一時休戦
「同行するってことよ、誠。手加減はしないから、覚悟してね」
「あぁ、わかっ……た」
そのまどかのイタズラっぽい微笑みと声を聞いたのを最後に、俺の意識の糸はプツリと途切れた。
魂の階位を強制的に『第七階位』へと引き上げ、限界突破した反動は、俺の想像を遥かに超えていた。肉体のダメージはどうにか塞がっていても、魂そのものをゴリゴリとすり減らした絶対的な疲労感には抗えない。
俺は泥のような、いや、底なしの暗闇のような深い眠りへと転がり落ちていった。
◆
……どれくらいの時間が経っただろうか。 床や柱の破片が散乱する中枢エリアの片隅で、日向ヒナは微かな頭痛と共に目を覚ました。
「……ん、ぅ……」
ゆっくりと身を起こし、周囲を見渡す。
無惨に破壊された壁、天井に開いた大穴から見える夜空。そして、祭壇の奥で完全に沈黙した『封印の要石』。
そうだ。私はあの瘴気の中で魔力を使い果たし、気を失って――。
「結城さんッ!?」
ヒナはガバッと立ち上がり、血の気が引いた顔で周囲を見回した。
自分を庇って、巨大な蛇の尾を背中に受けた結城誠の姿を探す。彼がいなければ、自分の命など何の意味もない。
「結城さん、ご無事ですか!? 結城さ……」
瓦礫の陰に駆け寄ったヒナの足が、ピタリと止まった。
彼女の視線の先には、確かに結城誠の姿があった。
彼はスヤスヤと、まるで幼子のように無防備な寝息を立てている。 だが、問題はその『寝ている場所』だった。
「……あら。お目覚めかしら、剣士さん」
結城の頭は、見知らぬ美女の、柔らかそうな太ももの上――完璧な『膝枕』に収まっていたのだ。
艶やかな黒髪を夜風に揺らすその女性は、結城の血に汚れた頬を綺麗なハンカチで優しく拭いながら、まるで聖母か、あるいは長年連れ添った愛妻のような慈愛に満ちた瞳で彼を見つめている。
「なっ……。あ、貴女、誰ですか!?」
ヒナは思わず、腰の長剣の柄に手をかけた。 先ほどまで激闘を繰り広げていた黒の塔の最上階に、なぜこんな場違いなほど美しい女がいるのか。
「私? 私は柊まどか。……誠には昔から、身も心も、あんなことやこんなことまで、ずいぶんとお世話になった関係よ」
まどかは、ヒナの殺気立った視線など全く意に介さず、蠱惑的な笑みを浮かべて首を傾げた。 そして、見せつけるように結城の前髪を指先で優しく梳き、彼の唇を親指でそっと撫でる。
「彼、昔から無茶ばかりするのよね。私が身体を張って守ってもらいながら、何度もこうやって私が介抱して……二人きりの夜を明かしたものだわ」 「なっ、なっなっ……!?」
事実(専属の護衛対象であったこと)を極めて意図的に、かつセンシティブに歪めたマウント発言。 ヒナの頭の中で、何かがブツンと音を立てて切れた。
彼女の白銀の瞳に、嫉妬の悪魔もドン引きするレベルの嫉妬の炎がボワッと点火する。
「こここ、この泥棒猫ッ!! 結城さんから今すぐ離れてください! 私というものがありながら……結城さんは、絶対に渡しませんからねッ!」
「ふふっ、泥棒猫だなんて人聞きが悪いわ。誠の好みは、昔から私みたいな落ち着いた大人の女性よ? 貴女みたいな血の気の多い子じゃ、彼の安らぎにはなれないんじゃないかしら」
「きぃぃぃぃッ! 言わせておけばッ!」
ヒナが半泣きになりながら長剣を引き抜き、まどかの背後にふわりと光の翼が展開しそうになった、一触即発のまさにその時だった。
「……んむ」
二人の美女の膝下で、スヤスヤと眠っていた結城が、不意に寝返りを打った。 そして、無防備な顔のまま、ボソボソと寝言を呟き始めた。
「……ヒナ、唐揚げの最後の一個……勝手に食うなよ……。あの弁当屋の唐揚げは、俺の……」
「えっ……」
ヒナの動きが、ピタッと止まる。
「……まどか、書類のハンコ……ずれてるぞ……。きっちり頼むぞ……むにゃ」
「「……」」
結城は、まどかの柔らかい太ももに顔をグリグリと擦り付けながら、再び深い寝息を立て始めた。
中枢エリアに、奇妙な沈黙が落ちた。
死闘の果ての極限状態。魂を削ってまで自分たちを救ってくれた男の、あまりにも平和すぎる寝言。
「……ぷっ」
先に吹き出したのは、まどかだった。
「あはははっ! もう、誠ったら! こんな時までお弁当や仕事の夢を見てるなんて。……本当に、昔から変なところは全然変わらないんだから」
「……っ、も、もう! 結城さんったら、あんなにカッコよかったのに、台無しじゃないですか……!」
ヒナも、剣を構えていたのがバカバカしくなったように柄から手を離し、真っ赤になった顔を両手で覆った。
殺伐としていた空気が、彼のたった一言で完全に毒気を抜かれ、和やかなものへと塗り替えられてしまう。
「ふふっ。貴女の言う通り、バカらしいわね」
まどかは優しく微笑み、結城の頭を撫でながらヒナへと視線を向けた。
「ねえ、剣士さん。誠が起きるまでは、一旦休戦にしない? 貴女も満身創痍じゃない。今は、彼をゆっくり休ませてあげましょう」
「……わ、分かりました。休戦は、同意します」
ヒナはツンとそっぽを向きながらも、小走りで結城の反対側へと回り込んだ。
「でも! あまり近づきすぎは許しませんからね! ひ、膝枕の交代は、十分おきです!」
「あら、厳しいのね。いいわよ、お世話係は二人で半分こしましょ」
ヒナは結城の右側にぺたんと座り込み、彼の手を両手でそっと握りしめた。 分厚く、無骨な手。
この手が、自分を世界ごと護ってくれたのだと思うと、ヒナの胸の奥が熱くなり、自然と頬が緩んでしまう。
「……ゆっくり休んでくださいね、結城さん。私、どこにも行きませんから」
右側には、彼の手に頬擦りをしてニヤニヤとだらしなく微笑む白銀の剣士。
左側には、彼の頭を膝に乗せ、愛おしそうに髪を梳く光の調停者。
黒の巨塔の頂上で、結城誠は、とびきり厄介で美しい二人に手厚く(そして少しだけ火花を散らしながら)介抱され続けるのだった。




