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『青の姫君の森暮らし 〜化け物と恐れられた公爵令嬢は、今日も畑を耕します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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16/41

第16話 青の姫君、泣いても見る


 翌朝、私はいつもより早く目を覚ました。


 窓の外はまだ薄暗く、森は青い影の中に沈んでいた。


 鳥の声も少ない。


 夜と朝の境目のような静けさが、家の中に満ちている。


 私は寝台の上でしばらく天井を見つめていた。


 昨日、青豆一号に虫食いを見つけた。


 村の共同畑でも、いくつかの豆に虫食いが出ていた。


 ルルは泣いた。


 ニコも不安そうだった。


 リオはリオ豆の穴を見て、珍しく黙り込んだ。


 そして私は、何度も同じことを言った。


 葉の穴は戻らない。


 でも、新しい葉は出る。


 傷があっても、育つ。


 昨日の日記にも書いたその言葉が、朝になっても胸の奥に残っていた。


 私は起き上がり、身支度を整えた。


 水で顔を洗う。


 井戸の水は冷たく、眠気をすぐに追い払った。


 手を拭きながら畑へ向かう。


 青豆一号の前で、私は息を止めるようにしゃがみ込んだ。


 虫食いの穴は、もちろん戻っていない。


 葉の端に小さく空いたままだ。


 けれど、葉は昨日より少し開いていた。


 双葉の間から伸び始めていた新しい葉が、ほんの少し顔を出している。


 昨日より、確かに。


 ほんの少しだけ。


「……出ていますね」


 声が小さく震えた。


 新しい葉。


 穴の空いた葉の隣に、新しい葉が生まれている。


 私は指先で土を軽くほぐした。


 湿り具合は良い。


 虫の気配は今のところない。


 昨日置いた虫除け草も効いているようだ。


 私は記録板を取り出し、丁寧に書いた。


 青豆一号、虫食い後一日目。


 既存の穴、拡大なし。


 新葉、確認。


 状態、良好。


 書き終えた後、私はしばらくその文字を見ていた。


 新葉、確認。


 ただの記録なのに、胸が温かい。


 私は青豆一号に向かって、小さく頭を下げた。


「教えてくれて、ありがとうございます」


 豆に礼を言うのは変かもしれない。


 でも、今朝の私は本当にそう思った。


 青豆一号は、昨日の私の不安に答えるように、新しい葉を出してくれた。


 傷があっても育つ。


 それを、言葉ではなく姿で見せてくれた。


 私はそのまま、しばらく畑にいた。


 空が少しずつ明るくなる。


 木々の間に金色の光が差し始める。


 霧が薄く流れ、葉先の露が光る。


 森の朝が目を覚ます。


 その中で、青豆一号の小さな葉も、静かに光を受けていた。


 今日は村へ行く。


 ルルの豆を見る。


 リオ豆を見る。


 ニコ豆を見る。


 虫食いの後、どうなったか。


 子供たちと一緒に確認する。


 私は少し緊張していた。


 もし被害が広がっていたら。


 もしルルの豆が弱っていたら。


 また泣くかもしれない。


 でも、見る。


 泣いても見る。


 昨日、ルルがそう言った。


 なら、先生の私が目を逸らすわけにはいかない。


 私は伝言鳥を飛ばす前に、玄関の扉を開けた。


 すると、結界の外にすでに二人の気配があった。


 リオとミナ。


 思わず瞬きをする。


 まだ朝早い。


 村から来るには早すぎる時間だ。


 森の道から、抑えた声が聞こえた。


「だから、早すぎるって言ったでしょう」


「でも気になるだろ」


「気になるけど、フローラが起きてなかったらどうするの」


「待つ」


「リオ兄さんが静かに待てるの?」


「……頑張る」


「今の間は何?」


 私は少し笑ってしまった。


 扉を開け、外へ出る。


「おはようございます」


 二人が同時にこちらを向いた。


 リオの顔がぱっと明るくなる。


「フローラ! 起きてた!」


「はい。青豆一号を見ていました」


 ミナが少し申し訳なさそうに頭を下げた。


「朝早くにごめんなさい。リオ兄さんが、どうしても青豆一号と村の豆が気になるって」


「ミナも気になってただろ」


「それは……そうだけど」


 ミナは少し頬を赤くした。


 私は二人を畑へ案内した。


 青豆一号の前にしゃがむ。


「見てください」


 リオが顔を近づけかけ、慌てて少し下がった。


「近づきすぎない」


「覚えていますね」


「おう」


 ミナが微笑む。


 リオは葉をじっと見た。


「あ、これ……新しい葉か?」


「はい」


「出てる……!」


 リオの声が弾んだ。


 ミナも目を細める。


「本当ですね。昨日より少し伸びています」


「はい」


 私は頷いた。


「穴は戻っていません。でも、新しい葉が出ました」


 リオはしばらく黙って青豆一号を見ていた。


 そして、小さく息を吐いた。


「すげえな」


「豆がですか」


「うん。穴空いたのに、ちゃんと伸びてる」


「はい」


 ミナが静かに言った。


「ルルにも見せてあげたいですね」


「はい。今日、記録を持っていきます」


 私は記録板を見せた。


 ミナはそこに書かれた「新葉、確認」の文字を見て、柔らかく笑った。


「きっと安心します」


「そうだといいです」


 リオが立ち上がった。


「じゃあ村行こう。リオ豆も見ないと」


「朝食は?」


 ミナが聞く。


 リオは固まった。


「……食べてない」


「だから言ったでしょう」


 私は少し考えた。


「簡単なパンならあります。食べてから行きますか」


 リオの目が輝いた。


「いいのか!?」


「はい。村へ行く前に食べましょう。空腹で畑を見ると、判断が鈍るかもしれません」


「畑関係ある?」


「あります」


 ミナが笑った。


「フローラの家で朝食ですね」


 私は二人を家へ招いた。


 朝の台所に、三人分のパンと薬草茶を並べる。


 ミナには薄めのお茶。


 リオには少し濃いめ。


 自分用にはいつもの配合。


 ベリージャムも少し出した。


 ミナと作ったものだ。


 リオは嬉しそうにパンへ塗りかけ、ミナに「塗りすぎ」と止められた。


「朝だからいいだろ」


「朝だからこそ、ほどほどに」


「ほどほどって難しいな」


「フローラも学んでいます」


 急に名前が出て、私は少し肩を揺らした。


「はい。学習中です」


 三人で朝食を取る。


 ただそれだけのことなのに、台所が温かく感じる。


 朝から誰かと食べるのは、森に来てからほとんどなかった。


 パンをかじる音。


 カップを置く音。


 リオの「うまい」という声。


 ミナの小さな笑い声。


 その音が、家の壁に柔らかく触れているようだった。


 私はふと、屋敷の朝食を思い出した。


 長い食卓。


 磨かれた銀器。


 静かに動く使用人。


 父様と母様。


 幼い頃は、そこにも温かさがあった。


 けれど後半は、会話が減った。


 私が何か言うたび、父様の手が止まる。


 母様の目が揺れる。


 使用人たちが気配を消す。


 音のない朝食。


 それに比べて、この森の家の朝食は素朴だ。


 パンは少し硬い。


 カップも木製。


 椅子も不揃い。


 でも、息がしやすい。


 私は小さく息を吐いた。


 ミナが気づく。


「フローラ?」


「いえ」


 私は首を振った。


「こういう朝食は、いいですね」


 リオがパンを頬張りながら頷く。


「だろ」


「リオ兄さんが作ったわけじゃないでしょう」


「でも一緒に食べてる」


 リオのその言葉に、私は少し目を瞬いた。


 一緒に食べている。


 それだけで、朝食は変わる。


「はい」


 私は頷いた。


「一緒に食べているから、いいのだと思います」


 ミナは嬉しそうに微笑んだ。


 朝食を終え、三人で村へ向かった。


 森の道は朝の光に満ちていた。


 湿った土の匂い。


 遠くの鳥の声。


 木々の間を抜ける風。


 リオはいつもより落ち着いて歩いている。


 ミナは籠を持っている。


 中には、村で子供たちに配るための小さな布が入っているらしい。


 虫食いの葉を観察した後、手を拭くためだ。


「ミナ、準備がいいですね」


「昨日、ルルが泣いて手を汚していたので。今日は必要かなと思って」


「助かります」


「フローラの準備を見習いました」


「私の準備は多すぎることがあります」


「なので、ほどほどにしました」


 ミナは少し得意そうに言った。


 リオが笑う。


「ミナも先生みたいだな」


「リオ兄さんも、今日は見守り係ですよ」


「分かってる。近づきすぎない。騒ぎすぎない。虫を見つけても叫びすぎない」


「最後が心配です」


 私も少し心配だった。


 けれど、リオは本気で覚えようとしている。


 それが伝わってきた。


 村に着くと、共同畑にはすでに子供たちが集まっていた。


 昨日と違い、全員が少し緊張している。


 特にルルは、トトの袖を握って立っていた。


 泣いてはいない。


 けれど、目元には不安が残っている。


 私を見ると、ルルは小さく手を上げた。


「フローラ先生……」


「おはようございます、ルル」


「おはよう……」


 私はまず、青豆一号の記録板を見せた。


「昨日、虫食いがあった青豆一号ですが、今朝、新しい葉が出ました」


 子供たちが一斉に反応した。


「本当!?」


「穴あったのに?」


「新しい葉!」


 ルルも目を見開く。


「青豆一号、育ってる?」


「はい。育っています」


 私は記録板を皆に回した。


 サムが真剣に読み上げる。


「虫食い後一日目。穴、拡大なし。新葉、確認。状態、良好」


 エマがほっとしたように笑う。


「青豆一号、強い!」


 私は頷いた。


「強いです。でも、強いから傷つかないわけではありません。傷があっても育っているのです」


 その言葉に、子供たちは少し静かになった。


 昨日泣いたルルも、じっと聞いている。


「今日は、みんなの豆を一緒に見ましょう」


 まずマメタ。


 問題なし。


 昨日の風傷も広がっていない。


 エマは嬉しそうに「アオハナちゃんの栞にも報告する」と言っていた。


 次にニコ豆。


 昨日の虫食いは広がっていない。


 新しい小さな葉も見え始めている。


 ニコは顔を輝かせた。


「出てる!」


「はい。新しい葉です」


「ニコ豆、頑張った!」


「ニコもよく見ていましたね」


 ニコは誇らしそうに頷いた。


 リオ豆も無事だった。


 穴はそのままだが、茎は元気。


 リオは拳を握り、小さく「よし」と言った。


 ミナが「叫ばなかったね」と褒めると、リオは少し得意そうだった。


 そして、ルルの豆。


 皆が自然と静かになった。


 ルルは唇を結び、トトと一緒に前へ出た。


 私はしゃがみ込み、豆を確認する。


 昨日大きく食べられた葉は、そのまま傷んでいる。


 けれど茎はしっかりしている。


 根元も大丈夫。


 そして、反対側に小さな新葉が出始めていた。


 本当に小さな葉。


 見落としそうなほど。


 けれど確かに、ある。


 私は顔を上げ、ルルを見た。


「ルル」


「……はい」


「新しい葉が出ています」


 ルルの目が大きく開いた。


「どこ?」


「ここです」


 私は指で場所を示す。


 触らないように、少し離して。


 ルルは息を止めるように見つめた。


 トトも隣から覗き込む。


「あ、本当だ」


「……出てる」


 ルルの声が震える。


 昨日とは違う震えだった。


「私の豆、まだ育つ?」


「はい。育っています」


 ルルの目に涙が浮かんだ。


 でも、昨日の涙とは違った。


 悲しさだけではない。


 安心。


 嬉しさ。


 驚き。


 それらが混ざった涙だった。


「泣いても、見た……」


 ルルが小さく言った。


 私は頷いた。


「はい。ルルは、泣いても見ました」


「見たから、分かった」


「はい」


「新しい葉、出てた」


「はい」


 ルルはとうとう泣いた。


 けれど、顔は少し笑っていた。


 トトが慌てて布を差し出す。


 ミナが用意してくれた布だ。


「泣くなよ……いや、泣いてもいいんだっけ」


 トトが混乱したように言う。


 ルルは泣きながら頷いた。


「泣いても見る」


「じゃあ、泣いてもいい」


 トトは真剣だった。


 周囲の子供たちも、大人たちも、静かにその様子を見ていた。


 私は胸の奥が熱くなった。


 子供たちは、ちゃんと学んでいる。


 虫食いの対処だけではない。


 悲しい時にどうするか。


 怖い時にどう見るか。


 失敗や傷とどう付き合うか。


 そういうことも、豆を通して学んでいる。


 そして私も、同じ場所で学んでいる。


 バルドさんが後ろで低く言った。


「いい畑になってきたな」


 私は振り返った。


「畑が、ですか」


「ああ。作物だけじゃねえ。見てる奴らも育ってる」


 私は共同畑を見渡した。


 小さな豆の芽。


 しゃがみ込む子供たち。


 見守る大人たち。


 記録板を持つサム。


 布を配るミナ。


 静かに拳を握るリオ。


 涙を拭くルル。


 それは確かに、畑だった。


 土と作物だけではない。


 人の心も一緒に育つ場所。


「はい」


 私は頷いた。


「いい畑です」


 その日の授業は、虫食い後の観察記録を中心にした。


 サムが表を更新し、リーナが新しい葉の絵を描く。


 エマは「新葉ちゃん」と名前をつけようとして、全員分の新葉に名前をつけることになりかけたので、ミナがやんわり止めた。


 リオは自分の豆を遠くから見る練習をしていた。


 ニコは「待つ」と何度も言い、ルルは時々涙を拭きながら、自分の豆を見続けた。


 私はその一人一人に声をかけた。


 焦らず。


 急がず。


 完璧を求めすぎず。


 先生として、見習いとして。


 昼食の頃には、村全体の空気が明るくなっていた。


 虫食いは消えていない。


 穴も戻っていない。


 けれど、新しい葉が出た。


 それだけで、子供たちの顔は昨日よりずっと軽かった。


 村の女性たちが作ったスープには、少し多めに豆が入っていた。


 まだ子供たちの豆ではない。


 別の畑で収穫されたものだ。


 けれど、子供たちは豆を見ていつもより嬉しそうだった。


「これも育ったんだよね」


 ニコが言う。


「うん。虫に食べられたりしたのかな」


 エマが真剣に考える。


 バルドさんが答えた。


「そりゃ食われた葉もあったさ」


「でも豆になった?」


「ああ」


「じゃあ強いね!」


「強いだけじゃねえ。世話した奴がいる」


 子供たちはスープの豆を見た。


 食べ物への目が少し変わったようだった。


 私はそれを見て、また一つ学んだ。


 育てることを知ると、食べることの意味も変わる。


 屋敷の食卓では、美しい料理が当然のように並んでいた。


 けれど、そこに至るまでの葉の穴や、虫との取り合いや、誰かの朝の見回りを、私は知らなかった。


 今は少しだけ知っている。


 だから、スープの豆が前より大切に見えた。


 昼食後、ミナと二人で広場の端に座った。


 リオは子供たちと共同畑の見回り距離を決めるため、地面に線を引いている。


 バルドさんがそれを監督していた。


 ミナは私に温かいお茶を渡してくれる。


「今日は、昨日より顔色がいいです」


「新しい葉を見られたからだと思います」


「ルルも安心していましたね」


「はい」


 私はお茶を両手で包んだ。


「昨日は、すぐに大丈夫と言いそうになりました」


「でも、言いませんでした」


「はい。ルルが悲しんでいたので」


 ミナは静かに頷いた。


「フローラは、人の気持ちを見るのが上手になっています」


「そうでしょうか」


「はい。最初に会った頃より、ずっと」


 最初に会った頃。


 リオとミナが黒爪熊に追われ、私が助けた日。


 私は友達の作り方を契約書で考えていた。


 友達とは何か、感謝とは何か、距離感とは何か、ほとんど分かっていなかった。


 今も分からないことは多い。


 けれど、少しは変わったのだろうか。


「伸びていますか」


 私が尋ねると、ミナは優しく笑った。


「はい。青豆一号みたいに」


 胸が温かくなった。


 その時、村の入口の方で馬の蹄の音が聞こえた。


 広場の空気が少し変わる。


 私は反射的に顔を上げた。


 外の人。


 また胸が冷える。


 リオもすぐ気づき、こちらへ視線を向けた。


 ガルドさんが村の入口へ向かう。


 村長さんも家から出てきた。


 やがて現れたのは、見慣れない男ではなかった。


 行商人マルクだった。


 以前来た時より荷物は少ない。


 荷馬車ではなく、馬に小さな荷を積んでいる。


 彼は村長さんに向かって帽子を取った。


「予定より早く戻ってしまいまして」


 村長さんの顔が険しくなる。


「どうした」


「街道で少し気になる話を聞きました」


 広場が静かになった。


 私はカップを握る手に力を込めた。


 マルクの視線が一瞬、こちらに向く。


 けれどすぐに村長さんへ戻った。


「王都方面から、スプリング公爵家の使いが地方へ出ているそうです」


 息が止まった。


 スプリング公爵家。


 父様の家。


 私の家。


 いや、もう家と呼んでいいのか分からない場所。


 村長さんの声が低くなる。


「何を探している」


「表向きは、療養中の令嬢に効く薬草を探している、という話です」


 療養中の令嬢。


 私のことだ。


 外では、私は病気で静養していることになっているのかもしれない。


「ですが」


 マルクは声を落とした。


「実際には、青い髪の少女の噂を集めているようです」


 世界が少し遠くなった。


 村の音が消えたように感じた。


 青い髪の少女。


 噂。


 探している。


 父様が?


 公爵家が?


 なぜ今。


 迎えに来るため?


 隠すため?


 それとも、私が生きているか確認するため?


 手が冷たい。


 呼吸が浅くなる。


 ミナがすぐに私の手に触れた。


「フローラ」


 声が近い。


 リオもそばに来る。


「フローラ、大丈夫か」


 私は答えようとした。


 でも声が出なかった。


 青豆一号。


 新しい葉。


 傷があっても育つ。


 さっきまでそう思っていたのに。


 たった一つの知らせで、胸の古い穴が大きく開いたようだった。


 村長さんがマルクに何かを尋ねている。


 ガルドさんが周囲に指示を出している。


 バルドさんが子供たちを畑の方へ下げている。


 大人たちが静かに動き始める。


 村が、私を隠すように、守るように、動いている。


 私はそれをぼんやり見ていた。


 ミナの手が、私の手をしっかり握る。


「息をしてください」


 ミナの声。


 私は息を吸った。


 少しだけ。


 胸が痛い。


「……探している」


 かすれた声が出た。


 リオが低く言う。


「まだここに来るって決まったわけじゃない」


 ミナも頷く。


「村長さんたちが話しています。フローラは一人じゃありません」


 一人じゃない。


 その言葉を、必死に胸に入れる。


 私は手元を見る。


 ミナの手。


 リオの影。


 胸元の村の客人札。


 村の広場。


 共同畑。


 豆の芽。


 ここにあるもの。


 今の私をつなぎ止めるもの。


「……怖いです」


 ようやく言えた。


 リオがすぐ答える。


「うん」


 ミナも言う。


「はい」


「とても、怖いです」


「うん」


「でも」


 私は震える息を吐いた。


「見ます」


 ミナの手に力が入った。


 リオが私を見る。


 私は共同畑の方へ目を向けた。


 ルルの豆。


 傷のある葉。


 新しい葉。


 泣いても見る。


 ルルが言った言葉。


「泣いても、怖くても、見ます」


 声は震えていた。


 でも、言えた。


 リオは少し泣きそうな顔で笑った。


「おう」


 ミナも目を潤ませながら頷いた。


「一緒に見ます」


 その日の夕方、私は村長さんたちと話し合うことになった。


 公爵家の使いがどこまで来ているのか。


 何を探しているのか。


 村はどうするのか。


 私はどうしたいのか。


 答えはすぐには出ない。


 けれど、もう目を逸らすことはできない。


 私はまだ怖い。


 とても怖い。


 それでも、共同畑の豆たちが教えてくれた。


 穴は戻らない。


 でも、新しい葉は出る。


 泣いても見る。


 怖くても見る。


 私はミナの手を握り返した。


 そして、村長さんのいる方へ、一歩だけ踏み出した。

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