28 雨上がり
風の匂いが、ふわりと変わった気がした。
じっとりと肌に張り付いていた湿気が消え、灰色の雲の切れ間から久方ぶりに眩しい陽光が差し込んでいる。
——長く続いた雨季がようやく終わろうとしている。
そう思うと、マチルダはどこか浮き足立つ気持ちになった。
もちろん王都でも雨の日はあったが、ここまで太陽が恋しくなることはなかった。気候の違いや建物の造りの差もあるのだろう。少なくとも王都の屋敷にいる限り、長雨でここまで不快な思いをすることはなかった。
とはいえ嵐の爪痕がすべて消えたわけではない。農園の下方にはまだ赤土が厚く残り、傷んだ若木を植え直す作業も続いている。ゼイニークとアルフレッドたちは二度と同じことを繰り返さぬよう排水路を広げ、崩れた土手を補強していた。
「んー、いい天気!」
空を仰いで、大きく伸びをする。
長雨の間くらいは部屋でのんびり過ごせると思っていたのに。シグリッドが用意した『おこもりカフェ空間』があまりに快適だったため、結局は毎日集会所や裁縫班が集う作業場に通う日々だった。
シグリッドが望んだカフェ用のコースターやランチョンマットなら難なく作れたものの、本格的な服を仕立てるほどの腕は持ち合わせていない。難しい作業は機織りが得意なターニャや、手先の器用なお婆さんたちに任せている。それでもデザイン面では頼りにされることが多くて、予想外にも充実した時間を過ごせていた。
『今年の雨季はいつもと全然違います。……シグリッド様って不思議な方ですね。あの方がいるだけで、その場が温かく、明るくなるんですもの』
いつだったか、ターニャがしみじみとそう口にしていたのを思い出す。
たしかに、シグリッドはどこにいても人々の中心にいた。
例年であれば長雨の不快感と閉塞感が村人の心を荒ませるのだという。けれど今年に限っては集会所に笑顔が絶えることがなかったのだと。
かつてマチルダが王都で逢瀬を重ねたシグリッドであれば——平民に気安く話しかけることはおろか、一緒に遊ぶような真似は絶対にしなかっただろう。気位の高い人だったから。顎で命じ、トーマスかゼイニークを通さねばまともに言葉を交わすこともできなかったはずだ。
だというのに。廃嫡騒動で正気を失ったのか、この地で再会したシグリッドは別人のようだった。
優しく、明るく、気さくで、誰に対しても分け隔てなく接する姿。
村の誰もがそんな彼を自然に受け入れているようだったが——正直なところ、マチルダには怖くて仕方が無かった。以前のシグリッドの方がまだ理解できたくらいだ。高慢でも気難しくても、王族らしい人だったから。
今の彼は自分の知る昔の彼と全く結びつかなくて、無邪気に笑う姿にぞっとする瞬間さえある。
もちろんそんなことを口にするつもりはない。
恋しいのはかつてのシグリッド本人なのか。それとも、可愛いと褒めそやし、何をしても許してくれたあの眼差しなのか。マチルダ自身にもまだよく分からないでいた。
過去の裏切りに執着せず、この村に来たばかりの頃の振る舞いにも目を瞑り、この村に居場所を与えてくれたのは今のシグリッドだというのに——。
雨が上がってから数日。水たまりがようやく乾き始めた広場でのこと。
作り上げたコースターを籠に収めていると、ふと顔を上げたマチルダの耳に騒がしい声が飛び込んできた。
「うぉおおおおい! 道が開いたぞぉおお!」
叫びながら丘を駆け下りてくる若者の姿に、マチルダはぱちぱちと瞬きをした。
それは厳しい雨季の終わりと、アラピカに乾季の青空が戻ってきたことを告げる声だった。
その知らせは瞬く間に村中を駆け巡った。
泥濘で閉ざされていた道がようやく通行可能になり、道が開いたという知らせから二日後。以前この村に大量の物資を持ち込んだ商人のレイバンが二頭の雌ヤギを引き連れて姿を見せた。
「いやぁ、雨季明け一番乗りですよ! 約束通り、良質な乳を出すヤギを連れてきましたさぁ! ……って、おや?」
広場に足を踏み入れたレイバンは鼻をひくつかせながら目を丸くした。彼の目はすぐさま、広場中央の青空カフェに釘付けとなる。
雨季の間に村人たちが総出で作り上げた、真新しい木製のテーブルと椅子。
湯気を立てるカップ。辺りに漂う芳醇な香り。
そこで談笑する村人たちと、見慣れない愛らしい制服に身を包んだマチルダたちの姿へと視線が移っていく。
「おやまあ、こりゃ驚いた。雨季の間にすっかり店が出来上がってるじゃないですか! それに……お嬢さん、その服、すごくいいですねぇ! 王都の流行を取り入れつつも動きやすそうで……あなた様がデザインしたんですか?」
「ふふん、当然でしょ。王都の社交界にだって負けない私のセンスよ」
褒められれば悪い気はしない。気がつけばマチルダは得意になってそんなことを口にしていた。以前の自分ならあり得ない言動だった。貴族の娘が胡散臭い巡回商人を相手に、それも人前で接客めいたことをするなんて。
けれど、この村では誰も彼女を下級貴族だと嘲らない。
無理に気取る必要もなければ、虚勢を張る理由すらない。
「ははっ、こりゃ恐れ入った。……いや実はね、あなた様方が作ってくださったあの美味しいコフィがどうしてもまた飲みたくて、道が開いたと聞いて飛んで来たわけですよ」
「相変わらず口の達者な人ね。特別に一杯ご馳走してあげるわ。……ほら、雨季の間に火加減と焙煎時間を調整した新しいホットコフィよ。一緒に甘い果肉のジャムを塗ったスコーンもどう?」
「おおっ、こいつはありがたい! では遠慮なく……」
レイバンがカップを受け取り、一口飲んだ瞬間——。
「……なんだこれは」
目を見開いた男の口から、驚愕の声が漏れる。
さらに勧められるままに赤褐色のジャムが乗ったスコーンを頬張った彼は、あっという間にぺろりと一つ平らげた。
「美味しいでしょ? 雨季の間に、みんなで研究したの」
「美味いなんてもんじゃない……! 以前の水出しコフィとはまた違う、この深いコクと香ばしさ! そして何よりこの甘酸っぱい極上のジャムがコフィの苦みと信じられないほどに調和しているじゃありませんか! これなら王都の貴族どもが金を積んででも食べたがりますよ!」
その反応に、広場にいた誰もが誇らしげに顔を見合わせた。
ヤギのミルクが加わればこのカフェはさらに進化するだろう。道が開かれた今、きっとレイバンのような行商人たちがこの地を繰り返し訪れるようになるはずだ。
「おいおい、そんなに褒めちぎるなよ。……まあ、否定はしねぇけどよ!」
「いやほんと、村の空気まで変わったように見えますよ。いったい雨季の間に何があったんですかい?」
椅子に腰掛けたレイバンはあたりをきょろきょろと見回しながら、感心したような面持ちだった。
青空カフェの丸テーブルにはマチルダたちが仕立てたランチョンマットが敷かれ、カップの下には繊細なレースのコースターも添えられている。
そこには、シグリッドが思い描いていた理想のカフェが確かに息づき始めていた。
「——あ、噂をすればシグリッド様だ。おーい! シグリッド様! ヤギが到着したってさ!」
声に応じて振り返ったシグリッドはすぐににっこりと破顔して、軽やかな足取りでこちらへと向かってくる。
「おおー! レイバンさん、雨季明け早々にありがとね!」
「いえいえ、ここも随分と華やかになりましたねぇ」
「ね、この制服もいいでしょ? ジャムだってマチルダと村のみんなで作ったんだ。すごいよね」
「ほう、それは大したものですなぁ」
「ヤギ小屋も雨季の間に用意してあるんだ。さっそく案内するよ」
「へえへえ、殿下! このレイバン、約束どおり乳のよく出る雌ヤギを連れてきましたぜ!」
商人特有の揉み手で近づくレイバンに、シグリッドは気さくに肩を叩いて笑い合っている。
マチルダは、その様子を少し離れた場所から静かに見つめていた。
本来のシグリッドであれば決して見せることのなかった笑顔。あんなふうに得体のしれない商人と屈託なく話す口ぶりも仕草も、すべてがあの頃の彼とは違うものだ。
もう何度となく目にしてきた光景のはずなのに、そのたびに「もう、あの人はいないのだ」と突きつけられるような気がして、胸がきゅうと痛くなる。
愛していたわけじゃない。彼がマチルダを特別扱いすることにも、何かしらの思惑があるようにだって感じていた。
時折こちらへ向けられたあの寂しげな瞳がもう二度と自分を見ることはない。その事実が、どうしようもなく寂しかった。
マチルダはそっと目を伏せ、小さく首を振った。こんな気持ちに縋っても意味はないと自分に言い聞かせるようにして。
目の前ではシグリッドが悪戯っぽく笑いながらレイバンに話しかけてる。
「ね、コフィとジャムの組み合わせ、最高だったっしょ? これにヤギのミルク入れたらもっとヤバいことになると思うんだよね。でもさー、この味はアラピカ限定なんだ。豆は王都に卸さないから、またここまで飲みに来てね!」
「くぅ〜っ、殿下も商売が上手くなられましたなぁ!」
——アラピカの憂鬱な雨季が明けた。
そして、それはマチルダにとってもまた、新たな自分として生きていくための季節の始まりのように思えた。




