31 小話2
早朝。まだ鳥の囀りも聞こえてこない時分。
「——っああああああ! それだけは駄目だってばあああああぁぁ!」
耳をつんざくような絶叫が響き、深い眠りの中にあったトーマスも弾けるように飛び起きた。
「し、シグリッド様?! いかがなさいましたか?」
声の主は、隣の寝台ですやすやと寝ていたはずのシグリッドこと紫呉である。
彼は上半身を起こし、はぁはぁと荒い息を吐いた後に、項垂れるように両手で頭を押さえた。
「……ごめんね、うるさくして……」
「いえ、それは構わないのですが……何か嫌な夢でも——」
そこまで言いかけて、はたと気が付いた。そうだ。彼は夢を介して時折、日本にいる本来のシグリッドの様子を見ているのだ。
今回もその類かもしれない。トーマスが無言のまま見つめると、彼は神妙な顔で頷いた。
「ただならぬご様子でした。あちらにおりますシグリッド様は、何か危機的な状況にあられたのですか?」
「……うん。超危機的状況だった。もう俺にもどうしようもないかもしれない」
「なんですと……!? いったいシグリッド様に何が——」
紫呉は深々と項垂れていたが、ほどなくして絞り出すような声が漏れた。
「あいつ……俺のクレカで……」
「くれか?」
紫呉がゆっくりと顔を上げる。
その表情は深い絶望に満ちていて——。
「リボ払いしてやがった……!」
りぼばらい。
トーマスに言葉の意味は分からなかったが、紫呉の深刻な様子を見るに、シグリッドは相当なことを仕出かしたらしい。
「それは……その、命にかかわるようなことなのでしょうか」
「借金みたいなもん。毎月ちゃんと払ってるつもりがなかなか元が減らないヤバいやつ。それをあいつ、よりによって選びやがって……」
「なんと。あのシグリッド様が、借金ですと?」
仮にも元王太子。望めば何でも手に入る環境にあったので、自らの懐事情を気にしたことなど一度もなかったに違いない。その金銭感覚のまま日本で好き勝手過ごした挙句に借金まで作っていたとすると——紫呉が取り乱した理由にもようやく得心がいった。
「生活が困窮しているご様子でしたか?」
「いや、じーちゃんの家にいたから衣食住には困って無さそうだったよ」
「それならば、よからぬ連中に唆されたのでは……?」
頭から他人を信用するタイプではなかったが、マチルダの甘言に乗った前科はある。妙な影響を受けた可能性を指摘すると、紫呉は少し考える素振りを見せた後にふるりと頭を振った。
「うーん、俺の学校ってあんまりマイルドヤンキー系はいないんだよね。どっちかっていうと大人しめなタイプの連中とつるんでて、満更でもなさそうだったし」
「それではいったい何に金を……」
「アイツ、推し活してたんだよ! 歌やゲームを配信してる女子高生に、『芸術を庇護するのは王族の務めだ』とか言いながら投げ銭しまくってたの! そんでカード会社のアプリを開いて、投げ銭した分を全部リボ払いに変更して……ばかっ……!」
またしても意味不明な単語の羅列に首を傾げると、紫呉はまた言葉を探してから「えーっと、芸人? 吟遊詩人? とにかく、芸事に通じた女の人にお金を貢ぎまくってたの」と教えてくれた。あのシグリッドが誰かに貢いだなんて、衝撃的な事案である。
なにせシグリッドはマチルダに入れ込みこそしたものの、それ以前は女っ気が無いことで有名だったのである。傲慢で我儘。それには間違いない。だが、少なくとも色狂いなどと噂されるような男ではなかった。
王太子時代には人から贈り物を献上されるばかりだった男が、まさか異国では名も知らぬ娘へ金を捧げているとは。人生とは分からないものである。
「なんともまぁ……楽しまれているご様子ですね?」
「楽しんでいるのはいいんだけどさ。リボ払いだけは駄目なんだよ、絶対。あああ、じーちゃん気付いてくれないかなぁぁ。このまま支払いが膨らんだらどうすんだろ。怪しい高額バイトとかに手を出したら……。え、待って。そしたら俺が戻った時に前科ついてる可能性あんの? 流石にそれは勘弁なんだけど??」
トーマスの存在など忘れた様子で紫呉はしばらく取り乱していたが——。
朝食を食べ終えた頃には腹を括ったのか、「ま、なんとかなるか」といつもの調子にすっかり戻っていたあたり、彼もたいがいであるとトーマスは思ってしまった。




