32 王都の監査副局長
その頃、王城内にある監査局の執務区画では官吏たちが慌ただしく往来していた。
各領地から提出された年次報告書を取りまとめ、次年度の予算編成に必要な数字を精査する時期を迎えていたのだ。
注視すべきは収支決算や人口の増減だけではない。備蓄の消費量、領内を出入りした商人や滞在者、労働中の事故や犯罪の発生件数に至るまで、確認すべき項目は多岐にわたる。領主にとっても監査局にとっても、一年の総決算と呼ぶべき時期であった。
監査局副局長であるルシアン・エーデルライトも例外ではない。
机の左右には未確認の報告書が積み上がり、朝に淹れられた紅茶はとっくに冷え切っている。
ようやく二つ目の領地を片づけて次の束へ手を伸ばしたところで、開け放たれた扉の向こうから聞き慣れた話題が流れ込んできた。
「いやあ、マーシャル殿下は実に安定されている。こんなにも心穏やかな毎日を過ごせるとは思わなかったな」
「それもこれもセリカ様のお力添えあってのことだろうが、前任とは比べるべくもない」
休憩へ入ったらしい官吏たちが談笑している。前任とは考えるでもなく、シグリッドのことであろう。
次期王太子として正式に内定したマーシャルの評判は概ね良好だ。他者の意見によく耳を傾け、無理に己を大きく見せようともしない。華やかさには欠けるものの、少なくとも暴言や癇癪の後始末に周囲が奔走するようなことはなくなった。
もっとも、最近では兄の失態を取り戻そうと焦っているのではないか、と囁く者もいるらしい。
「そういえば、その兄君の方だが。辺境で妙な商売を始めたという話を聞いたぞ」
「ああ。コフィだったか? あんな不味いものを有難がって飲みたがる神経が分からんな。交易でも始めるつもりなのか、いったい何を企んでいることやら」
「かの御方おひとりで考えられたとは思えんから、一緒に送られた教育係の入れ知恵ではないか? 確か……トーマス殿だったか」
その名が聞こえた瞬間、ルシアンの手がぴたりと止まった。
「気の毒なものだよな。立派な経歴の持ち主だったという話なのに、あの王子一人をまともに育てられなかったばかりに辺境送りとは」
「まあ、その程度だったとも言えるんじゃないか? 本当に優秀な教育者ならあそこまで増長させることもなかっただろうさ」
——パキッ。
乾いた音が執務室の奥で響いた。ルシアンの指に挟まれていた真新しい羽根ペンが、見事なまでに中央から折れている。
「……何も知らない愚物どもが。よくもまあ、あれほど軽々しいことを口にできるものですわね」
地を這うような呟きに、向かいの席にいた補佐官が怯えたように肩を震わせた。
ルシアンは折れた羽根ペンを塵箱へ放り込み、大きく息を吐く。
私情で取り乱すなど監査局副局長としてあるまじき振る舞いだ。理解はしている。だが、トーマスを侮辱されて黙っていられるほど人間ができてはいなかった。
——あれほど高潔で清廉な方が、こんな辱めにあっているなんて——。
ルシアンは十五年ほど前、まだ淑女と呼ばれる前に彼から礼法や教養の指導を受けている。
身分や年齢を理由に見下すことなく、未熟だった自分にも一人の人間として誠実に向き合ってくれた人。立ち居振る舞いの美しさ、静謐な声音、そして何を尋ねても答えを返してくれる圧倒的な知識量。
今のルシアンを形作った人物を一人挙げろと言われれば、迷うことなくトーマス・ラングルの名を答えるだろう。
「トーマス様がどれほどご立派なお方なのか、あのような無知蒙昧な連中には一生分からないでしょうね。……そもそも、すべての元凶はあの馬鹿王子でしょうに」
吐き捨てるように呟いたところで、補佐官が気まずそうに視線を逸らした。
いけない。また私情が漏れている。
ルシアンは咳払いを一つして新しい羽根ペンを取り出すと、何事もなかったように次の報告書を開いた。
そして。
「…………」
そこに記された領地名を見た瞬間、またしても指が止まった。
——アラピカ村。
現在、シグリッドが領政代行を務めている王家直轄領。そして八年前に王都財政局で国庫へ手をつけた男、ゼイニークが左遷された土地でもある。
「……あの豚とあの馬鹿王子が揃っている村ですか」
まともな報告書が上がってくる気がしない。
そう思いながら頁をめくったルシアンだったが、数行を追ったところで紅茶色の瞳が鋭く細められた。
「支出総額は例年のおよそ十倍。来訪した行商人と滞在者は前年比四倍……。それなのに、労働中の死傷者、備蓄物資の盗難、傷害を伴う揉め事は、すべてゼロ?」
呟きを耳にした補佐官が向かいから身を乗り出す。
「旧式保冷魔道具の売却については、王都の名義移転記録とも一致しております。売却額も正しく申告されているようです」
「だからこそ不自然なのです。これほど大きな資金を短期間で動かし、謎の新規事業へ次々と投入している。それなのに目立った失敗もなければ、重大な事故もない。前年からの変化が急激すぎますわ」
新規事業関連の支出欄には、見慣れない名目がずらりと並んでいた。
『青空カフェ設営費』に『炭団製造道具』。『盤上遊戯作成費』なる怪しげな項目から『裁縫用品購入費』にいたるまで、領地経営の報告書とは思えぬ項目ばかりである。
数字というものは正直だ、とよく言われる。しかしルシアンはその言葉を半分しか信用していない。数字そのものは嘘をつかずとも並べる人間はいくらでも嘘をつく。都合の悪い支出を別項目へ紛れ込ませることもできれば、存在しない在庫を作り出すこともできる。
そしてゼイニークは、過去にその類いの不正に手を染めた男だ。
「現地確認が必要でしょうね。あの男がまた小賢しい真似を始めた可能性は否定できません」
そう断じながら、ルシアンは報告書の末尾へ視線を滑らせる。
作成責任者。そこに記されていた流麗な署名を目にした瞬間、彼女の表情が一変した。
——トーマス・ラングル。
「…………トーマス様」
先ほどまで氷のように冷え切っていた声が、一気に春の陽だまりのように柔らかくなる。
美しい筆跡まで昔と何一つ変わっていない。思わず指先で署名をなぞりかけ、向かいの補佐官がこちらを見ていることに気づいて、ルシアンは慌てて手を引っ込めた。
「……ごほん」
トーマスが記帳責任者として名を連ねている。とはいえ、彼自身が進んで不正を働いている可能性だけは考えられない。
十五年前、自分に清廉とは何かを身をもって示してくれた人物だ。金に目が眩み、ゼイニークなどと結託して報告書を改竄する姿など想像するだけでも冒涜に近い。
となれば——。
「これは直接確認する必要がありましょうね。派遣員は……私が担当すべきでしょう」
「ルシアン副局長自ら現地監査を?」
「ええ。この内容となりますと書面だけで適否を判断できません。それにトーマス様がどのような経緯でこの報告書を作成なさったのかも確認する必要があります」
もしかすると、あの二人に無理を強いられているのではないか。
あるいは、この署名そのものが自分へ助けを求める密かな訴え——。
飛躍が過ぎるかもしれないが、現地へ赴く理由としては十分である。
「至急、出張申請を整えてください。アラピカ村へ現地監査に入ります」
凛と告げる声とは裏腹に、ルシアンの胸の奥では恩師へ会える期待が急速に膨らみ始めていた。
——もちろん、あくまでも監査のために。




