30 幕間3
季節が巡った王都はといえば——平穏そのものだった。
マーシャルが次期王太子として正式に内定し、セリカとの婚約も広く周知された。大きな混乱もなく、傍目には穏やかな日々が続いている。
そう、王都に表立った大きな動きはない。しかしルッツが足しげく通うアラピカ村では、短期間のうちに大きな変革が巻き起こっていた。
「はああぁぁぁぁぁ……」
盛大な溜息を吐くルッツ。それもそのはず、商人のレイバンと入れ替わるような形で王都に戻る時期が来てしまったため、ヤギの乳を使うという新作のコフィにありつけなかったからである。
砂糖を入れただけでもあんなに美味しかったのだ。ミルクまで入れたらいったいどんな味になるのだろうか。きっとまろやかで心まで温まるような代物に違いない。
「……さっきからやかましいぞ」
三度目の溜息をついたところでついに苦言を頂いてしまった。相手はもちろんモリガンだ。彼は今日もセリカが戻らぬ執務室で、多忙な主に代わって雑務をこなしている。
「ああ、すみません……お嬢もいないもんだから気が抜けちまって」
「抜け過ぎだ。……まさか、かの地で対象に取り込まれたわけではあるまいな」
モリガンの眉間に皺が寄る。どうやらあらぬ誤解を与えてしまっているようだ。ルッツは姿勢を正し、「そんなわけないじゃないですか」と口調を改めた。
「俺はあくまでも御者か商人として接触してるだけですよ。しかも都度変装しているんですから、増えてきた来訪者のひとりとしか認識されてませんって。話しかけられることはありますけど、対象は誰を相手にしてもコフィの宣伝しかしませんから」
そう、雨季が明けてからというものレイバンの口コミで商人が訪れるようになり、アラピカは人の往来が増えていた。コフィの評判を聞きつけたモノ好きな辺境の貴族を馬車で運んだこともある。そのような状況の中で、対象——シグリッドは相手が誰であろうと態度を変えることなく、コフィの宣伝に余念がなかった。
ただ一度だけ。あれはそう、雨季明けが待ちきれずに商人姿でぬかるむ悪路を押し進み、アラピカへ入ったあの大嵐の夜。
予定より早く到着したルッツがコフィの秘密を探るべく農園へ足を向けてみれば、目に飛び込んできたのは泥水に浸かったコフィの木であった。
そこからは考えるでもなく領主の館まで駆けていた。
異変を従者に言付けてそのまま様子を見に戻ったら、大混乱に陥った現場で旅商人の姿のまま土嚢運びに駆り出されたのだが——。作業終わりに貰ったあのホットコフィの味は本当に格別であった。
あの時はシグリッドは体調不良と言うことで姿を現さなかったが、コフィ以外の会話らしいものをしていないのだから、取り込まれるも何もない。
「それにしてはかの村にご執心ではないか。お嬢様も気味悪がっていたぞ」
「いやぁ、お嬢も絶対お好きだと思うんですよね。モリガンさんもデイズ家のジャムはお気に入りでしたよね? なんとそのジャムがアラピカにもあるんですよ。コフィの果肉を使ってるそうなんですけどね、これまでに食べたことのない風味と味わいで。長距離輸送に耐えられるか試していないから、まだ外へは出してないらしいんですけれど——」
「分かった。分かったからまずはその口を閉じろ。私も忙しいんだ」
「忙しい? 何かまた別の仕事でも任されたんですか?」
「マーシャル派の強硬派が動きを活発にしているのだ。お嬢様との婚約も正式に交わされたのだから大人しくしていれば良いものを……。シグリッドが陛下からの餞別である魔道具も手放したとあれば、警戒もやむなしか」
そうだ、そうだった。なんとシグリッドは陛下から正式に下賜された旧式の保冷魔道具を、商会経由ですらなく巡回商人として辺境を回るレイバンへ売却したのである。
王家の刻印がある品だけにレイバンも慎重に買い手を探したようだが、市場へ流れれば察知されるのも時間の問題だった。
——廃嫡され、辺境へ送られた元王太子が、陛下からの餞別を手放した。
それが何を指し示しているのかはあらゆる憶測を生んだようで、アラピカの現状を知らない者たちからすれば、その金で私兵を雇い王都への返り咲きを窺っているのではないかと警戒しても仕方がないことだろう。実際には農園の整備やカフェの設営、物資の購入、新規事業の資金として使われているのだが、王都の人間がそんなことを知る由もないのだから。
廃太子の不可思議な動向を警戒する。それは理解できる話ではある、が。
「困るんですよねぇ……余計な横槍を入れられたら……」
もしも強硬派が監査に乗じて不正や反逆の疑いを膨らませれば、シグリッドはよくて幽閉、アラピカの経営権も王都に取り上げられかねない。コフィ農園も王家の管理下に置かれ、今の村人たちと築いた仕組みは失われることだろう。
「……あら、戻っていたのね。随分と久しぶりじゃない」
思考を強制的に止めたのは、不在がちなこの部屋の主の声だった。
長らく外交のため国外へ出ていたが、ちょうど今日戻ったらしい。彼女は疲労を滲ませた顔でルッツを一瞥すると、窓際に置かれた椅子へ深く腰を下ろした。
「お疲れのご様子ですね、お嬢様」
「……あの男に比べればもちろんマシではあるのだけれどね。マーシャル殿下もまだ不慣れでいらっしゃるから、フォローするのにいつも以上に気を遣うのよ」
あの男とは言わずもがな、シグリッドのことを指しているのだろう。彼は口を開けば暴言か失言の製造機であったため、国外に出すときは挨拶以外は何も喋らぬようによくよく言い聞かせられていたらしい。
「ほら、黙って立っている分には華があったでしょう? だから国外の使節には妙に受けが良かったのよ。それなのに突然の王太子変更とあってか訝しがる使節もいらっしゃってね」
「まあ、それはそうかもしれませんね。前代未聞なわけですし。でもマーシャル殿下もウケは悪くないでしょう?」
「そうね。あの御方も基本に忠実で堅実なのだけれど……想定外のことが起きるとすべてをご自分の落ち度として抱え込んでしまうのよ。失敗したと思えばいつまでも反省点を洗い出していらっしゃるし」
なるほど、とモリガンが頷いた。王太子がマーシャルに代わってこの国も安泰かと思われたが、そう簡単な話でもないらしい。セリカはうんざりした様子でこめかみを抑えながら目を瞑った。
「それを宥めて次へ意識を向けていただくのも面倒——いえ、骨が折れるの。その点、あの男は周りの取り巻きがおだて上げるだけで勝手に満足してくれていたから、楽っちゃ楽だったわ」
「それはまぁなんとも……大変ですねぇ」
「マーシャル殿下も経験を積まれればお嬢様に頼ることもなくなりましょう。それまでの辛抱ですよ」
モリガンのフォローもあながち的外れでもないもので、セリカは同調するようにふぅと息を吐いた。
「新人教育だと思って割り切るしかないわね。……それで。そちらの首尾はどうなのかしら? あの男は未だにカフェがなんだの言っているの? それとも一過性のものでもう飽きてる?」
「いやいやまさか。飽きるどころかさらなる進化を遂げていましたよ。ちらりと聞いた話じゃコフィゼリーなるものを試作してるそうで。いやぁ、楽しみですよねぇ」
ぴくりと、セリカが反応する。
「あ、そうだったそうだった。お嬢様に土産があるんですよ」
鞄の中から包みを取り出して机の上に広げたそれは、アラピカ村で買ってきた炭団である。
セリカの整った顔が嫌そうに歪んだ。
「なんですの、これ」
「固形燃料です。コフィの抽出カスと炭の粉を再利用したもので、炎を上げずにじんわり長く燃える優れものですよ」
「お前……お嬢様がコフィはお嫌いだと知っていての狼藉か」
「いやいや、あの薬とは本当にまったくの別物なんですって! たぶん作り方が全然違うんじゃないですかね?」
本当なら豆を仕入れたかったのだが、それはご多分に漏れず頑なに拒まれてしまったのだから仕方ない。
いそいそと使い方を説明しようとしたところで無言でモリガンに再び包まれてしまった。
「申し訳ございません、こちらで処分しておきます」
「そこまでしなくていいわ。興味がないわけじゃないし。それにしても、カフェねぇ……。あの男、確か氷魔法は使えたわよね……」
「ええ、それでアイスコフィを振る舞ってもらいましたよ」
「ふぅん。それなら——……チーノも作れるのかしら……」
「? チーノ??」
独り言のように呟いたセリカはハッと何かに気づいた様子で「なんでもないわ」と首を振る。同時に、執務室の扉が叩かれた。
「セリカ様。戻られて早々に申し訳ございません。王妃様が今回の外交使節との折衝について、報告をお求めです」
「……ええ、分かりました。すぐに伺いますとお伝えくださいませ」
よそ行きの声を作るセリカは、官吏が遠のいた後に再びため息を吐いた。
「……それじゃあ、何か変わったことがあったら教えてちょうだい……」
「はい。お嬢様もその、えーと、ご無理のないように?」
死んだ目で乾いた笑いを漏らしたセリカは身支度を整えてすぐに部屋を出る。遅れて紅茶を運んできたモリガンが、主のいなくなった机の上にカップを置いた。
「近く監査局も動く。強硬派がその機に乗じて何かを仕掛けぬとも限らん。次はそちらも探れ」
「承知しました。新作の確認は、あくまでそのついでってことで」
「……まるで中毒患者の如き執念であるな。まさかアラピカのコフィは魔草の類ではあるまいな?」
「流石にそれはないと思うんですけどねぇ……」
完全に否定しきれないのは、自分でも禁断症状のようなものが出ている自覚があるからか。
「ま、その秘密を探る必要はあるかもしれませんね? ……ってことで、行ってきますねー」
体のいい言い訳を手に入れたルッツは、うきうきとした心持ちで旅の準備を始めた。




