05.ネズ 回想/白い闇の檻
(少しだけ過去、霧の山でのできごと)
しばらく都市の喧騒から離れようと、僕は山間の小さな村落を目指していた。地図にさえまともな記載がないような集落で、深い霧が年中山肌にわだかまり、外部との干渉を拒むように包み込んでいるという。
行けば追い返されるかもしれないが、それならそれでいい。
目的らしいものがあったわけではない。ただ、少し静かな場所で休みたかっただけだった。
雪が薄く積もる道を登るにつれ、霧は視界を奪うほど濃くなった。これはもはや、白い闇と言えた。
木々の輪郭さえ滲み、足音すら吸い込まれていくような湿った空気が辺りを満たしている。しっとりと肌にまとわりつく冷気の中、ふと、強い視線を感じた。
姿は見えない。声もない。ただ、霧の向こう側から、何かが確かにこちらを窺っている。敵意はあるか。勝てる相手か。喉元に牙を当てられているような、剥き出しの殺気だった。
僕は足を止め、息を潜めた。喉の奥が乾く感覚がして、こめかみを汗が伝う。まるで霧そのものが一頭の巨躯の獣と化し、見下ろされているかのような重圧感だった。
――だが、纏う霧を脱ぐようにゆらりと姿を現したのは、拍子抜けするほど小柄な存在だった。僕と背丈もさして変わらない、年若い女の子だった。
「ねえ、あなた何者?」
直前までのあれほどの殺気が、嘘のように消え失せていた。先ほどまで死線を突きつけていたはずの彼女は、今はどこか縋るような目で、こちらを見つめているだけだった。
「――僕は、そうだな…………冒険者というやつだよ」
「冒険者?」
この閉ざされた村には、冒険者すら足を踏み入れたことがないのだろうか。
彼女の瞳に、爛々とした好奇心が灯るのがわかる。
「ね、あなた外から来たんでしょ。その冒険者っていうの、教えて!」
彼女は無防備にこちらに近づくと、僕の手を掴み、霧の中へ引きずり込むようにして連れ去った。
辿り着いたのは、村の外れに建つ小さな家だった。「ただいま」と言って彼女が入っていった家は、並んだ家財道具の数に比べて、人が暮らしている気配が乏しかった。埃を被った椅子、一人分しか使われていない食器。
「ご家族は?知らない男を連れ込んで怒られない?」
「パパは二年前に稼ぎ口を探すって出ていってそれっきり、ママはパパを探しにいって帰ってこなかったの」
あまりにあっさりとした口調だった。捨てられた、と嘆く風ではない。どちらもすでにこの世にいないと、悟っている声音だった。
同じポットから注がれた温かいお茶を、彼女が先に口をつけてから、僕もいただいた。
それから彼女は、外の世界について――というより、冒険者というものについて、しきりに聞きたがった。
なぜかと問えば、外に出たいが、生き方がわからないのだという。この村に外から移り住んだ者は皆、訳ありなのか一様に口を閉ざしているし、村から外へ出た人間もここ数年、誰一人として帰ってこない。この村しか知らない自分でも、稼ぐ手立てがなければどうにもならないことくらいはわかる、と。
必死に語る彼女を慮る気持ちがないわけではなかった。両親もおそらく死んでいるだろう状況で、閉ざされた環境に取り残されて外へ出たがるのは、無理からぬことだ。それにしても、目の前の少女の眼差しはあまりに切迫していた。それだけ手詰まりの状況ということだろう。
「いいね。自分で身を立てようとする姿勢、好ましいよ。でも外で生きていくなら、自分を守れる強さがないといけない。両親が帰ってこない理由、きみも気づいてるんでしょ」
「うん」
「きみは狩りはできるんだろうね。持っていた剣鉈や血臭でわかるよ。でも、きみは人は殺せるのかな――どうして僕を懐に招いたの」
出会い頭に放たれた彼女の殺気は、凄まじいものだった。それでも警戒は解かれた。僕を人間だと思ったから手を出さなかったのだとしたら、それは外の世界では命取りになる過ちだ。
僕の問いかけに彼女は目を丸くして、心底わからないといった様子で答えた。
「? 獣も人も同じでしょ? どうして殺せないと思うの?」
僕は笑いが抑えられなかった。
「ふふっ……!ああ、うん。なるほどね、きみは間違いなく冒険者に向いてるよ」
「ほんと!?」
「でも僕を招いたのは、本当にどうして?」
「だって、あなたは大丈夫だって思ったから。お話してみたかったの」
要領を得ないなと首を傾げる。野生の勘みたいなものだろうか。確かにすっかり毒気は抜かれてしまったけども。
「ねえお願い!私に冒険者のなり方、教えてほしいの!!外で一人で生きていけるように!」
まあいい。どうせ時間はいくらでも持て余しているんだ。少しくらい戯れに興じたっていい。
「いいよ。弟子をとるなんて、初めてだな」
◇
それから冬が緩み始めるまでの一月ほど、僕は霧の山に滞在した。朝から晩まで霧の中で、武器に選んだ大斧や剣鉈を振らせ、警戒や離脱の仕方を身に叩き込み、人間相手や搦手の対処方法を学ばせ――オルガに、簡単には死なない手解きをした。彼女は覚えが早く、手を汚すことにも躊躇がなかった。
冒険者になるならまずは西のバベリーに行くようにと言い含め、僕は東へと道を分かつことにした。
「ああそうだ、バベリーに着いたら、その勘で『良い人』を探すところから始めるといいよ」
「わかった!ありがとうネズ、またね!」
雪解けで濡れた土を蹴って、霧の向こうへ駆けていく後ろ姿を見送る。
すっかり愛着が湧いてしまったけれど、着いていってやるわけにもいかない。
東の交易街に出たら、とりあえず食事をしたいなと思いながら、ひと月ですっかり慣れ親しんだ霧の白い闇を通り抜ける。
――どこかから、遠吠えがしきりに響いていた。
(過去回想/二の月/霧の山) *時系列整理* 2月頭にオルガ・ネズの出会いと一ヶ月ほどの手ほどき →3月にオルガは20日ほどかけてバベリーへ →3月後半にオルガとダリア出会う。




