迫り来る脅威
激闘の余波で、純白だった大理石の床は無残にひしゃげ、焦げたオゾンと血の匂いが立ち込めている。 俺は、魔力枯渇で気を失ったヒナを瓦礫の陰にそっと寝かせ、祭壇の最奥で不気味な緑色の脈動を繰り返す巨大な黒曜石――『封印の要石』を見上げた。
「……おい、グリ子。こいつをGenesisより先に集めきれば、またリヴァイアサンを異界に封印できるのか?」
俺が精神世界の奥底に問いかけると、グリ子は酷く冷めた声で鼻を鳴らした。
『愚問じゃな。一度物理的に解けかけた封印に、絆創膏を貼るようなもの。
いずれ必ず破られる。……根本的に解決したければ、本体を物理的に『倒す』以外の道は残されておらんよ』
「倒すって……あんな理不尽なバケモノの本体をか? じゃあ、そもそもこの要石ってのは何のためにあるんだ?」
『本来、要石とは現世と異界を繋ぐための『礎』じゃ。これを集め所有権を掌握することで、原初の悪魔を盟約によって縛り、己の支配下に置くことができる。……要は、悪魔に首輪をつけるための『制御器』みたいなものじゃな』
俺は眉をひそめた。 神宮寺がわざわざ国家権力を動かしてまでこの塔を占拠しようとした理由は、そこにあるということか。
「悪魔の制御……。神宮寺の奴は、リヴァイアサンを飼い慣らして自分の軍隊にでもするつもりなのか?」
『これはわらわの予想じゃが、奴の目的はそんな陳腐なものではない』
グリ子の声が、一段と低く、深刻なものに変わった。
『封印の解かれた原初の悪魔は、その莫大なエネルギーで『次元の壁』を破壊することができる。……つまり、奴の真の目的は、異界に封じられている『他の原初の悪魔たち』の完全な解放じゃろうな』
「……全悪魔の解放だと!?」
『それに、あの神宮寺という男。氷室を遠隔で潰したあの【傲慢】の権能の出力、明らかに人間の限界を超えておる。あやつは少なくとも、魂の階位が第七階位……いや、原初の悪魔【傲慢のルシファー】そのものとして、完全に覚醒している可能性があるということじゃ』
俺は絶句した。 大罪の悪魔そのものが、国家の最高機関のトップに君臨している?
「……待てよ。悪魔なら、そいつも異界に封印されてるはずだろ?」
『いや、あやつだけは例外じゃ。もともと、ルシファーは封印などされておらん』
「は……? じゃあ、ずっと現世で野放しになってたってことか?」
『傲慢の悪魔の性質は、少々特殊でな。あやつは悪魔でありながら、天使でもある。……少なくとも千年前までは、世界のシステムを維持する『管理者』側の存在じゃったのだ』
俺の脳裏に、「世界のシステムを創った者たち」の存在がよぎる。
「管理者側? じゃあ、本来は俺たちの味方なんじゃねえのか?」
『……『そのはずだった』と言うのが正しいな。可能性として考えられるのは、セプテムによる汚染。それしか考えられん』
グリ子は忌々しそうに吐き捨てた。
『高次元の管理者は、世界の存亡に関わる問題しか干渉できん。だが、ここまで神宮寺が激しく動けば、現管理者も奴の異常に気づいているはずじゃ。……管理者側で何か、想定外の自体が起きているのかもしれんな』
俺は拳を強く握りしめた。 俺が相手にしているのは、単なる悪の組織ではない?この世界の悪そのものなのだ。
『どちらにせよ、リヴァイアサンの本体を倒し、神宮寺の野望を粉砕するしかない。……そのためには、こちら側も最低限、『権能』をもう一つ得る必要がある。大罪に対抗し得る、光のシステム……【美徳の権能】がな』
「美徳の、権能……」
俺がその言葉を口の中で反芻した、まさにその時だった。
『――警告。マスターへ、急速に接近する未知の超高エネルギー体を確認。これは……』
脳内で、トラ子が切羽詰まった声で警告する。
◆
――同時刻。関東近郊、太平洋上空。
暴風雨が吹き荒れる分厚い雨雲を切り裂き、一条の『白銀の光』が、一直線に黒い塔へと向かって飛翔していた。
「あはっ……ふふふっ。見つけた、見つけたわ、誠」
光の中心にいるのは、凍てつくような氷蒼色の髪を風に靡かせた、一人の美しい女性――柊まどかだった。
彼女の背中からは、純白の光の翼が二対、神々しく展開している。
だが、その翼からハラハラと舞い落ちる羽根は、不吉な血のような真紅に染まっていた。
彼女の視線の先、荒れ狂う海にそびえ立つ黒い塔の最上階。そこに、世界で最も不純で、最も愛おしい『絶対悪』の魂の輝きが、はっきりと捉えられていた。
「どうしてそんなにボロボロになるまで、独りで戦っているの? ……可哀想に。理不尽に縛られて、強欲に全てを奪い取ろうとするその泥臭さ……本当に、吐き気がするほど愛おしいわ」
彼女の口元に、慈愛と、底知れぬ狂気が入り混じった歪な笑みが浮かぶ。 すでに彼女の精神は、監視者の独断によって与えられた『堕ちた正義』の権能によって、完全に書き換えられてしまっていた。
正義とは、悪を裁くこと。 彼女にとっての悪とは、この理不尽な世界そのものであり、その中心でルールを壊し続ける結城誠というイレギュラーそのものだ。
「私が、救ってあげる。……この汚い世界から、私が私の手で、あなたを綺麗に浄化してあげるからね」
まどかは、空中で両手を胸の前で組み、祈るように目を閉じた。 彼女の背後の光の翼が、さらに巨大に、凶悪に膨張していく。
「正義執行……。ふふっ、楽しみね。また、あなたと会えるのが」
堕ちた正義の調停者は、愛する者を己の手で破滅させるという究極の矛盾を抱えたまま、弾丸の如く一直線に黒い塔の頂へと降下を開始した。
神宮寺の【傲慢】。リヴァイアサンの【嫉妬】。 そして今、結城誠の命を刈り取るべく、狂気に染まった【正義】の刃が、無防備な彼らの頭上に振り下ろされようとしていた。




