第17話 青の姫君、帰りたくないと言う
村長の家へ向かう道が、いつもより長く感じた。
同じ村の中だ。
広場から少し歩くだけ。
土の道を進み、井戸の横を通り、共同畑を背にして、古い鐘の吊るされた家へ向かう。
何度も通った道のはずだった。
けれどその日、私の足元は少し頼りなかった。
スプリング公爵家の使い。
青い髪の少女の噂を集めている。
その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
父様。
母様。
屋敷。
訓練場。
鍵のかかった馬車。
森へ置いていかれた日。
いくつもの記憶が、胸の奥でざわざわと音を立てていた。
逃げたい。
どこへ。
森の家へ。
結界を張り直し、誰も入れないようにして、声も噂も何もかも閉め出す。
それはできる。
たぶん、私ならできる。
でも、その瞬間にリオやミナも、村の子供たちも、バルドさんも、村長さんも、皆を外側へ置くことになる。
それは嫌だった。
怖い。
でも、閉じこもりたくない。
その二つが胸の中でぶつかって、息がしづらかった。
隣ではミナが私の手を握ってくれていた。
強すぎず、弱すぎず。
逃げないように掴むのではなく、ここにいると教えてくれる手。
リオは少し前を歩いていた。
いつもなら振り返って何か言うのに、今は黙っている。
でも、歩く速度は私に合わせていた。
ガルドさんは後ろ。
マルクは村長の家の前で待っている。
バルドさんは子供たちを共同畑から離れた場所に移し、大人たちに余計な不安を広げないよう声をかけていた。
村全体が、静かに緊張している。
それが分かった。
私一人の問題ではない。
もう、そうなってしまった。
村長の家に入ると、空気はひんやりしていた。
広場のざわめきが扉の向こうで遠くなる。
大きな机。
村の地図。
壁に掛かった古い道具。
暖炉には小さな火。
村長さんは机の向こうに座り、険しい顔で待っていた。
マルクは帽子を手に持ち、椅子には座らず立っている。
ガルドさんが扉の横へ立った。
リオとミナは私の近く。
少し遅れて、バルドさんも入ってきた。
扉が閉まる。
沈黙。
私の心臓の音が、自分でも分かるほど大きかった。
村長さんが静かに言った。
「フローラ。座りなさい」
「……はい」
椅子に腰掛ける。
ミナが隣に座り、リオは立ったまま私の斜め後ろにいた。
彼らが近くにいるだけで、私は少しだけ呼吸できた。
村長さんはまずマルクを見た。
「もう一度、聞いた話を整理してくれ」
マルクは頷いた。
「はい。王都方面から来た旅商人と、街道の宿で話しました。スプリング公爵家の使いがいくつかの町や村を回り、薬草や療養地について尋ねているそうです。表向きには、公爵令嬢の療養に使う薬草を探している、という話でした」
公爵令嬢。
私。
なのに、まるで知らない人の話のように聞こえる。
マルクは続けた。
「ただ、その使いは同時に、青い髪の少女を見なかったか、珍しい魔法を使う子供の噂はないか、とも聞いているらしい」
リオが低く呟く。
「探してるじゃねえか」
ミナの手に力がこもる。
村長さんは表情を変えない。
「使いの人数は」
「私が聞いた限りでは二人組が一組。ただ、別の道にも出ている可能性はあります」
「この村へ向かっているという確証は」
「ありません。ですが、リーフェ村は森に近い。薬草を探す名目なら、いずれ来る可能性はあるでしょう」
ガルドさんが腕を組んだ。
「時間はどのくらいある」
「早ければ数日。遅ければ来ないかもしれません」
来ないかもしれない。
でも、来るかもしれない。
曖昧な不安ほど、心を削るものはない。
私は膝の上で手を握った。
指先が冷たい。
ミナがそっと親指で私の手を撫でた。
大丈夫。
そう言われている気がした。
村長さんは今度は私を見た。
「フローラ。確認したいことがある」
「はい」
「君は、スプリング公爵家に戻りたいか」
その問いは、まっすぐだった。
胸を貫くように。
私は息を止めた。
戻りたいか。
公爵家に。
屋敷に。
父様と母様のいる場所に。
帰りたい気持ちは、完全には消えていない。
優しかった頃の記憶がある。
母様の手。
父様の膝の上。
祖父母の笑い声。
使用人たちが私を可愛がってくれた日々。
青の姫君と呼ばれ、ただ愛されていた頃。
あの記憶は、今も胸の奥にある。
でも。
私を怖がった顔。
部屋の外で交わされた低い声。
父様と母様の喧嘩。
母様が痩せていく姿。
父様の命令。
森の別邸。
誰も来ない場所。
置いていかれた私。
戻れば、またあの目で見られるかもしれない。
あるいは、今度はもっと厳重に閉じ込められるかもしれない。
私の力を隠すために。
噂を消すために。
公爵家の体面を守るために。
胸が痛い。
それでも、答えはもうあった。
私はゆっくり息を吸った。
「……戻りたくありません」
声は小さかった。
でも、部屋の中に届いた。
リオが少し息を吐く。
ミナの手が温かい。
村長さんは静かに頷いた。
「理由を聞いてもいいか」
私は目を伏せた。
「怖いからです」
それは情けない理由かもしれない。
でも、今は嘘をつきたくなかった。
「父様も母様も、私を怖がりました。屋敷の人たちも、私を見る目が変わりました。戻れば、また同じことになるかもしれません。それに……」
私は顔を上げた。
「私は今、ここで暮らしたいです」
言った瞬間、胸の奥が震えた。
けれど、言葉は止まらなかった。
「森の家があります。畑があります。青豆一号があります。村にはリオとミナがいて、子供たちの豆があります。私は薬草を教えて、畑を見て、ジャムを作って、栞を渡して……」
少し声が揺れた。
「まだ怖いことはあります。でも、私はここで、少しずつ息ができるようになりました」
沈黙。
誰もすぐには口を開かなかった。
暖炉の火が小さく鳴る。
リオが後ろで拳を握っている気配がした。
ミナは私の手を離さなかった。
「だから」
私は続けた。
「帰りたくありません」
今度は、はっきり言えた。
帰りたくない。
それは初めて、自分の中から出た拒絶だった。
嫌だ。
戻りたくない。
私はここにいたい。
言ってしまった後、怖くなった。
そんなことを言っていいのか。
公爵家の娘なのに。
父様と母様の子なのに。
でも、リオがすぐに言った。
「よし」
短い一言。
けれど、とても強い。
「なら帰らなくていい」
ミナも頷いた。
「フローラが帰りたくないなら、それを大事にしましょう」
ガルドさんが静かに言う。
「本人の意思が最優先です」
バルドさんが鼻を鳴らした。
「十歳の子を森に捨てた家に、何を遠慮する必要がある」
その言葉は少し荒かった。
でも、温かかった。
村長さんは皆の言葉を聞いた後、重く頷いた。
「分かった。なら、村はその前提で動く」
村は。
その言葉に、胸がまた震えた。
私の意思を聞いて。
私が帰りたくないと言ったから。
村が動いてくれる。
こんなことが、あるのだろうか。
村長さんは地図を広げた。
「まず、公爵家の使いが来た場合だ。表向きの目的が薬草探しなら、村として普通に対応する。薬草に詳しい者はいるが、今は森へ入っていない。青い髪の少女については知らない。そう答える」
マルクが少し眉を上げた。
「知らない、と言い切りますか」
「この村にいるのは森の薬師見習いフローラだ。公爵家の令嬢など知らん」
村長さんの声は揺るがなかった。
私は思わず彼を見つめた。
その横でバルドさんが頷く。
「畑の手伝いをしてる薬師見習いなら知ってるが、公爵令嬢は知らねえ」
リオも言う。
「俺の友達のフローラなら知ってる。でも青の姫君? 知らない」
ミナが静かに続けた。
「私も、森の家に住むフローラしか知りません」
胸の奥が熱くなる。
彼らは嘘をついているようで、嘘ではない。
私は確かにスプリング公爵家の娘だった。
でも今、彼らが知っている私は、森の薬師見習いフローラだ。
畑の先生。
友達。
それも、私なのだ。
村長さんはマルクを見る。
「マルク。お前はどうする」
マルクは少し肩をすくめた。
「私は商人です。信用を売って生きています。リーフェ村との付き合いを失うつもりはありません」
「つまり」
「私も、森の薬師見習いしか知りません」
村長さんはしばらく彼を見つめた。
やがて頷く。
「いいだろう」
ガルドさんが地図の森側を指した。
「フローラ殿の森の家には、当面子供たちを行かせない方がいいでしょう。出入りが多いと目立ちます」
胸が少し痛んだ。
子供たちの森見学。
また来たいと言ってくれた場所。
それを控える。
必要なことだと分かる。
でも、寂しい。
ミナがそれに気づいたように、手を握り直した。
村長さんは私を見る。
「一時的なものだ。完全にやめるわけではない」
「はい」
「村へ来るのも、少し頻度を調整しよう。来る時は必ず誰かと一緒に。村にいる時も、外の者が来たら家の中へ入る」
「分かりました」
リオがすぐ言う。
「俺が迎えに行く」
ミナも言う。
「私も行きます」
ガルドさんが頷く。
「交代で付き添いましょう」
バルドさんも短く言った。
「俺も行く」
私は皆を見回した。
胸が詰まった。
「……ありがとうございます」
それしか言えない。
村長さんは少し表情を和らげた。
「礼は後だ。まず決めることがある」
「はい」
「フローラ、もし公爵家の使いが君本人と確信し、直接返還を求めた場合。君はどうしたい」
直接。
返還。
その言葉に、体が冷える。
公爵家の権力は強い。
村が相手にするには大きすぎる。
私一人なら、力で拒める。
でも、そうすれば村が巻き込まれる。
貴族に逆らった村。
公爵家の娘を匿った村。
そんな扱いになれば、村に害が及ぶかもしれない。
それだけは嫌だった。
私は震える声で言った。
「村に迷惑がかかるなら、私は――」
「そこから先は言うな」
バルドさんの声が遮った。
低く、強い。
「嬢ちゃん、自分を差し出せば村が助かるなんて考えるな」
私は言葉を失った。
バルドさんは続けた。
「そういう考え方は、畑を駄目にする。一本だけ犠牲にすりゃいいと思って放っておくと、根から腐る」
「でも」
「でもじゃねえ」
バルドさんは私をまっすぐ見た。
「村は村で考える。お前はお前の意思を言え。帰りたくないなら、帰りたくない。それでいい」
胸が熱くなった。
叱られている。
でも、守られている。
リオも強く頷いた。
「そうだ。フローラが自分を犠牲にするのは違う」
ミナも言う。
「村に迷惑がかかるかどうかは、大人たちと一緒に考えることです。フローラ一人が決めることじゃありません」
ガルドさんも静かに加えた。
「相手が公爵家でも、無法が許されるわけではありません。少なくとも、本人の意思を無視して連れ去るなら、それは問題です」
村長さんが頷く。
「この村は小さい。公爵家と正面から争えば勝てん。だが、知恵を使うことはできる」
「知恵」
「そうだ。まず、相手に確証を与えない。次に、フローラの居場所を分散して見せる。村へ来る時は髪を隠すことも考える。森の家の結界も調整する。必要なら、一時的に村の隠し部屋を使う」
「隠し部屋?」
私が驚くと、リオが少し得意そうに言った。
「村長の家、地下倉庫があるんだ」
「リオ」
村長さんが睨む。
「秘密をすぐ言うな」
「あっ」
ミナが額を押さえた。
「リオ兄さん……」
緊張していた空気が、少しだけ緩んだ。
私は思わず小さく笑ってしまった。
こんな時でも、リオはリオだった。
リオは気まずそうに頭を掻く。
「ごめん。でも、フローラには必要だろ」
村長さんは深く溜息をついた。
「まあ、今話す予定ではあった」
地下倉庫は、村の非常用の食料庫でもあり、昔は盗賊や魔物から子供を隠すためにも使ったらしい。
狭いが、数人なら一時的に入れる。
もし使いが急に来た時、私をそこへ避難させる案が出た。
私は少し複雑だった。
隠れる。
また閉じ込められるようで怖い。
でも、これは私を捨てるためではない。
守るため。
しかも、私が望むなら、という前提だ。
「使うかどうかは、その時に相談します」
村長さんが言った。
「無理に閉じ込めることはしない」
その一言に、私は救われた。
「ありがとうございます」
話し合いは続いた。
村外の人が来た時の合図。
子供たちへの説明。
私の髪を隠す布。
森の家へ続く道に痕跡を残さない方法。
マルクが外で聞いた情報を村へ届ける手段。
どれも具体的で、現実的だった。
怖い話なのに、皆が一つずつ形にしていく。
不安が完全に消えるわけではない。
でも、ぼんやりした恐怖が、少しずつ対処できるものへ変わっていく。
私はその様子を見ながら、何度も思った。
一人では、こんなふうには考えられなかった。
森の家で一人なら、私はただ結界を強くして、外へ出なくなっていたかもしれない。
でも今は違う。
村長さんが地図を見る。
ガルドさんが警備を考える。
バルドさんが森の道を考える。
マルクが街道の情報を持ってくる。
リオとミナが私のそばにいる。
私は、自分の意思を言う。
帰りたくない。
ここにいたい。
その言葉が、話し合いの中心に置かれている。
それが、信じられないくらいありがたかった。
夕方近く、話し合いは一旦終わった。
村長さんは最後に私へ向き直った。
「フローラ。今日決めたことは、君を守るためのものだ。だが、君の暮らしを全部止めるためではない」
「はい」
「畑も見る。授業も続ける。友達にも会う。ただし、少し慎重にする。それでいいな」
私は頷いた。
「はい。それがいいです」
リオがすぐ言った。
「明日も豆見るだろ?」
「はい」
ミナが微笑む。
「ルルの豆も見ないといけませんしね」
「はい」
日常が続く。
それは、今の私にとって何より大事なことだった。
怖い知らせが来ても、私は畑を見る。
子供たちの豆を見る。
薬草茶を淹れる。
リオとミナと話す。
日常を完全に奪われない。
それが、私の小さな抵抗なのかもしれない。
村長の家を出ると、外は夕暮れだった。
空が淡い橙色に染まり、村の屋根に柔らかな光が落ちている。
共同畑の方から、子供たちの声が聞こえた。
大人たちが不安を隠してくれているのだろう。
子供たちはまだ、いつものように豆を見ている。
ルルが新しい葉を覗き込み、トトが隣で何か言っている。
リオ豆の前には、誰かが小さな支柱を立てていた。
リオがそれを見つけて駆け寄ろうとし、ミナに袖を掴まれる。
「走らない」
「分かってる!」
私はその光景を見て、胸が少し緩んだ。
守りたい。
この日常を。
私がここにいることで危険が来るなら怖い。
でも、だからといって消えたくない。
私はここにいたい。
もう一度、心の中で言った。
帰りたくない。
ここにいたい。
森へ戻る道は、ガルドさんとリオとミナが送ってくれた。
バルドさんは村に残り、村外の道を確認するらしい。
マルクは今夜村に泊まり、明日また街道へ出て情報を探るという。
森の道は夕方の匂いがした。
湿った土。
木の皮。
遠くの花の香り。
私はミナと手を繋いで歩いた。
今日は自分から、手を差し出した。
ミナは何も言わずに握ってくれた。
リオは少し前を歩きながら、時々振り返る。
「フローラ」
「はい」
「言えたな」
「何をですか」
「帰りたくないって」
私は少し黙った。
「はい。言えました」
「すごいと思う」
「すごい、ですか」
「うん。怖いのに言ったから」
リオの声は真剣だった。
「俺なら怒って叫ぶだけかもしれない。でも、フローラはちゃんと言葉にした」
私は胸が温かくなるのを感じた。
「リオも、私のために怒ってくれます」
「それはまあ、怒る」
「それも嬉しいです」
リオは少し照れたように顔を背けた。
「そっか」
ミナが優しく言う。
「フローラは、自分の気持ちを言うのが上手になっていますね」
「まだ、怖いです」
「怖くても言えました」
怖くても言えた。
それは今日の私にとって、大きなことだった。
森の家に着くと、青豆一号は夕暮れの光の中で静かに立っていた。
葉の穴はまだある。
新しい葉もある。
私はその前にしゃがんだ。
「ただいま」
声をかける。
リオも隣にしゃがむ。
「青豆一号、フローラ言えたぞ」
「リオ兄さん、豆に報告してる」
ミナが笑う。
「大事だろ」
「大事ですね」
私は少し笑った。
今日のことを、青豆一号に報告するのは悪くない。
「帰りたくないと言えました」
私は青豆一号に向かって言った。
「ここにいたいとも」
葉が風に揺れた。
ただの風。
でも、頷いてくれたように見えた。
夜。
一人になった家で、私は日記帳を開いた。
今日は、書くことが多かった。
公爵家の使いが、青い髪の少女の噂を集めているらしい。
村長さんたちと話し合った。
私は、公爵家に帰りたくないと言った。
ここで暮らしたいと言った。
とても怖かった。
でも、リオとミナがそばにいてくれた。
村長さんたちは、私の意思を最初に聞いてくれた。
村は、私を森の薬師見習いフローラとして守ってくれる。
しばらくは慎重に暮らす。
でも、畑も授業も友達も全部やめなくていい。
私はペンを止めた。
胸の中にまだ恐怖はある。
公爵家の使いがいつ来るか分からない。
もし来たら。
もし私を見つけたら。
もし父様の命令を持っていたら。
考えると指先が冷える。
けれど、今日の私は一つ言えた。
帰りたくない。
その言葉は、私の中に小さな杭を打ったようだった。
ここにいるための杭。
風に飛ばされないためのもの。
私は最後に書いた。
私は、捨てられたからここにいるのではなく、ここにいたいからここにいるのだと、いつか胸を張って言えるようになりたい。
日記帳を閉じる。
暖炉の火が揺れている。
机の上にはニコ鳥。
白い石。
リーナの栞。
村の客人札。
それらを一つずつ見た。
私がここで受け取ったものたち。
私はそれらを守りたい。
そして、それらに守られている。
「帰りたくない」
もう一度、小さく呟いた。
今度は震えなかった。
外の森は暗い。
けれど、私の家の中には火がある。
私はその火を見つめながら、静かに息を吐いた。
明日も、畑を見る。
ルルの豆を見る。
青豆一号を見る。
怖くても。
泣いても。
私は、ここで暮らしていく。




