慈善(カリタス)
それは限界突破の代償だった。
第七階位という、人間が本来踏み込んではならない領域へ魂の出力を強制的に引き上げた結果、俺の魂は内側から完全に崩壊を始めていた。
深い、深い意識の底。
痛みすら感じない純白の空間で、俺は自分の両手を見下ろした。指先からサラサラと、光の粒子となって俺の身体が崩れていく。
トラ子が言っていた「魂を物理的に焼き切る」というのは比喩ではなかった。俺の魂は完全に摩耗し、このまま虚無へと溶けて消滅する寸前だったのだ。
(……ははっ。まあ、まどかの狂気を止められたんだ。安い代償、か……)
日常を守るために、己を使い潰す。後悔はなかった。 意識が完全に途切れようとした、その時だった。
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『――セプテム様。それは、あまりにも理不尽です。人間たちには、まだ可能性があります』
透き通るような、それでいて深い慈しみを帯びた声が、純白の空間に響き渡った。
俺は消えゆく意識の中で、その声の主を見た。
そこにいたのは、背中に三対――六枚の巨大な『光の翼』を展開した、神々しいまでに美しい女性だった。白金の髪を揺らし、純白のドレスのような魔力装甲を纏う彼女の瞳は、世界中のあらゆる悲しみを包み込むような、深く優しい黄金色をしていた。
『可能性だと? 笑わせるな、カリタスよ』
空間全体を揺るがすような、悍ましく、ひび割れた声が響いた。
姿は見えない。だが、その声が発せられるだけで純白の空間が黒く濁り、赤いノイズが侵食していく。
『我らが知を分け与え、世界という揺り籠を用意してやったにも関わらず、人間どもは欲望のままに世界を汚染し続けている。奴らは失敗作だ。……故に、私はリセットする事を決定した。奴らを解き放ち、この不完全な世界を一度完全に破壊する』
『……なりません。彼らは不完全だからこそ、互いを補い合うことができる。……彼らの未来を奪うというのなら、私は【美徳】の権限をもって、あなたに抗います』
『……愚かな。お前は【慈善】。他者に与えることしかできぬ最も非力な権能で、何を成すというのだ』
『ええ。私は奪うことも、壊すこともできません。……だから私は、私の「全て」を彼らに与えましょう』
カリタスと呼ばれた女性は、自らの胸に手を当てた。 彼女の六枚の光の翼が限界まで大きく広がり、空間の赤いノイズを押し返すように眩く輝き始める。
『私の権限、魂、そしてこの【慈善】の権能の概念そのものを……無数に分割し、『光の欠片』として遺しましょう。いつの日か、彼らが大罪の理不尽に立ち向かえる、その時まで』
『やめろ、カリタス! 己の存在を崩壊させるなど、ただの自殺行為だ!』
カリタスの身体が、無数の光の粒子となってパラパラと崩れ始めた。 彼女の強大な力が、世界へと溶け込んでいく。
記憶の奔流が途切れ、純白の空間に静寂が戻る。 だが、完全に消滅する直前、空間に残ったカリタスの残滓が、不意に俺の方を振り返った。 彼女の神々しい姿が光に包まれ、ゆっくりと俺の目の前まで歩み寄ってくる。
『不思議。……未来の座標から、私を視ている「観測者」がいるのね。しかも、随分とボロボロの魂をして』
透き通るような、それでいて深い慈しみを帯びた声だった。
「あんたが……【慈善】。エク子の、大元……?」
俺は、光の粒子となって崩れゆく両手を震わせながら、その名を口にした。
『ええ。私はカリタス。……といっても、私が消滅する直前にこの深淵に遺した、ほんの僅かなバックアップの残滓に過ぎないけれど』
俺はギリッと奥歯を噛み締めた。 ずっと胸の奥に刺さっていた後悔が、口をついて出る。
「あんたの欠片だったエク子は……俺を庇って、完全に消滅しちまった。俺がもっと強ければ、あいつを助けてやれたのに。俺が弱かったせいで……悪かった」
全てを守ると誓いながら、俺は彼女の犠牲の上に立っている。 俺の懺悔に、カリタスは悲しい顔はせず、ふわりと温かく微笑んだ。
『謝る必要はないわ。彼女は私の欠片として生まれたけれど、あなたと出会い、あなたから日常という温かい居場所をもらった。……彼女があなたを守るために全てを捧げたのは、ただのシステムとしてではなく、彼女自身の「心」が選んだ無償の愛よ』
カリタスが、光となって崩れていく俺の胸元に、そっと両手を当てた。
『それに。……今、助けなきゃいけないのは、過去の幻影じゃなくて、今を生きるあなたの方でしょう?』
トクン、と。
カリタスの両手から、眩いほどの純白の光が俺の胸の奥へと流れ込んできた。 それは、彼女が遺した最後の【慈善】の力。
『私の残滓を全て、あなたの魂の修復に充てます。摩耗した結合領域を、私の光で繋ぎ止めます』
「やめろ! そんなことしたら、あんたの残滓すら完全に消えちまうだろッ!」
『いいの。慈善とは、無償の愛。……大切な未来に全てを与え尽くすことこそが、私の本望なのだから』
俺の身体の崩壊がピタリと止まり、欠落していた魂のピースが、温かい光によってパズルのように埋まっていく。
代わりに、カリタスの身体が足元から透過し始めていた。
『名も知らぬ、強欲の器よ。あなたのその泥臭い欲望は、きっと世界を救う光になる。セプテムの狂気に……負けないでね』
「……ああ。絶対、負けねえ。今まだこの世界があるって事は、あんたが命懸けで守ってくれたってことだろ?あんな狂人に好きにはさせねえよ」
『ふふっ。……私と同じく身を捧げた美徳や、あなたを支える者たちを、よろしく頼むわね』
カリタスの姿が、眩い光の粒子となって弾けた。 深い慈しみの余韻だけを残して、彼女は今度こそ、情報の海へと完全に還っていった。
「……ああ。任せとけ。あんたが遺したモンは、俺が全部、強欲に守り抜いてやる」
俺は、胸の奥に灯った温かい光を強く握りしめ、静かに目を閉じた。 すり減っていた魂は完全に修復され、確かな活力が全身に巡っていく。 今度こそ、現実への浮上が始まった。




