする。
ガルドさん。
村長さん。
知らない男の声。
私は耳を澄ませた。
ミナが小さく首を振る。
「聞きすぎると、余計に怖くなります」
「はい」
「今は、ここで待ちましょう」
待つ。
また待つ。
でも一人ではない。
私は目を閉じ、青豆一号の新しい葉を思い浮かべた。
ルルの豆。
リオ豆。
ニコ豆。
虫食いの穴。
新しい葉。
泣いても見る。
怖くても見る。
でも、見る時は誰かと一緒に。
しばらくして、足音が近づいた。
私は体を強張らせる。
しかし現れたのは、パン屋の女性だった。
彼女は小声で言った。
「大丈夫。隣村の薬草採りだよ。迷子の山羊を探してたんだって」
全身から力が抜けそうになった。
リオも大きく息を吐く。
「山羊かよ……」
ミナもほっとしたように目を閉じた。
パン屋の女性は私を見て、優しく笑った。
「怖かったね。でもちゃんと動けたよ」
私は少し遅れて頷いた。
「はい」
「えらいえらい」
そう言って、彼女は私の頭を撫でようとして、布に触れる前に手を止めた。
「あ、ごめんね」
「いえ」
私は少し迷ってから、自分から頭を少し下げた。
「大丈夫です」
彼女の手が、布越しにそっと頭を撫でた。
優しい手だった。
母様の手を少し思い出す。
胸が痛くなる。
でも、温かさもあった。
「よく頑張ったね」
その言葉に、目の奥が熱くなる。
私は小さく頷いた。
「ありがとうございます」
広場へ戻ると、村は少しざわついていたが、大きな問題はなかった。
山羊を探していた隣村の薬草採りは、村長さんと少し話し、すぐに帰っていったらしい。
公爵家の使いではなかった。
それだけで、皆がほっとしていた。
でも同時に、実際に合図が鳴ったことで、警戒の現実味が増した。
子供たちも戻ってきた。
エマが私のところへ来る。
「フローラ先生、大丈夫?」
「はい。大丈夫です」
「私、家に行けた」
「約束を守れましたね」
「うん。でも怖かった」
「私も怖かったです」
エマは驚いたように私を見た。
そして、小さく手を伸ばした。
「怖い時は、一緒に見るんだよね」
「はい」
「じゃあ、今度は一緒に怖がる」
その言葉に、私は少し笑った。
「はい。一緒に怖がりましょう」
怖がることを、こんなふうに言える日が来るとは思わなかった。
夕方、森へ帰る道で、私は少し疲れていた。
髪を隠す練習。
虫食い後の観察。
合図の確認。
実際の鐘。
山羊だったとはいえ、体は緊張を覚えていた。
リオとミナが送ってくれる。
道中、リオがぽつりと言った。
「今日は山羊だったけどさ」
「はい」
「本当に使いが来ても、今日みたいに動けばいいんだよな」
「はい」
ミナが頷く。
「練習ではなかったけれど、確認になりました」
「私も、動けました」
私は言った。
「怖かったですが、動けました」
リオが笑う。
「それ、すごい」
「すごいですか」
「うん。怖くても動けたから」
ミナも微笑む。
「今日も伸びましたね」
私は布の上から髪に触れた。
隠しているけれど、私はここにいる。
怖かったけれど、動けた。
それは、小さな新しい葉かもしれない。
森の家に戻ると、私は布を外した。
空色の髪が肩に落ちる。
少し乱れている。
けれど、鏡の中の私は、朝より少しだけ落ち着いて見えた。
リオとミナは青豆一号を見てから帰った。
青豆一号は変わらず元気だった。
夜、私は日記帳を開いた。
今日、髪を隠す布をかぶって村へ行った。
少し寂しかった。
でも、隠すためではなく、ここにいることを選ぶためだと思うことにした。
リオは青い髪も好きだと言ってくれた。
リーナは、私用の布を作りたいと言ってくれた。
子供たちと、見続けることを学んだ。
鐘が鳴った。
とても怖かった。
でも、公爵家の使いではなく、隣村の人だった。
私は決めた通りに動けた。
パン屋さんに頭を撫でてもらった。
怖くても動けた。
私はペンを止めた。
今日は長い一日だった。
大きな事件は起きなかった。
でも、私の中ではたくさんのことが動いた。
髪を隠しても、私は私。
怖くても、動ける。
一人ではなく、誰かと一緒に怖がれる。
私は最後に書いた。
隠すことは、消えることではない。
私はここにいるために、自分で選んで布をかぶる。
いつか、隠さなくてもここにいられる日が来たらいい。
でも今は、今日動けた私を少しだけ褒めたい。
日記帳を閉じる。
暖炉の火が揺れる。
机の上のニコ鳥が、小さな影を作っていた。
私は外の畑へ目を向けた。
青豆一号は夜の中で見えない。
でも、そこにある。
穴の空いた葉も、新しい葉も。
どちらも隠さず、同じ茎についている。
私は布を畳み、机の横に置いた。
明日も、必要ならかぶる。
でも今夜は髪をほどいて眠ろう。
空色の髪を肩に流し、私は小さく息を吐いた。
「おやすみなさい」
森は静かだった。
けれど、その静けさの中に、今日も確かに村へ続く道があった。




