29 完璧すぎる報告書
雨季が明けてからひと月ほどが過ぎた。
長雨がもたらした豊かな水がせせらぎを生み、広場には早くも旅人や行商人の姿がちらほらと見える。コフィの芳香を求めてやって来る者もいれば、噂話に誘われて訪れる者もいた。
その様子を窓越しに眺めていたゼイニークは執務室の椅子にどっかりと腰を下ろし、王都へ提出する年次報告書を片手に深いため息をひとつこぼした。
「まったく……まさかこんな形でこの村に人が集まるようになるとはな」
例年なら一台見かけるかどうかだった荷車が何台も村の入り口に連なり、広場には洒落たカフェ気取りのテーブルが並ぶ。
村人たちは得意げに見知らぬ行商人たちへとアイスコフィを振る舞い、誰も彼もが「俺たちが育てたんだ」と胸を張って語っている。
かつて村の頂点に立っていた自分も、今では人前へ出るよりも裏方として支えることの方が増えていた。適材適所、であったか。この状況にいささか複雑な心地を抱いているのもまた事実であるが、腐っている暇もなければその光景を窓越しに眺めてばかりもいられない。なにせお客様方は皆この村の変貌ぶりに目を丸くし、そして決まって口にするからだ。
『——コフィの豆を卸してくれないか? 王都で売れば、相当な値がつくぞ』
この日もまた、何人もの行商人が代わる代わる卸売を申し出てきた。
市場に出せば高値で売れることくらいゼイニークとて分かっている。そもそもコフィは眠気覚ましの苦薬としてそれなりに価値のある作物だったのだ。甘味と香りを兼ね備えた『アラピカ村のコフィ』にも、眠気を払う効き目が認められている。卸せば王都で流行するのも時間の問題といえた。
かつての自分なら、二つ返事で契約を結んでいたかもしれない。
だが——絵空事と鼻で笑っていたシグリッドの『アラピカカフェ計画』は、すでに確かな実を結びつつある。村に笑顔が戻ったのも外から人が集まるようになったのも彼の熱意があったからに他ならない。
この流れを、目先の利益で壊してしまうなんてあってはならない。
そのくらいはゼイニークだって理解していた。
『この豆は村人たちの手で一粒ずつ摘み取られ、選別され、洗われ、干され、焙煎されて、ようやくこの場に至るのだ。気軽に他所へ流すなど断じて許されぬ。……それに、収穫量はたかが知れている』
炭団やジャムのような副産物であれば、いくらか融通も利くだろう。
だが——コフィの豆だけは別格だ。
あれはアラピカ村の象徴となるべきものなのだ。
声を荒らげることこそないが、一歩も譲らぬ口調で拒絶するゼイニークに行商人たちは渋面を浮かべ、諦めたように引き下がっていった。
「……仮に卸すとしても、村内で使う分を差し引いてなお余剰が出るようになってからの話となろう。だからといって農園の土も村人たちも酷使するつもりはない。……我らが領主殿は、ホワイト職場なる理念を守り抜くお考えのようだからな」
窓の外を見やれば、今日もシグリッドは広場の日陰傘の中で自らコフィを淹れていた。
腰を下ろした客人と冗談を交わし、屈託のない笑顔で応じるその姿。何度見ても不思議でならない。あれが王家の汚点であった馬鹿王子なのだというのだから。
「……まったく、世は不可思議なり」
小さく嘆息を漏らしながらも、胸の内にぽつりと灯る温もりのようなものに気付き、ゼイニークは苦笑まじりに報告書を閉じた。
「……随分と熱心ですな」
部屋を訪れたのは書類を抱えたトーマスだ。どこか感心したような口調にゼイニークは鼻を鳴らして答える。
「フンッ、当然であろう。この村で数字が扱えるのは我々くらいなものだ」
コフィ豆の在庫管理、収支の集計、価格設定、出納記録の照合。それは王都にいた頃の彼が当たり前のようにこなしていた仕事とよく似ている。
——やはり、適材適所とは実に的を射た言葉だ。
せっかくシグリッドに居場所を残してもらえたのだ。今さら癇癪を起こしてぶち壊す気になどとてもなれない。
そして待ち望んでいた雨上がりの季節がやってきた。これからまた、コフィの収穫が始まろうとしている。
だが、乾季の訪れとともに頭の痛い問題も確実に近づいていた。
王都から派遣される監査である。
これまでは「辺境」という立地ゆえに多少のことには目を瞑ってもらえていた。……いや、相手にされていなかったというのが正解かもしれないが。
しかし今やこの地には王子がいる。好奇の目と監査の矛先が向けられるのは、むしろ当然の成り行きといえよう。
とはいえ——。
「……このままでは、まずいことになるであろうな」
ゼイニークは収支決算書の頁をめくり、低く唸った。
交易量が雨季の間に激減しているのは例年通り。一方で今期の村の支出総額は例年の十倍に膨れ上がっている。そして収入欄には旧式保冷魔道具なる売却金が計上されている。
これまでなかった数字の動き。とはいえ、そこから新規事業や農園整備へ振り分けられた一枚の銅貨に至るまで齟齬はない。
「加えて怪我人も病人も窃盗の類もゼロである、か。なんとも都合の良い内容だ」
思わず口に出したその言葉に、書類に書き付けていたトーマスが顔を上げた。
「それは、良いことではございませんか? 村の治安が安定してきた証左かと」
「良いことだとも。だがな……ここはアラピカなのだぞ。雨季の間に問題が一件も起きなかった年など、私の記憶には……」
ゼイニークは言いながら、深く長いため息を吐いた。
理由は明快だ。すべてはあの王子の存在である。彼がこの村の空気をあまりにも柔らかくしてしまったのである。
「記録の付け忘れかと疑ったがな。長老どもが揃いも揃って『揉め事は何もなかった』と言うのだ。カビた保存食に文句を垂れ、湿気を払うための炭を奪い合い、狭い家の中で殴り合いの喧嘩をするのが雨季の風物詩だったはずなのに、だぞ?」
「雨季の手慰みにとシグリッド様が作った盤上遊戯や、おこもりカフェのおかげでございましょうな。長老たちも炭団の火番という役目を得て、世代を超えて心穏やかに過ごすことができておりましたから」
「そんなことは分かっておる!」
ゼイニークは苛立ち混じりに報告書を叩いた。
ぱらりとめくれた収支決算の頁には、整然と並ぶ数字が躍る。
「見よ、この項目! 『王家下賜品売却収入』だの、『青空カフェ設営費』だの、急増した砂糖や塩、刺繍糸、布の購入費だの……誰が見ても怪しいではないか!」
「すべて、シグリッド様のご指示による施策でございますな」
「分かっておる! ……だがな、この数字はあまりに出来すぎておるのだ。王都の役人どもが見ればまず改竄を疑うだろうよ。誰かが着服しているに違いない、とな」
現場を見てきたのだ。実際のこの村での成果はゼイニーク自身が一番よく分かっている。だが、報告書が語るのは「何もかも順調に進みすぎた村の物語」だ。
あまりに隙なく整った数字ほど、事情を知らぬ者にはかえって不自然に映る。これはゼイニーク自身が王都で嫌というほど学んだ経験則だった。
「馬鹿正直に提出すればいらぬ追及を受けるだけだ。今年の報告は、これまでと同程度の数値に調整しておくとしよう」
「……貴殿のそういう癖、いい加減に控えたほうがよろしいかと」
清廉潔白の模範のようなトーマスの応答に、ゼイニークは内心で舌打ちした。こういう者が王都の綺麗な面だけを見て育つから困るのだ。
そんな嫌悪感が表情に出てしまっていたのだろう。トーマスが肩を竦め、苦笑を漏らした。
「であれば。いっそ、疑わせてはどうでしょう?」
「……と、言うと?」
「我々はただ正直に報告書を提出するだけでございます。そして数値がおかしいと思うのならば、相手が自ら確認しに来ることでしょう。なんら後ろ暗いことも無いのですから……その目で確かめてもらえばよいだけでは?」
ゼイニークは無言で報告書に視線を落とす。
『来訪行商人・滞在者数:前年比四倍』、そして『新規事業関連支出:前年の領地整備費の五十倍』。突出して異常なその欄にすっと墨で強調線を引いて、低く呟いた。
「こう申しては何ですが、常ならば見向きもされないような村でございましょう。その村に、わざわざお越しいただける良い機会かと」
トーマスの思惑に気付き、ゼイニークは薄く笑った。
商人は来ている。だが、シグリッドの思い描くカフェにはまだ物足りないとも言える。
もっとこのアラピカのコフィを売り出すために——そう、王都の舌の肥えた連中であれば、あるいは。
「ならば次の一手は……歓迎の準備だな。相手は王都の目であるがな」
「それはこちらとしても願ってもない機会。……丁重に、おもてなしせねばなりませんな」
ふたりは目を合わせる。
そして——どちらともなく、不敵な笑みを浮かべたのだった。




