33 マーシャル殿下の思惑
監査局から提出した現地監査の申請は思いのほか早く承認された。
元王太子が暮らす直轄領ともなれば当然なのかもしれない。そう思いながら呼び出しを受けたルシアンは、王宮の一角に設けられた次期王太子の執務室へ足を運んでいた。
「急な呼び立てですまない、エーデルライト副局長」
「とんでもございません、マーシャル殿下」
机の向こうに腰掛けるマーシャルへ深く一礼する。
兄とは違って派手さを好まぬ青年である。書類の山を前にしていても苛立ちを露わにすることもなく、ルシアンが席へ着くのを待ってから一枚の申請書を手元へ引き寄せた。
「アラピカへ現地監査に入るそうだね」
「はい。報告書に不審な点が多く、現地確認が必要と判断いたしました」
「分かった。監査についてはこちらから口を挟むつもりはない。必要なだけ調べてもらって構わないよ」
拍子抜けするほどあっさりとした許可だった。
それなら何のために呼ばれたのか。疑問が表情へ出ていたのだろう。マーシャルは少し困ったように笑った。
「実は君にもう一つ頼みたいことがあってね。……ラングル殿のことなんだけれど」
「トーマス様の?」
思わず声が弾みかけ、ルシアンは咳払いで誤魔化した。
「父上は兄上の廃嫡に際して、教育係であったラングル殿にも監督責任があるとしてアラピカへの同行を命じられた。父上の沙汰を否定するつもりはないけれど……教育係一人に負わせるには些か重すぎる責だったと僕は思っていたんだ」
それはルシアンもずっと感じていたことだった。
シグリッドは十三歳になるまで王家によって散々甘やかされたのだ。その後から教育を任された一人の男に、五年で人格まで完全に矯正しろという方が無理な話なのである。
「彼も十分に責は果たしたはずだ。もしラングル殿本人が王都への帰還を望んでいるのであれば、僕から父上へ処遇の見直しを上申しようと思っている」
「……本当でございますか?」
「ああ。もちろん、本人の意思が第一だけれどね。監査のついでと言ってはなんだけれど、君からそれとなく気持ちを確認してもらえないだろうか」
思ってもみなかった朗報である。ルシアンは膝の上で両手を強く握りしめた。
なにせトーマスが王都へ戻れるかもしれないのだ。汚名を着せられたまま辺境で一生を終えるのではなく、再びその知識と経験を生かせる場所へ帰ってこられるのであれば、自分のすべきことなど決まっている。
「お任せくださいませ。ちょうど私の姉も姪の教育係を探しているところなのです。来年には本格的な社交教育も始まりますし、トーマス様ほどのお方にお引き受けいただけるのであれば、家族総出で歓迎いたしますわ」
思わず早口になったルシアンへ、マーシャルが僅かに目を見張る。
「……ずいぶんと慕っているんだね」
「当然です。私だけではございません。トーマス様の教えを受けた者たちは皆、今でもあの御方を敬愛しておりますから」
「そうか。それならなおさら君に頼むのがよさそうだ」
穏やかに頷いたマーシャルだったが、そこで視線を少し横へ向けた。
部屋の壁際には一人の騎士が控えている。年の頃は四十前後だろうか。日に焼けた顔には古い傷が一本走り、豪奢さより実用性を重視した装備を身につけていた。
「それと、アラピカまでの護衛にはマクドガルドを同行させる」
「マクドガルド卿を?」
マクドガルドはシグリッドがまだ幼い頃から警護につき、剣術指南も任されていた近衛騎士である。シグリッドの廃嫡後も近衛には籍を置いているものの、以前のように特定の王族を警護することはなく、現在は王宮警備や若手騎士の訓練補助を任されることが多いと聞いていた。
名前を呼ばれたマクドガルドは一歩前へ出ると、胸元へ拳を当てて一礼した。
「道中の護衛を仰せつかりました。よろしくお願いいたします、エーデルライト副局長」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
監査官の護衛だけなら別の騎士でも務まるはずだ。
その疑問を察したらしく、マーシャルが少し苦笑して付け加えた。
「兄上をよく知る人間が同行した方が何かあった時にも対処しやすいと思ってね。宮中では兄上が随分と変わったという噂が流れている。実際の様子を知っている者の目で確認しておくことも無駄にはならないだろう?」
「……ただの噂としか思えませんがね」
鼻で笑うように呟いたのはマクドガルドだ。その声音には、明らかな懐疑が滲んでいる。
「何か?」
「いえ。殿下の御前で申し上げることではないかもしれませんが……私は、そう簡単に人の性根が変わるものとは思っておりません」
彼はシグリッドがまだ幼かった頃からその警護を務めていた。廃嫡に至るまでの一連の騒動を、近くで見てきた男でもある。綺麗に割り切れぬものを抱えているのかもしれない。
「マクドガルド卿から見たら、兄上は昔から手のかかる男だったのかな?」
「昔は今ほどではありませんでした。気難しいところはございましたが、子どもらしく笑うこともあった。剣の筋も悪くなかったのですよ。覚えも早く、負けず嫌いで、一度できなかったことは次の稽古までに必ず形にしてきましたから」
そこまで語ったマクドガルドの眉間に、深い皺が刻まれる。
「ところが、ある時から稽古にも身を入れなくなった。周囲の者を顎で使い、己の立場を盾に無茶を通すようにもなった。……私は、王太子という立場に甘えて増長されたのだと思っております」
その言葉を聞いたマーシャルの指先が、机上の書類の端でほんの一瞬止まった。だが、すぐにいつもの穏やかな表情へ戻る。
「随分と手厳しいね」
「御兄君について失礼を申し上げました。ですが、人が変わったようだなどと言われても、にわかには信じ難い話なのですよ」
「その点に関しては、わたくしも同感ですわ」
ルシアンも迷わず頷いた。直接的な接点は少なかったにせよ、遠目で拝謁するだけでも傲慢不遜を人の形へ押し込んだような男だったのだ。トーマスの名声を地に落とし、人生まで巻き込んだ張本人が、今さら善良な領主になりましたと言われて素直に信じられるはずもない。
「だからこそ実際に見てきてほしいんだ。噂ではなく、自分の目で」
「承知いたしました」
ルシアンとマクドガルドは揃って頭を下げる。
こうして、アラピカ村への現地監査には一人の予定外の同行者が加わることとなった。
表向きの目的は、異常な数字が並ぶ報告書の真偽を確かめること。
そしてルシアンにとってはもう一つ。
長らく辺境に縛りつけられていた恩師へ、ようやく王都へ帰る道を示すことでもある。
——監査を終えた暁には、必ずトーマスをあの薄汚れた土地から連れ戻してみせる。
執務室を辞し、長い廊下を歩き始めたところで、隣を歩くマクドガルドがぽつりと口を開いた。
「……トーマス殿は、王都へ戻られるでしょうか」
「当然でしょう。戻らない理由がどこにありますの?」
思いも寄らぬ問いに、ルシアンは足を止めかけた。
「名誉ある教育係として王都で名を馳せていた方が、あのような辺境へ追いやられたのです。帰還の道が開かれたと知れば喜ばれるに決まっておりますわ」
「そうですかね」
「何か仰りたいことでも? それとも、近衛という立場から門番に回られた今のご自身と重ねていらっしゃるのかしら」
「さて。私の場合は少々事情が違いますな。それに門も王宮の一部です。誰かが守らねばなりません」
なおも刺すような視線を向けると、マクドガルドは困ったように眉尻を下げた。
「ただ……トーマス殿とは殿下の警護をしていた頃に何度か顔を合わせましたが、あれほどの苦労させられながらも最後まで職務を投げ出さなかった方です。だからこそ、あの人が今何を考えているのかが私には分からんのですよ」
「だから、それを直接確かめに行くのではありませんか」
「……まあ、そうですな」
ルシアンには、マクドガルドが何を懸念しているのか理解できなかった。
王都に戻れるのであれば、戻りたいに決まっている。
少なくとも彼女には、それ以外の答えなど思いつきもしなかった。




