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『青の姫君の森暮らし 〜化け物と恐れられた公爵令嬢は、今日も畑を耕します〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第13話 青の姫君、小さな贈り物を受け取る


 森の家が、少し賑やかになった。


 それは、人が残っているという意味ではない。


 子供たちが帰った後、家には私一人しかいない。


 朝になれば、聞こえるのは鳥の声と、葉擦れの音と、井戸の水音だけだ。


 けれど、以前の静けさとは違っていた。


 庭の丸太椅子には、子供たちが座った跡がある。


 薬草園の前には、エマが興味津々でしゃがみ込んだ時に少しだけ乱れた草がある。


 青豆一号の周りの紐には、トトとルルが「触らないぞ」と言いながら顔を近づけすぎた痕跡がある。


 机の上にはリーナがくれた青い花の栞。


 棚には、皆に出した薬草茶の残り。


 焼き菓子を入れていた皿には、洗ってもまだ少し甘い香りが残っているような気がした。


 人の気配は消えても、人がいた記憶は残る。


 そのことを、私は最近知った。


 私は朝の畑に出て、青豆一号の前にしゃがんだ。


 双葉はしっかり開き、茎は少しだけ太くなっている。


 昨日、子供たちに囲まれていたせいか、いつもより誇らしそうに見えた。


「昨日は人気者でしたね」


 声をかける。


 返事はない。


 でも、青豆一号の葉が風に揺れた。


 私は記録板に書き込む。


 青豆一号、双葉安定。


 茎にわずかな強化。


 葉色良好。


 子供たちによる観察済み。


 踏まれず無事。


 最後の一文を見て、少し笑ってしまった。


 踏まれず無事。


 とても大事な記録だ。


 子供たちが来る前、私はかなり心配していた。


 走り回って畑に入ってしまうのではないか。


 薬草に触れてしまうのではないか。


 井戸を覗き込みすぎるのではないか。


 青豆一号を折ってしまうのではないか。


 けれど、皆は約束を守ってくれた。


 騒がしかったけれど、ちゃんと聞いてくれた。


 それが嬉しかった。


 先生として、少しだけ認めてもらえた気がした。


 私は畑の土を軽くほぐし、トマトを収穫する。


 今日は村へ行く予定はない。


 子供たちも昨日森へ来たばかりだから、今日は村で豆の様子を見るだろう。


 リオ豆もそろそろ伸びているはずだ。


 リオがどんな顔をしているか、想像すると少し口元が緩む。


 彼はきっと、朝から共同畑へ行っている。


 そして「昨日より伸びた」と騒ぎ、ミナに「まだ少しだけでしょう」と言われる。


 バルドさんには「見すぎるな」と注意されるかもしれない。


 そんな光景が目に浮かぶようになったことが、不思議だった。


 私は村の人たちの朝を、少し想像できるようになっている。


 以前は、屋敷の外の人の暮らしなど、本で読むものだった。


 農民、村人、商人、冒険者。


 単語として知っていた。


 制度として学んでいた。


 税を納め、畑を耕し、市で物を交換し、領主の保護を受ける存在。


 でも今は違う。


 村人には顔がある。


 声がある。


 癖がある。


 リオはすぐ走る。


 ミナは静かに怒る。


 バルドさんは畑の話になると目が鋭くなる。


 ニコは不安になると手を握る。


 エマは何にでも名前をつけたがる。


 リーナは恥ずかしがりながら、丁寧な刺繍をくれる。


 村という言葉の中に、人がいる。


 それを知ったことは、私にとって大きかった。


 昼前、結界に反応があった。


 一人。


 いや、小さな荷車を引いているから、足音が少し変わっている。


 魔力の気配は弱い。


 村の女性。


 私は玄関に向かった。


 森の道から現れたのは、ニコの母親だった。


 彼女は小さな籠を腕にかけ、少し緊張した顔でこちらを見た。


「フローラちゃん」


「こんにちは」


「急にごめんなさいね。村長さんには声をかけてきたの。今日はガルドさんが別の用で来られなかったから、森の入口まではバルドさんが送ってくれて」


 少し後ろを見ると、木々の陰にバルドさんが立っていた。


 彼は私に片手を上げると、こちらへは来ずにその場で待っている。


 付き添いとして来たが、家までは踏み込まないつもりらしい。


 その配慮がありがたかった。


「どうぞ。何かありましたか」


 私が尋ねると、ニコの母親は籠を差し出した。


「これを渡したくて」


 籠の中には、布に包まれた丸パンと、小さな木彫りの鳥が入っていた。


「昨日、ニコが森から帰ってきてから、ずっとフローラ先生に何かお礼をしたいって言っていてね。勝手に森へ行ったことを怒らないでくれたことと、ニコ豆を見てくれたことが嬉しかったみたいで」


 木彫りの鳥は、少し不格好だった。


 羽の形は左右で違い、顔も丸い。


 けれど、小さな目が丁寧に彫られている。


「これは、ニコが?」


「ええ。父親に教わりながら。まだ刃物は危ないから、ほとんど父親が手伝ったけど、目のところはニコが彫ったの」


 私は木彫りの鳥をそっと手に取った。


 軽い。


 木の温かさがある。


 青い羽の小鳥を思わせる形だった。


「……とても、可愛いです」


 ニコの母親はほっとしたように笑った。


「よかった。あの子、変じゃないかなって心配してたから」


「変ではありません。とても嬉しいです」


 本当に嬉しかった。


 白い石。


 木の実。


 布の栞。


 そして木彫りの鳥。


 村の子供たちは、私にたくさんのものをくれる。


 高価ではない。


 けれど、どれも私のために選んでくれたものだ。


 屋敷で贈られた宝石より、ずっと胸に残る。


「ありがとうございます。ニコにも伝えてください」


「ええ。きっと喜ぶわ」


 ニコの母親は少し迷った後、私を見た。


「それから……昨日のことも、本当にありがとう。森へ一人で行ったあの子を、ちゃんと叱ってくれて」


「叱るというほどでは」


「ううん。あの子、言ってたの。フローラ先生は怒らなかったけど、心配したって言ったって」


 彼女の声が少し震えた。


「それを聞いて、私も泣きそうになっちゃって。ああ、この子は心配されているって分かったんだなって」


 心配されている。


 大事にされている。


 それを知ること。


 それも、子供には必要なのだろう。


 私は自分の胸に手を当てた。


 私も最近、少しずつ知っている。


 誰かに心配されること。


 守られること。


 無茶をしたら止められること。


 それは窮屈ではなく、温かいことなのだと。


「ニコは、ちゃんと約束してくれました」


「ええ。今朝も『一人で森へ行かない』って自分で言ってたわ」


「よかったです」


 私が微笑むと、彼女も笑った。


 その表情は、母親の顔だった。


 少し疲れていて、少し心配性で、でも子供のことを愛している顔。


 母様を思い出す。


 昔、私の髪を撫でてくれた母様。


 あの頃の母様も、こんな顔をしていただろうか。


 胸が少し痛んだ。


 けれど、今日はその痛みに飲まれなかった。


 ニコの母親が目の前にいる。


 今は、この人の言葉を受け取る時間だ。


「お茶を飲んでいかれますか」


 私が尋ねると、彼女は嬉しそうにしながらも首を振った。


「今日は戻るわ。あまり長くいると、ニコが羨ましがるから」


「そうですか」


「次は、ちゃんと皆で来るわね」


「はい」


 彼女は帰り際、私の手をそっと握った。


「フローラちゃん。あなたも、何かあったら村に来てね。ニコのことだけじゃなくて、あなたのことも、みんな心配してるから」


 心配している。


 その言葉に、胸がじんとした。


「……はい」


 私は頷いた。


「ありがとうございます」


 彼女は笑い、森の道へ戻っていった。


 バルドさんが無言で付き添う。


 二人の姿が木々の向こうに消えるまで、私は見送った。


 家に戻ると、机の上に木彫りの鳥を置いた。


 白い石の隣。


 リーナの栞の近く。


 木彫りの鳥は少し傾いている。


 でも、それが可愛かった。


「ニコ鳥」


 私は呟いた。


 名前をつけてしまった。


 エマの影響かもしれない。


 でも、悪くない。


 ニコ鳥。


 机の上の小さな鳥は、何も言わずにこちらを見ている。


 私は少し笑った。


 その日の午後、私は木彫りの鳥を眺めながら、あることを考えていた。


 もらってばかりいる。


 村の人たちから。


 リオとミナから。


 子供たちから。


 私は薬を渡し、畑を見て、授業をしている。


 それは確かに返していることなのかもしれない。


 でも、気持ちとして何か贈りたいと思った。


 村のために。


 子供たちのために。


 友達のために。


 ただ役に立つものではなく、喜んでもらえるもの。


 何がいいだろう。


 薬草茶はもう教えた。


 ジャムはミナと作った。


 野菜は配ると外へ出る時に注意が必要。


 魔道具は目立ちすぎる。


 なら、花はどうだろう。


 花壇の花。


 小さな押し花の栞。


 リーナがくれた栞を見て思いついた。


 子供たちに、森の花の押し花を一つずつ。


 それなら危険も少ない。


 高価でもない。


 でも、森の家に来た記念になる。


「……重すぎるでしょうか」


 花は恋愛寄りの可能性がある。


 しかし、これは子供たちへの見学記念。


 恋愛ではない。


 大丈夫。


 たぶん。


 私は花壇へ向かった。


 青い小花。


 白い小花。


 黄色い花。


 香りの弱いものを選ぶ。


 薬効のある花は避ける。


 毒性のないもの。


 乾燥しても色が残るもの。


 私は慎重に摘み、薄い紙に挟んだ。


 押し花を作るには時間がかかる。


 魔法で一瞬で乾燥させることもできるが、急ぐと色が悪くなる。


 自然に近い速度で、水分だけを少し調整する。


 魔法を使いすぎない。


 けれど、保存性は高める。


 こういう加減にも、少し慣れてきた。


 夕方、ミナが一人で訪ねてきた。


 今日はガルドさんが森の入口まで付き添い、そこからは結界の範囲まで見える場所で待っているらしい。


 ミナは小さな包みを持っていた。


「フローラ、こんにちは」


「こんにちは。今日はどうしましたか」


「これを届けに」


 包みの中には、薄い布が数枚入っていた。


 柔らかく、手触りが良い。


「母からです。子供たちが来た後、きっと布巾が足りなくなったんじゃないかって」


 正確だった。


 昨日、カップや皿を洗う時、布巾が足りなくなりかけた。


 私は少し目を丸くした。


「どうして分かったのでしょう」


「母はそういうの、すぐ分かります」


「すごいです」


「私もそう思います」


 ミナは少し誇らしそうだった。


 私は布を受け取った。


「ありがとうございます。とても助かります」


「あと、これは私から」


 ミナはもう一つ小さな袋を出した。


 中には糸が入っていた。


 淡い青と白の糸。


「リーナの栞を見て、フローラも刺繍をするかと思って」


「嬉しいです」


 私は糸を手に取った。


 空色に近い青。


 白い花に合いそうだ。


「ありがとうございます。大切に使います」


 ミナは机の上の木彫りの鳥に気づいた。


「これ、ニコの?」


「はい。今日いただきました。ニコ鳥です」


「名前をつけたんですね」


「はい。エマの影響かもしれません」


 ミナはくすっと笑った。


「可愛いです」


「はい」


 私は押し花の準備をしていることをミナに話した。


 子供たちに、森見学の記念として渡したいと。


 ミナは目を輝かせた。


「素敵です」


「重すぎませんか」


「全然。みんな喜びます」


「花は恋愛寄りでは」


 私が真剣に言うと、ミナは少し顔を赤くしながら笑った。


「子供たちへの贈り物なら大丈夫です」


「そうですか」


「でも、フローラのその考え方、少し可愛いです」


「可愛い」


「はい」


 また可愛いと言われた。


 まだ慣れない。


 けれど、ミナに言われると嫌ではない。


 ミナは押し花を一枚手に取り、光に透かした。


「この青い花、綺麗ですね」


「花壇で育てたものです」


「フローラみたい」


「私みたいですか」


「はい。優しい青です」


 私は少し照れた。


 青の姫君と呼ばれた頃、青は私の象徴だった。


 家名と美貌と魔力を飾る色。


 けれどミナが言う青は、もっと柔らかい。


 森の花の色。


 空の色。


 私の作った布の色。


 その青なら、少し好きになれるかもしれない。


 ミナと一緒に、押し花を紙に挟んだ。


 二人で作業すると、やはり楽しい。


 黙っていても気まずくない。


 時々、ミナが花の向きを直し、私が水分を調整する。


 少しずつ、記念の栞が形になっていく。


「フローラ」


「はい」


「昨日、子供たちが来て、寂しくなりませんでしたか」


 突然の質問だった。


 私は手を止めた。


「帰った後、ですか」


「はい。賑やかだった分、静かになると寂しくなることがあります」


 ミナの声は優しかった。


 私は少し考えた。


 昨日の夜。


 確かに家は静かだった。


 でも、その静けさには子供たちの声が残っていた。


 寂しさも少しあった。


 もっといてほしいと思った。


 でも、帰ってくれたからこそ、また来てほしいと思えるのかもしれない。


「少し、寂しかったです」


 私は答えた。


「でも、嫌な寂しさではありませんでした」


「嫌な寂しさではない」


「はい。誰かが来て、帰った後の寂しさです。次があるような気がしました」


 ミナは静かに微笑んだ。


「それは、いい寂しさかもしれませんね」


「いい寂しさ」


「はい。寂しいけど、温かいものが残る感じ」


 私は頷いた。


 それに近い。


 胸の中に少し空白ができる。


 けれど、その空白は冷たくない。


 また会いたいと思える場所。


 それが、いい寂しさなのかもしれない。


「勉強になります」


 私が言うと、ミナは笑った。


「フローラは何でも勉強にしますね」


「知らないことが多いので」


「私も知らないこと、多いですよ」


「ミナも?」


「はい。フローラみたいに魔法は使えませんし、薬草も畑も詳しくありません。貴族の作法も知りません」


「でも、ジャムが作れます。人の気持ちを見るのも上手です」


「それは……どうでしょう」


 ミナは少し照れた。


 私は真面目に続けた。


「私はミナに教わることが多いです」


「私も、フローラに教わることが多いです」


 二人で顔を見合わせる。


 そして、少し笑った。


 教える。


 教わる。


 友達とは、その両方がある関係なのかもしれない。


 夕方、ミナを見送った後、私は押し花を机に並べた。


 まだ完成ではない。


 乾燥には少し時間がかかる。


 でも、花の色は綺麗に残りそうだった。


 私は日記帳を開いた。


 今日、ニコのお母さんが来てくれた。


 ニコから木彫りの鳥をもらった。


 名前はニコ鳥にした。


 村の人たちは、私のことも心配してくれていると言われた。


 ミナが布巾と糸を持ってきてくれた。


 子供たちへの押し花の栞を一緒に作った。


 昨日の森見学の後、少し寂しかった。


 でも、それはいい寂しさかもしれない。


 私はペンを止め、机の上を見た。


 木彫りの鳥。


 白い石。


 青い花の栞。


 村の客人札。


 押し花。


 私の周りには、小さな贈り物が増えている。


 どれも宝石のように高価ではない。


 けれど、どれも誰かの時間が入っている。


 ニコが彫った目。


 リーナが縫った糸。


 ミナが選んだ青い糸。


 村長さんが用意してくれた木札。


 そういうものが、私の家に少しずつ積もっていく。


 私は最後に書いた。


 もらうことは、少し怖い。


 大切なものが増えるから。


 でも、私は大切なものが増えることを、嫌だとは思わなくなってきた。


 日記帳を閉じる。


 暖炉の火が静かに揺れている。


 外はもう暗い。


 青豆一号も、花壇も、薬草園も夜の中だ。


 けれど、机の上のニコ鳥だけは、暖炉の光を受けて小さな影を落としていた。


「おやすみなさい、ニコ鳥」


 私は小さく言った。


 返事はない。


 でも、不思議と寂しくなかった。


 この家は、もう私一人の気配だけでできているわけではない。


 誰かの贈り物があり、誰かの声の記憶があり、また来たいと言ってくれた約束がある。


 捨てられた森の家は、少しずつ、私の居場所になっていた。

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